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第8話

Auteur: 水瀬 透羽
メッセージの嵐——

その送り主が誰かなど、見なくても分かっていた。

尚吾。

【紬、なんのつもりだ?弁護士経由で離婚なんて】

【よくもそんな真似ができるな。お前が今の暮らしや仕事を手にできたのは誰のおかげだと思ってる?】

【まさか本当に離婚する気じゃないだろ?本人が顔を出さないのはおかしい】

【それに……そのプロフィール写真、何?俺の気を引くために変えたんでしょ?俺が絵を描くのに夢中で気づかなかったからって、そんな大げさなことしてまで、注目されたかったの?】

画面いっぱいに並んだ言葉の数々。

私はそのひとつひとつに、もはや何の感情も湧かなかった。

——この人を、かつて心から愛していたなんて、今ではもう信じられない。

私は、ただ淡々と返した。

【弁護士から送った離婚協議書、よく読みなさい。あなたの署名はすでに入っている。残っているのは手続きだけよ】

その直後、スマホが震えた。再びの着信。

でも私は出なかった。

旅の疲れが残る体をそのままバスルームへ運び、湯を浴びてから眠りについた。

深く、静かに眠って——目覚めたのは、昼をとっくに過ぎた頃だった。

スマホには、またしても尚吾の名前がずらりと並ぶ。

私はため息をひとつつき、着信に応じた。

「紬……どれだけ電話したと思ってるんだ……!

一晩中、お前に繋がるのを待って、結局一睡もできなかったんだ!

体調も最悪だ、筆も進まない。このままじゃ、グローバル展にも影響が出るんだぞ。……どう責任取るつもりだ?

お前、無責任すぎる。そんな態度で、まだアトリエに戻る気でいるのか?」

声は荒く、怒りと混乱がないまぜになっていた。

私は受話器越しに静かに言った。

「尚吾、あなたがいつも言ってたでしょ。私はただの雑用係で、誰にでもできる仕事だって。

だったら、私がいなくても何も困らないはず。

私はもう戻らない。マネージャーでも、ましてや妻でもない。

あんたに借りはないわ。

グローバル展の件、あなたが前回の会食を途中で抜けて、莉子を連れて帰ったことで、投資家を怒らせた。

そのあと、誰かが謝って回った?——誰もいない。だから資金も降りなかった。

どうしても続けたいなら、自分で頭を下げに行きなさい。

……そうだ、急いだほうがいいよ。じゃないと、私が開く予定の個展に投資してもらうよう、あの人た
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