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愛の終止符、それぞれの明日へ

愛の終止符、それぞれの明日へ

By:  浅川夜Completed
Language: Japanese
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「中絶手術を受けろ」 つい先ほどまで妊娠の喜びに浸っていた森美陽(もり みはる)が、夫のその言葉を聞いた瞬間、心は底知れぬ絶望の淵へと沈んだ。 「……今、なんて言ったの?あなた、この子は私たちの子供なのよ……」 「幸人がお前の妊娠を知って、さっき飛び降りようとしたんだ。あの子はまだ新しい母親としてお前を受け入れていない。それなのに、その腹の子を認められるわけがないだろう」 幸人。また、葛西幸人(かさい ゆきと)のこと…… 葛西圭(かさい けい)と結婚して以来、美陽は彼の息子――幸人に精一杯の愛情を注いできた。だが、幸人は執拗に美陽を嫌い続けた。 そして今、その悪意は美陽の子供にまで及ぼうとしている。 「圭、幸人があなたの子供なら、この子だってそうじゃないの?」 美陽の目から涙が溢れ出し、喉の奥にこみ上げる酸っぱい苦みとともに、声は途切れ途切れになった。 圭は沈黙した。 長い沈黙の後、ただ一言だけ告げた。 「子供ならまた作ればいい。聞き分けよくしてくれ。今は幸人を最優先にすべきなんだ」

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Chapter 1

第1話

「中絶手術を受けろ」

つい先ほどまで妊娠の喜びに浸っていた森美陽(もり みはる)が、夫のその言葉を聞いた瞬間、心は底知れぬ絶望の淵へと沈んだ。

「……今、なんて言ったの?あなた、この子は私たちの子供なのよ……」

「幸人がお前の妊娠を知って、さっき飛び降りようとしたんだ。あの子はまだ新しい母親としてお前を受け入れていない。それなのに、その腹の子を認められるわけがないだろう」

幸人。また、葛西幸人(かさい ゆきと)のこと……

葛西圭(かさい けい)と結婚して以来、美陽は彼の息子――幸人に精一杯の愛情を注いできた。だが、幸人は執拗に美陽を嫌い続けた。

そして今、その悪意は美陽の子供にまで及ぼうとしている。

「圭、幸人があなたの子供なら、この子だってそうじゃないの?」

美陽の目から涙が溢れ出し、喉の奥にこみ上げる酸っぱい苦みとともに、声は途切れ途切れになった。

圭は沈黙した。

長い沈黙の後、ただ一言だけ告げた。

「子供ならまた作ればいい。聞き分けよくしてくれ。今は幸人を最優先にすべきなんだ」

その言葉が美陽の導火線に火をつけた。抑え込んでいた感情が、激流のように溢れ出す。

「聞き分けがない?ええ、そうね。

聞き分けがなかったから、あなたと結婚なんてしたのよ。

聞き分けがなかったから、守られもしない約束を信じて待ち続けた。

聞き分けがなかったから、この子を産めるなんて幻想を抱いたのよ!」

ガシャン――!

