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散りゆく華に夢は醒めず

散りゆく華に夢は醒めず

Par:  舟嶋Complété
Langue: Japanese
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Synopsis

切ない恋

逆転

クズ男

ひいき/自己中

不倫

婚姻生活

結婚して五年目。深村直樹(ふかむら なおき)に愛人ができ、その女は妊娠した。 「智美はつわりが辛くて、酸っぱいものが食べたいんだ」 それ以来、立花青子(たちばな あおこ)は朝六時に起き、出来立ての梅のシロップ煮を作るようになった。 「智美(ともみ)は妊娠線が怖いから、新鮮なバラの入浴剤で毎日入浴したいって」 そうして、プライベートローズガーデンのバラは、青子の指先に刻まれた無数の傷と引き換えに摘まれた。 「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」 青子はカバンの中の検診結果を奥へ押し込み、顔色ひとつ変えずに署名した。 だが今回は、偽の書類を本物とすり替えたのだ。

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Chapitre 1

第1話

誰にも知られることなく続いてきた、六年の結婚生活。

その今夜、橘真澄(たちばな ますみ)は、初めて娘と「高い高い」をした。

五歳になる心羽(こはね)は無邪気に笑いながら、手を振って篠原柚希(しのはら ゆずき)に声をかけた。

「ママ、叔父さんがね、空に飛ばしてくれたよ!」

その光景を見つめながら、柚希の胸の奥には、やり場のない切なさが広がっていた。

それでも、母として微笑みを作る。せめて、この瞬間だけでも、娘の笑顔を壊したくなかった。

真澄は、酔っていた。何をしているのか、自分でもわかっていないのだろう。

彼は心羽を愛していない。柚希のことも。

今夜、彼が機嫌が良い理由はただ一つ―

彼の「本当に愛した人」水原玲奈(みずはら れいな)が、帰ってきたからだった。

六年前、真澄と玲奈は情熱的に愛し合っていた。

だが、ある日彼女は何の前触れもなく姿を消し、彼は彼女を追う途中事故に遭い、下半身不随となった。

柚希は彼の専属秘書として、昼夜を問わず彼の傍に付き添い、怒りも絶望も黙った受け止め、励まし続け、リハビリにも付き合っていた。

そして、ある日。

彼が奇跡のように立ち上がれたその夜、酒に酔った真澄は彼女を玲奈と勘違いし、狂おしいほど何度も求めた。

その夜、柚希は身ごもった。

真澄は責任を取るように、結婚に同意した。

だが、後になってすべてを知った。彼が結婚を決めたのは、責任感でもなく、愛情でもなかった。

彼はただ、海外で玲奈が海外で他の男と交際しているというニュースを見たから、柚希と結婚したのだった。

結婚後の彼は、まるで存在しないかのように、柚希と娘の生活には一切関わろうとしなかった。

心羽が生まれた日、彼はわざと出張を入れ、病院には現れなかった。

娘が言葉を覚え始めた頃、「パパ」と呼ぶことすら禁じた。

心羽がスケートボードでバランスを崩したとき、ただ一度「パパ」と呼んだだけで、彼は冷たい目を向け、彼女が頭を打って血を流す姿を、ただ、見ていた。

……

だが、今夜の彼は、まるで父親そのものだった。

娘を抱っこした後、ソファにそっと下ろし、柔らかな笑みを浮かべた。

「俺、いいパパになるよ」

「うん、心羽はパパを信じてる!」

彼はその言葉を聞いたのか聞いていないのか、微笑みを残したまま背を向け、口元からぽつりと名をこぼした。

「大翔……」

その名は、玲奈の息子だった。

そうか、彼は大翔の「いいパパ」になるつもりなんだ。

柚希の心が、氷のように冷たく凍りついた。

けれど、心羽はその名前には気づかず、満面の笑みで柚希のもとへ走り寄ってきた。

「ママ、パパって私のこと好きなんだよね?もう『パパ』って呼んでいい?

