LOGIN絶対音感を持つ天才ピアニスト河野健二(こうの けんじ)のことを知らない者はいなかった。 しかし、結婚して5年にもなる妻の声を、彼が聞き分けられないなんてことは誰も知らない。 新婚旅行のとき、私は人ごみの中で、健二とはぐれてしまった。携帯を持っていなかった私は、通りすがりの人に電話を借りて健二にかけたのだが、彼は一言、「悪戯か」とだけ言って、電話を切ってしまったのだ。 その後、3時間も歩いてやっとホテルにたどり着くと、健二がロビーで待っていたのだが、大勢の人がいるというのに、健二は人目も気にせず取り乱した。そんな健二の姿を見たのは、初めてだった。 健二に内緒で、彼の演奏会をこっそり見に行ったこともあった。その終演後、熱狂的なファンの波にのまれ、転んでしまった。 運よく健二がすぐ近くにいたので、必死に助けを求めたのだが、私が意識を失うまで、彼は一度も振り返ってくれなかった。 健二は私が目を覚ますまでの3日3晩、眠りもせずに私のベッドの傍にいてくれた。 意識を取り戻した私に、真っ赤な目をした彼が、ボイスレコーダーを手にこう誓う。 「お前の声は全部録音する。それで、次こそは……絶対にお前の声を聞き分けてみせるから」 それからしばらく経ったある日、私は健二共にテレビ番組の撮影に呼ばれた。私とよく似た声の人が19人集められ、その中から健二が私の声を聞き当てるという企画だった。 その企画で、健二はたった一言で言い当てた。何年も会っていなかった彼の初恋の人・菅原泉(すがわら いずみ)の声を…… このとき、私はやっと理解したのだ。健二が私の声を覚えられなかったのは、その場所にもう、別の人がいたからなんだと。 そしてこの時が、健二が私の声を聞き間違えた99回目となったのだった……
View More「啓太……酔ってるんじゃないの?」私は咄嗟に手を引っ込めようとしたが、啓太はその手を強く握る。「酔ってないよ」啓太の声からは、焦りが感じられた。「卒業のときに君を引き止められなかったこと……それが俺の人生で一番後悔してることだから。あのニュースを見たとき腹が立ったけど、同時に嬉しくもあったんだ」彼は少し間を置いて、眉を顰めながら続ける。「あんなにあっさり君と結婚したくせに、君をひどく傷つけた。それが許せなかったんだよ。心のどこかで、隙に付け込むのはずるいとは思いながらも嬉しかった。もしかしたら……これで君が俺のところに戻ってくるチャンスができたんじゃないかって」啓太の声は少し震えていた。「蛍、今すぐ答えを出せなんて言わない。でも、もし新しく人生を始めたいって思う日がきたら、一番に俺のことを考えてくれないかな?」揺れるキャンドルの光の中で、啓太が私のためにしてくれた様々なことが思い出される。今の自信がない啓太は、昔の私にそっくりだった。健二を追いかけていた頃の私に……「啓太」ドアを閉めて帰ろうとしていた啓太を、私は呼び止めた。「決めた。チャンスをあげるよ」「本当に?」啓太は目を輝かせた。そして私の返事も待たずに、大股で近づいてきて私を抱きしめる。しかし次の瞬間、強い力で私たちは引き離された。「蛍、こいつは誰だ?」そこにいたのは、久しぶりに見る健二だった。動画よりも、ずっと痩せこけている。「なんでお前がここにいるんだ?」私よりも先に反応した啓太が、私を庇うように後ろへとやった。「蛍、許してほしくて……」健二は啓太を無視して、まっすぐ私を見つめてくる。その目には、狂気じみた執着が宿っていた。「私たち、もう離婚したでしょ?」私の声はとても冷たいものだった。「お願いだから、もう私の邪魔をしないで」「違う。俺たちはまだ離婚してない」健二が勢いよく私に近づいて、私の肩を掴もうとした。「お前が記者会見の時に、俺と離婚すると言っただろ?もうその時から、俺は今までの行いをずっと後悔してたんだ……」しかし、啓太は健二の手を振り払い、私の手を引いて一歩下がる。「ここはお前の家じゃないだろ?だから、いつだって不法侵入で警察を呼べるんだからな」すると、健二は火が出そうなほど激しい目つきで、啓太を睨みつけた。そして、今度は私の方
その日の深夜、一本の告発動画がネット中を騒がせた。動画の中の健二はやつれた顔をしていたが、その瞳は固い決意にみちていた。健二の口調は穏やかだった。しかし、泉が被っていた天才シンガーソングライターという仮面を一枚一枚剥がしていく。健二は泉のオリジナル曲は全て自分がゴーストライターとして書いたものだと言った。そして、ネットで話題になった曲のフレーズも、他人のものを模倣したものだと言った。泉がもっとも多く模倣していたもの。それは、自分が蔑ろにし、傷つけ、そして最後には自分の元から去っていってしまった……蛍のものだった。「この詐欺に手を貸してしまったこと、音楽を汚してしまったこと……そして多くの人を傷つけてしまったことを、この場を借りて深くお詫び申し上げます」動画の最後、健二あることを淡々と宣言した。「妻が私の元を去ってから、私の作曲に関するインスピレーションも枯れてしまいました。なので、音楽業界を完全に去る前に、私の全てを注いで一曲だけ作りたいと考えております」健二は少し間をおくと、声を詰まらせた。「この曲を妻を取りもどすための誓いとさせてください。この曲を最後に、私は皆様の前から姿を消します」動画を公開したあと、健二は再び作業部屋に篭ると、最後の曲作りに没頭した。蛍がいまM国にいるということは確かだった。だから、この新しい曲で、自分が蛍の声をもう思い出したことを証明すれば、彼女がきっと帰ってきてくれる……健二はそんな感動的な場面を夢みていた。