美陽はナイトテーブルのランプを床に叩きつけ、続いてドレッサーや机の上にあるものを次々となぎ倒した。

圭はベッドの端に座り、ヒステリックに荒れ狂い、崩れ落ちて号泣する美陽を、ただ重苦しい視線で見つめていた。

泣いて、泣き続けて……美陽の心は死んだ。

……

美陽と圭の出会いは、あるビジネスカンファレンスだった。

当時の美陽は社会人になったばかりの新人。一方圭は、大勢の人に囲まれて現れた注目の的だった。

十二歳年上の圭が纏う、歳月を重ねた落ち着きと余裕のある物腰に、美陽は強く惹きつけられた。

資料にコーヒーをこぼして慌てふためく彼女に、彼は清潔なハンカチを差し出し、穏やかな声で言った。

「焦らなくていい。ゆっくりやりなさい」

その目元に宿る優しい微笑みを見た時から、美陽は引き返せないほど圭にのめり込んでいった。

離婚歴があり、息子がいることも知っていた。彼の周りにはもっと成熟した美しい女性がいくらでもいた。それでも美陽は、飛んで火に入る夏の虫のように圭を求めた。

圭は当初、良き先輩としての距離を保っていた。だがある雨の夜、深夜まで残業した彼女を家まで送ってくれた時のことだ。

薄暗い車内で、美陽は勇気を振り絞って尋ねた。

「葛西社長……私のような、身の程知らずな想いは……迷惑ですか?」

長い沈黙の後、圭の手がそっと彼女の頭に置かれた。

「美陽、お前はまだ若すぎる」

「私、後悔はしません」

それから二人は結ばれた。

圭は美陽の好みをすべて把握し、彼女が残業で夜更かしすれば胃に優しい食べ物を密かに注文してくれた。幼い悩み事にも辛抱強く耳を傾け、豊かな人生経験から適切な助言をくれた。