だってね、抱っこしてくれたし、『いいパパになる』って言ってくれたんだよ!」

その瞳には、希望と憧れが宿っていた。

他の子どもたちのように、パパの胸に飛び込んで、甘えたい。それが心羽の、ささやかだけれど、ずっと抱いてきた願いだった。

柚希は娘を抱き寄せ、込み上げる涙を必死に堪えた。

娘には、この一瞬の幸せが、他の「おばさん」とその息子のおかげだなんて、絶対に知られたくなかった。

「心羽……ママと一緒に、この家を出ようか?」

「え……なんで?」心羽の笑顔は一瞬にして消え、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。

「だって……私たち、家族でしょ?パパと一緒にいたいのに……」

柚希は娘の涙をぬぐいながら、震える声で答えた。

「おじさんの本当に好きな人が、帰ってきたの。だから、もうここにはいられないの」

「でも……パパ、私のこと好きって言ってくれたのに……」その声はだんだん小さくなっていった。

きっと心羽自身も気づいているのだ。真澄が、自分を愛していないということに。

「ママ……お願い。誕生日までは待ってて。パパにあと数回だけ、チャンスをあげよう?パパが本当に私たちを好きになってくれるかもしれない。もし、そうなったら、この家に残ろう……」

柚希は涙をこぼしながら、静かに頷いた。

「うん。何回チャンスをあげるかは、心羽が決めていいよ」

そう、最後のチャンスをあげよう。

それでも彼が変わらなければ、きっと彼女たちは、永遠に彼の世界から姿を消すことになるだろう。

「うん、ありがとうママ!」

「そろそろ寝る時間よ」

娘を寝かしつけたあと、柚希は静かに自分の部屋へ戻った。

もうこの結婚に、形だけの意味すらない。繕うべき関係も、もう残っていない。

翌朝。真澄は目を覚まし、階下に降りてきた。

心羽は朝食中で、彼を見るなり、嬉しそうにパンを置いて駆け寄ってきた。

「パパ、おはよう!」

その瞬間、真澄の顔が冷たく曇る。

「今、なんて呼んだ?」

心羽の小さな腕が空中で止まり、表情が凍りついた。

「おじさん……ごめんなさい、おじさん……」

柚希は感情を押し殺して娘を抱き上げた。

「さ、朝ごはん食べようね。学校、遅れちゃうよ」

真澄の態度は何も変わっていなかった。

昨日の優しさは、玲奈が帰ってきた嬉しさと酒の勢いに任せた、ただの気まぐれ。

真澄は少し表情を和らげ、ダイニングでコーヒーを一口すすると、何の挨拶もなく家を出て行った。

「おじさん、いってらっしゃい!」

心羽はいつものように、背中に向かって声をかけた。

けれど、真澄は一度も振り返らなかった。

登校途中、心羽はずっとうつむいたままだった。

学校が近づく頃、彼女はふと顔を上げ、柚希を見つめながら小さく言った。

「ママ……これで、一回目だよね?あと三回だけ、チャンスあげようね……」

その瞳には、静かに涙が浮かんでいた。

柚希は、心が張り裂ける思いでその姿を見つめ、優しく微笑みながら答えた。

「うん。心羽の言うとおりにしようね」

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第1話
結婚して五年目。深村直樹(ふかむら なおき)に愛人ができ、その女は妊娠した。「智美はつわりが辛くて、酸っぱいものが食べたいんだ」それ以来、立花青子(たちばな あおこ)は朝六時に起き、出来立ての梅のシロップ煮を作るようになった。「智美は妊娠線が怖いから、新鮮なバラの入浴剤で毎日入浴したいって」そうして、プライベートローズガーデンのバラは、青子の指先に刻まれた無数の傷と引き換えに摘まれた。「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」青子はカバンの中の検診結果を奥へ押し込み、顔色ひとつ変えずに署名した。