Mag-log in俺の名前は井上誠一(いのうえ せいいち)。 妻の井上香織(いのうえ かおり)の妊娠がわかったその日、俺たちは車で家へ向かっていた。 その途中、助手席に座っていた香織が、何の前触れもなく言った。 「実はね、お腹の子、雅人さんの子なの」 水野雅人(みずの まさと)は、香織の亡き姉の夫――俺の義兄だ。 一瞬、何を言われたのかわからなかった。そんな俺を見て、香織はバッグから出生前DNA鑑定の報告書を取り出した。 鑑定結果には、雅人が父親であると記されていた。 香織は少しも声を乱さず、淡々と続けた。 「あの日、あなた、高熱で後ろの席に寝てたでしょう。その間に、雅人さんとやってしまったの。 この車の中で。今、私が座ってる、この助手席で」 頭の中が真っ白になった。 何か言おうと口を開いたが、喉の奥が塞がったようで、声が出なかった。 香織は膨らみ始めた腹に目を落とし、そのまま言葉を継いだ。 「どうしても無理なら、堕ろしてもいい。でも先生には、この子を諦めたら、もう妊娠は難しいかもしれないって言われてるの。そうなったら、私たちの子どもを持つこともできなくなる。 産むかどうかは、あなたに決めてほしい」
view more「何をそんなに意地になってるの?私と一緒に帰れば、こんな苦労をしなくて済むでしょう。そんな体で無理を続けたら、今度こそ本当に倒れるわよ」香織は、本気で俺を心配しているように見えた。だが、彼女は何も分かっていなかった。ここで過ごした日々こそ、俺にとって、人生でいちばん充実したかけがえのない時間だった。結婚してから、香織がいつも最優先にしていたのは雅人だった。俺のことは、いつだって後回しだった。雅人の世話を焼く香織を見るたび、胸が苦しくなった。何度か不満をぶつけたこともある。だが、そのたびに香織は亡くなった姉の話を持ち出した。「姉さんが亡くなる前に、雅人さんのことを頼むって何度も言われたの。だから放っておけないだけ。変な勘ぐりはやめて」けれど、二人の間には何もないという香織の言葉は、結局嘘だった。それに俺も、香織に養われて楽をしていただけの男ではない。思わず乾いた笑いが漏れた。「俺がいなくなれば、お前も雅人も、そのほうが都合がいいだろ。離婚の手続きは早く済ませよう。今さら愛してるふりをされても、もう遅い」香織の顔がこわばった。「ふりなんかじゃない。私がどれだけあなたのことを大事に思ってるか、まだ分からないの?お腹の子はもう中絶したわ。雅人さんも地元に帰した。もう二度と、私たちの生活には関わらせない。だから、お願い。一緒に帰って。そんなけがをしてまで、ここに残る必要なんてないでしょう」香織は俺の手足に巻かれた包帯を見つめ、つらそうに眉を寄せた。「これ以上、あなたが無茶するのを黙って見ていられないわ」今さらそんなふうに心配されても、笑うしかなかった。「そうか。じゃあ聞く。母さんが死んだのは、誰のせいだ?俺をここまで傷つけたのは、お前だ」香織の頬を一筋の涙が伝った。しばらくうつむいていた香織が、やがて顔を上げた。「だったら、研究所を辞めて、私もここに残る。あなたと一緒に支援を続けるわ」それから香織は、本当に村に残った。汚れる仕事も力仕事も嫌がらずに引き受け、村の人たちに受け入れてもらおうと懸命に働いていた。俺は変わらず小学校で教え続けた。香織と顔を合わせても、声をかけることはなかった。雅人は支援団体の現地事務所へ何度も電話をかけてきては、香織に泣きついていた。あ
海外支援団体の一員としてこの地に来てから、俺は過去を振り返らず、現地の小学校で教えることに専念した。かつては大学院まで進みながら、自分の夢を諦め、専業主夫として香織を支える道を選んだ。だが今は、もう一度、自分の人生を歩き始めたような気がしていた。決して暮らしやすい場所ではなかったが、村の人たちは気さくで、何かと声をかけてくれた。慣れない生活の中でも、笑って過ごす時間は少しずつ増えていった。そんな日々を過ごしていたある日、学校の近くで大きな地震が起きた。「井上先生!」俺は幼い子ども二人を抱き寄せ、ほかの子たちに机の下へ入るよう叫んだ。だが、古びた校舎の天井が崩れ、俺の背中に落ちてきた。「みんな、慌てるな!まだ机の下から出るな!」どれくらい揺れが続いたのか分からなかった。やがて揺れが収まると、俺はそこで力尽き、意識を失った。次に目を覚ますと、村の人たちが何人もベッドの周りに集まっていた。俺が目を開けた途端、張り詰めていた皆の表情がふっと緩んだ。「井上先生、気がついたんですね。よかった……みんな、ずっと心配してたんですよ。こんな大けがをして……」少し体を動かしただけで、全身に激痛が走った。骨まで軋むようだった。それでも、誰も命を落とさなかったと聞いてほっとし、かすかに笑った。「みんなが無事なら、それでいい」子どもたちも泣きながら、ベッドのそばへ駆け寄ってきた。「先生、怖かったですよ……もう目を覚まさないかと思いました」「これからはちゃんと言うことを聞くから。もう先生を困らせないよ」俺は手を伸ばし、子どもたちの頭を一人ずつ撫でた。全身の痛みは消えなかったが、胸の奥がじんとした。医師からは、しばらく安静にするよう言われた。それでも、授業をいつまでも休むわけにはいかなかった。そこで宿舎の一室を教室代わりにし、子どもたちに読み書きを教え続けた。その日も授業をしていると、支援団体のスタッフが息を切らして入ってきた。「また奥さまから連絡がありました。けがをしたと聞いて、今すぐ戻ってきてほしいそうです」香織はあれからも、研究所の職員や支援団体を通じて、何度も連絡してきた。どれだけ断っても諦めず、あれほど強気だったのが嘘のように、帰ってきてほしいと頼み続けていた。けれど、俺