美陽は、圭の成熟した大人の包容力に心酔した。彼さえいれば、世の荒波もすべて防いでくれるような気がしていた。

交際して一年後、二人は正式に結婚した。

だが、結婚後の現実は一変した。

圭は出張で多忙を極め、美陽の誕生日を祝う余裕もなく、病気の時でさえ看病してはくれなかった。

息子の幸人は美陽を敵と見なし、泣き喚いては嫌がらせを繰り返した。そのたびに、美陽が折れることで場を収めてきた。

そして今……自分の子を殺すことまで、譲歩しろというのか。

――なんて滑稽なのだろう。

床にうずくまる彼女を見て、圭の瞳にある静寂が、ようやく微かに揺れた。

彼は彼女のそばに歩み寄り、その肩を抱き寄せた。

だが、美陽は力任せに圭を突き放した。

「触らないで!」

圭はなおも彼女を強く抱きしめた。

「約束する、譲歩するのはこれが最後だ。幸人がもう少し……」

なだめるような言葉を最後まで言わせず、美陽は冷たい声で遮った。

「圭、子供はおろすわ。決めたの。自分の子を、幸人みたいな人間にはしたくないもの」

赤く腫らした目で圭の視線を真っ向から見据えた。この瞬間、かつて彼に抱いたときめきは、もう欠片も感じられなかった。

「圭……離婚ましょう」
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第1話
「中絶手術を受けろ」つい先ほどまで妊娠の喜びに浸っていた森美陽(もり みはる)が、夫のその言葉を聞いた瞬間、心は底知れぬ絶望の淵へと沈んだ。「……今、なんて言ったの?あなた、この子は私たちの子供なのよ……」「幸人がお前の妊娠を知って、さっき飛び降りようとしたんだ。あの子はまだ新しい母親としてお前を受け入れていない。それなのに、その腹の子を認められるわけがないだろう」幸人。また、葛西幸人(かさい ゆきと)のこと……葛西圭(かさい けい)と結婚して以来、美陽は彼の息子――幸人に精一杯の愛情を注いできた。だが、幸人は執拗に美陽を嫌い続けた。そして今、その悪意は美陽の子供にまで及ぼうとしている。「圭、幸人があなたの子供なら、この子だってそうじゃないの?」美陽の目から涙が溢れ出し、喉の奥にこみ上げる酸っぱい苦みとともに、声は途切れ途切れになった。圭は沈黙した。長い沈黙の後、ただ一言だけ告げた。「子供ならまた作ればいい。聞き分けよくしてくれ。今は幸人を最優先にすべきなんだ」その言葉が美陽の導火線に火をつけた。抑え込んでいた感情が、激流のように溢れ出す。「聞き分けがない?ええ、そうね。聞き分けがなかったから、あなたと結婚なんてしたのよ。聞き分けがなかったから、守られもしない約束を信じて待ち続けた。聞き分けがなかったから、この子を産めるなんて幻想を抱いたのよ!」ガシャン――!美陽はナイトテーブルのランプを床に叩きつけ、続いてドレッサーや机の上にあるものを次々となぎ倒した。圭はベッドの端に座り、ヒステリックに荒れ狂い、崩れ落ちて号泣する美陽を、ただ重苦しい視線で見つめていた。泣いて、泣き続けて……美陽の心は死んだ。……美陽と圭の出会いは、あるビジネスカンファレンスだった。当時の美陽は社会人になったばかりの新人。一方圭は、大勢の人に囲まれて現れた注目の的だった。十二歳年上の圭が纏う、歳月を重ねた落ち着きと余裕のある物腰に、美陽は強く惹きつけられた。資料にコーヒーをこぼして慌てふためく彼女に、彼は清潔なハンカチを差し出し、穏やかな声で言った。「焦らなくていい。ゆっくりやりなさい」その目元に宿る優しい微笑みを見た時から、美陽は引き返せないほど圭にのめり込んでいった。離婚歴があり、
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第2話