だが今回は、偽の書類を本物とすり替えたのだ。……青子が到着した時、彼女の夫である深村直樹は、愛人・林智美(はやし ともみ)の胎内にいる赤ちゃんに一生懸命話しかけていた。智美は直樹の膝の上に座り、親しげに彼の首に腕を回している。直樹の片手が、女の膨らんだお腹にそっと触れた。その口調は限りなく優しかった。「いい子だ、早く大きくなっておくれ。生まれたら、お父さんと一緒にお母さんを守ろうな、いいか?」智美は照れくさそうに言った。「まだ生まれてもいないのに、男の子か女の子か、どうして分かるの?」直樹は笑いながら彼女の鼻を軽くつまみ、目尻を下げて甘やかすように言う。「息子でも娘でも、俺の一番可愛い子に変わりはないさ」二人の戯れ合う様子を眺めながら、青子の表情は静まり返っていた。心の内も、もはや揺るがない。彼の心痛、彼の寵愛、彼の気遣いや優しさの全てが智美に注がれている光景を、何度も見すぎた。青子の心は、痛みからすっかり麻痺へと変わっていた。だから、もうどうでもよかったのだ。智美が昼寝した後、ソファに座って待つ青子を直樹は一瞥した。男の淡い琥珀色の瞳は、たちまち冷たさを帯びた。「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」青子は顔を上げ、じっと彼を見つめた。やがて、まるですべてを受け入れたかのような、諦観に似た笑みを浮かべて言った。「ええ、いいわよ」すると、書類が一枚、ぞんざいにテーブルに放り出された。青子のあまりにも平静
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第2話
直樹の低く重い声が、青子の足を止めた。男は冷たく命じる。「智美が腰痛で寝つけない。お前、来い」青子は驚いた。「彼女の腰痛が、私と何の関係があるの?」「お前、以前よくおばあさまのマッサージをしてただろう?お前の手つきが一番いいんだ。智美のマッサージをしてやれ」その言葉に、青子は怒りで笑いが込み上げた。「直樹、つまり彼女は目上の方よりも偉いと?私が彼女に仕えろと?」次の瞬間、直樹は怒りを帯びた。「青子、なぜそんなに意地汚いんだ?智美は何しろ妊婦だ。ケアと気遣いが必要なんだ。マッサージくらいしたらどうした?」そう言うと、彼はもう一度、行くよう命じた。積もり積もった怨念が胸の奥で渦巻く。青子は手に持った離婚協議書を見つめ、ためらうことなく背を向けた。もう離婚したのだ。恥知らずな愛人の世話をする理由などない。かつては、直樹の情と、深村家が自分を受け入れてくれた恩義にすがって、彼女は黙って耐え、何度も自分に妥協するよう言い聞かせてきた。林智美が子供を産むまで待てば、すべてが終わると。だが、直樹が智美を喜ばせようと、離婚協議書を突きつけたあの瞬間、たとえ偽物だと分かっていても、自分が完全に負けたことを悟ったのだ。直樹は子供のためだけでなく、智美に本気で心を奪われている。だから、子供も、直樹も、彼女はもういらない。階段口にたどり着く前に、スーツ姿の男たちが数人、駆け寄って彼女の行く手を遮った。「奥様、旦那様がお戻りになるようおっしゃっております」断る間もなく、男たちは「どうぞ」と手で促す。青子に抵抗する力はなく、またしても直樹の部屋へ引き返した。そこには、涙を浮かべた智美の姿だ。直樹の叱責が容赦なく浴びせられる。「言っただろう?智美が腰を痛めて、お前のマッサージが必要だって。青子、お前は本当に図に乗ってきたな」青子は聞いているのも嫌で、一刻も早く離れたかった。だから、袖をまくり上げると、智美の方へ歩み寄った。「横になって」三十分ほど経つと、青子は痛んだ手首を揉みながら、無表情で直樹を見た。「これでいい?」だが直樹は智美の方を見た。彼女がほんのわずかに眉をひそめただけなのに、直樹は沈んだ声で言った。「続けろ」さらに一時間。青子の手首は刺すような痛みで震えていた。片方の手を離して
