INICIAR SESIÓN
豊かだった遼介の髪は、すっかりそり落とされていた。体はひと回りもふた回りもやせ、やつれた顔には濃いクマができていた。私を見ると、珍しく目に光がともった。席についても、どちらからも話し出さなかった。ただ静かに、互いを見つめていた。「美緒、まだ僕を恨んでる?」長い沈黙を破ったのは、遼介だった。私は言葉に詰まった。どう答えればいいのか、すぐにはわからなかった。恨んでいないといえば、嘘になる。あの電話に出てくれていたら、悠真は死ななかったのだから。でも、胸の内を探ってみれば、もう、そこまで憎んではいなかった。香奈が犯人だと知り、遼介が真っ先にしたのは、彼女を刺し殺すことだった。その行為が正しいとか間違っているとか、私には言えない。法律があるのだから。ただ、父親なら誰でも同じことをしてしまうのだろうとしか、私には言えなかった。もう、あの憎しみを手放せたのかもしれない。期待を込めた目で見つめる遼介に、私はうなずき、それから首を横に振った。「前は恨んでた。でも今は、もう吹っ切れた」「そうか。よかった」遼介はため息をつき、顔を伏せた。大きくも小さくもない声で話し始める。「香奈を本当に妹みたいに思ってただけだって言ったら、信じてくれるか?お腹の子は、元恋人の子だったんだ。ひどい男だった。あんな目に遭った香奈がかわいそうで、僕たちには幸せな家庭があるんだから、できることくらいしてやろうって。誓うよ。香奈と一線を越えたことは、一度もない。でも、信じられないよな」「信じる」思いがけず、そんな言葉が小さな声で口をついた。遼介の目が一瞬輝き、それからゆっくりと光を失った。最後に残ったのは、口元の苦い笑みだけだった。2人とも、わかっていた。だからこそ、私はなおさら許せないのだ。血のつながりもなく、ただ妹のように思っているだけの相手。それなのに遼介は、何をするにも香奈を優先した。遼介にその気がなくても、香奈まで同じだったとは限らない。2人ともわかっていたけれど、どちらも、それを言葉にはしなかった。「これからは、自分の人生を大事にしてくれ。もう、僕に会いに来なくていい。悠真に会いに行くときは、トランスフォーマーの変形ロボットのおもちゃをいくつか持っていってやって。ずっと欲しい欲しいってせがまれてたのに、す
嫌な予感がしたときには、前よりも険しい顔の警察官に連れられ、警察署へ戻っていた。中に漂うただならぬ空気に、胸騒ぎはますます強くなった。「元ご主人の早川遼介さんが、今日の午前10時8分、ナイフで瀬戸香奈さんを惨殺しました。この件について、何かご存じですか?」去り際に私を見た、あの目を思い出した。悲しみと、固い決意を宿した目。もっと早く、気づくべきだったのだ。「早川さん、お答えください。この件について、ご存じですか?」ゆっくりと顔を上げ、警察官を見た。ひと言ずつ、はっきりと答えた。「知りません。私とは無関係です」警察署を出たのは、1時間後だった。墓園に連絡を入れ、実家へ戻って骨壺を抱えると、タクシーで向かった。すべての手続きが済み、墓石にある悠真の名前を見つめた。胸がずきりと痛んだ。手を伸ばし、少しずつ名前をなでた。あの子の髪をくしゃくしゃにしていた頃のように。そうすると、悠真はいつも頭を押さえて、ぷんぷん怒りながら私を見たものだった。「ママ!髪がぐちゃぐちゃ!かっこよくなくなっちゃうよ!」思い出して微笑むと、涙も一緒にこぼれた。私はつぶやいた。「かっこいいよ、悠真。ママにとっては、いつだってかっこよくて、いい子だった。あなたのママでいられて、誇らしかったよ。だから、もしできるなら、来世でもママの子になってくれる?もう、絶対に傷つけさせない。約束するから」言い終わった途端、目の前の草が揺れ始めた。風はない。人影もない。それなのに、その小さな草だけが揺れていた。胸のつかえが、ようやく取れた。もう一度、笑みが浮かんだ。「愛してるよ、ママの悠真」墓園を出る頃には、すっかり暗くなっていた。タクシーで実家へ戻ると、体が疲れきっていた。そのまま倒れ込むように眠った。目を開けると、母がいた。年老いた顔には、私を案じる気持ちが隠しようもなく浮かんでいた。私が目覚めたのを見ると、母は口を開き、涙をこぼした。「美緒、あまり思い詰めないで。体を大事にしないと」自分も泣いているのに、母は私の体を心配してくれる。母の顔を見た途端、長い間押し込めてきた気持ちが、一気にあふれ出した。私はその日、母にしがみついて3時間泣いた。これまで我慢してきたこと、悔しかったことを、悠真の分まで全部話した。最後には、母が
