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第7話

Author: 鴨肉丼
ウェイトレスの額には脂汗がにじみ、頬は紅潮していた。彼女は五十嵐薫を恨めしげに睨みつけ、心の中で罵詈雑言を並べ立てている。

拓也と由紀子の視線が同時に向けられた。拓也の目に一瞬過ぎた驚きがあったのに対し、由紀子の瞳には計略が成功した愉悦が滲んでいた。彼女は拓也の腕を絡め、表面は不機嫌そうにしながらも甘えた声を紡いだ。

「拓也さん、今日お誘いいただいたのは私ですか?それとも五十嵐さん?」

その瞬間、薫は悟った。今日の食事の招待メールは拓也からのものではなかった。由紀子が彼の携帯で自分を呼び出し、辱めようと仕組んだのだ。

そして拓也の答えは、やはり期待を裏切らなかった。

拓也は薫を一瞥すると、淡々と言った。「もちろん由紀子だ」

満足げな微笑を浮かべた由紀子が続ける。「では五十嵐さんはどうなさいます?」

彼の目に波瀾はなく「関係ない人間には帰ってもらう」

関係ない人間——その言葉に薫の全身が氷漬けになった。立ち上がり、一歩一歩出口へ向かう足取りは重く、今そこに座り続けることがどれほどの不躾か、痛いほどわかっていた。

入口を過ぎる時、ウェイトレスの囁きが耳に刺さった。

「最悪……こんな客に当たるなんて。何様のつもりかしら」

「あの様子、本当に自分が主役だと思い込んでたみたい。身の程知らずにも程があるわ」

薫の足取りはさらに沈んだ。身の程知らず?どうして彼女に資格がないというのか。

愛されなくとも、これまでの献身を否定されてたまるものか。拓也がどん底にいたあの年、夜を徹して寄り添い、励まし続けたのは彼女だった。同棲生活中、家事の一切を引き受け、アルバイトでくたくたになりながらも必ず手料理を作った。起業当初、胃を痛めながら酒を浴びるように飲む彼を、一晩中看病したのも彼女だ。

やがて彼の胃痛を見かね、付き添って接待に出るようになり、代わりに酒を引き受けた。月日が経つうちに彼の胃は丈夫になり、彼女は食事を一食抜いただけで胃が痙攣する体になってしまった。

18歳から25歳まで、名もなきまま7年間捧げ続けたのだ。

廊下に佇み、窓際に座り赤ワイングラスを掲げながら語らう二人を見つめる薫の目頭が、レモンを絞り込まれたように熱くなった。由紀子が何か囁くと、拓也の口元に稀に見せる笑みが浮かぶ。

彼は元来無愛想な人だと思っていた。彼を家に迎えた当初、ありとあらゆる手を尽くして笑顔を引き出そうとし、笑い話の本まで古本屋を漁って集めたのに、結局砂漠に水を撒くように、彼の口元はついに緩むことがなかった。天性の無愛想だと諦めていたが、ただ自分に向けて笑わなかっただけだと今ならわかる。

長い時間窓辺に立ち尽くした後、薫は踵を返した。

車の往来が激しい路上に足を踏み出した瞬間、脇道から突っ込んできた車が彼女の存在に気付かず、その身を空中に放り投げた。

鈍い衝撃音——

空中に浮かぶ自分を見下ろし、広がる血溜まりを視界の端で捉えた刹那、意識は闇に沈んだ。

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