地獄には、笑い声がない。
契約を結び、魂を取り立て、秩序を守る場所――そこに感情など必要ない。 そんな場所の中心で、一人の悪魔がふてぶてしく足を組んでいた。 「……だから言ってるでしょ? ちょっと情が移っただけだって!」 悪魔・リリム=アズ=ナイトメア。地獄ランクB級、契約回収専門。 その美貌と誘惑により、数多の人間を堕とし、魂を“ご褒美”として手にしてきた実力者。 だがいま、その彼女が裁かれている。 「契約法第421条“感情移入の禁止”違反、および213条“未遂契約による魔力流出”の罪状を確認」 「いやいやいや、あれは不可抗力だってば! ちょっとだけ、ちょーっとだけ、ぐらっと来ただけで──!」 冷たい石の裁判所。傍聴席に並ぶのは、機械のように無表情な裁定官たち。 誰一人としてリリムの言い訳に耳を傾ける者はいない。 「被告リリム=アズ=ナイトメアには、罰ゲームを科す。期間は七日間。魔力封印。転送先は人間界」 「……加えて、監視対象指定。衣装は“羞恥度Sランク・黒革式”」 「は!? なにその性癖!? ちょ、待っ──!」 その叫びが届く前に、リリムの身体は宙に浮き、薄い光に包まれ、そして── ぱしゅん、と音を立てて、空間から消えた。 そこは、寂れた温泉街の一角だった。 深夜の湯煙のなか、ぬるりと湯船から這い上がったのは── 黒革に包まれた、スタイル抜群の悪魔だった。 「……さっっっむ!! え、なに!? なんで温泉!? てかこの格好なに!?」 濡れて張りつく衣装は、黒革と金の装飾がきらめく、露出度MAXのプレイスーツ。 明らかに“人間界の夜職方面”と間違えた仕様だったが、本人は特に気にしていない。 「んん……ま、似合ってるし? ちょっと動きにくいけど、映えはするよね♡」 ため息をつきながら湯船の縁に腰かけ、リリムは指先を軽く鳴らしてみる。 ──何も起きない。 「……うわ、本当に魔力封印されてる。マジか」 その瞬間、舌の裏に焼き印のような契約封印の紋章が浮かび上がり、彼女は顔をしかめた。 「くっそ……まじで罰ゲームか。これじゃちょっかいも出せないし、変身もできないし……なにが“羞恥度Sランク”よ、ふざけてんの!?」 状況を理解するほどにイラつくが、どこか楽しんでる様子もある。 「まあでも……こういうのも、悪くないかも?」 独り言を呟いたその瞬間だった。 「……なあ、お前。なにしてんだよ、そんな格好で」 背後から、聞き覚えのある声がした。 声の主は、制服姿の少年だった。 坂の上からこちらを見下ろすその目には、驚きでも怒りでもない、ただ静かな諦めが滲んでいた。 「……やっぱ、お前か。リリム」 リリムの肩がびくりと揺れる。 「ちょ、え!? なんであんたがここに!? え、偶然!? 監視!? それともストーカー!?」 「いや、たまたまだ。今夜は眠れなくて、ちょっと散歩してただけだ」 「嘘くさっ!」 少年の名前は――霧島総一。 かつてリリムが“途中で契約を打ち切った”唯一の人間だった。 二人の間に、数秒間の沈黙が流れる。 「相変わらず、口だけは元気そうだな」 「は? 褒め言葉? それとも皮肉?」 「両方。……で、地獄の罰ゲームってのは、そんな格好させられるのか?」 「そうなのよ! もうほんっと最悪!! あんたに見られるのが一番ムカつくのよね!!」 怒鳴り返すリリムに、総一は小さく息を吐いた。 「……言いたいことは山ほどある。けど、今はそれどころじゃなさそうだ」 直後、遠くで爆音が響く。 まるで火薬が爆ぜたような轟音。夜の街には不釣り合いな熱風。 「なに……?」 リリムが振り返った先――そこに、契約暴走者の姿があった。 街の片隅で、紅い炎が渦巻いている。 ビルの前に立つ青年の手から、赤黒い炎が噴き上がる。 