遼介との家を出てから、私は弁護士に依頼して、離婚の手続きを進めた。遼介から電話がかかってきた。すがるような声だった。「美緒、そんなに冷たくしないでくれ。悠真が死んだのは僕のせいだ。それは認める。でも、僕だって悲しいんだ。こんな仕打ちは、やめてくれないか」私は平静に聞き、住所を送った。「離婚協議書に署名しに来て。これ以上、揉めたくないなら」外は土砂降りだった。稲妻が走り、雷鳴がとどろく。音を聞くだけで、胸の奥までぞわりとした。30分後、遼介はずぶ濡れになって実家の玄関に立っていた。私はドアを開けたが、中には招き入れず、離婚協議書を差し出した。「署名して、それから出ていって。財産は半分ずつ。家はあなたに、車は私がもらう」遼介は悲しみを顔いっぱいに浮かべ、小さな声で尋ねた。「そこまで冷たくしなくてもいいだろう。悠真だって、パパとママが離婚するところなんて、見たくないはずだ」そのひと言で、どうにか保っていた平静が吹き飛んだ。反射的に顔を上げ、私は冷たく笑った。「悠真のこと、まだ覚えてたの?もう忘れたのかと思ってた。よくもあの子を持ち出して、私を言いなりにしようとするわね。香奈が帰国してから、何回あの子と一緒に寝てあげた?毎晩、あなたがお話を読んでくれるのを待ってたのよ。知ってた?父親がいるくせに放っておかれてるって、学校で同級生にからかわれてたことは?海外のスターライト・パークに連れていくって約束も、覚えてる?結局、一度も行けないまま死んだのよ!悠真がお腹を壊して入院したときも、あなたは香奈の妊婦健診に付き添ってた。拉致されて、殺されたときでさえ、まだ香奈と一緒にいた!遼介、悠真の父親を名乗る資格なんてない!人でなしよ!」ずっとため込んでいた感情を、息もつかずに吐き出した。私が黙ると、辺りは静まり返った。外の激しい雨音と、遠くの低い雷鳴だけが響いていた。しばらくして、遼介はようやく私の手から離婚協議書を受け取り、署名した。かすれた声で言う。「財産は全部、君の名義にする」それだけ告げると、背を向けて雨の中へ歩き出した。その姿は、少しずつ見えなくなった。ドアを閉め、離婚協議書を持ってリビングへ戻った。うれしいという気持ちは、湧いてこなかった。犯人は、まだ捕まっていない。何も、終わってはいないのだ
遼介は呆然と立ち尽くした。いつまでも動かず、全身がかすかに震えているのだけが見えた。長い沈黙のあと、香奈の声がした。その声にも、信じられないという響きがあった。「悠真くんが、死んだの?」「黙ってろ!」香奈の言葉を乱暴に遮ると、遼介は急に動けるようになったかのように駆け寄ってきた。私の腕をつかみ、骨壺からは無理に目をそらしている。見上げると、興奮して血走った目と視線がぶつかった。「嘘をついてるんだろう?悠真が死ぬわけないじゃないか。最近、そこまで僕を恨んでる相手もいないのに、どうして拉致なんてされるんだ?冗談なんだろう、美緒。もうやめてくれ。僕が悪かったよ。香奈は今すぐ家から追い出す。もう会わないから。それでいいだろう?美緒、何か言ってくれよ」最後には、焦りのあまり涙までこぼし始めた。泣きながら必死に自分に言い聞かせる。その滑稽な姿を黙って見ていても、胸は少しも晴れなかった。私は骨壺を開けた。中には、わずかな遺灰と……「お守りのペンダント!」特殊な素材で作られたこのペンダントは、火にくべても燃えない。火葬炉に一緒に入れたのは、悠真の最後の道のりに付き添わせたかったからだ。あの子が怖い思いをしないように。ペンダントを見て、遼介はようやく私の言葉を信じた。大粒の涙が床に落ちた。顔から一気に血の気が引き、悲しみに耐えかねたように激しくせき込むと、血を吐いた。胸を押さえ、口元の血をぬぐいながら、遼介は骨壺へ手を伸ばした。私は身を引き、触れさせなかった。「美緒、ごめん。ごめん……」がくりと膝をつき、私の脚にすがりついて、何度も謝った。私が口を開くより先に、背後から香奈の悲鳴が響いた。前へ出て遼介を引き起こそうとしながら、まくし立てる。「遼介!そんなふうに膝をついちゃだめ!あなたが悪いわけじゃないでしょう!子どもが死んだなら、また産めばいいじゃない。男としてのプライドまで捨てちゃだめよ!」「離れろ!」遼介は苛立たしげに香奈を振り払った。言い募る言葉に怒りが爆発したのか、返す手でその頬を張った。「出ていけ!全部、君のせいだ!あの晩、お腹が痛いって、どうしても僕に病院へ連れていけって言っただろう!何度も電話がかかってきてたのに、怖いからそばにいてくれって、僕が電話に出るために離れるのも止めた!
