INICIAR SESIÓN拉致された息子の早川悠真(はやかわ ゆうま)が殺された日、私は夫の早川遼介(はやかわ りょうすけ)に何十回も電話をかけた。けれど、一度も出なかった。 翌朝になってようやく折り返してきた遼介は、いら立った声で言った。 「昨夜は香奈の胎動が激しくて、僕は病院に付き添ってたんだ。何度も電話してきて、何の用だったんだ?」 私は震える手でスマホを握りしめ、問いかけた。 「瀬戸香奈(せと かな)のお腹の子と悠真、あなたにはどっちが大事なの?」 一瞬の沈黙のあと、遼介は低い声で「どうかしてる」と吐き捨て、そのまま電話を切った。 もう、夫に期待する気持ちはひとかけらもなかった。 遼介、あなたは必ず後悔する。
Ver más豊かだった遼介の髪は、すっかりそり落とされていた。体はひと回りもふた回りもやせ、やつれた顔には濃いクマができていた。私を見ると、珍しく目に光がともった。席についても、どちらからも話し出さなかった。ただ静かに、互いを見つめていた。「美緒、まだ僕を恨んでる?」長い沈黙を破ったのは、遼介だった。私は言葉に詰まった。どう答えればいいのか、すぐにはわからなかった。恨んでいないといえば、嘘になる。あの電話に出てくれていたら、悠真は死ななかったのだから。でも、胸の内を探ってみれば、もう、そこまで憎んではいなかった。香奈が犯人だと知り、遼介が真っ先にしたのは、彼女を刺し殺すことだった。その行為が正しいとか間違っているとか、私には言えない。法律があるのだから。ただ、父親なら誰でも同じことをしてしまうのだろうとしか、私には言えなかった。もう、あの憎しみを手放せたのかもしれない。期待を込めた目で見つめる遼介に、私はうなずき、それから首を横に振った。「前は恨んでた。でも今は、もう吹っ切れた」「そうか。よかった」遼介はため息をつき、顔を伏せた。大きくも小さくもない声で話し始める。「香奈を本当に妹みたいに思ってただけだって言ったら、信じてくれるか?お腹の子は、元恋人の子だったんだ。ひどい男だった。あんな目に遭った香奈がかわいそうで、僕たちには幸せな家庭があるんだから、できることくらいしてやろうって。誓うよ。香奈と一線を越えたことは、一度もない。でも、信じられないよな」「信じる」思いがけず、そんな言葉が小さな声で口をついた。遼介の目が一瞬輝き、それからゆっくりと光を失った。最後に残ったのは、口元の苦い笑みだけだった。2人とも、わかっていた。だからこそ、私はなおさら許せないのだ。血のつながりもなく、ただ妹のように思っているだけの相手。それなのに遼介は、何をするにも香奈を優先した。遼介にその気がなくても、香奈まで同じだったとは限らない。2人ともわかっていたけれど、どちらも、それを言葉にはしなかった。「これからは、自分の人生を大事にしてくれ。もう、僕に会いに来なくていい。悠真に会いに行くときは、トランスフォーマーの変形ロボットのおもちゃをいくつか持っていってやって。ずっと欲しい欲しいってせがまれてたのに、す
嫌な予感がしたときには、前よりも険しい顔の警察官に連れられ、警察署へ戻っていた。中に漂うただならぬ空気に、胸騒ぎはますます強くなった。「元ご主人の早川遼介さんが、今日の午前10時8分、ナイフで瀬戸香奈さんを惨殺しました。この件について、何かご存じですか?」去り際に私を見た、あの目を思い出した。悲しみと、固い決意を宿した目。もっと早く、気づくべきだったのだ。「早川さん、お答えください。この件について、ご存じですか?」ゆっくりと顔を上げ、警察官を見た。ひと言ずつ、はっきりと答えた。「知りません。私とは無関係です」警察署を出たのは、1時間後だった。墓園に連絡を入れ、実家へ戻って骨壺を抱えると、タクシーで向かった。すべての手続きが済み、墓石にある悠真の名前を見つめた。胸がずきりと痛んだ。手を伸ばし、少しずつ名前をなでた。あの子の髪をくしゃくしゃにしていた頃のように。そうすると、悠真はいつも頭を押さえて、ぷんぷん怒りながら私を見たものだった。「ママ!髪がぐちゃぐちゃ!かっこよくなくなっちゃうよ!」思い出して微笑むと、涙も一緒にこぼれた。私はつぶやいた。「かっこいいよ、悠真。ママにとっては、いつだってかっこよくて、いい子だった。あなたのママでいられて、誇らしかったよ。だから、もしできるなら、来世でもママの子になってくれる?もう、絶対に傷つけさせない。約束するから」言い終わった途端、目の前の草が揺れ始めた。風はない。人影もない。それなのに、その小さな草だけが揺れていた。胸のつかえが、ようやく取れた。もう一度、笑みが浮かんだ。「愛してるよ、ママの悠真」墓園を出る頃には、すっかり暗くなっていた。タクシーで実家へ戻ると、体が疲れきっていた。そのまま倒れ込むように眠った。目を開けると、母がいた。年老いた顔には、私を案じる気持ちが隠しようもなく浮かんでいた。私が目覚めたのを見ると、母は口を開き、涙をこぼした。「美緒、あまり思い詰めないで。体を大事にしないと」自分も泣いているのに、母は私の体を心配してくれる。母の顔を見た途端、長い間押し込めてきた気持ちが、一気にあふれ出した。私はその日、母にしがみついて3時間泣いた。これまで我慢してきたこと、悔しかったことを、悠真の分まで全部話した。最後には、母が