美陽はそっと圭を押し戻すと、震える足取りで立ち上がり、そのまま浴室へと向かった。静まり返った部屋にドアの閉まる音がひどく鮮明に響く。それはまるで、外にいる圭との間に引かれた、明確な境界線のようだった。シャワーを浴びながら、美陽は冷たいタイルの壁に寄りかかった。顔を叩く水流が、水なのか涙なのか、もう判別がつかなかった。長い時間をかけて体を拭き、清潔で柔らかいパジャマに着替えてから、美陽はようやくドアを開けた。リビングには薄暗いスタンドライトが一際灯っているだけだった。ソファに座る圭は寝室に背を向け、微動だにしない。その指に挟まれた火のついていないタバコが、彼が懸命に何かを堪えていることを物語っていた。美陽は圭に視線を留めることなく、そのまま主寝室へと歩を進めた。カチャリ――再び響いた鍵をかける音。圭はそのままの姿勢でしばらく座り続けていたが、やがて寝室のドアの前まで歩み寄った。手を上げ、ノックしようとしたのか、あるいはただドアに触れようとしたのか。だが結局、その手は力なく垂れ下がった。彼は背を向け、バルコニーのガラス戸を開けた。冬の夜の冷気が一気に流れ込み、全身を刺す。圭は手すりに掴まり、ぼやけたネオンとまばらな車の流れを見下ろした。冷たい風が胸を通り抜けていく。自分が今、どんな感情を抱いているのかさえ分からなかった。ただ、今の局面をコントロールできず、どう解決すべきかも分からない。これほどの窮地に立たされることは、彼の人生において稀だった。進むも退くも、そこには深淵が広がっている。心のどこかで、まだ期待していた。彼女がもう少し待ってくれることを。以前のように、怒り、泣き喚いた後には、また笑顔で腕の中に収まってくれることを。美陽は散らかった床を避け、乱れたシーツを整えると、明かりを消してベッドに潜り込んだ。暗闇が視界を塗りつぶしていく。狂乱の後のひどい疲弊感に襲われ、彼女はただ、このままずっと目を開けたくないと思った。不思議なことに、今夜の眠りはひどく穏やかだった。まるで音のない深い淵のように。翌朝、カーテンの隙間から差し込む重苦しい光に、美陽は抗うように目を開けた。圭に対するわずかな期待も、眠りとともに闇に葬り去られていた。身支度を整え、ゆったりとした清潔な服に着替えてドアを開けると
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第3話
圭は、美陽の半歩後ろを黙ってついてきた。何度か差し伸べた手は、そのたびに彼女に拒絶された。彼はただ、壊れやすいガラス細工を見守るかのように、慎重に距離を保って寄り添うことしかできなかった。近づくことも、離れることもできずに。病院の入口に差し掛かった瞬間、冷たい風が細かな雪を巻き込んで吹きつけた。薄着の美陽の体が思わず縮こまり、その顔色は雪景色に溶け込みそうなほど白くなった。「風邪を引くぞ」圭はすぐに自分のコートを脱ぎ、美陽の肩にかけようとした。「いらないわ!」美陽は腕を振り上げ、差し出された服を拒んだ。厚手の生地が手の甲をかすめ、わずかな冷たさが走る。「美陽、意地を張るな。手術の直後なんだ、体を冷やしてはいけないぞ」圭の声には、焦燥と痛みが混じっていた。美陽は足を止め、彼を振り返った。その瞳はまだ赤く腫れていたが、もう涙がこぼれることはなかった。「意地を張ってるわけじゃない」風にさらわれそうなほど、か細い声だった。「……ただ、もう必要ないの」圭の瞳がわずかに揺れ、コートを握る指先に力がこもった。「あなたの看病も、心配も、全部いらない」美陽は一度言葉を切り、彼の傍らを通り過ぎて、どんよりとした灰色の空を見つめた。「……そして、あなたも。もういらないのよ」圭が何かを言いかけたその時、鋭い着信音が、二人の間に流れる冷え切った空気を切り裂いた。画面を見た彼の眉間が、ぴくりと跳ねる。電話の向こうからは、聞き覚えのある女性の声が響いた。「圭!早く幼稚園に来て!幸人がずっと泣き止まないの。パパがいいって叫んで、先生が何をしてもダメ、私もお手上げよ。早く来て、あの子の様子が普通じゃないわ!」圭の瞳に、嵐の前の暗雲のような陰りが落ちた。スマホを握る指の関節が白く浮き出る。視線は、目の前の青ざめた美陽と、風雪の向こうにいるであろう、胸を締め付けるほど愛おしい息子の姿との間で激しく揺れ動いた。板挟みになり、進むことも退くこともできない。冷え切った空気の中で時間が引き延ばされ、刃のように神経を削っていく。彼は一度目を閉じ、全身の力を振り絞るように、重苦しい声で答えた。「分かった。すぐに行く」美陽の心に、小さな痛みが走った。けれどその痛みは一瞬で消え去った。静かな水面に投げ込まれた小石
