晩餐の席で、天才画家の夫・葉山尚吾(はやましょうご)は、何十億もの保険がかけられたその手で、若いアシスタント・姫野莉子(ひめのりこ)のために丁寧にカニを剥いていた。 「食欲がない」とぽつりと呟いた彼女のために、まるで絵を描くような手つきで、一口ずつ殻を外してゆく。 その一方で私・葉山紬(はやまつむぎ)は、彼のために投資を引き出そうと、酒席で限界まで酌を重ね、ついには吐血するほどに飲まされていた。 それでも苦しさに耐え、震える声で、ひと言だけ絞り出す。 「……胃薬、取ってくれる?」 返ってきたのは、いつもと変わらぬ冷淡な声だった。 「俺の手は絵を描くためのものだ。自分の手ぐらい使えよ」 ——十年という歳月の中で、彼は一度もその「拒絶の定型句」すら変えることはなかった。 その夜、冷たい風の中、独りで酔いを覚ましながら、私は静かに決意した。 弁護士に連絡を入れ、離婚協議書の作成を依頼する。 尚吾——この荒々しく、喧騒に満ちた「人間」という名の世界で、あなたと私の道は、ここで終わりを迎える。 もう、二度と交わることはない。
view more湊の世界巡回展は華々しく幕を開け、ついに、私たちは煌国の地に降り立った。空港の出口でスーツケースを引く彼と並んで歩くと、途端にフラッシュの雨が降る。記者たちが殺到した。その中には、私と尚吾の過去を掘り返そうとする者もいた。けれど、湊は一歩も退かず、私をかばい続けてくれた。そんな喧騒のただ中、ひときわ異質な影が現れた。髭面で憔悴しきった男が、一枚の破れた絵を抱えて人波をかき分けてくる。尚吾だった。彼の腕に抱えられていたのは——かつて私がアトリエを去る日に、自ら破り捨てた『パリの夕焼け』。紙は無数の線で裂け、粗雑にテープで貼り合わされていた。尚吾は人目も憚らず、地面に膝をつき、破れた声で叫んだ。「紬……あの日の約束、覚えてるよね?全部俺が壊した。だから……ゴミ箱を探して、毎晩眠らず、一ヶ月かけて貼り直したんだ!見てくれよ。ほら、絵は戻った。俺たちだって……また戻れるだろ?」——また戻れる?私は、その絵に目を落とした。どれほど丁寧に貼り直されていても、ヒビはヒビのまま。裂けた心と同じように、もう「前と同じ」には戻らない。四方からシャッターの音が降り注ぎ、私はただ、一言。「尚吾——この絵、道端のホームレスにあげても、きっといらないって言うわ」その瞬間、彼の表情が崩れ、地面に額をつけて泣き崩れた。私は、彼に一瞥もくれることなく、湊と一緒にその場を後にした。あの騒動は、意図せず湊の展覧会に話題性をもたらし、煌国会場も、驚くほどの成功を収めた。展覧会が終わった帰り道、湊がぽつりと呟く。「……このまま、国内に残ろうかなって思ってる」私はふと彼を見た。「……昔は、この国の美術界を憎んでたじゃない。尚吾にアトリエを追い出された時、ひどく傷ついてたし」彼は驚いたように目を見開いた。「まさか、まだ覚えてくれてたなんて……僕はもう、忘れられたものだと……」「忘れるわけない。あなたは、私が出会った中で一番才能のある画家よ。あの時、尚吾の器の小ささであなたが追い出されたのが悔しくて、私は……あなたに海外の展示枠を紹介したの。ずっと、あなたを信じてた」「……やっぱり、あれは君だったんだね。紬……」私は微笑み、言葉の代わりに、彼の唇にそっと口づけた。「私たちの間に、言葉なんてい