遼介との家を出てから、私は弁護士に依頼して、離婚の手続きを進めた。遼介から電話がかかってきた。すがるような声だった。「美緒、そんなに冷たくしないでくれ。悠真が死んだのは僕のせいだ。それは認める。でも、僕だって悲しいんだ。こんな仕打ちは、やめてくれないか」私は平静に聞き、住所を送った。「離婚協議書に署名しに来て。これ以上、揉めたくないなら」外は土砂降りだった。稲妻が走り、雷鳴がとどろく。音を聞くだけで、胸の奥までぞわりとした。30分後、遼介はずぶ濡れになって実家の玄関に立っていた。私はドアを開けたが、中には招き入れず、離婚協議書を差し出した。「署名して、それから出ていって。財産は半分ずつ。家はあなたに、車は私がもらう」遼介は悲しみを顔いっぱいに浮かべ、小さな声で尋ねた。「そこまで冷たくしなくてもいいだろう。悠真だって、パパとママが離婚するところなんて、見たくないはずだ」そのひと言で、どうにか保っていた平静が吹き飛んだ。反射的に顔を上げ、私は冷たく笑った。「悠真のこと、まだ覚えてたの?もう忘れたのかと思ってた。よくもあの子を持ち出して、私を言いなりにしようとするわね。香奈が帰国してから、何回あの子と一緒に寝てあげた?毎晩、あなたがお話を読んでくれるのを待ってたのよ。知ってた?父親がいるくせに放っておかれてるって、学校で同級生にからかわれてたことは?海外のスターライト・パークに連れていくって約束も、覚えてる?結局、一度も行けないまま死んだのよ!悠真がお腹を壊して入院したときも、あなたは香奈の妊婦健診に付き添ってた。拉致されて、殺されたときでさえ、まだ香奈と一緒にいた!遼介、悠真の父親を名乗る資格なんてない!人でなしよ!」ずっとため込んでいた感情を、息もつかずに吐き出した。私が黙ると、辺りは静まり返った。外の激しい雨音と、遠くの低い雷鳴だけが響いていた。しばらくして、遼介はようやく私の手から離婚協議書を受け取り、署名した。かすれた声で言う。「財産は全部、君の名義にする」それだけ告げると、背を向けて雨の中へ歩き出した。その姿は、少しずつ見えなくなった。ドアを閉め、離婚協議書を持ってリビングへ戻った。うれしいという気持ちは、湧いてこなかった。犯人は、まだ捕まっていない。何も、終わってはいないのだ
遼介は呆然と立ち尽くした。いつまでも動かず、全身がかすかに震えているのだけが見えた。長い沈黙のあと、香奈の声がした。その声にも、信じられないという響きがあった。「悠真くんが、死んだの?」「黙ってろ!」香奈の言葉を乱暴に遮ると、遼介は急に動けるようになったかのように駆け寄ってきた。私の腕をつかみ、骨壺からは無理に目をそらしている。見上げると、興奮して血走った目と視線がぶつかった。「嘘をついてるんだろう?悠真が死ぬわけないじゃないか。最近、そこまで僕を恨んでる相手もいないのに、どうして拉致なんてされるんだ?冗談なんだろう、美緒。もうやめてくれ。僕が悪かったよ。香奈は今すぐ家から追い出す。もう会わないから。それでいいだろう?美緒、何か言ってくれよ」最後には、焦りのあまり涙までこぼし始めた。泣きながら必死に自分に言い聞かせる。その滑稽な姿を黙って見ていても、胸は少しも晴れなかった。私は骨壺を開けた。中には、わずかな遺灰と……「お守りのペンダント!」特殊な素材で作られたこのペンダントは、火にくべても燃えない。火葬炉に一緒に入れたのは、悠真の最後の道のりに付き添わせたかったからだ。あの子が怖い思いをしないように。ペンダントを見て、遼介はようやく私の言葉を信じた。大粒の涙が床に落ちた。顔から一気に血の気が引き、悲しみに耐えかねたように激しくせき込むと、血を吐いた。胸を押さえ、口元の血をぬぐいながら、遼介は骨壺へ手を伸ばした。私は身を引き、触れさせなかった。「美緒、ごめん。ごめん……」がくりと膝をつき、私の脚にすがりついて、何度も謝った。私が口を開くより先に、背後から香奈の悲鳴が響いた。前へ出て遼介を引き起こそうとしながら、まくし立てる。「遼介!そんなふうに膝をついちゃだめ!あなたが悪いわけじゃないでしょう!子どもが死んだなら、また産めばいいじゃない。男としてのプライドまで捨てちゃだめよ!」「離れろ!」遼介は苛立たしげに香奈を振り払った。言い募る言葉に怒りが爆発したのか、返す手でその頬を張った。「出ていけ!全部、君のせいだ!あの晩、お腹が痛いって、どうしても僕に病院へ連れていけって言っただろう!何度も電話がかかってきてたのに、怖いからそばにいてくれって、僕が電話に出るために離れるのも止めた!