LOGIN私、新村妙(にいむら たえ)の本当のお母さんが、紅葉(もみじ)おばさんを刃物で刺して刑務所に入れられた。 その一件があってから、毎日午後三時になるとベッドの上でお父さんの泰成(たいせい)と「激しい寝技の練習」に熱を出していた紅葉おばさんが、私の新しいお母さんになった。 親戚や近所の大人たちはみんな、口を揃えて彼女を「本当によくできた奥さんだ」「前妻の子供にもあれだけ愛情を注いですばらしい」と褒めちぎる。 まるでテレビで特集でも組まれるような、誰もが涙する「理想の継母」だ。 私も、ずっとそう信じて疑わなかった。 だから、あの人が「窓から空に向かって飛んでいけば、天国にいる本当のお母さんに会えるのよ」と私に教えてくれたとき。 私はその言葉を信じて、あの人が産んだばかりの弟の湊斗(みなと)をしっかりと腕に抱きしめ、二人で一緒に窓から「天国」へと飛び立った――
View Moreお母さんが刑務所に送られる前、拘置所に入っていた期間があった。私は近所のおばさんに泣きついて頼み込み、一度だけ面会に連れて行ってもらったことがある。てっきり、いつものようにひどく取り乱して、手当たり次第に物を投げつけてくるんじゃないかとビクビクしていた。でも、その時のお母さんは驚くほど穏やかで。それどころか、昔の優しかったお母さんの顔に戻っていた。お母さんはアクリル板越しに私の手を撫でるように手のひらを合わせ、ポロポロと涙をこぼした。「今まで、本当にごめんね。お母さん、刑務所で真面目にやって、一日でも早く外に出てもいいように頑張るから……そうしたら、また二人で静かに暮らそうね」当時の私は、その言葉を疑いもしなかった。どんな子供でも、本能で母親を信じ、愛するように。それなのに、お母さんは約束を守れなかった。刑務所に入って間もなく、中で自ら命を絶ってしまったのだから。お父さんは私に、「お母さんはうつ病が急に悪化して、刑務所の環境とストレスに耐えきれなくなったんだ」と悲痛な顔をして教えた。――だけど。私のお母さんは、最初から病気なんかじゃなかった。11年前のあの夜。あの日はちょうど、お母さんの誕生日だった。私は手作りのプレゼントをこっそり寝室のクローゼットに隠しておき、自分もその中で息を潜めながら、帰ってくるお母さんを驚かせてやろうとワクワクして待っていた。それなのに、部屋に入ってきたのはお父さんと――あの紅葉おばさんだったのだ。「葵にこんな薬を飲ませて、一体何の意味があるのよ?ただ気分を落ち込ませて、ヒステリーを起こしやすくするだけでしょ?」お父さんは紅葉おばさんを腕の中に抱き寄せながら、お母さんのベッドの脇にあった小さな薬瓶を指先で弄んでいた。それは、お母さんが毎日欠かさず飲んでいた薬。私も以前、お父さんから「お母さんの精神を落ち着かせるための大切なお薬なんだよ」と聞かされていたものだ。「あいつが都合よく狂ってくれなきゃ、お前があいつのポストを奪って昇進することなんてできなかっただろう?」紅葉おばさんはそう言われても、不満げに唇を尖らせた。「別に葵と別れるのを急かしてるわけじゃないわ。ただ、私のお腹の赤ちゃんが心配なだけよ。この子が生まれた時に、父親がいないなんて絶対に嫌だもの」お父さ
2日間にわたる大学入学共通テストは、前半の科目は驚くほど順調に進んだ。最終科目の数学の試験があった2日目の午後、マンションではちょうど住民の管理組合の総会が開かれており、隣近所の大人たちはみんな集会室へ行っていて留守だった。私が出かける前、お父さんはまだ家で眠っていた。前日の夜から朝までぶっ通しで何件も手術をこなして疲れ切っていたところを、私が上手く言いくるめて強い睡眠薬を飲ませておいたからだ。当然、私はお父さんの代わりに管理人のところへ行き、総会を欠席する旨を説明しておいた。午後16時50分。数学の試験を終えてマンションに帰ってくると、エントランスの下にものすごい数の野次馬が二重三重に人だかりを作っていた。まだ火の勢いはおさまっておらず、火元らしき部屋の窓から、真っ黒な煙がモクモクと立ち上っている。火事を出しているのは――うちの部屋だった。私は狂ったようにマンションの中へ駆け込もうとし、ご近所さんたちに必死でしがみつかれて止められた。「お父さんが!お父さんがまだ家にいるの!最近ずっと精神的に塞ぎ込んでて、やっと薬を飲んで眠れたところだったの!まだ家にいるのよ!」私は喉が千切れるほど叫びながら、涙と鼻水を流して暴れた。階下に住む鈴木のおばさんが私をきつく抱きかかえ、隣の香織おばさんも必死で私をなだめようとする。「妙ちゃん、消防隊の人たちを信じるのよ。絶対にお父さんを助け出してくれるから!」それから十数分後、ようやく火の手が制圧された。そして――担架に乗せられたお父さんが運び出されてきた。私は制止する大人たちを振り解いて担架へ飛びついた。だが、お父さんの体はすでに、真っ黒な炭のようになっていた。私は悲痛な叫び声を上げて泣き崩れた。「お父さん……今日、一緒にお母さんのお墓参りに行ってくれるって約束したじゃない……!お父さん!私にはもうお母さんがいないのに……お父さんまで亡くなったら、どうやって生きていけばいいの……!」私は何度も声を上げ、あわや気を失いかけるほどに泣きじゃくり続けた。背後を取り囲む野次馬たちの中から、ヒソヒソとした囁き声が聞こえてくる。「どうしてこの家ばっかり、こんな不幸が続くのかしらね。数年前に新しい奥さんと赤ん坊が死んだと思ったら、今度はご主人まで。……もしかして