まさか——尚吾が、国内の混乱も炎上も放り出し、パリまで私を追ってくるとは思わなかった。湊のアトリエの扉を乱暴に開けた彼は、開口一番、拳を振るった。「てめえ……俺の女房をたぶらかしやがって!」突然の衝撃に周囲が凍りついたその瞬間、私は思わず駆け寄った。けれど、彼に腕を掴まれた次の瞬間、尚吾は私を抱きしめてきた。「紬……やっぱり、まだ俺のこと気にしてるんだろ?見てよ、俺、君を追ってパリまで来たんだ。もういいだろ?戻ろう、一緒にやり直そう」私は静かに彼を押しのけた。「戻らない。もう離婚届にはサインした。あなたとは何の関係もない」「やだ、絶対にやだ!離婚なんて認めない!」「じゃあ訴える。尚吾、もう私たちは終わったの」「違う!違う違う違う……!」彼は髪を掻きむしり、怒鳴りながら私を再び抱きすくめ、そのまま無理やり唇を奪おうとした。吐き気がした。身体は反射的に拒絶していたけれど、力では敵わなかった。次の瞬間——湊の拳が、音を立てて尚吾の顔面を打ち抜いた。彼はもんどり打って倒れ、私はすぐに湊の元へ駆け寄った。「なにしてるの……!」尚吾は、床から這い上がりながら、勝ち誇ったように言った。「黒瀬、お前が俺のアトリエにいた頃から、紬に気があったことくらい、俺はとっくに知ってる。見ただろ、彼女が本当に気にかけてるのは——」だが、その言葉の続きを、私の一言が断ち切った。「こんな人のせいで、手首を痛めてどうするの?これから世界巡回展だってあるのに、まだまだ仕事は山ほどあるのよ」私は心配そうに、湊の手首を優しくさすった。湊の目に、一瞬驚きの色がよぎる。けれどそれはすぐに、限りない優しさに変わっていった。尚吾はまだ何か喚こうとしていたが、すでに誰かが警察を呼んでいた。彼はすぐに現地の警察に連行され、本国へ強制送還された。「葉山尚吾暴行事件」は再びSNSのトレンド入りし、ネット上では非難の嵐が巻き起こる。彼のアトリエには、まともに立ち回れるマネージャーも、危機対応できる広報チームもいなかった。事態がどんどん拡大する中で、今回ばかりは、本当に終わりだった。彼の名は、完全に地に堕ちたのだった。
尚吾は国内でも名の知れた画家だった。けれど、あれほど積み上げた名声も、一つの炎上で、砂の城のように崩れていった。投資は白紙、絵は売れず、過去の取引すら返品騒動になり、違約金の請求が相次いだ。元同僚から聞いた話によれば、今の彼は毎日仏頂面で、莉子がいくら愛想を振りまいても、微動だにしないという。そしてしばらくして、彼女に「資金集めの会食へ行け」と命じた。露出の多い服で、とも。莉子は「清純派」のイメージを守るために拒否したが、彼は容赦なく平手打ちを見舞い、「出ていけ」と言い捨てた。結局、彼女は会食へ向かった。五十代の投資家に気に入られ、夜を共にした。けれど、あとで「責任を取ってほしい」と訴えた彼女に、男は嘲笑した。——葉山の愛人に、誰が責任なんて取る?投資も消え、彼女はただ踏みにじられ、そして「汚れた女は要らない」と、尚吾からも捨てられた。二人の名は地に堕ち、莉子は職を得られず、尚吾は誰にも信用されず。でも、それがどうしたというのだろう。——私には、もう関係のない人間たちの話だ。私は忙しい。湊のアトリエで、展示の準備、資金集め、スタッフの再配置。幸いにも、黒瀬湊の実力が確かだったため、あの頃のように、身体を削って酒席に付き合うこともない。湊は、私に無理をさせない。乾杯は代わって引き受けてくれ、胃薬さえ黙って差し出してくれる。私はもう、自分の身体を削ってまで付き合うことは無くなったのだ。そんなある日。ブロックしていたはずの尚吾が、別の番号で連絡してきた。声は思いがけず静かで、むしろ、どこか安堵しているようにも聞こえた。「紬……君の勝ちだよ。莉子は、もう終わった。君が壊したんだ。満足しただろ?だからもう、戻ってきてくれ。これ以上続いたら、俺のキャリアが終わる」私は思った。——彼の中で、私はまだ「戻るかもしれない女」なのか。あまりの滑稽さに、笑みが漏れた。「尚吾、あなたは、何を勘違いしているの?あれだけのことをしておいて、まだ私が戻ると思ってるの?私は、莉子ひとりが悪いなんて少しも思ってない。彼女に手を差し伸べて、守って、選んだのは——あなたよ」言葉に詰まった彼は、しどろもどろに続けた。「違うんだ、紬……俺が愛してるのは、ずっと君だった。莉子はただ…