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第3話
直樹の顔色が一瞬で変わった。智美を横抱きにすると、そのまま外へ向かって歩き出した。丁度出口を塞ぐ位置にいた立花青子。「どけ!」乱暴に押され、彼女の肩がドア枠にぶつかった。鋭い痛みが走り、思わず息を呑む。顔を上げた時には、直樹の背中は部屋の奥深くに消えていた。青子は肩を押さえ、心に溢れかえる苦さを必死に飲み込んだ。「大丈夫……離婚の手続きが済むまであと三十日。あと少しで、完全に解放されるんだから……」青子は放心状態で外へ出ようとした時、直樹の二人の護衛が揃って彼女の行く手を遮った。「夫人、旦那様がおっしゃいました。お戻りになるまでお待ちくださいと。林智美様がご無事と確認されるまで、お帰りになれません」青子は時計を見て、怒りを瞳に浮かべた。「どいて。私には大事な用事があるの」だが、護衛の屈強な腕が、彼女を無理やり押し戻した。数分後、彼らに連れられて青子が到着したのは、直樹の別荘だった。直樹が玄関先に立ち、表情は暗雲立ち込めるほどに険しい。「智美が流産の危険があったんだ。赤ちゃんを危うく失うところだった。これがお前のやったことだ」「直樹、彼女が演技してるのが分からないの?わざと私を陥れようとしてるのよ。私がどんなに狂ってたって、子供の命を弄ぶような真似はしないわ」直樹の表情は幾度か揺れ動いたが、最後に冷たく言い放った。「それがどうして分かる?」青子の、すでに麻痺していた心臓が、一瞬で針で刺されたように激しく疼いた。以前なら、彼は無条件に彼女を信じてくれた。でも今は……智美の稚拙なでっち上げを。ただ彼が彼女を愛しているがゆえに、目も心も見えなくなっているのだ。青子は首を振り、声にならない笑いを漏らした。「もういいわ。あなたが信じようと信じまいと、どうでもいい。私には大事な用事があるの。行かせて」「待て!」直樹は青子の手首を掴んだ。「行かせるわけにはいかない。今回の件で、お前にもしっかり教訓を刻み込んでやる」そう言うと、彼は青子の手を強く引っ張り、別荘の地下室へと引きずり込んだ。「智美は静養が必要だ。一週間、ここから出ることは許さん。彼女の気が済むまでな」暗闇に包まれた空間を見た瞬間、恐怖が青子の脆い心臓を直撃した。あの大火事の時、青子を守ろうとして、両親は彼女を浴室に
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第4話
青子は夢を見た。辺り一面の炎。二つの温もりが彼女を必死に抱きしめ、灼熱の焔から守っていた。かつて愛らしかった母の顔が、焼け焦げるにつれ、肌がひとかけらひとかけら黒く剥がれ落ち、無残な肉を露わにしていく。父の大きな背中は、彼女を守るため、引き裂かれるような痛みに耐えていた。硬い骨と肉が、炎の中で「じゅうじゅう」と音を立てている。濃い黒煙が喉に流れ込む。青子はまるで鋭い刃で切り裂かれたように、涙が雨のように流れるほどの痛みを感じた。気がつくと、彼女は目を見開いていた。周囲は漆黒の闇。窒息感が全身を襲い、閉所恐怖症が再び発作を起こした。必死に意識を保ちながら這い上がり、ドアの傍までたどり着く。最後の力を振り絞って、ドアを叩いた。だが、手のひらが真っ赤になるまで叩き続けても、その扉は微動だにしなかった。青子は狂ったように指先で狭い隙間をかきむしり、ほんの少しの息をつく間を求めようとした。無力感は絶望へと変わり、十本の指は血と肉でぐちゃぐちゃになった。結局、泣きながら傷だらけの指で、直樹にメッセージを送るしかなかった。【直樹……私が悪かった。お願い……出して……】しかし、メッセージの前の送信マークがぐるぐる回り続け、ついに【送信失敗】と表示された。