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第4話
圭が幼稚園に駆けつけると、幸人は先生に抱きかかえられ、小さな顔を真っ赤にして、息を詰まらせながらしゃくり上げていた。顔中、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。傍らでは、長坂愛由美(ながさか あゆみ)が焦燥と所在なさの入り混じった表情で立っていた。「パパ!」圭の姿を見るなり、幸人は先生の腕をすり抜け、すごい勢いで飛び込んできた。圭は膝をつき、息子を腕の中に抱きしめた。幸人の泣き声は痛切で、その涙が圭の胸元を濡らすたび、彼の心臓は焼かれるように痛んだ。「パパ……僕のこと、もういらなくなったの?」子供の言葉は、錆びついた鈍いナイフのように、すでに血を流し続けている圭の心にさらなる傷を刻んだ。「そんなわけないだろう」圭はできる限り声を和らげた。「だって、みんな言ってたもん!パパには美陽さんがいて、赤ちゃんも生まれるから、僕はもういらない子になるんだって!」幸人は声を枯らして泣きじゃくった。「みんなが言ってた?」圭は理性を保ち、そのキーワードを逃さなかった。声を抑えて問い質した。「誰がそんなデタラメを言ったんだ?」「叔母さんも、おばあちゃんも……ママも言ってた」幸人は圭の肩に顔を埋め、しゃくり上げた。「パパに新しい家族ができたら、僕は捨てられるんだって」圭の冷徹な視線が子供の頭越しに、数歩先に立つ愛由美を射抜いた。彼は怒りと無力感を押し殺し、辛抱強く、腕の中の息子を優しくなだめた。「彼女たちが言ったことは間違いだ。パパが幸人を愛してるのは、これからも永遠に変わらない。美陽さんもとてもいい人だし、幸人と仲良くなりたいと思ってるんだよ。それから、赤ちゃんのことだけど……」喉に何かが詰まったように、圭は数秒ほど沈黙した。そして、苦しげに言葉を継いだ。「それはパパと美陽さんの問題であって、パパが幸人を愛することとは何の関係もない。パパの幸人への愛は、誰にも邪魔されないし、何があっても変わらない。誰かと分かち合うようなものじゃないんだ。分かる?」圭は思いつく限りの言葉を尽くして、子供の心にある不安と恐怖を埋めようとした。やがて、幸人の泣き声が止まり、小さなしゃくり上げへと変わって彼に甘えるように寄りかかった。圭は息子を抱き上げたまま立ち上がり、暗い情動を押し殺した瞳で愛由美を見た。「話
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第5話
眠った幸人を抱きかかえて帰宅した圭を待っていたのは、しんと静まり返った家だった。「美陽?」低く呼びかけてみたが、返事はない。手探りでスイッチを入れると、パチリという音とともに天井の照明が点き、リビングが剥き出しになった。部屋は昨夜の嵐が過ぎ去った時のまま放置されていたが、以前よりさらに冷え冷えとして、生気が失われているように感じられた。圭の心臓がどくりと跳ねる。無意識のうちに、腕の中の息子を抱く力が強まった。幸人が眠りの中で不快そうに鼻を鳴らしたのを聞いて、圭はようやく我に返った。込み上げる不安を無理やり抑え込み、まずは息子を寝室に運んだ。慎重に幸人をベッドに寝かせ、上着と靴を脱がせて毛布をかけた。息子の顔にはまだ涙の跡が残っていたが、眠りにつくと少しだけ落ち着いた様子を見せた。圭はベッドの脇に座り、数秒間、息子を見つめた。目を覚まさないことを確認してから立ち上がり、静かにドアを閉めてリビングへ戻った。再び視界に入ってきた惨状が、彼の目を刺した。寝室のドアへ向かう。ドアは半開きになっており、中も同じように乱れていたが、そこには人の気配のない静けさだけが残されていた。美陽は家にいない。というより、戻ってくる気さえないのかもしれない。彼女の持ち物の多くも消えていた。テーブルにあったお菓子、キッチンに並んでいたマグカップ、引き出しの中の書類……一つひとつ探し回り、クローゼットの前で圭は立ち尽くした。多くのハンガーが空になり、家で一番大きな二つのスーツケースも見当たらなかった。美陽は一度戻り、そして、去っていったのだ。圭はよろめくようにリビングへ引き返し、残骸の傍らのソファに崩れ落ちた。震える手でポケットからスマホを取り出した。プルル、プルル……ガチャ。切られた。諦めきれず、もう一度かける。今度は呼び出し音さえ鳴り終わる前に拒絶された。三度目。聞こえてきたのは、冷淡なアナウンスだけ。「おかけになった電話は、現在……」――着信拒否だ。目に見えない手に心臓を力任せに握りつぶされたような、息の詰まる鈍痛が圭を襲った。彼はメッセージアプリを開き、ピン留めされた一番上のトーク画面をタップした。最後の会話は、彼女からの「いつ帰ってくるの?知らせたいサプライズがあるの」という言葉で止ま