以前、泉と健二のカップルを熱心に応援していたファンたちが、今度意見を180度変え、もの凄く反発していた。かつて蛍にむけられた非難の矛先が、何百倍にもなって泉に突き刺さる。泉はマンションの部屋で小さくなり、電気をつけることも、ましてや外に出ることもできなかった。携帯に絶え間なく表示される罵りのメッセージと、企業からの契約解除の通知が、今まで築き上げてきたものをことごとく壊していく。さらにネットでは、泉の曲が誰のコピーなのかが次々と特定されていった。そして、弁護士からの通知書が、ひっきりなしに彼女の家に届く。泉が巧みに作りあげた天才シンガーソングライターというイメージは一気に崩れ去り、業界の笑いものに転落した。健二と蛍への憎しみが、泉の心の中で燃えさかる炎となり、彼
「健二さん。菅原さんの声を治せるって先生がおっしゃっていましたよ!」マネージャーの浩が興奮を隠せない様子で、健二を書斎から引っ張り出した。側に立つ泉の目にも安堵の涙が光る。しかし、健二の心は全く動かず、何の反応も示さなかった。「健二さん。菅原さんとのコラボ新曲を彼女の復帰作にしましょうよ。タイミングもばっちりですし!」泉も側で何度も頷き、期待に満ちた顔で健二を見つめる。だが、健二はただ浩の手を振り払い、掠れた声で言った。「曲が書けないんだ」「え?」泉と浩は同時に固まり、顔を見合わせた。健二は虚ろな目で二人を見る。「もう書けないって言ったの」「どうしてですか?」浩は焦った表情を浮かべた。「蛍がいなくなってから、頭の中には蛍の声しか残ってないんだ。もう、なんの音も降ってこない……」そう言うと、健二はソファに深く体を沈め、もう二人を相手にしなかった。泉はその場に立ち尽くし、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。健二を睨みつける彼女の瞳には怒り、そして微かな恐怖が渦巻いている。健二の助けが無くなったら、この先どうやって音楽の道を歩んでいけばいいのか分からない。何かを考え込むように作業部屋を一瞥した泉は、静かに何かの決意を固めたようだった。深夜、悪夢にうなされ目を覚ました健二は、作業部屋へと向かった。部屋のドアノブに手をかけたとき、中から突然小さいが、それでいてはっきりとした泉の声が聞こえてきた。「蛍さんが幼い頃録音したテープがあるの。だから、最高のチームを探して、そこから一番コピーする価値のある部分を分析させて。健二さん?あの人はもうすっかり役立たずになっちゃった。何も書けないんだって。だから、新しいもっと価値のあるパートナーを探さないと」ドアの外で、健二は凍りついた。やはり、幼い頃窓の向こうにいた女の子は、泉ではなく蛍だったのだ。健二は勢いよくドアを押し開けた。ドアが壁に叩きつけられ、大きな音が響く。「テープを置け」健二の声は氷のように冷たい。突然の物音に泉は体をびくっと震わせた。慌てて振り返り、手にしていたテープを背中に隠すと、同情を誘うような表情を作る。そして声を出さずに指を動かして、何かを説明しようとしているふりをした。「そんな芝居はやめろ」健二は冷たく笑う。そして、
「飛行機はまもなく着陸いたします」という客室乗務員のアナウンスによって、私は乱雑な夢から現実に引き戻された。目を細め、窓の向こうに広がる景色を眺める。見慣れないのに、どこか懐かしい不思議な気持ちが湧いてきた。到着ロビーでは、渡辺啓太(わたなべ けいた)がひまわりの花束を抱えて、私に手を振っていた。私と啓太はM国のある大学に通っていた。クラスが一緒で、しかも同じ出身地ということもあり、一番仲が良かったのだ。卒業後、健二との関係を取り戻したかった私は帰国したのだが、啓太はそのままM国に残り、親がM国に作ったラジオ局を継いでいた。別れ際、啓太は何かをぐっと堪えるように言った。「もし、河野と昔みたいに戻れなかったら、いつでもM国に戻っておいでよ」って。「君が昔住んでた家を買おうと思ってたんだけど、家主さんが売ってくれなくてさ。だから隣を買ったんだ」そう言って、啓太は私の手に鍵をのせ、「きっと気に入るよ」と笑顔でドアのほうへ視線を送った。「そんな……アパートで十分だったのに」目の前の立派な家に、私は戸惑う。「君が環境の変化に弱いの知ってるからさ」啓太はそう言って私を2階へ案内し、寝室のドアを開けた。その瞬間、時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥った。ソファの位置や床に散らばった雑誌まで、部屋の物全てが記憶の中の風景とぴったり重なる。私の些細な癖まで、彼は全部覚えていてくれたのだ。そう思うと、胸がいっぱいになった。いつのまにか、頬には一筋の涙が……啓太は私に、「まずはゆっくり休んで」と言い残し、用事を済ませてくると言って出かけていった。一眠りして起きると、外はもう真っ暗だった。階下のキッチンからはトントンと包丁の音が聞こえてくる。階段を降りると、袖をまくった啓太が慣れない手つきで一生懸命ごはんを作ってくれていた。「まさか、啓太さんが自らキッチンに立つなんて」と、私は笑いながら啓太を揶揄う。「引越し初日の食事だぞ。家で食べなきゃだろ?」彼は当然だという顔でそう言った。食卓を囲みながら、私たちはこれからの仕事について話し始めた。「蛍さん、うちの局には、いつでも君の場所があるからさ」啓太は真剣な表情で言ってくれた。しかし、私は少し自信がなかった。「でも、私……もう5年もこの業界から離れちゃってる……」こ