その時、またもやめまいが襲ってきた。青子は床に丸まり、苦しそうに体を抱きしめた。「来ないで……来ないで……置いていかないで……お母さん……お父さん……置いていかないで……」彼女の声は次第に弱まり、やがてかすれた嗚咽へと変わった。……青子は、光の射さない地下室で三日を過ごした。ようやく、光がドアの隙間から差し込んできた。救いを得たと思い、涙で濡れた顔で彼女は這い寄った。しかし、逆光の中に立っていたのは、食事を運びに来た家政婦の田中だった。「出して……お願い……出して……」ところが、田中は腕を組み、見下すように彼女を睨みつけた。冷笑が漏れた。「奥様、そのお姿、まるで野良犬のようじゃありませんか。どうやらこのお屋敷にも、もう長くはいられそうにないですね。間もなく林様が新しい深村家の奥様になられることでしょう」智美が彼女の結婚生活をめちゃくちゃにしただけでなく、家の使用人までをこれほど図々しくさせている。青子はその瞬間、深い悲しみに襲
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第5話
一週間後、地下室の扉がようやく開かれた。直樹は目の前の光景に思わず息を呑んだ。青子は部屋の隅に縮こまり、髪はぼさぼさで顔は垢まみれだった。後頭部の髪は生臭い血で固まり、黒ずんだ塊になっている。彼女の瞳は虚ろで光を失っており、直樹が何度か呼びかけても、まったく反応を示さなかった。罪悪感と胸の痛みで直樹は眉をひそめ、青子をそっと抱き上げて地下室から連れ出した。外に出たところで、智美とばったり出くわした。彼女の目には心配の色がにじんでいる。「直樹、青子さん、ご無事ですか?」直樹は首を振り、彼女の横を素通りした。その後数日間、直樹は青子のそばを離れず、付きっきりで世話をした。おそらく罪悪感からだろう。あるいは、青子のあまりにもおびただしい状態に衝撃を受けたのかもしれない。いずれにせよ、彼の胸の奥にはかすかな悲しみが漂っていた。薬物の効果と心理カウンセラーの治療により、青子はゆっくりと回復していった。ある日、直樹が点滴に付き添っていると、青子はまたしても悪夢にうなされて飛び起きた。「やめて!」直樹が慰めようと近づいたその時、病室のドアが智美によって押し開かれた。彼女は大きなお腹を突き出し、腕にはユリの花束を抱えている。「青子さん、お見舞いに参りました」直樹は青子をなだめようと差し出した手をゆっくりと引っ込め、代わりに智美の方を歩み寄って支えた。「智美、妊娠中だろう?どうして一人で来たんだ?また流産の危険があったらどうする」智美は気遣うふりをしてベッドサイドに近づき、青子の手を握った。「青子さんが地下室でおびえて、精神的に不安定だと聞いて……心配で眠れなくて、つい来てしまいました」その偽りに満ちた、吐き気を催すような顔を見つめながら。青子は彼女が抱えるユリの花束に目をやり、冷たく手を引っ込めた。声には氷のような冷たさがあった。「そんな芝居は結構よ。見てるだけで吐き気がする。私が花粉症だって知らないの?花なんか持ってきて」彼女は花粉症で、花に触れると全身に蕁麻疹が出る。ひどい時には呼吸困難や嘔吐を引き起こす。だが、直樹は気に留めなかった。智美の悪意は計算されていたのだ。智美は硬直し、直樹を泣きそうな目で見つめた。「直樹……知らなかったの。私、善意で来たのに……青子さんに誤解
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第6話