顔を洗って戻ると、通知音が鳴り止まなかった。スマホを開けば、アトリエやギャラリーからのメッセージがずらり。その数、ざっと七、八件。どれも「マネージャーとしてお迎えしたい」という申し出だった。私は一件ずつ丁寧に返信した。「すでに黒瀬湊先生の専属マネージャーとしてお受けしております。お声がけ、誠にありがとうございます」そのあとに続いたのは、祝福と共感の嵐だった。【黒瀬先生ってほんと才能あるよね!小林さんとの最強タッグ、これはもう未来が楽しみすぎる】【黒瀬先生、もうすぐ世界巡回展やるって聞いたよ!このタイミングで小林さんを招いたなんて、ますますレベルアップじゃん!】【私だけかな……小林さん、葉山さんについていたごろはちょっと可哀そうすぎない?全部自分で抱えてるのに、一緒にいるときはまるで便利屋みたい。前にアシスタントに陰口叩かれてるの見ちゃったし……】【やめてwあの莉子ちゃん、小林さんがいない間に勝手に契約進めて、ゼロひとつ抜かして提出したんだって。社長ブチギレて顔真っ青だったらしいよ】【小林さん、どこ行っちゃったの~?私、あなたに憧れて入ったのに…小林さんいないなら、葉山さんのアトリエで何すればいいの?あの女の演技見てろって?】最後に目を引いたのは、一行のコメント。【くそっ!略奪愛で正妻を追い出すとか、そんなの絶対許せない!】投稿主は、前回尚吾の個展の打ち上げにも同席していた記者の友人だった。あの日、彼女は何も言わずに席を立った——そう思っていたけれど、実はすべてを見ていたのだ。尚吾が、莉子を庇いながら、私に絵を叩きつけたあの瞬間。彼女はプロとして、騒ぐ代わりに、裏で監視映像を回収し、すべての証拠を保管していた。そして今、彼女は私の離婚報道とともに、莉子の演技がかった涙、尚吾の一方的な怒鳴り声、そして——莉子が「自分で」手を傷つけていたという、決定的な映像をSNSに公開した。その動画は瞬く間に拡散し、芸能・美術カテゴリのホットワードにまで一気に躍り出た。数分後、彼女からメッセージが届いた。【紬さん、ごめんね、事前に伝えられなくて。本当は証拠を集めて、あなたに離婚を勧めようと思ってたの。でも、この数日ずっとアトリエに来なかったから、タイミング逃しちゃって……でも、今がちょうどいいよね。ちゃ
メッセージの嵐——その送り主が誰かなど、見なくても分かっていた。尚吾。【紬、なんのつもりだ?弁護士経由で離婚なんて】【よくもそんな真似ができるな。お前が今の暮らしや仕事を手にできたのは誰のおかげだと思ってる?】【まさか本当に離婚する気じゃないだろ?本人が顔を出さないのはおかしい】【それに……そのプロフィール写真、何?俺の気を引くために変えたんでしょ?俺が絵を描くのに夢中で気づかなかったからって、そんな大げさなことしてまで、注目されたかったの?】画面いっぱいに並んだ言葉の数々。私はそのひとつひとつに、もはや何の感情も湧かなかった。——この人を、かつて心から愛していたなんて、今ではもう信じられない。私は、ただ淡々と返した。【弁護士から送った離婚協議書、よく読みなさい。あなたの署名はすでに入っている。残っているのは手続きだけよ】その直後、スマホが震えた。再びの着信。でも私は出なかった。