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第6話
美陽は、独身時代に自分の貯金で買った小さなマンションに戻っていた。1LDKの、決して広くはない部屋。簡素な内装のその場所は、長く放置されていたせいで、空気の中に薄らと埃の匂いが漂っていた。美陽は窓を開けて、しばらく風を通した。流れ込んできた冷たい空気が、かえって彼女の混沌とした脳をいくらか鮮明にしてくれた。体はひどく疲れていた。下腹部の痛みと、失血による虚弱感で、立っていることさえやっとだった。簡単に身繕いを済ませ、鎮痛剤を二錠飲み込むと、そのまま小さなベッドに体を投げ出した。涙も出ず、寝返りを打つことさえなかった。極限の心身の疲弊が、美陽を深い無夢の眠りへと引きずり込んでいった。翌朝、目覚まし時計が鳴った。重い瞼を押し上げると、隙間の開いたカーテンから差し込む陽光が目を刺した。体はバラバラになりそうで、下腹部の重い痛みは依然として消えていない。朝の光に照らされた顔色は、透き通るほどに青ざめていた。休みは三日間しか取っていない。今日から仕事に戻らなければならなかった。美陽は数秒間天井を見つめた後、ゆっくりと体を起こし、顔を洗って化粧を始めた。あまりに顔色が悪いので、コンシーラーとチークを普段より多めに使い、ようやく人前に出られる顔を作った。鏡の中の瞳はまだ少し赤く腫れていたが、その眼差しはどこまでも静かだ。清潔感のある、それでいて動きやすいオフィスカジュアルに着替え、バッグを手に取って家を出た。地下鉄の車内は混み合い、蒸し暑かった。美陽は車両の隅に寄りかかり、目を閉じて体力を温存した。体の不快感が波のように押し寄せてくるが、心は奇妙なほど安らいでいた。もう、片時も離さずスマホをチェックし、あの人からの返信や電話を待ちわびる必要はない。あの人が今日忙しいのか、夜に家で食事をするのか、顔色を窺う必要もない。幸人の機嫌を心配し、どう振る舞えば受け入れてもらえるかと悩むこともない。すべての心のすり減りも、不安も、待ちぼうけの日々も……昨日、あの病院の冷たい器具と、決別の言葉とともに、すべて投げ捨ててきたのだ。今の自分にとって、仕事だけが唯一の浮き木だ。時間と思考を埋めるための具体的な何かが必要だった。「葛西圭の妻」という今にも壊れそうな肩書き以外にも、自分には価値があるのだと証明したかった。
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第7話
――葛西社長。その呼び方に、圭の指先がピクリと強張った。美陽がこれほどまでに急いで自分との間に一線を引こうとしていることに、一晩中押し殺してきた不安と葛藤が、瞬時に決壊した。「いいか美陽、お前が本当に離婚したいかどうかは別として、この会社に籍を置いてる以上、お前は俺の管理下にあり、考慮すべきリスクの一つなんだ」美陽は言葉に詰まった。だがすぐに、鼻で笑った。「役職を盾に、私をねじ伏せるつもりですか?」「病人を働かせるような真似は、会社として必要ないと言ってるんだ」圭は両手で美陽の肩を掴み、その青ざめた顔に視線を釘付けにした。「会社の立場から言えば、体調の悪いお前に万が一のことがあれば、そのリスクは俺が負うことになる。そして、夫の立場から言えば、お前の身に何かあれば、それはすべて俺の責任だ!」美陽は深く息を吸い込み、体の不快感を無理やり抑え込んだ。「そうですか。それなら葛西社長、ご安心ください。ご迷惑はかけません。今すぐ退職願を書きます……夫婦関係についても、すぐに関係なくなりますから!」圭の瞳に再び激しい動揺が走った。「美陽!」