Se connecter結婚して五年目。深村直樹(ふかむら なおき)に愛人ができ、その女は妊娠した。 「智美はつわりが辛くて、酸っぱいものが食べたいんだ」 それ以来、立花青子(たちばな あおこ)は朝六時に起き、出来立ての梅のシロップ煮を作るようになった。 「智美(ともみ)は妊娠線が怖いから、新鮮なバラの入浴剤で毎日入浴したいって」 そうして、プライベートローズガーデンのバラは、青子の指先に刻まれた無数の傷と引き換えに摘まれた。 「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」 青子はカバンの中の検診結果を奥へ押し込み、顔色ひとつ変えずに署名した。 だが今回は、偽の書類を本物とすり替えたのだ。
Voir plus「火事だ!火事だ!早く消火しろ!」茶畑は大混乱に陥っていた。智美は狂人のようにガソリンを撒き散らし、火をつけ回る。たちまち、空は煙に覆われ、火の粉が飛び散った。祝賀会に来ていた賓客たちは逃げ惑い、散り散りになった。青子は先頭に立って火の中へ飛び込んだ。茶樹を救わねばと、必死で水をかけて火を消そうとする。茶畑は山腹にあり、消防隊がすぐに入れないため、人力で消火するしかなかった。その時突然、誰かにぐいと腕を掴まれた。直樹が心配そうな顔で言った。「青子!もうやめろ!早く逃げるんだ!」「ダメなの!この茶樹は作業員たちが心血を注いだもの!私の手でダメにさせられない!」「放して!消火しなきゃ!」火の手がみるみる広がるのを見て、直樹は屈み込み、必死に水を撒く青子を担ぎ上げた。「青子……お前の命は、茶葉よりずっと重い。すまない……お前を危険に晒すわけにはいかない」彼は青子を担いだまま、外へ向かって全力で駆け出した。茶畑の出口に辿り着こうとしたその時。突然、ガソリンが彼らの目の前にばしゃりと撒かれた。「止まれ!!!」智美がライターを握りしめ、二人を睨みつけている。直樹の表情が強張る。「林智美……本気で狂ったのか?どけ!」しかし智美は口元を歪め、身の毛もよだつ不気味な笑い声をあげた。「その汚い女を下ろせ。さもなきゃ……二人まとめて焼き殺してやる」「待て!軽率な真似はするな!」直樹が青子を下ろすと、智美はようやく満足げな表情を浮かべた。彼女は片手にガソリン缶、片手にライターを持ち、直樹を見据えた。「彼女を愛してるって言うくせに、私と寝たじゃないか。深村直樹、あなたが彼女を愛してるなんて信じない。今、選べ!」「一つ、立花青子をここに残し、お前だけが出ていくか」「二つ、このガソリンをお前自身の体に浴びせろ。そしたら立花青子を逃がしてやる」青子の瞳が大きく見開かれた。恐怖で智美を見つめる。「林智美……これがどれだけ重い罪かわかってるの?私たちを出して。まだやり直せる余地はあるわ」しかし彼女は聞き入れず、直樹をじっと睨み、彼の選択を待った。自分が手に入れられぬものは、誰にも渡さない。直樹に騙され、みすぼらしい姿に落ちぶれた自分が、彼を安穏とさせておくはずがない。智美は手を伸
智美は狂っていた。彼女はガソリンを抱えて茶畑に乱入し、至る所に火を放った。たちまち、彼女の背後は火の海となった。その怨念に満ちた目が青子を捉えた時、そこには尽きることのない憎悪がほとばしっていた。「立花青子……お前と心中してやる……!」「お前の全てをぶち壊してやる!なぜあの人の愛を独り占めできる!なぜ深村の奥様でいられるんだ!私だけが……なぜダメなんだよ!!」智美は悪鬼のように歪んだ顔つきで、ガソリンを茶樹の上へ、見学に来ていた賓客たちの身体へと撒き散らした。……ついさきほど、智美はようやく直樹と対面し、感激のあまり涙を流していた。彼に抱きつき、鼻水と涙を彼の服に擦りつけながら、「直樹……私を置いていかないで?お願い?」と懇願した。しかし直樹の目にあったのは、嫌悪と反感だけだった。彼は智美を押しのけ、冷たく距離を置いた。「林智美……言ったはずだ。二度と俺の前に現れるな、青子の邪魔もするなと」智美は納得できなかった。ようやく手にした豪門への片足を、こんな結末で終わらせるわけにはいかない。彼女はやけになって服を脱ぎ始め、直樹の身体にすり寄った。「頭おかしいのか!?」直樹は彼女を強く地面に押し倒し、目には恐怖さえ浮かんでいた。ところが智美は狂ったように、彼に向かって叫び、罵声を浴びせた。「深村直樹!この薄情なクズ野郎!あなたは言ったじゃない!私を愛してるって!欲しいものは何でもくれるって!それに立花青子と離婚して、私を深村の奥様にしてくれるって!どうして……どうして私にそんなことするの!この子はあなたの血を引いた子供なのに!」すると、直樹の声は低く沈み、瞳の奥に陰鬱な光が宿った。彼は智美の襟首をつかみ、耳元に引き寄せると、悪魔の囁きのような声で言った。「林智美……俺はお前を、最初から最後まで愛したことなど一度もない。青子に子供がいなかったからこそ、お前と寝ただけだ。だからたとえこの子が俺の子だとしても、青子が深村の奥様でなくなるなら、そんな子供は要らん」「そして離婚だ?あの時青子に書かせたのは、偽の離婚協議書だ。ただお前を喜ばせ、無事に子供を産ませるための方便に過ぎん」「深村の奥様になりたい?一生、夢を見続けろ。たとえ青子がいなくなっても、お前の番が回ってくることなど、永遠にあり得ん。