旅の疲れが残る体をそのままバスルームへ運び、湯を浴びてから眠りについた。深く、静かに眠って——目覚めたのは、昼をとっくに過ぎた頃だった。スマホには、またしても尚吾の名前がずらりと並ぶ。私はため息をひとつつき、着信に応じた。「紬……どれだけ電話したと思ってるんだ……!一晩中、お前に繋がるのを待って、結局一睡もできなかったんだ!体調も最悪だ、筆も進まない。このままじゃ、グローバル展にも影響が出るんだぞ。……どう責任取るつもりだ?お前、無責任すぎる。そんな態度で、まだアトリエに戻る気でいるのか?」声は荒く、怒りと混乱がないまぜになっていた。私は受話器越しに静かに言った。「尚吾、あなたがいつも言ってたでしょ。私はただの雑用係で、誰にでもできる仕事だって。だったら、私がいなくても何も困らないはず。私はもう戻らない。マネージャーでも、ましてや妻でもない。あんたに借りはないわ。グローバル展の件、あなたが前回の会食を途中で抜けて、莉子を連れて帰ったことで、投資家を怒らせた。そのあと、誰かが謝って回った?——誰もいない。だから資金も降りなかった。どうしても続けたいなら、自分で頭を下げに行きなさい。……そうだ、急いだほうがいいよ。じゃないと、私が開く予定の個展に投資してもらうよう、あの人た
飛行機の揺れにもかかわらず、私は深く眠っていた。目覚めたとき、驚くほど心が軽く、呼吸が澄みわたっていた。——こんなにも身体が、心が自由に感じられたのは、いつ以来だっただろう。入国審査を終えて到着ロビーに出ると、新進気鋭の画家、黒瀬湊(くろせみなと)が笑顔で手を振っていた。この数年、彼は海外で頭角を現し、国内でもその名声は尚吾に肩を並べる勢いだ。「やっとお迎えできましたね、紬さん!」「あなたがマネージャーになってくれたら、僕のキャリアは、間違いなく次のステージに進みます」彼は大きく腕を広げて私を抱き寄せ、フランス式のビズを交わしてくれた。もちろん、それはただの礼儀であることはわかっていた。けれど、不意に訪れたその距離感に、私は思わず頬を染めた。十年連れ添った尚吾は、最後には私に指一本触れることすらしなくなっていたというのに。「長年一緒にいると、夫婦って兄弟みたいなもんだろ?お前に触れると、正直ちょっと気持ち悪いんだよな」そう言われたとき、何かが音を立てて崩れた気がした。私が「妻」でいられたのは、いつまでだったのだろう。気づけば、私は彼の無給マネージャーであり、生活の隅々を支える無料の家政婦になっていた。湊は自らハンドルを握り、私を滞在先の住まいへと案内してくれた。そこはセンスの良い高級レジデンス。備品は整い、専属の家政婦まで付いていた。「ちょっと贅沢すぎて申し訳ない」と言いかけた私に、彼は柔らかく微笑んだ。「一見、僕が損をしているように見えるかもしれません。でも、あなたの時間が浮けば、その分僕の仕事が前に進む。だから、実際には得してるのは僕の方なんです。あなたは、これからの僕のパートナーなんです。些細なことに心をすり減らす時間なんて、使わせたくない」その言葉に、胸の奥がふっと温かくなった。——あの場所では、こんなふうに扱われたことは、一度もなかった。彼のアトリエに着くと、スタッフたちは私をあたたかく迎えてくれた。中には、目を輝かせた若い女性がこう尋ねてきた。「どうやって葉山先生をあそこまで導いたんですか?本当にすごいです!」思わず、息を呑んだ。外から見れば、私の働きはこんなに「価値のあるもの」だったのだ。尚吾のもとでは、どんなに尽くしても、「誰にでもできる仕事」
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