تسجيل الدخول弟である理安(りあん)が喘息の発作を起こしたあの日。私、松山星那(まつやま せな)は理安が使うはずだった吸入薬を、すべて洗面台に洗い流した。 母の紗季(さき)が洗面所に飛び込んできたとき、私の手にある空のボトルからは、まだポタポタと滴が落ちていた。 母は息ができずに胸をかきむしる理安を抱き寄せ、私の頬を力任せに張り飛ばした。 「星那!あんた、まだ8歳なのに、どうしてそんなに底意地が悪いの!この子が死ねばせいせいするとでも思ってるの!?」 違う。その薬は中身がおかしいんだって、伝えたかった。 ボトルの口からは、ツンと鼻を刺す消毒液の臭いがしていた。新しく雇われた家政婦が、掃除用具入れから間違えて持ってきたものだったからだ。 でも、母は私の弁解を最後まで聞こうとはしなかった。 私の腕を乱暴に掴み、まだ改装工事の終わっていない物置部屋へと引きずり込むと、外からガチャリと鍵をかけたのだ。 「自分のくだらない嫉妬心より、弟の命のほうがずっと重いって気づくまで、そこから絶対に出さないからね!」 ドアの向こうでは、父の智也(ともや)が理安を抱きかかえ、慌てて病院へと駆け出していく足音が遠ざかっていく。 一方、ドアの内側では、私が暗闇で蹴り飛ばしてしまったポリバケツから白いペンキがドクドクと流れ出し、じわじわと私の足の甲を覆い始めていた。 私はドアの隙間に必死で爪を立て、「お母さん、お母さん!」と何度も何度も泣き叫び続けた。 翌日。 病院の医師から「理安くんの薬には、確かに清掃用の洗剤が混ざっていました」と電話が入り――そこでようやく、母は思い出した。 物置部屋の鍵が、まだ自分のバッグの底に沈んだままであることを。
عرض المزيد写真の中の私は、あの黄色いワンピースを着て、嬉しそうにイチゴを高く持ち上げている。ずっと昔、母が撮ってくれた写真だ。あの頃の母は、「星那、お母さんの方見て〜!」と言いながら、カメラを構えて私を追いかけ回してくれていたのに。今の母には、本当の私の姿はもう見えない。父は毎朝、理安を抱きかかえて私の写真の前に立った。「ほら、お姉ちゃんにおはようって言いなさい」言葉がまだうまく話せない理安は、たどたどしく言った。「おねぇちゃん……あよ」父は静かに頷く。「理安。お姉ちゃんは、お前の命の恩人なんだぞ」父は毎日毎日、その言葉を理安に聞かせ続けた。私はいつも、そのすぐ隣に浮かんで二人を見ていた。理安はすくすくと成長していった。喘息の発作が起きても、もう吸入マスクを怖がることはない。吸入が終わるたびに、自分で星のシールを一つ台紙から剥がし、不器用な手つきで薬箱にペタッと貼るようになった。ある日のこと。理安がシールを貼り終えた後、ふと父に尋ねた。「おねえちゃん、どうしておうちにかえってこないの?」父はシンクで吸入用の薬杯を洗っていた。水道の蛇口から、勢いよく水が流れ落ちる音が響く。しばらくして、父は蛇口をキュッと閉めた。「……お父さんとお母さんが、取り返しのつかない悪いことをしたからだよ」理安が不思議そうに見上げる。「すごく、わるいこと?」父はしゃがみ込み、理安の目を真っ直ぐに見つめた。「ああ。すごく悪いことだ」「ごめんなさいしたら、ゆるしてくれる?」父の唇が、小さく震えた。「世の中には……ごめんなさいじゃ、許されないこともあるんだ」理安はうつむき、薬箱に並んだ星のシールをじっと見つめた。そして、その中から一つだけシールを剥がし、私の写真立ての角にそっと貼り付けた。「……これ、おねえちゃんにあげる」その日の夜、父は理安を連れて私の眠るお墓へとやって来た。退院してきたばかりの母も、一緒だった。母は以前よりも随分と痩せ細り、髪は短く切りそろえられていた。その胸には、あのピンクのノートが大事に抱きかかえられている。私の墓石の前に立っても、母は以前のように泣き叫んで取り乱すことはなかった。ただ静かにノートを供え、その横に新しい星のシールの袋を一つ置いた。
ただ、あの物置部屋にだけは決して入ろうとしなかった。ドアは常に開け放たれている。中のポリバケツはすでに片付けられ、床のペンキも綺麗に拭き取られていた。ただ、ドア板にこびりついた灰黒い指紋の跡だけが、そのまま残されている。父はその前を通るたび、わざと大きく迂回して歩いた。まるで、あの中にはまだ「何か」が閉じ込められているかのように。一方、母は毎日そのドアの前に座り込んでいた。私の黄色いワンピースを抱きしめ、ドアの敷居のところにお皿を並べるのだ。「星那、ごはんよ」初日は、ミルククリームのパン。二日目は、温かいコーンスープ。三日目は、私が昔一番好きだったハンバーグ。料理が冷めると、母はそれをキッチンへ運んで温め直した。そして温まると、またドアの前に持ってくる。それを何度も、何度も繰り返した。ついに父が耐えきれなくなり、そのお皿を取り上げた。「……あの子はもう、食べられないんだぞ」母は虚ろな目で父を見上げた。「あなただって、あの日テーブルにパンを置いていったじゃない」父の手が、ビクンと震えた。ガシャン、とお皿が床に落ちて割れる。ハンバーグのケチャップがドア板に飛び散り、小さな血痕のような赤い染みを作った。夜になり、父の姉である美穂おばさんが理安を抱きながら、母を慰めようとした。「死んだ子はもう生き返らないのよ。