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第14話

Author: 時の旅人
直樹は苦々しく口元をゆがめ、「まさか、あの女がここまでやるとは」とつぶやいた。

それを聞いて、秘書が慌てて説明した。「でも、ご安心ください。すでに警察には届け出ています。あの女、逃げたとき手元に大した金もありませんでしたし、すぐ捕まるはずです」

だが、直樹は首を横に振った。今、彼が本当に気にしているのは、そんなことではなかった。

頭の中を占めているのは柚葉のこと――

あれほど狂気じみた綾乃が自分に牙をむいたのなら、柚葉に対してはもっと強い恨みを持ち、何をしでかすかわからない。

そう思うと、直樹は急いで秘書に向き直った。「朝倉家に連絡しろ。このことを柚葉に伝えて、しばらくは用心するように言ってくれ」

秘書は一瞬戸惑った様子を見せる。

「どうした?俺の言ったことが聞こえなかったのか?」直樹は声を低くして、怒りをあらわにした。

仕方なく秘書は柚葉の出入国記録を差し出した。「実は以前、奥様の行方を調べるようご指示いただいていたので、各航空会社にも問い合わせていました。昨日、ようやく返答がありまして……奥様は半月ほど前にすでに出国されています」

「なんだって?」直樹は思わず身を起こしかけ、傷口の痛みに顔をしかめた。

「ええ、間違いありません。奥様は半月前、スイスへ出国しています。それも、小さな男の子を連れていたそうです」

その話を聞いた瞬間、直樹の脳裏に何かが閃いた。

唇をきつく噛みしめながら、直樹は秘書に命じた。「柚葉がスイスに行ったのは、絶対に桜井真理子を頼ったに違いない!今すぐ桜井家のスイスの事業所を調べろ、とくにアパレル関係の会社だ。きっとそこにいるはずだ!」

「桜井家……桜井真理子さんのご実家ですか?それって東都のアパレル業界の大手、桜井家のことですよね?」

「そうだ!真理子は桜井家の長女で、柚葉とは幼なじみだ。柚葉がスイスに行ったなら、絶対に真理子を頼ったはずだ!」

秘書はうなずき、直樹の世話を手早く済ませると、急いで会社に戻っていった。

ベッドに横たわりながら、直樹の頭や背中には激しい痛みが走る。

だが、そんな肉体の痛みよりも、心の痛みのほうがはるかに大きかった。

柚葉がいなくなってから、直樹の心は毎日何か大切なものを失い続ける地獄だった。

これまでは、柚葉がいつも自分と蒼真のそばにいて、家のことも、二人の世話も、何もかも完
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