「……うるせえんだよ。俺の気持ちも知らねぇで……全部、ぶっ壊してやる!」 灯村トオル。かつてリリムの契約を受け損ねた一人の人間。 別の悪魔との契約により、力だけを与えられ、願いを歪められた“暴走者”だった。 「契約暴走者……デザイアクラッシュ」 リリムが低く呟く。 「まだいたのね……こんな町外れにも」 その火球が、通りかかった通行人に向かって放たれる。 「ヤバッ! 避け──!」 リリムが叫びかけたその時―― 「下がってろ」 総一が一歩前に出た。 「なっ、あんた普通の人間でしょ!? やめなってば、死ぬってば!」 「俺の中に……お前の“かけら”、まだ残ってたらしい」 その瞬間、総一の右手が漆黒に染まる。 空気がビリビリと震え、異形の契約紋が浮かび上がる。 「うそ……そんな、まさか」 リリムの瞳が揺れる。 「喋ってる暇ねぇだろ。あいつ、また来るぞ」 再び襲いかかってくる火球を、総一の黒い手が受け止め――そして砕いた。 街の空気が一変する。 「……総一。ほんとに、まだ……」 「後で話そう。まずは、目の前のこいつを止める」 決意と共に踏み出すその一歩は、人間のものではなかった。 リリムの目に、わずかに光が宿る。「なあ総一、新しくできたカフェ行こうぜ。ケーキがマジでヤバいらしい」放課後、カイが教室のドアを蹴り開ける勢いでそう言った。総一は教科書をしまいながら、胡乱な目を向ける。「お前が甘いもんに興味あるとか珍しいな」「いや俺じゃなくて、女子ウケがヤバいって話。つまり情報収集に最適ってこと」「……言ってることと顔が一致してないぞ、お前」後ろからツインテールがぴょこっとのぞき、リリムが割り込む。「カフェ? 面白そうじゃない。行くわ」「お前が行っても、絶対場違いだと思うけどな……」「は? 誰が場違いよ。この清楚で真面目な女子高生がカフェに行くのに、どこが不自然なの?」「その清楚の定義、地獄と人間界で違いすぎんだろ」――そんなやり取りの末、三人は駅前にオープンしたばかりの白を基調にしたカフェへ入った。中に一歩入った瞬間、総一は違和感を覚える。空気が柔らかく、ほんのり甘い香りが漂っている。客はほとんど女性で、笑顔が絶えない。……そして、その中心。カウンター奥で笑顔を浮かべる金髪の女性がいた。長い睫毛に透き通るような肌、淡い空色の瞳。白いエプロン姿だが、背筋の伸びた立ち姿と清廉な雰囲気は、まるで舞台の上の聖女のようだ。「……やっぱり、あんたか」リリムの目がわずかに細まる。カウンターの女性――セラフィーネは、柔らかく笑ったまま口を開く。「偶然ね、リリム。今日は監査じゃなく、ただの休憩よ」「天界の監査官がカフェでバイト? ふざけてるの?」「いいえ、仕事の合間。甘いものは心を豊かにするの。地獄の子には分からないかもね」「はぁ? 心を豊かにするのは契約と魂でしょ」「だからその価値観が危ないのよ」二人の視線がぶつかる。隣でカイが席に座り、すでにケーキを注文していた。「お前らケンカするなら店の外でやれ。ケーキうまいぞ」表向きは穏やかなカフェの光景。だがテーブルの下――リリムとセラフィーネの間では、目に見えない魔力の波が交わされていた。(……で、わざわざ天界から何の用?)リリムがカップを口に運びながら、無言で魔力信号を送る。(契約暴走の発生率が、地獄管理区で通常の三倍。貴女のテリトリーも含まれているわ)セラフィーネは微笑を崩さず返す。(だから何? 私が契約違反で罰ゲーム中だからって、監視しに来たわけ?)(可能性は否定しないわ。…