美陽は力任せに圭を突き放すと、顎を上げ、赤くなった目で彼を睨み据えた。そこにはもう、涙はなかった。「葛西社長、会社で何でも思い通りにできると思ってるようですけど、社員の退職までコントロールできると思ってるんですか?」「美陽!一時の感情や悲しみに任せて、二人の絆を投げ出すというなら理解もできる。だが、お前がただの平社員からここまで這い上がるのに、どれだけの月日を費やしたか忘れたのか?意地を張って仕事を辞めるなんて、正気か?」美陽は、あまりの滑稽さに呆れ果てた。彼はいつもこうだ。自分に「待て」と命じ、「耐えろ」と強いる。父親としての責任や仕事の忙しさを理由に自分を抑えつけ、今度はキャリアまで持ち出して自分を縛ろうとする。美陽は腕を組み、淡々とした声で言った。「圭、私のキャリアの心配までしていただかなくて結構よ。あなたの得意な正論で私を押し潰そうとしないで。たとえ将来、私が二度と立ち上がれずに道端で物乞いをすることになったとしても、あなたには関係のないことだわ」美陽は一度言葉を切り、真剣な眼差しで問いかけた。「離婚協議書、書くか書かないか、どっち?」その言葉が頭の
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第8話
今の自分がどれほど無惨な姿か、美陽には分かっていた。耳元には数筋の髪がだらしなく垂れ下がり、口紅も輪郭が滲んでしまっているだろう。洗面所で激しく流れる水の音を聞きながら、彼女は台に手をつき、何度も深呼吸を繰り返した。呼吸を整えるたびに、荒れ狂っていた感情が少しずつ収まっていく。胸の中にあった衝撃、困惑、怒りが、静かに塗り潰されていった。ティッシュを二枚取り出すと、口元の滲んだ紅を丁寧に拭き取り、髪をほどいて細かく整えた。身だしなみにも、そして心にも乱れがないことを確認して、ようやく美陽は外へ出た。デスクに戻り、パソコンの前でワード文書を新規作成した。キーボードの上に指を置いたまま、数秒間静止した。思考を整理する――もし、たかが一つの恋のために、長年築き上げてきたキャリアやリソースを投げ出すのだとしたら、それはあまりに愚かだ。五年もの間、頭は「恋」という病に冒されていた。もうこれ以上、病み続けるわけにはいかない。美陽はマウスを動かしてファイルを閉じると、すぐに弁護士へメッセージを送った。【藤本先生、離婚協議書の作成をお願いします。財産分与については、婚姻中の収入の五十パーセントのみを希望します。婚前財産は含めず、それぞれが所有していたものはそのままにしてください】スマホの画面が二秒ほど静まり返った後、【了解】という二文字が灯った。美陽はそのまま画面を消し、再びエクセルの報表を開いて仕事に戻った。圭は、長い間非常階段の踊り場に立ち尽くしていた。険しく寄せられた眉間は、いつまでも解けることがなかった。唇の傷がズキズキと痛み、舌先にはまだ鉄のような血の味が残っている。感情は臨界点に達し、酸っぱい痛みと無力感がこみ上げては目尻を熱くさせた。廊下の空気は刻一刻と冷えていく。先ほどの狂おしい絡み合いも、今では深い海に投げ込まれた巨石のように、どれほど大きな波を立てようとも、最後には静寂と暗流だけが残る。数秒ほど呆然としていたが、圭は自らの力で感情の大部分を押し殺した。防火扉を開け、彼は平静な面持ちでフロアへ戻った。だが、共有スペースを横切り、美陽の姿に視線が固定された瞬間、やはり感情を抑えきれなくなった。無力感、心配、恐怖、そして喪失感が、その瞳の中で複雑に交錯する。――自分は、恐れている。これほどの恐怖
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第9話