青子は智美の前に立ち、九十度に腰を折って深々と頭を下げた。「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。あなたのお腹を押したり、お怒りに触れたりするべきではありませんでした」智美は仰天した。「青子さん?どうなさったんですか?私がこんなこと受けていいわけないじゃないですか。まだ私のことをお怒りなんですか?謝るべきはこちらの方です」青子は答えず、直樹の方を向いた。「これでいいわね?」直樹の表情に不安がよぎった。「ああ……じゃあ、俺がついていって……」その言葉が終わらないうちに、智美が胸を押さえて空嘔きをした。直樹の顔色が曇り、視線は青子を素通りして智美に釘付けになった。「智美?どうした?」彼が自分に背を向ける様子を、青子は涼やかな笑みを浮かべて見つめた。両親が亡くなってから、毎年直樹は彼女を供養に連れて行ってくれた。だが、今年はもう無理だろう。青子は無表情で彼の横を通り過ぎた。直樹が青子の手を掴もうとした手は、かすかな空気だけを掴んだ。病院の外で、青子はタクシーを拾い、墓地へと直行した。ちょうどその時、空はしとしとと小雨を降らせ始めていた。稲妻が一閃し、空は重苦しいほど陰鬱だった。傘を持っていなかった青子は、両親の墓石の前に立ちつくした。雨は次第に激しさを増していく。「お父さん、お母さん……ごめんなさい。幸せに生きることができませんでした。でも安心してください。もうすぐ、こんな日々から抜け出せますから」両親の墓前で泣きたくなかった。しかし、長く積もり積もった屈辱が、津波のように彼女を飲み込んだ。結局、青子は溢れ出る涙を止められなかった。別荘に戻った時、青子は直樹の寝室の前を通りかかった。ドアの隙間から温かな明かりが漏れ、直樹の優しく諫める声が聞こえてきた。「智美、ダメだ。お前、妊娠中だろう?」「大丈夫よ、優しくしてくれれば……欲しいの。それに調べたんだけど、妊娠中も適度な運動は赤ちゃんにもいいんだって……」間もなく、あえぎ声と甘えた声が途切れ途切れに響き始めた。青子は淡々と視線を外し、寝室を無視して客室へと歩を進めた。数日後、雨に濡れたせいか、青子は高熱を出し続けていた。何度も注射を打たれたが、なかなか治れなかった。ある日、彼女はベッドでうつらうつらしていた。見る夢は、
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第7話
直樹は激怒し、青子が薄手のパジャマ姿であることすら構わず、彼女の腕をぐいと掴み、外へ引きずり出そうとする。「ひっ!」激しい引っ張りで彼女のスリッパが脱げ、鋭いガラス片が足の裏に刺さった。「直樹、ちょっと待って……!」しかし彼は彼女の抵抗など全く意に介さず、怒りに任せて引っ張り続けた。青子は一歩踏み出すたびに、刃の上を歩くような痛みが走った。車に乗り込んだ時、彼女の足は血まみれで、ガラス片は肉の奥深くに食い込んでいた。彼女は歯を食いしばって怒鳴った。「直樹、あなた、気は確かか!?」直樹はルームミラーで彼女を睨みつけた。その目には怒りが渦巻いている。「お前、今日こそ俺と智美にきちんと釈明しろ」すぐに病院に着いた。VIP病室には人がいっぱいだった。青子が一瞥すると、深村家の主立った人間が勢揃いしている。彼女をここまで引っ張ってきたのは、まさしく詰問するためだった。直樹の祖母が真っ先に不快感をあらわにし、手にした杖を「トン、トン、トン」と床に叩きつけた。「まったくもってけしからん!智美が二度も流産の危険にさらされるとは!立花青子、あなた、一体どういうつもりで世話をしていたんだ?」青子は心底呆れ返った。「何ですって?私は深村家の家政婦ですか?彼女の世話?厚かましくも家に上がり込んだ愛人の?」この言葉が智美の痛いところを突いた。彼女の顔色は一気に青ざめ、骨のないようにふにゃりと直樹の胸に倒れ込み、泣き始めた。「青子さん……私、あなたがそんなに私を嫌っていらっしゃるなんて……ごめんなさい、ごめんなさい……私、直樹とあなたの間に割って入るべきじゃなかった……」そう言うと、彼女は虚弱な体を必死に起こして去ろうとした。この一連の行動に深村家の面々は仰天し、口々に止めようとした。「智美、そんなに興奮したらダメだ!お腹の子が心配だよ!」「そうだよ、落ち着いて、体が大事だ。彼女みたいに子も産めない女とは違うんだからな。まったくもって罪作りだ」直樹の妹も口を挟んだ。「そうよ、智美、怖がらないで。私がついてるから。立花青子は両親が早死にしたから、ろくに躾もされてないんだ。あんな者を相手にするなよ」これまでの侮辱や嘲笑は、青子にとって痛みを伴わなかった。何度も聞かされ、何度も傷ついてきた。心の傷はす