校舎裏の路地を抜けた瞬間、風がざわりと鳴った。「あっ……!」総一の視界から、中森あいの姿が消えた。いや、正確には“見えなくなった”だけだ。耳の奥に微かな衣擦れが残っている。「またやったな、存在ぼかし……!」リリムが舌打ちし、指先から紫の光を放つ。その光は周囲の空気をなぞるように走り、壁や地面に細い魔力の線を描いた。「……そこだ」落ち着いた声が響く。カイがポケットに手を突っ込んだまま、校舎の陰を顎で指した。総一が飛び込むと、空気が裂け、あいの姿が浮かび上がる。だが、その顔はもう“彼女”ではなかった。さっきまで教室にいたクラス委員の顔、廊下ですれ違った先輩の顔――数秒ごとに変化し、掴みどころがない。「……アンタら、誰?」あいの声までが、別人のものに聞こえる。高く、低く、柔らかく、鋭く――めまぐるしく変わる。「やっかいだな……これは視覚だけじゃない、聴覚も混乱させる型だ」カイの分析に、リリムが頷く。「しかも模倣対象の動きや癖までコピーしてくる。総一、正面からじゃ勝てないわよ」「じゃあどうすんだよ」「核に干渉して一時停止させる。……でも、今の私の魔力じゃ時間がかかる」リリムが素早く地面に魔法陣を描き始める。総一はその横顔を一瞥し、深く息を吐いた。「時間稼ぎは任せろ」足元の土が小さく鳴った瞬間、総一はあいへ駆けた。彼女の目が、別人の色を映す。次の瞬間、顔も声も知らない“誰か”が、総一へ拳を振り下ろしてきた。総一は咄嗟に腕で受け流す。だが、その動きに既視感があった。――これ、俺の動きじゃねえか。「おいリリム! これ、俺の癖までコピーしてるぞ!」「見てればわかる! 完全な動作模倣ね。擬態型でも厄介な部類よ!」あいの姿がふっと変わる。今度は体育教師の体格と声色になり、重い蹴りを放ってきた。総一はギリギリで身をかわすが、次には女子生徒の軽やかな動きで背後を取られる。「くそっ、切り替えが早すぎる……!」「擬態対象は同時に複数じゃなく、瞬間的に切り替えてる。だから追えない」カイが淡々と状況を解析していた。「じゃあどうすんだよ!」「簡単だ。一度に一人しか模倣できないなら、こっちから“対象”を限定させればいい。視覚と聴覚を絞り込ませるんだ」「言うのは簡単だな!」「やるのはお前だ、総一。俺は位置を教える」カイはまる
朝の通学路。夏の気配が色濃くなり始めた空の下、蝉の声がアスファルトを染めていた。「……なあ、リリム。もうちょっと人目ってものを気にしてくれないか?」「はあ? だったらお前が先を歩きなさいよ」真っ赤なツインテールを揺らし、制服のスカートを小悪魔的にひらつかせながら歩くリリムに、総一はため息をついた。「どう見ても不審者だろ、これじゃ」「誰がよ」「口調と態度とその目つき全部だよ」「感想に悪意しかないんだけど!? あたし、今は“清楚で真面目な女子高生”なんだからね!? この外見と地獄の魔力と契約違反の罰ゲームとツノはさておいて!」「いやもう設定破綻してんだよ……」通学路には、登校中の学生たちの姿がちらほらあったが、リリムに目を止める者はいなかった。(あいかわらず、こいつの存在って“地味に記憶からスルーされてる”んだよな……)契約悪魔としての“擬態力”なのか、“契約違反による封印の影響”なのか。それを考えていると、リリムがふと歩を止めた。「……ん?」風が、ツインテールの隙間を抜けた。空気が一瞬、ざらりと変わった気がした。「今の、感じた?」「何が?」「魔力のノイズ……。誰か、契約を結びかけてる。もしくは、成立した直後って感じの波」リリムの瞳が細くなる。総一もまた、無意識に右腕の刻印を押さえていた。「チク……って」「やっぱ反応してる。あーあ、また面倒な予感するわねぇ……」ぼやきつつも、リリムの目は真剣だった。そのまま、ふたりはいつものように校門をくぐる。だが、学校の空気は、どこか――“静かすぎた”。教室に入った瞬間、リリムは立ち止まった。「……何、この違和感」いつものざわつきが、薄く、浅く、輪郭を持たずに広がっていた。