祝賀会は夕刻に予定されていた。それに先立ち、青子は複数のメディアと取引先を連れ、自社が栽培する茶樹の見学ツアーを案内していた。これらの茶樹は、丹念に育てられた最高級品種だ。水質も土壌も、茶を育むのに最適な環境が整えられている。ほんのわずかな酸度アルカリ度の偏りでも、出来上がる茶葉の品質は落ちてしまう。だからこそ青子は細心の注意を払っていた。見学が始まる直前、直樹が彼女にひとこと声をかけた。今や彼は、青子にしつこく絡む考えを完全に捨てていた。おそらく、絡み続けることがただ彼女の煩わしさを増すだけだと悟ったのだろう。直樹は常に遠くから、静かに彼女を見守っていた。彼女の成功、彼女の名声。心の底から、彼は彼女のことを喜んでいた。彼女は再び、あの高貴でありながらも驕らず、凛とした立花青子を取り戻したのだ。人々の目に輝いて映る、お嬢様に戻ったのだ。「成功を収めて、おめでとう」青子は微笑んだ。心のわだかまりはとっくに解けていた。彼女は直樹の差し出した手を握り返した。「ありがとう!」うつむいたその時、彼女は直樹の薬指に目を留めた。二人の結婚指輪が、そこにはめられていた。『愛に冠を』と名付けられた、宝石をあしらったあの指輪だ。彼女の視線を察すると、直樹は無意識に手を引っ込めた。青子に、今さら自分の気持ちを誤解されたくなかった。もはや、彼女の彼に対する感情は完全に崩れ去っていた。彼にできることは、ただ数えきれないほどの思い出の中で日々を過ごし、それによって心の奥底にある後悔を、少しずつ減らしていくことだけだった。青子は何も言わず、彼と簡単に別れを告げると、茶樹の茂みの中へと歩いていった。彼女はカメラの前で、自信に満ちた堂々とした態度で自社の製品と会社を紹介した。全てが良い方向へと進んでいるように見えた。その時突然、一声の悲鳴が、全ての人の視線を集めた。少し離れた場所で、よろめくような人影がこちらへと全速力で駆け寄ってくる。近づいてみると、女は巨大なバケツを抱えていることがわかった。バケツからは、むせ返るような強烈な臭いが漂ってきた。「何の匂いだ?」「こ、これは……ガソリンじゃないか?」「あっ!見て、その手には……!」
わずか半年で、青子の茶畑は新たに一箇所増えた。彼女は祝賀会を開き、業界の友人や取引先を多く招待した。直樹は言うまでもなく、招かれざる客だった。しかし青子が予想だにしなかったのは、智美まで現れたことだった。彼女は警備員に門の外で止められていた。どこから来た借金取りかと思われるほど、みすぼらしい身なりで、顔は埃まみれだった。妊娠後期の人工流産のため、彼女の体は極端に弱り、むくみ、憔悴しきっていた。彼女は青子の名前を呼んで面会を要求した。青子が現れた時、彼女の見る影もない姿に思わず息をのんだ。「何しに来たの?」智美は絶望的な表情で青子の手を掴み、震えが止まらず、涙を雨のように流した。「謝りに来たの……青子さん……私、間違ってたってわかったの……直樹に、私の逃げ道だけは残しておくよう言ってくれない?今じゃどこの会社に行っても断られて……誰も雇ってくれないんだ」青子は彼女の手を振りほどき、一片の同情も見せなかった。「それはあなたと深村直樹の問題でしょう?私に言われても」「でも……彼は私のせいで、青子さんが彼を許さないんだと思い込んでるの!だから私を追い詰めてる……お願い、助けて……!」そのみすぼらしい姿を見て、青子はかつて自分が地下室に閉じ込められ、閉所恐怖症による窒息感や精神的プレッシャーに耐えていた日々を思い出した。あの時、彼女だって誰かに助けてほしかった。しかし智美は助けるどころか、家政婦をそそのかして彼女を奈落の底へ突き落とす手助けをしたのだ。今になっても、青子はあの日の絶望と苦痛を鮮明に覚えている。今では症状は治まっているが、後頭部には当時の傷跡が残ったままだ。ましてや、智美が仮病を使って彼女に三十回以上の鞭打ちを負わせたことなど。今でも、彼女の背中には恐ろしい傷跡が刻まれ、背中の開いたドレスを着ることは永遠にできなくなってしまった。「林智美……あなたがこんな姿になるのは、全て自業自得よ。私は助けられない」青子は表情を険しくした。しかし智美はしつこく食い下がった。「青子さん……じゃあせめて、直樹に一度だけ会わせて!一度だけでいい!お願い!中に入れてくれなきゃ、ここで頭を打ちつけて死んでやる!」周囲に人が集まり始めるのを見て、青子は彼女が邸宅全体の宴の雰囲気を壊すのを望まなかっ