圭は車を出し、慌ただしい車列へと合流した。電話が鳴り、画面に「愛由美」の文字が躍った。それは彼を苛立たせ、同時に不安にさせた。迷った末、圭は電話を取った。受話器の向こうからは、酒の勢いを借りた泣き声が聞こえてきた。「圭……ごめんなさい、私が悪かったわ、本当よ。戻ってきて、お願い。もう一度やり直しましょう。幸人には完璧な家庭が必要なの。私、あの森美陽に負けてる?私の方が、ずっとあなたを愛してるのに……」「長坂愛由美、世の中には、『ごめんなさい』では解決できないこともあるんだ」圭はそう言い捨てて電話を切り、そのまま愛由美の番号を一時的にブロックした。赤信号が灯り、彼は激しくブレーキを踏んだ。暗闇の中でスマホの画面が再び明るくなる。アプリを開くと、そこには「離婚協議書」と名付けられたファイルが横たわっていた。【条項に問題があると思うなら、いつでも話し合いに応じるわ】トーク画面は再び静まり返った。圭の心臓が跳ねる。ファイルを開くと、そこにはあまりに明快な条項と、冷淡なまでの言葉が並んでいた。もし、美陽が感情に任せて「全財産を置いて出て行け」とでも騒ぎ立てていたなら、まだ意地を張っているのだと笑い飛ばせただろう。だが、この書類はあまりに理路整然としていた。交渉や引き止めの余地を一切残さず、まるで完結したプロジェクトの資料をアーカイブするかのような冷徹さだった。一瞬で頭が冷え、圭は猛烈な勢いでハンドルを切った。実線を跨いで車線変更し、赤信号の交差点で強引にUターン……フロントガラス越しに街灯の明かりが何度も顔を掠め、視界を朦朧とさせた。……圭が病院に運ばれたのは、救急車の中だった。額に巻かれた白い包帯が痛々しく、全身の力はすっかり抜け落ちていた。廊下のベンチに座る彼の視界を、刺すような白い照明が塗りつぶしていく。再びスマホが震えた。秘書の中川峰生(なかがわ みねお)からの着信だ。緊急の事態でない限り、峰生がこの時間に電話をしてくることはない。「社長、大変なことになりました」峰生の声は落ち着いていたが、その語速は異常に速かった。「提携先の南智建設株式会社に、重大な資金繰りのリスクが発覚しました。違法な操作と虚偽の出資の疑いがあります。奴らは圧力を転嫁するために、補充契約の中に巧
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第10話
美陽への調査は、速やかに終了した。彼女がプロジェクトに直接的な利害関係を持っていないことは明白だった。すべての財務上のやり取りは家庭の共同口座に限定されており、その金額も極めて透明で、プロジェクトの資金流動と交差する点は一切なかった。圭の仕事における具体的な意思決定や提携先との私的なやり取りについて、美陽はほとんど何も知らずという状態だった。美陽の冷静かつ協力的な態度、そして証拠の整合性が取れていたことにより、調査チームは翌日の午後には美陽への通常のヒアリングを打ち切った。会議室を出ると、小夜子に直接オフィスへと呼び出された。「状況はどう?」小夜子は単刀直入に尋ねた。「フロー通りにいくつか質問を受けました。主に財務面での繋がりと情報の把握状況についてです。事実に即して答えました。私はプロジェクトの意思決定には関与していませんし、社長と提携先の具体的なやり取りも存じ上げません」美陽の声は安定しており、感情の波は感じられなかった。「実務上、私が目を通したり知っておく必要があった部分を除けば、他のことを彼が私に詳しく話すことはありませんでしたから」小夜子は驚く様子もなかった。その答えは予想通りだった。「公私を分けることはプロとしての倫理であり、自己防衛でもあるわ。うまく対処したわね」「ありがとうございます、部長」美陽は微かに会釈した。「仕事に戻りなさい。プロジェクトチームは今、凄まじいプレッシャーの中にいる。一人ひとりが冷静さを保つことが必要よ」小夜子は手を振って、この短い面談を終えた。美陽はオフィスを退出して、静かにドアを閉めた。時間は休む間もなく仕事の中で着実に進んでいった。半月後。プロジェクトの危機はいまだに収束せず、グループ内の空気は張り詰めたままだったが、日常業務はどうにか「張り詰めた秩序」を取り戻しつつあった。美陽は自分を完全に仕事に没頭させた。体の疲労のおかげで、夜はすぐに眠りにつくことができ、無意味な寝返りを繰り返すこともなくなった。ある日の午後。美陽はパソコンの画面に向かって報告書を修正していると、オフィスの入り口から騒がしい物音が聞こえてきた。「お客様、お待ちください!予約のない方は入れません!」受付の女性の焦った声が響いた。作業に没頭していた同僚たちが一斉
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