あなたたちにはまだ理安くんがいるんだから、前を向いて生きていかなきゃ……」母はゆっくりと首を回して、おばさんを見た。「私はね……『まだ理安がいるから』なんてずっと考えてたから、星那を失ったのよ」美穂おばさんは、それ以上何も言えなくなった。おばさんが帰った後、父は私の部屋から一枚の絵を見つけてきた。それは、私たち家族四人が描かれた絵だった。お父さんとお母さんが、真ん中で理安を抱っこしている。私は一人、少し離れたドアのところに立っていて、手には星のシールを持っている。画用紙の裏には、こう書かれていた。【りあんが おおきくなったら、わたしのこと おぼえててくれるかな?】父はその絵を握りしめたまま、一晩中床に座り込んでいた。翌朝、父はその絵を額縁に入れ、リビングの一番目立つ壁に掛けた。それを見た母は、突然弾かれたように駆け寄り、額縁ごと壁
それきり、私は二度と何もねだらなかった。――結局、私は自分の貯金箱の小銭をかき集めて、あのシールを買ったのだ。シールの裏側の台紙には、鉛筆でこう書かれていた。【おかあさんが もう おこらなくなったら、りあんの おくすりばこに はってあげる。そうしたら、もう かせいふさんも まちがえないから】父はドア枠にしがみつくようにして、ゆっくりと床にしゃがみ込んだ。母が這うようにして父に近づき、その手から星のシールをもぎ取る。透明なパッケージが、強く握りしめられてクシャクシャと音を立てた。彼女は立ち上がり、ふらつく足取りで玄関へ向かって走り出した。父が慌てて追いかける。「どこへ行くんだ!」母は私のピンクのノートと星のシールを胸に抱えたまま、裸足のまま冷たい廊下のタイルを踏みしめ、エレベーターホールへと駆け出した。「病院よ!」母は叫んだ。「お医者様に言いに行くの!星那はちゃんと理安の背中を叩けたし、薬箱にシールも貼ろうとしてた!あの子は……あの子は、悪い子なんかじゃないって……!」エレベーターの扉が開いた。中には、同じマンションに住む二人の住人が乗っていた。彼らは母の異様な姿を見ると、無言のままサッと隅へ避け、道を譲った。だが、母はエレベーターには乗り込まず、不意に振り返って誰もいないリビングに向かって声をかけた。「星那。さあ、お母さんと一緒に行きましょう」私は玄関に立ったまま、一歩も動かなかった。どれだけ待っても、私が母の元へ行くことはもうない。やがて、エレベーターの扉がゆっくりと閉まった。母が胸に抱きしめていた星のシールのパッケージは、強く握り潰すように抱えられ、角が不自然に折れ曲がっていた。結局、母が病院へ行くことはなかった。エレベーターが一階に着いた途端、母は床にしゃがみ込み、星のシールを抱え込んで一歩も動かなくなってしまったのだ。「病院の廊下は明るすぎるわ」母はうわ言のように繰り返した。「もし星那がその光を見たら、家に帰る道がわからなくなってしまうかもしれない……」父がうずくまった母の肩を抱え上げるようにして支え、家まで連れ帰った。その道中、母はずっと私の名前を呼び続けていた。近所の住人たちがドアの隙間からその様子を窺っていた。事情を知らない小さな子どもが「どうし
しかし、作業員が工具箱を手にして玄関に立った途端、母が狂ったように駆け寄り、ドアの前に立ちはだかった。「外さないで!」髪を振り乱し、血走った目で作業員を睨みつける。「星那が……あの子が、ここを叩いたのよ!」異様な気迫に、作業員はその場に立ち尽くしてしまった。父は力なく手を振り、作業員に今日は帰ってもらうよう頼んだ。家の中は再び、重苦しい静寂に包まれた。寝室で眠っている理安は、あまり寝付けないようで、少し経つとすぐに「コン、コン」と咳き込んだ。その咳が聞こえるたび、母はビクッと立ち上がる。けれど寝室のドアのところまで行くと、どうしても足が止まってしまうのだ。以前なら、理安が泣き声を上げた瞬間に誰よりも早く飛んで行ったのに。今の母は、理安を抱きしめることを恐れていた。仕方なく、父が理安を抱きかかえてリビングへ出てきて、ソファに座って背中をトントンと叩いた。だが、父のやり方は不器用だった。強すぎたり、弱すぎたりして、リズムが一定じゃない。理安は不快そうに、さらに火がついたように泣き出してしまった。父は額に汗をにじませ、慌てて引き出しをかき回した。退院のときにもらった医者のケア手順書を探しているのだ。ガタガタと引き出しを引いた拍子に、中から一冊の小さなピンク色のノートがポロリと床に落ちた。私のノートだ。表紙には、私が貼ったいびつなウサギのシールがついている。父の手が止まった。ソファの隅にいた母の視線も、そのノートに吸い寄せられた。父が恐る恐る一ページ目を開くと、そこには子供の大きな字でこう書かれていた。【りあんが くるしくなったら、あわてちゃダメ】その下には、私が鉛筆で描いた図がある。小さな手が弟の背中に置かれ、上から下へ優しく撫でるようにトントンしている絵だ。絵の横には、さらにこう書き添えられている。【おかあさんが いってた。りあんは ちいさくて ほねが やわらかいから、つよく たたいちゃダメ】理安を抱いていた父の手が、ピタリと固まった。父はゆっくりと首を垂れ、ノートに描かれた絵の通りに、もう一度理安の背中を優しく叩き始めた。上から下へ。一定のリズムで。すると、理安の泣き声は少しずつおさまり、やがてヒック、ヒックという小さなしゃくり上げに変わっていった。