FAZER LOGINまた発作を起こした私・岡本鈴(おかもと すず)の手から、親友の石田真由(いしだ まゆ)が憎々しげに刃物を奪い取った。 「いつまでこんなことを続けるつもり!?うつ病だからって、周りを好き勝手に振り回して。圭吾に愛想を尽かされるのも当然よ!」 私はその場に立ち尽くした。 一方、真由はようやく肩の荷が下りたように息をついた。 「もっと早く教えるべきだった。今日は圭吾に頼まれて、あんたを見張りに来たの。奈央との結婚式を邪魔しないようにって」 真由は正義は自分にあると言わんばかりの顔で、出入口を塞いだ。 「いい?今日ここで手首を切って死んだって、他人の夫を奪いに行くような真似はさせないから。圭吾の命の恩人だから何?何年も面倒を見てもらったんだから、恩ならとっくに返してもらったでしょ!」 ブライズメイドを務める真由と入れ替わるように、母が慌ただしくやって来た。 その声には、私への懇願がにじんでいた。 「この何年か、圭吾がいなかったら、うちはとっくに立ち行かなくなってた。少しは圭吾のことも考えて、幸せにしてあげて」 あまりの理不尽さに、目の前が真っ暗になった。 スマホには、川口圭吾(かわぐち けいご)から届いたメッセージが静かに残っていた。 【鈴を診てもらうため、海外の名医に会ってくる。心配しなくていい。俺が必ず治してみせる】 【元気になったら、結婚しよう】 私は床に崩れ落ち、涙が音もなくスマホの画面に落ちた。 誰も知らなかった。 私ががんを患い、もうずっと前から圭吾の重荷にはなりたくないと思っていたことを。 私は母に痛々しい笑みを向けた。 「分かった。約束する。圭吾のことは諦める」
Ver mais納骨の日、母も墓地へやって来た。全身を黒で包み、髪はすっかり白くなっていた。ひどく痩せ、喪服の中で体が泳いでいるようだった。母は墓前に立ち、圭吾の墓石の前へ、湯気の立つうどんを一杯供えた。白い湯気が立ちのぼる中、母は静かに言った。「圭吾、鈴は麺が好きだったから。二人で食べて」真由もそばに立っていた。このところ真由は圭吾に代わり、奈央の事件がどうなっているのかを確認し続けていた。奈央は来なかった。留置施設に入れられたまま、事件の手続きが進められていた。その後、奈央の父親が弁護士を通じ、奈央を許し、寛大な処分を求める書面を川口家に出してほしいと申し入れたらしい。だが圭吾はもういなかった。川口家はすべての怒りを奈央に向け、情状酌量を求めるつもりなどなかった。奈央は5年の実刑を免れないという。真由は私の墓前で、そのことを報告してくれた。強い風が吹き、墓前に供えられた白いトルコキキョウが散らばった。真由は一輪ずつ拾い、もう一度きれいに挿した。花を戻し終えると、その場にしゃがみ込んだ。「鈴、あのとき叩いたことは、もう取り返せない。でも、私は一生忘れない。毎朝、目を覚ますと最初に思い出すのは、痛みに耐えながら体を折り曲げていた鈴の姿なの。眠れないし、眠っても夢に出てくる。私を恨んでいいよ。恨まれて当然だから」私は真由を見つめていたが、何も言わなかった。そばに立っていた母が、ふいに口を開いた。「鈴はあなたを恨まないわ」真由が顔を上げた。「自分の娘だから分かるの。あの子なら『もういいよ』って言って、そのまま背を向ける」母はかすかに笑った。「鈴はそういう子だった。死ぬまで人がよすぎた。だから、あんなふうに傷つけられて当然だったのよ」そう言い残し、母は山を下りていった。背中を丸めたその後ろ姿は、まるで大きな山を背負っているようだった。真由は何歩かあとを追ったが、やがて立ち止まった。二つの墓石の間に立ち、足元に生えたひとかたまりの若草に気づいた。鮮やかな緑色をした草だった。真由はしばらく見つめたあと、ふいにしゃがみ込み、指先で葉に触れた。「鈴」声はとても小さかった。「もしかして、ここにいるの?」風に吹かれ、草がわずかに揺れた。だが、誰も真由に答えな
圭吾は家に閉じこもり、かつて私たちが使っていた部屋から出ようとしなかった。奈央との離婚を強引に成立させ、会社はプロ経営者に任せた。毎日していたことは、二つだけだった。一つ目は、記録を書くことだった。私ががんと診断された日から、圭吾が真実を知った日まで。その日、自分が何をしていたのか。私に何を言ったのか。その頃、私の体がどんな状態だったのか。一日ずつ書き記していった。だが、3ページ目で手が止まった。私ががんと診断された日、圭吾は奈央を連れて南凪市へ旅行に出かけていた。航空券を予約した日と、私の生検結果が出た日は同じだった。圭吾はその二つを紙の上に並べて書き、間に一本の線を引いた。そして、その線の上に大きなバツをつけた。圭吾はノートを閉じ、その晩は一睡もしなかった。ソファに座り、テレビをつけ、音量を最小にしていた。ニュースでは、警察署の前に集まった記者たちが、奈央が連行される姿を撮影していた。奈央は手で顔を隠していた。腹はまだわずかに膨らんでいた。圭吾は一度だけ画面を見ると、別のチャンネルに変えた。二つ目は、家の空いている部屋を子ども部屋にすることだった。圭吾はすべて自分の手で準備した。ときどき、独り言のようにつぶやいた。「鈴、俺たちの子どもは、どんな子になってたんだろうな。男の子か女の子か分からないから、どっちでもいいように両方用意しておくよ」私の魂はソファの上に浮かんでいた。そこから見下ろすと、圭吾の髪に新しく交じった一房の白髪が見えた。圭吾はとても静かだった。泣きもせず、取り乱すこともなく、機械のように決められたことを繰り返した。食事をして、水を飲み、物を整理し、子ども部屋を整え、弁護士へ電話して奈央の事件の進捗を確認する。やがて、連絡が取れないことを不審に思った真由が、家の鍵をこじ開けた。圭吾は浴槽の中に横たわっていた。手首は冷たい水の中に沈み、浴槽の水は目を背けたくなるほど赤く染まっていた。そばには半分ほど水の残ったコップがあり、底には溶けきっていない錠剤が沈んでいた。圭吾は白いシャツを着ていた。襟元まできちんと整えられていた。真由はその場にしゃがみ込んだ途端、足から力が抜けた。駆けつけた救急隊員たちが次々とバスルームへ入