「何ですって!」香織はよろめき、とっさにソファの背へ手をついた。「どうして誠一が、急に海外派遣なんかに……あの派遣先は、かなり厳しい所だって聞いてるわ。海外で暮らしたこともないのに、一人でやっていけるわけないでしょう!」職員は息を切らしたまま答えた。「ご主人から支援団体に直接電話があったそうです。もう二度と戻らないと……」その言葉を聞いた途端、香織はソファへ力なく腰を落とした。誠一は、そんな言葉を軽々しく口にする人ではなかった。そこまで追い詰めたのは、自分だった。「嘘よ……誠一が本気で私を置いていくはずない。車を出して。今すぐ追いかける!」職員は慌てて止めに入った。「所長、今は研究所を離れないでください。例のプロジェクトが山場を迎えているんです。所長に抜けられたら、現場が回りません」香織は唇を噛み、がらんとした部屋を見つめた。今すぐ誠一を追いかけたい。それでも、研究所を放り出すわけにはいかなかった。誠一なら、最後には雅人との子どもも受け入れてくれる。何があっても、自分のそばを離れはしない。香織はずっと、そう思い込んでいた。だから、離婚を口にされたときでさえ、どこかで本気ではないと思っていた。けれど今、誠一は二度と戻らないと言い残し、海外へ向かった。離婚を告げられるより、そのほうがずっと恐ろしかった。雅人がそっと声をかけた。「誠一も、今は感情的になってるだけだよ。少しすれば、きっと戻ってくる」そこで言葉を切ると、雅人は不安そうに続けた。「でも、あいつ、この子のことをずっと認めようとしなかっただろ。戻ってきたら、俺たちに何をするか分からないと思うと……正直、怖いんだ」雅人はいかにも怯えたような顔をした。だが、香織は苛立ちを抑えきれず、いつものように優しい言葉をかける気にはなれなかった。何も答えずに立ち上がり、そのまま書斎へ入った。ところが翌日になると、香織が雅人の子どもを妊娠しているという話は、研究所中に知れ渡っていた。「いったい何を考えているんですか!」研究所本部の理事が、険しい顔で香織の執務室へやって来た。「水野さんは、あなたのお義兄さんでしょう。しかも、あなたにはご主人もいる。それなのに妊娠だなんて……所長としての自覚はあるんですか!」香織は何も言い返せなか
「誠一!」香織は玄関を開けるなり、誠一の名を呼びながら家の中を見回した。だが、昨日まとめていたはずの荷物は、どこにもなかった。何度呼んでも返事はなかった。その声を聞きつけ、近所の人たちが次々と顔を出した。「すみません、誠一を見かけませんでしたか?どこへ行ったか、知りませんか?」隣の女性が、困ったようにため息をついた。「お母さん、心筋梗塞で倒れたのに、病院にも入れなくてね。さっき亡くなったそうよ。今は葬儀会館にいると思うわ。誠一さん、見ていられないくらい憔悴してた。会えたら、ちゃんとそばにいてあげなさい」香織はすぐに葬儀会館へ向かった。会館では、すでに葬儀の準備が進められていた。祭壇には義母の遺影が飾られ、長年親しくしていた近所の人たちも何人か集まっていた。遺影を目にして、香織は初めて、義母が本当に亡くなったのだと実感した。「どうして……こんなことに……」香織に気づいた人たちが、次々に声をかけてきた。「香織さん、余計なお世話かもしれないけど、もう少し誠一さんのことも考えてあげるべきだったんじゃない?あの人には、もうお母さんしかいなかったのよ。どうしてあんなときに助けてあげなかったの。誠一さん、お母さんの遺影を抱えて来たとき、目を真っ赤にしてね。声をかけても、何も答えなかったのよ……」香織は何も言えなかった。あのときの誠一は、雅人への当てつけで騒いでいたのではなかった。母を助けてほしくて、必死だったのだ。そう気づいた途端、不安が一気に押し寄せた。「誠一は?今、どこにいるんですか?」皆は顔を見合わせ、首を振った。「そこまでは分からないわ。荷物を全部持って、タクシーに乗っていったのは見たけど……」香織は急いで家へ戻ると、すぐに秘書へ電話をかけた。「誠一がどこへ行ったのか、すぐ調べて。あの人――」言いかけたところで、リビングの床に残った黒い染みが目に入った。血だと気づいた瞬間、香織は息を呑んだ。電話口で、誠一がかすれた声で痛みを訴えていたこと。そのあと病院で会った誠一の頭に、包帯が巻かれていたこと。あのときの電話も、頭の傷も、すべて本当だった。「まさか……」香織は慌てて電話を切ると、誠一が運び込まれた病院に電話をかけた。電話に出た看護師は、少し間を置いてから