まるで“音”そのものにフィルターがかかったような、微妙な空気の澱み。「何かおかしい」総一が椅子に座りながら、ちらりと教室を見渡す。生徒たちはいつも通りに喋り、笑い、スマホをいじり、うるさいほどに日常を繰り返しているはずだった。……が、ある“違和感”が、そこにあった。「あれ? ……誰だっけ、あの子」総一が視線を向けた先、窓際の席に、ひとりの女子生徒が座っていた。長めの黒髪。うつむきがちの姿勢。制服のリボンは規定通り、髪も結ばず、表情も乏しい。だが、その“何もない”が、逆に強烈に引っかかった。「な
ぬいぐるみの瞳が、真紅に染まっていた。空間に広がる魔力の波は、ぬめりとした湿気のようにまとわりつき、リリムの張った魔力結界の外縁部をひりひりと侵食していた。「間一髪だったわね……っ!」リリムが床に片膝をつき、魔導陣に爪を立てる。その先では、白上ヨミが呆然としたまま、手にぬいぐるみ──“シュエル”を抱いて座り込んでいた。「な……なにが、起きてるの……?」声は震えていたが、まだ理性は残っている。だが、その手の中にあるぬいぐるみは、確かに呼吸をしていた。布でできた胸が、ふう、と膨らみ、目の奥のボタンが、ゆらりと動いた。「ヨミ!」総一が結界の内側へ飛び込んだ。リリムが目を見開く。「馬鹿ッ、結界の中は危ない!」「でも、彼女を放っとけない!」声を張りながら、総一はヨミの前でしゃがみこむ。そして、目を見て、静かに問いかけた。「――本当に、それでいいのか? 誰かに“代わってもらって”生きるのって」ヨミの表情が、わずかに揺らぐ。「……でも……でも、私……もう、疲れちゃって……。誰かに代わってもらえたら、全部がうまくいくような気がして……」その言葉に、リリムが声を落として呟いた。「……人間の“諦め”は、契約核にとって一番甘い蜜なのよ」ヨミの膝の上のぬいぐるみが、口を開いた。「いいんだよ、ヨミ。君はよく頑張った。もう、“わたし”に任せて。君の気持ちも、涙も、未来も、全部代わりに持っていってあげる」優しい声。甘やかすような、母親のような、どこか嘘くさい……それでいて、“ヨミの心の奥底から湧いたもの”と錯覚させるような声音。総一が、そっと彼女の肩に触れる。「でもそれって、“君”じゃないよな?」その言葉が、ヨミの瞳の奥で何かを揺らした。「私……もう、わからないの。どこまでが私で、どこからがシュエルなのか」その声には、感情が抜け落ちていた。まるで眠る前の呟きのように、ただ流れ出す音だけがあった。そのとき、ぬいぐるみ──シュエルが、ヨミの胸元でふいに笑った。「じゃあ、入れ替わろうか」にたり、と。ボタンでできた目が、ぐりり、と捻れるように歪み、口の縫い目がほどけて、中から黒い糸がにゅるりと伸びる。その糸は、ヨミの胸元から肌に触れ、ゆっくりとその身体へと這い上がっていく。「やばい! 精神主導型の擬似核だ!」リリムが叫び、結界内へ駆け込む
朝。快晴。窓のカーテンの隙間から陽光が差し込み、部屋を温かく照らしていた。だが、その平穏をぶち壊す存在が、布団の上にいた。「おいコラあああああああああああ!!!!!」総一の怒声が、朝っぱらから部屋中に響き渡る。「ちょっと! なに大声出してんのよ、この人間は!」布団から飛び起きたのは、パジャマ代わりのシャツ一枚という破廉恥仕様の悪魔、リリムであった。しかもボタン半分外れてる。寝相が壊滅的らしく、シャツが片肩落ちており、片脚は総一の腰に絡まっている。「いや、なにしてんだよマジで!? なんで俺のベッドに入ってんだよ!? どこで寝るつもりだったか覚えてるか!?」「覚えてるわよ。人間界のベッドは最高ね♡ ふかふかであったかくて、しかも……あんたの体温が、ちょうどいいのよね」「いらんこと言うな!」総一が枕を振りかざす。