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第2話

Author: 時の旅人
柚葉はカフェで一晩を過ごし、その夜ずっと考え続けていた。

直樹のために、自分の羽をもぎ、未来も手放し、何年も黙って彼のそばにいた。

けれど、柚葉は元々、家族に大事に育てられた箱入り娘で、業界でも知られた服飾デザイナーの天才だった。

だから、どんなに深く傷ついても、また一からやり直す勇気だけは残っていた。

そう思ったとき、柚葉は遠くスイスにいる親友の桜井真理子(さくらい まりこ)に電話をかけた。「真理子、前に会社でチーフデザイナーを探してるって言ってたよね。私、受けさせてもらえないかな?」

電話の向こうで真理子が少し驚いた声になる。「えっ、柚葉が?直樹さんは、それでいいの?」

「うん、もういいの。私、離婚するつもりだから」

「離婚?何があったの?」真理子の声が急に真剣になる。「直樹さん、何かしたの?」

柚葉は唇をかみしめて、涙をこらえながら話した。「詳しくはスイスに行ったら話すよ。とりあえず招待状を出して。明日すぐビザの手続きに行くから」

二人はそう約束し、電話を切った。そのあと柚葉はカフェの化粧室で身なりを整えてから、外に出た。

まず警察署に行き、「行方不明者届」を提出し、何度も子どもの捜索をお願いした。同時に、自分でも私立探偵を雇った。

次に弁護士事務所に行き、弁護士に離婚協議書の作成を依頼した。

すべてを終えたあと、柚葉は化粧を直し、病院に戻った。

今はまだ直樹に疑われてはいけない。彼の性格なら、少しでも異変を察したら絶対に離婚させてくれないし、子どもを見つけることもできなくなる。

それに、蒼真は自分が手塩にかけて育ててきた。そう簡単に諦められるはずもなかった。

――けれど、どうやら考えすぎだったようだ。

病室の前まで来ると、中から蒼真の大きな笑い声が聞こえてきた。

窓越しに見ると、一人の女性が蒼真にご飯を食べさせながら、二人で楽しそうに笑い合っている。

柚葉は一瞬、女性の黒いワンピースに目を奪われた。

あのワンピース、昨日ビデオ通話に映っていた女の人が着ていたやつじゃない?

何かが腑に落ち、柚葉は息を飲み、必死にこみ上げる怒りを抑えて背を向けた。そのとき、廊下の奥から直樹が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。

直樹は目の下に濃いクマを作り、明らかに寝ていない様子だった。

柚葉は首をかしげた。昨日は自分がいなかったから、ふたりには好きなだけ時間があったはずなのに。直樹の表情は、まるで楽しい夜を過ごした人には見えなかった。むしろ、一晩中走り回って疲れきっているようだった。

そんなことを思っているうちに、直樹が目の前まで来て、いきなり柚葉を抱きしめた。

直樹の腕は昔と同じように温かく、かすかにシトラス系の爽やかな香りがした。

けれど、今の柚葉には、むしろその匂いさえ気持ち悪く感じられた。

「柚葉、お前、昨夜どこ行ってたんだ?何度も電話したのに、全然出ないから心配したぞ。

蒼真のことを心配しすぎだって。もうちゃんと輸血も終わったし、大丈夫だから安心しろ」

直樹の目は本気で心配そうだった。作りものの感情には見えない。

柚葉には、いまだに理解できなかった。一生愛して守ると何度も口にしていた直樹が、どうして他の女と子どもを作り、挙句の果てに自分の子まで取り替えたのか――

柚葉は白い唇をぎゅっと噛みしめ、喉の奥で全ての怒りと悲しみを飲み込んだ。問い詰めたい、泣き叫びたい。でも、理性が「やめておけ」と囁いた。

もういい。子どもは自分で探す。この男のことなんて、もうどうでもいい。

「私は平気よ。昨日はうっかりカフェで寝ちゃって、目が覚めてすぐに戻ってきたの」

直樹はようやく表情を和らげ、「これからは、どこに行くにも前もってちゃんと連絡してくれよ。お前がいなくなると、本当に心配でどうにかなりそうなんだから」と言った。

直樹の声はあまりにも優しくて、聞いているだけで心が揺れてしまいそうだった。

でも柚葉には、その視線が時おり病室の方へ流れているのがはっきり分かった。

その女はベッドのそばに座り、じっとドアの外を見つめていた。直樹は少し目をそらし、「昨夜眠れてないなら、今日は家に帰って休んでくれ。蒼真のことは心配しなくていい、ちゃんと面倒を見る人がいるから」と言って、そっと柚葉を押し出そうとした。

柚葉は思わず苦笑いをこぼした。自分が追い出されていることくらい、バカじゃないから分かっている。

でも、もうどうでもよかった。ただ、胸がちょっと痛むだけ。

柚葉は冷めた表情でうなずき、帰ろうとしたとき、部屋のドアが開いて女が出てきた。「柚葉さん、こんにちは。私は昔、直樹さんに援助していただいた大学生で、白鳥綾乃(しらとり あやの)と言います。一度お会いしたことあります」

その女性は若々しくて華やかで、どこか自分の若いころに似ていた。

柚葉は何も答えず、無表情のまま彼女を一瞥すると、そのまま歩き去った。

ところが病院の玄関まで来たところで、綾乃からメッセージが届く。【あなたの子どもがどこにいるか知りたければ、地下駐車場に来てください】
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