今度は、遼介のほうから切った。電話が切れる直前、小さな声で「どうかしてる」と私を罵るのが聞こえた。そう。遼介の目には、この1年の私は、頭のおかしな女としか映っていなかった。香奈が家に住み始めると、遼介の仕事は急に暇になったらしい。妊婦健診に付き添い、食べたがる物を買ってやり、それどころか自分で料理まで作るようになった。夜、学校から帰った悠真が、その日の楽しかった出来事を話したがっても、遼介はいつも適当にあしらった。あの子は次第に、口数が減っていった。そんなことで、私は何度も遼介と口論になった。悠真の保護者会の日も、遼介は香奈が食べたいというイチゴのケーキを買いに付き添っていた。先生から電話をもらって初めて、私は遼介が来ていないことを知った。電話をかけると、遼介は悪びれもせずに言った。「忘れてた。香奈とケーキを買いに来てたんだ。保護者会なら、君が行けばいいだろう?」怒りのあまり、笑いが漏れた。「1週間前、悠真に約束したでしょう!ずっと一緒に過ごせていないから、今度の保護者会は自分が行くって!この1週間、あの子がアニメを我慢してたの、知ってる?小テストでいい点を取れば褒めてもらえて、パパがもっと一緒にいてくれる。そう思って頑張ってたのよ。それでも父親なの!?」遼介は長いこと黙っていた。やがて「わかった」とひと言だけ返すと、電話を切った。私は、本当に反省してくれたのだと思っていた。ところがその晩、帰ってきた遼介の手には、イチゴのケーキが2つあった。悠真を見つけるなり、うれしそうに抱き上げて褒め始めた。「悠真、テストよくできたんだってね!パパからのご褒美に、イチゴのケーキを買ってきたよ」さっきまで笑っていた悠真の顔が、ぴたりとこわばった。子どもの気持ちは、そのまま顔に出る。遼介も様子がおかしいことに気づいたらしい。箱を開けて、悠真の前にケーキを置いた。「うれしい?」悠真はうつむいたまま、何も言わなかった。赤くなった目も、テーブルの下で固く握りしめた小さな拳も、私には見えていた。もう耐えられず、私は1歩前に出てケーキを床に投げ捨てた。驚いて私を見る遼介に、失望を隠さず言う。「悠真はイチゴアレルギーでしょう。それも忘れたの?3歳のとき、うっかり食べて丸3日も入院したじゃない。あなたも3日間ずっと付き
私はそのまま電話を切った。怒りで全身が震えていた。こんなときまで、遼介は悠真を使って私を脅す。そのうえ、香奈に謝りに行けとまで言う。何年も注いできた愛情が、全部無駄になった。あまりにも、ばかばかしかった。ベッドを出て悠真の物を片づけると、ペンダントを持って修理を頼める店を探した。まだ朝で、通りを行き交う人は少なかった。店先に静かに腰を下ろし、年配の職人が作業する音を聞いていた。「お嬢さん、これ、何かでわざとたたき壊したんじゃないかね?」体がこわばった。振り向いて、職人を見る。「え?」職人は私に目をやると、丁寧に説明してくれた。「たたき壊さないと、こんな傷はつかないんだ。直すのは難しいが、できるだけやってみるよ」私はぼんやりとうなずいた。胸の痛みが、また広がっていく。スマホを取り出し、遼介にメッセージを送った。【場所を送って】すぐに位置情報が返ってきた。続けて、メッセージが届く。【おにぎりも持ってきて。香奈が大好きな、君の手作りのおにぎりを】いったい、何を夢見ているのだろう。私は画面を切り替えて配達アプリを開き、迷わず10万円分の菊を注文した。届け先は香奈の病室にした。職人から直ったペンダントを受け取ると、案の定、スマホが鳴った。電話の向こうは大騒ぎで、香奈の泣き叫ぶ声に、遼介の怒鳴り声が重なっていた。「美緒!本当にどうかしてるぞ!誰に死ねって当てつけてるんだ!こんなことをして、どんな人間だと思われるかわからないのか?自分はよくても、悠真のことを考えろよ!みんなに撮られてるんだぞ!あれが広まったら、悠真はどんな顔で生きていくんだ!僕の面目はどうなる!」またすぐに電話を切った。胸の内で、冷たく笑う。遼介、気にしているのは、自分の体面でしょう?悠真のペンダントを壊した香奈への、ただの警告だ。それ以上、何かをするつもりはない。この怒りを少しでも晴らしたかっただけ。あとは、法に委ねる。店を出ると、病院から電話がかかってきた。悠真の解剖が終わったので、遺体を引き取って火葬できるという。急いでタクシーを拾い、病院へ向かった。道中も遼介からはひっきりなしに電話がかかってきた。最後には、その番号を着信拒否にした。病院に着くと、悠真の冷たくなった体が運ばれてきた。顔にも体にも、血の気がなかっ