母はそれから、ずっと故郷に残った。私が最後に血を吐きながら体を丸めていた、あの狭い部屋へ戻った。母は丸一日かけて部屋を掃除した。血のついたティッシュを捨て、壁に残った引っかき傷をパテで埋めた。私の古い服をきれいに畳み、クローゼットへしまった。すべてを終えると、母はベッドの端に腰を下ろした。枕の下に残った、洗っても落ちない褐色の染みを長い間見つめていた。抗がん剤治療を受けていた頃、夜中に鼻血を出し、それが染み込んだ跡だった。そのことは誰にも話していなかった。母は、私が残したものを一つずつ手に取った。ベッドの下には段ボール箱があった。中には診療記録のコピーや医療費の領収書、手書きの療養上の注意が詰まっていた。母は一枚ずつ目を通した。3枚目を読んだところで、その手が震え始めた。【患者は3か月以上続く腹痛を訴えており、体重は12キロ減少。直ちに入院が必要】日付は去年の秋だった。あの頃、私は毎週、実家へ食事に帰っていた。痩せたと母に言われ、ダイエットをしていると答えると、母はそんな私を聞き分けのいい娘だと褒めた。だが本当はその頃も、母は圭吾と奈央の関係を隠す手助けをしていた。「私は娘に、もっと聞き分けのいい子になれって言った。自分の恋人にすがるなって言って、その人に別の女を紹介した……私……母親失格どころか、人間ですらない!」私はベッドのそばに浮かび、母を見つめていた。心には何の感情も湧かなかった。やがて真由がやって来た。真由が部屋に入ったときも、母はそこに座ったままだった。カーテンは閉ざされ、室内には灰色の薄暗い光が満ちていた。母の目の下に濃いくまができているのを見て、真由は口を開いた。だが、何も言えなかった。「座って」真由は私のベッドの端に腰を下ろし、両手の指を固く絡めた。「鈴の遺したものを見たの。病気だった何か月もの間、あの子は毎週ここへ帰ってきてた。私とご飯を食べて、テレビを見て、話をしてくれた」母は続けた。「それなのに、私は何も気づかなかった。鈴が帰ってくるたび、圭吾とは最近どうなの、いつ元に戻るのって聞いてた。鈴は毎回、もうすぐだよって答えた。一度だって、痛いなんて言わなかった」真由はうつむき、組んだ指の関節が白くなった。「最後の数日
圭吾はその場に立ち尽くした。手のひらはまだ、わずかに膨らんだ奈央の腹に触れていた。奈央の声が耳を塞ぐ綿のようにまとわりついていたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。秘書の口にした「奥様に関すること」という言葉だけが、頭の中を回り続けた。「何が見つかった?」かすれた声で尋ねた。秘書は奈央を一瞥してから目を伏せ、タブレットを差し出した。「結婚式当日、病院の廊下を映した防犯カメラの映像が一部削除されていました。ですが、隣の薬局の入口に設置されたカメラが、別の角度から一部始終を捉えていました」秘書は言葉を続けた。「岡本さんは、奥様を突き飛ばしていません。奥様が自分から岡本さんの手をつかみ、そのまま後ろへ倒れています」タブレットを受け取った。画面の中で、私はぶかぶかの病衣を着ていた。顔は青白く、立っているのもやっとだった。わずかに腹の膨らんだ奈央が近づいてくると、私は反射的に身を引いた。次の瞬間、奈央は私の手首をつかみ、その手を自分の腹へ押し当てた。そして力を抜き、そのまま後ろへ倒れた。奈央に引っ張られた私は前につまずき、手は宙に浮いたままだった。映像には時刻が記録されていた。記者たちに囲まれる12分前だった。そばに立っていた私は、画面の中の自分を抱きしめてあげたくなった。人生の最後を迎える頃には、私はこんなにも醜くなっていたのだ。秘書の報告はまだ続いていた。「それから調べたところ、結婚式の動画をネットへ投稿した際のIPアドレスも、奥様が使用していたものと一致しました。ネット工作を業者に依頼した記録も残っています……」圭吾の手が、奈央の腹から力なく滑り落ちた。タブレットを伏せて膝の上に置き、何も言わなかった。奈央の胸に不安が広がった。私が圭吾にとって、どれほど大きな存在だったかは分かっていた。だからこそ、その存在を圭吾の心から消そうと、何度も私を陥れたのだ。圭吾がどれほど容赦のない人間なのかも聞いていた。すべて知られてしまった以上、今は許しを請うしかなかった。自分は圭吾の子どもを身ごもっている。いくら圭吾でも、死んだ女のために、自分をそこまで厳しく追及するはずがない。奈央はしばらく言葉を探したあと、大粒の涙を流した。圭吾に飛びつき、その腕を
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