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第3話

Author: 時の旅人
柚葉は何も考える余裕もないまま、慌てて地下駐車場へと走っていった。

エレベーターを降りた瞬間、車の前で直樹と綾乃が激しくキスをしているのが目に入った。

思わず、声を殺して自分の口を手で塞ぐ。泣き声が漏れないように。

直樹は息を荒げていて、すでに理性を失いかけているようだった。次の瞬間、彼は綾乃を強く抱きしめ、そのまま押し倒す。

「本当に、魔性の女だな」

綾乃は両脚を直樹の腰に絡め、妖艶な目で見つめ返す。

「そんなに焦らないで。あなたの奥さん、さっき出て行ったばかりよ?私は別に、こんなことをしに来たんじゃない。あの子のことを報告しに来たの」

「話はあとでいい、今は……」

直樹は綾乃の言葉を遮り、強引に彼女のドレスを引き裂いた。白い脚がむき出しになる。

綾乃は窓の外をちらりと見やり、わざとらしく言う。

「直樹さん、どうしてそんなに冷たいの?あの子、あなたの子どもでしょう?聞いた話だと、今は親がいなくてひどい扱いを受けてるって。あなた、本当にあの子を迎えに行かなくていいの?」

直樹は数秒だけ動きを止めて、その場に座り込むと眉間を押さえてうなだれた。

「もういいさ。これだけ年月が経ったんだ。もし柚葉に蒼真が本当の子じゃないって知られたら、あいつはきっと耐えられない」

「ふん、結局、奥さんのことが一番大事なんでしょ?じゃあ私と私の子はどうなるの?」

綾乃は拗ねたように体をそらす。

直樹は微笑みながら、綾乃を腕の中に引き寄せる。「何を言ってるんだ?お前と蒼真のことが一番大事だから、これだけ手を尽くして蒼真を連れ戻したんじゃないか。蒼真が西園家を継げるようにな。お前と子どもに将来困らせたくなくて、ここまでやったんだ。

柚葉に関しては、幼なじみだし、一度は俺の子を産んでくれた相手だ。あんまりひどいことはしたくないんだ」

その時、綾乃はまた窓の外に視線を向け、ふと目が合った。

そこには、顔色を失った柚葉が、呆然と立ち尽くしていた。

「本当に、あの子を迎えに行かないの?このまま柚葉さんにずっと隠し続ける気?」

直樹は疲れたようにため息をついた。「もういいよ。柚葉には蒼真がいれば十分だ。あの子のことは、たまに様子を見に行って、お金でも渡してやればいい」

綾乃は直樹のネクタイを引き寄せ、手を彼の太ももに滑らせた。「分かってるよ。私は柚葉さんには敵わないって。でも、どんな母親だって自分の子どもに一番いいものを与えたい。蒼真に「隠し子」なんてレッテルを貼られて生きてほしくない……だから、ごめんなさい」

その言葉を聞いた直樹の目に、ほんの一瞬、優しさがにじんだ。彼は綾乃を腕の中に引き寄せ、静かに言った。

「謝ることなんてないよ。全部、俺が好きでやってることなんだから。責めるとしたら、運が悪かったあの子だろう。たまたま柚葉の子として生まれてきてしまった、それだけのことさ」

直樹は手を伸ばし、綾乃の芝居がかった涙をそっと拭った。その優しい仕草は、まるで鋭い刃物のように、柚葉の心をずたずたにした。

拳を握りしめた手のひらには爪が食い込み、血がにじんでいる。でも、柚葉には痛みなど感じられなかった。

そう、手の痛みなんかより、心の痛みのほうが、よほど耐えがたかった。

病院を出たとき、柚葉はもう、自分がどこに向かっているのかも分からなかった。

照りつける太陽の下、魂の抜け殻みたいになって、ふらふらと道路の真ん中をさまよい歩いた。

汗と涙が入り混じって視界がぼやけ、服もすっかり濡れてしまっているのに、柚葉はそのことにさえ気づかなかった。ただ、どこに向かうあてもなく歩き続けていた。

いつのまにか靴もなくなり、裸足の足は血で染まり、傷だらけになっていた。

車に撥ねられた額からは血が流れ続けている。

どれほど歩いたのか分からない。気づけば、ようやく西園家の玄関にたどり着いていた。

その姿を見て、家政婦が驚き駆け寄ってきた。「奥様、どうなさったんですか?旦那様が一晩中探してましたよ。もう心配で心配で……お会いになりましたか?」

柚葉は、口元に力なく笑みを浮かべた。

みんなは直樹が自分を心から愛していると信じて疑わなかった。

でも、本当のことなんて、私にしか分からない。

首を横に振り、かすれた声で「大丈夫よ。少し休めば平気だから」とだけ答えた。

ふらふらと階段を上り、そのまま浴室へ入って扉を閉める。

ドアのそばに座り込み、頭の中には直樹と綾乃が絡み合う光景が何度もフラッシュバックする。もう我慢できなくなって、うずくまり、吐いてしまった。

自分はもう全部受け入れたと思っていたのに、裏切りを目の当たりにした今、心の傷はまた開き、前よりずっと深くえぐられていく。

浴室に響き渡る自分の泣き声は、いくらシャワーの音でごまかしても消えなかった。

本当は直樹に聞いてみたかった。どうして自分の前では優しい夫を演じながら、裏であんな裏切りを続けられるのか。

浴室で夜を明かし、朝になってようやく、柚葉は立ち上がる気力を取り戻した。

今日はスイス大使館でビザの申請をする日だった。これだけは絶対に遅れるわけにいかない。

傷の手当てをして、濃いめの化粧をし、きちんとした服に着替える。

その間、直樹からは何度も電話やビデオ通話が届いていたが、すべて無視した。

昼過ぎ、すべての手続きを終えて疲れ切って帰宅すると、リビングには綾乃がいて、蒼真と一緒に楽しそうにゲームをしていた――
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