リリムはそれをひらりと避け、シャツをたくし上げながらあくびをひとつ。「うーん……そろそろ起きる時間か。今日の下着、白のレースにしようかしら」「実況するな! てか着替えんな目の前で!!」ガチャ。「朝ごはん、できました――うわっ」ヴェルダがトーストを持って入ってきた瞬間、絶妙なタイミングでシャツを脱ぎかけていたリリムと目が合う。「……清楚にしろって言ったの、忘れてませんよね?」「清楚ですう♡ 私は今、人生で一番清楚なんですう♡」「はい、罰ゲームポイント加算」「おのれヴェルダ……! そんな権限いつ得た!?」総一は脱力しつつも、内心でほんの少しだけ安堵していた。昨日のような契約事件がない平穏な朝。それだけで十分だった。ただ――そんな彼の胸中に、ひとつだけ気がかりがあった。(……あのときリリムが、国枝を止めるときに見せた顔。あれは……)彼女が本当に何を思っていたのか、それを聞く勇気はまだ持てなかった。「……飯食うぞ。着替えてからな」「えー、裸エプロンでよくない?」「ダメだ!!!」食卓には、焼きたてのトースト、ベーコンエッグ、味噌汁(?)……というカオスな献立が並んでいた。洋と和のぶつかり合いだが、意外とうまい。「なあヴェルダ。毎回思うけど、これどこで覚えたんだ?」「地獄にいた頃、料理番組が好きだったんです」「地獄、わりと文化的だな……」そんな日常の空気の中で、ふと郵便受けに目をやると、封筒が一通、差し込まれていた
6話「……国枝、今日も来てないらしい」朝のHRが終わった教室で、総一は窓の外を見ながらつぶやいた。「まあ、当然か。いろんな意味で燃え尽きてたしな」教卓では、担任が「本人の都合でしばらく休学」とだけ説明した。事件は“事故”として処理され、周囲も深く詮索しない。あまりにも、あっさりと。リリムは机に肘をついたまま、チョココロネを逆さにして食べながら答えた。「そりゃ、記憶の一部が吹っ飛んでるからね。契約の余波で記憶障害が出るのはよくある話よ」「よくある話、か……」総一の声は重たかった。助けた――つもりだった。でも、国枝が救われたのかどうかは、彼自身にもわからなかった。「なあ、リリム」「ん?」「お前……なんでそんなに、契約者を止めたがるんだ?」リリムの咀嚼が一瞬止まる。「善良だからよ。善行の一環」「いや、そういう建前じゃなくて」しばらく沈黙が落ちた後、彼女は少しだけ視線を外して、ぽつりと呟いた。「契約って、怖いからよ。叶った願いの先に、“何もなくなる”ことが多いの。代償が大きすぎるのよ」「それは……お前が“昔、契約に失敗した”から?」冗談めかして言ったつもりだったが、リリムは笑わなかった。ただ、何も言わずに残ったチョココロネの先っぽをかじっただけだった。そんな様子を、廊下のガラス越しに見ていたヴェルダは、誰にも聞こえないように独りごちた。「かつての契約違反。その核心は、まだ封印の中……」リリムの背には、誰にも見えない“黒い紋”が淡く光っていた。放課後の校内は、喧騒がひと段落して落ち着いていた。「このへん、なんか……妙な空気だな」総一が体育館裏の渡り廊下で足を止めた。空気が薄い。微かに漂う“契約の残り香”。普通の人間にはわからないが、彼の体にはもう、戦いの名残が染みついていた。「感知範囲拡張……んー、こっちかも!」リリムがくるりと踵を返し、校舎内のカフェテリアへ向かって走り出す。「ちょ、おい待て! 制服でダッシュすんなって!」「だって早くしないと“異常契約”が爆発しちゃうかもだし~♡」「テンション軽すぎるんよ……」総一が苦笑いで追いかけた先、カフェテリアの隅のテーブル席。そこに、一人の少女が静かに座っていた。長い黒髪に白いカチューシャ。制服の着こなしはきちんとしていて、姿勢も背筋がぴんと伸びている。――それなの