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第8話
棘のある藤蔓が、青子の背中を容赦なく叩きつけた。瞬間、鋭い棘が数本の深い血溝をえぐり、血がどくどくと湧き出た。それでもなお、青子は歯を食いしばり、死んでも謝ろうとしなかった。ビシッ!さらにもう一鞭。皮膚と肉がめくれ上がり、血痕が目を覆いたくなるほど痛ましい。彼女が顔を上げ、深村家の醜い面々をじっと睨みつける。「死んでも謝らないわ。私の両親を侮辱させない。それに林智美なんて、愛人の分際で私が世話する価値があるとでも?」「悔い改める気など微塵もないか!」この一撃は前よりもさらに苛烈だった。棘が引っかかる際に、青子の肉の一片をそぎ落とした。彼女はついに堪えきれず、うめくような声を漏らした。直樹は拳を固く握りしめ、眉間に慌ての色が走った。「おばあさま、もう十分です。彼女も分かって……」しかし青子は笑った。それはあからさまな嘲笑の音だった。「そんな偽善的な真似はやめてくれ、深村直樹。あなたの情けなどいらない。安っぽくて笑止千万だわ」彼女は鬼のように頑なだった。直樹の胸の痛みは笑いもの同然だった。自尊心が傷つき、彼は鼻で笑った。「青子、お前は本当に身の程知らずだな。よし、もう知らん!」そう言うと、怒りで背を向けた。この午後いっぱい、青子は合計三十五鞭を受けた。智美の子供が、ちょうど妊娠三十五週目を迎えたからだ。青子がその場を離れた時は、医者に支えられてようやく歩ける状態だった。血で完全に染まったシャツを脱がせると、薬を塗る看護師は思わず息を呑んだ。「どうして……こんなに?お肌がひどく傷ついています……治るまで何ヶ月もかかるでしょう」彼女の目には心配の色が溢れ、息を吹きかけながらそっと消毒液を塗布した。「ひどすぎる……これは明らかなDVです。警察に通報すべきです」見知らぬ若い看護師でさえ、青子にこれほどの同情を示した。しかし直樹は、青子が罵られ、辱められ、鞭打たれるのを冷ややかに見ていただけだった。結局、愛している時は胸が痛み、愛が消えれば心は硬くなるのだ。骨の髄まで響く痛みをこらえ、青子は静かに口を開いた。「結構です。私は彼らに借りがあった。今、返し終えました。もうすぐ、ここを離れられます」「離れる?どこへ行くつもりだ?」冷たい声が入り口に響いた。直樹が歩み寄り、青子の手
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第9話
「どけ。言ったはずよ、死んでも謝らないって」青子の冷たく硬い声には、かすかな失望が潜んでいた。直樹にはそれが聞き取れず、彼女の強情さに腹を立てた。「ああ、もういい!青子、お前は強情だな!俺が余計なお世話だったよ!二度と俺に頼ってくるなよ!」そう言うと、直樹は逆上して立ち去った。彼が去ると、青子は思わず下腹部に手を当てた。お腹から鋭い痛みが走ってきた。「先生……お腹が、すごく痛いんです……」彼女はそう言うと同時に、冷や汗が止まらなかった。痛みで体が微かに痙攣する。若い看護師は驚いて、慌てて彼女を支え、医師の診察室へと運んだ。……その夜、意地になって直樹は、青子からの何十本もの着信をことごとく切った。手術が終わった青子は、独りきりでベッドに横たわり、点滴を受けていた。冷たく刺すような薬液が、無数の刃となって血管に流れ込み、全身へと広がる。