立て続けに家族が二人も死んだことで、家の中の空気は氷のように冷え切っていた。紅葉おばさんのお葬式でも、弔問に訪れたのは、またしても見慣れたあの顔ぶれの大人たちだった。彼らは最初こそ可哀想にとため息をついていたが、すぐに「この家は呪われているんじゃないのか」などと好き勝手な噂話を始めた。そして中には、あの事件を面白おかしく蒸し返す声まであった。「言った通りじゃない。泰成さんにそんなうまい話ばかり続くわけないのよ。病院で出世したと思ったら、前の奥さんが勝手に罪を被って死んで、すぐに新しい奥さんを迎えられるなんてさ」「まったく、バチが当たったのよ。前の奥さんが死いですぐに新しい女に乗り換えるなんて、ろくな人間じゃないわ」「聞いた話なんだけど……泰成さんとあの紅葉さん、葵さんがいる頃からとっくにデキてたらしいわよ」そんな下衆な噂話は、当然お父さんの耳にも入っていた。葬儀がすべて終わった後、お父さんの姿は一気に十歳以上も老け込んでしまったように見えた。薄暗いオレンジ色の照明だけが灯るリビングで、お父さんはソファに深く身を沈めたまま、ピクリとも動かなかった。「妙」自室に戻ろうとした私を、背後からお父さんが呼び止めた。私はリビングの真ん中で立ち止まり、ゆっくりと振り返って、まっすぐに彼を見つめ返した。「紅葉が窓から転落したのは……本当に、あいつの不注意だったのか?」私はお父さんの目から視線を逸らさなかった。冷たい蛍光灯の光が、向かい合う二人の頭上から降り注いでいる。床に落ちた私の影が、ひどく長く伸びていた。「お父さん。私、もうお母さんがいないのよ」……あの夜を境に、私とお父さんの間には、背筋が寒くなるような奇妙な「暗黙の了解」が生まれた。彼が家にいるとき、私は自室にこもるか、図書館や塾へ行って絶対に顔を合わせないようにした。私が食卓にいるとき、彼は外の定食屋で適当に食事を済ませ、すぐには帰ってこなかった。そうして9年の歳月が流れた。私は中学、高校を経て、いよいよ大学受験を迎える年齢になっていた。私たち親子の間には、毎月の生活費の受け渡し以外、もはや一切の会話が存在していなかった。「明日はいよいよ本番だな。あまりプレッシャーを感じるなよ」受験前の特別休講で私が一日中家にいるようになったた
リビングからの声は、やがて途切れ途切れになっていった。頭上の古い蛍光灯がジジッと音を立てて明滅し、部屋の中を薄暗い白で染め上げている。私の部屋の隅には、まだ湊斗のベビーベッドが置かれたままになっていた。あの子が生まれた日のことを思い出す。病院のベッドで紅葉おばさんの隣に眠るあの子は、顔を真っ赤にして、くちゃくちゃのシワだらけで。私の顔を見ると、可愛い声を出して笑ってくれた。私の指を差し出すと、小さな小さな自分の指で、ぎゅっと握り返してくれた。あの子は、私の弟だ。お父さん以外で、この世界で一番私に近い、血の繋がったたった一人の家族になるはずだった。胸に抱いたクッションに顔を埋めると、こらえきれなかった涙がポタポタと布地に染み込んでいった。私は足音を忍ばせてドアに近づき、外から聞こえてくる微かな声にじっと耳を澄ませた。「あのな、妙はまだ九歳だぞ。そんな恐ろしいことまで考えが及ぶわけないだろ。紅葉、湊斗がいなくなって辛いのは痛いほどわかる。だが、あれは悲しい事故だったんだ。そうだろう?」お父さんはどうにかして、紅葉おばさんを宥めすかそうとしているようだ。数分の沈黙の後、ひどく掠れた声で紅葉おばさんが答えた。「……わかったわ。ねえ、あなた。最後に一つだけ。あの子に一つだけ答えを聞かせてちょうだい。それがわかれば、私、もう二度とこのことで騒いだりしないから」スリッパが床を擦る足音が、ドアの方へゆっくりと近づいてくる。私は慌てて部屋の電気を消し、ベッドに滑り込んで布団を被った。ギイッ。古い立て付けのドアが開く音がした。廊下の明かりが細く差し込み、壁に紅葉おばさんの不気味なシルエットを映し出す。「……起きてるんでしょう?わかってるのよ」紅葉おばさんがベッドの縁に腰を下ろした。「妙ちゃん。おばさんね、あなたに一つだけ聞きたいことがあるの」私は観念して、布団の隙間から顔を出した。湊斗が死んでから、こうして二人きりで平穏に向き合って話をするのは初めてのことだ。「あの夜のこと、本当は見てたんじゃないの?」私は不自然にならないよう小首を傾げ、彼女の言葉の意味を必死に理解しようとしているような素振りを見せてから、きょとんとした表情で首を振った。「あなたのお母さんが警察に捕まった夜…
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