その痛みに彼女は震えた。疲れ切っていた青子は眠りに落ちた。目を覚ますと、点滴はすでに終わっており、逆流した血液でチューブ全体が不気味な真っ赤に染まっていた。手の甲は刺すように痛み、二筋の涙が突然こぼれ落ちた。直樹は、結局、彼女を裏切ったのだ。わずか一日休んだだけで、青子は別荘に戻った。自分の寝室を見て、彼女は初めて知った。智美が安産できるように、直樹が彼女を連れてきて主寝室を占拠し、自分は客室へと追いやられていたのだ。青子はドア枠に手をかけ、弱々しく笑みを浮かべた。「ちょうどよかった。離れることを隠す手間が省けるわ」そう言うと、よろよろと客室へ歩き、うつむきながら自分の荷物をまとめ始めた。一通り見渡すと、青子の持ち物は服数着を数えるほどしかなかった。これまで深村家で、彼女は付属物のような存在だった。だからこそ、誰もが彼女を侮ったのだ。だが、彼らは皆忘れている。彼女がかつては輝かしい立花家の令嬢であり、家柄も容姿も抜きんでていたことを。林智美のような女が、どうして彼女の敵であろうか。今は昔とは違う。青子は悟った。もうノウゼンカズラのように誰かに寄りかかるのはやめよう。自分の天地を切り開くのだ。荷造りを終え、青子の視線は薬指のダイヤの指輪に落ちた。この「愛の戴冠式」を象徴する指輪は、直樹が自らデザインしたものだった。彼女が彼の女王
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第10話
智美は機嫌が悪く、甘えて直樹に旅に連れて行ってほしいと頼んだ。直樹は即座にハワイ行きのクルーズ旅行を予約し、ついでに深村家の主治医と家政婦の田中も同行させることにした。出発前に、直樹は青子からの着信を十数回拒否した画面を見つめ、静かにため息をついた。【智美の機嫌が優れなくて、旅行に行きたいらしい。お前も行くか?】長い長い間、青子からは返信がなかった。一瞬和らいだ直樹の表情に、すぐに一抹の不満が浮かんだ。【青子……俺がわざわざ頭を下げてなだめに来ているのに、お前、返信すらしないのか?】さらに一時間が過ぎても、メッセージの画面は変わらず無反応のままだった。腹を立てた直樹は「バン!」とスマホを叩きつけ、怒りに満ちている。ちょうど寝室から出てきた智美は、彼の様子を見て、柔らかく彼の胸に寄りかかった。「直樹、どうしてそんなに怒ってるの?」「あの立花青子だ。親切にクルーズに誘ったのに、メッセージすら返さない。本当に、どんどん図に乗ってくる」智美は彼の逆上した様子を見て、眉をひそめた。それでも、優しく気遣うふりをして言った。「青子さん、おばあさまに罰せられて、気分も良くないんでしょう。私が直接お誘いに行きましょうか?ついでに謝っておきますから」直樹の感情はたちまち和らぎ、智美をぎゅっと抱きしめた。「青子がお前の半分でも思いやりがあればなあ……まったく!」「そんなこと言わないで。青子さんはお育ちがいいんですから、それなりの誇りをお持ちなのよ。だからおばあさまの威厳も恐れないんです。私みたいに、身分が卑しくて、どこに行っても人の庇護のもとで暮らす者とは違いますから」彼女の言葉は直樹の胸を痛ませると同時に、祖母に逆らった青子のあの強情さをますます嫌悪させた。男なら誰だって、柔らかく優しい女が好きだ。なのに彼女はいつも、ことごとく彼に逆らう。「お前が彼女の肩を持つことはない。あいつは罰せられて当然だ。この数日間、しっかり教訓を刻み込まれてちょうどいい。そうでもしなきゃ、この家はいつまで経っても青子の天下のままだ」そう言うと、直樹はうつむき、メッセージの画面から完全に離れた。……翌朝早く、直樹は智美を連れて空港へ向かった。まずハワイへ飛び、そこからクルーズ船に乗る予定だった。飛行機から降りた直後、智
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