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第4話

Author: ししのこ
正明の声は、深く沈んでいた。

千里の笑みは一瞬にして消えた。

兄を心配させたくなかった彼女は、適当な言い訳をして慌ただしく電話を切った。

電話が切れた直後、正明の問い詰めるような言葉が飛んできた。

「お前、なんで警察に通報した?

雅美が薬を取り違えたのは、ただの衝動だっただけだ。

そこまでしなくてもよかっただろ?勝手に通報して……あいつ、泣き出したんだぞ!」

いつもは冷淡な正明の目が、怒りを帯びていた。

まるで千里が、とんでもない過ちを犯したかのように。

正明に詰められて、千里は目を伏せ、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。

「そこまでって……私、昨日救急救命室に運ばれたのよ?

それでもまだ大したことないって言うつもり?」

ショック症状で、死にかけた。

一晩入院しても、彼は一言も見舞いの言葉をかけなかった。

通報したと知って、彼が最初に口にしたのは「なぜそんなことをした」だった。

雅美が薬を取り違えたと聞けば、まず彼女をかばった。

正明の心は、どこまでも偏っていた。

千里の反論に、正明は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに苛立ちを滲ませて眉をひそめた。

「確かに薬を取り違えたのは軽率だった。でももう、俺がちゃんと叱った。だから、いつまでもこだわるな。

それに、もうお前は無事なんだろ?気が済まないなら、俺がここに残って看病する。これで満足か?」

何かを続けようとしたその時、不意に正明のスマホが鳴った。

画面を見て、雅美の名前を確認した彼は、険しかった表情を少し緩めた。

「大丈夫だ。心配するな。誰もお前を連れて行ったりしない。

もう泣くな。手の傷はまだ痛むか?」

通話しながら、彼の足は自然と病室の外へと向かっていく。

その背中を見つめながら、千里はふと、可笑しくなった。

もうとっくに彼に期待なんてしていなかったはずなのに、それでも、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

彼女は命を落としかけた。それでも正明は、ただ「叱った」で済ませた。

一方で、雅美が手に小さな切り傷を負っただけで、彼は一瞬たりともそばを離れようとしなかった。

胸が締めつけられるように痛んだ。もはや彼に立ち向かう気力すら残っていなかった。

正明は「残って看病する」と言った。

けれど、雅美がそれを許さなかった。

彼が病室に足を踏み入れるたび、すぐに雅美からメッセージが届く。

【正明、家に一人でいると怖いの。戻ってきてくれない?】

【最近、夢遊病がひどいの。あなたがそばにいてくれないと安心して眠れない。お願い、戻ってきて】

【今日はすっごく退屈だったの。もし戻ってきてくれないなら、友達を訪ねて一年くらい海外に行っちゃおうかな】

一通のメッセージや電話だけで、正明は完全に意識を持っていかれる。

「ゆっくり休め」とだけ言い残して、彼は病室を去っていく。

千里は、彼が来るのも、去るのもただ黙って見送った。

もはや彼に何の期待もなかった。再び、雅美への偏愛を見せつけられても、心はすでに麻痺していた。

千里の願いはただ一つ。

一刻も早く元気になり、永遠にこの場所から離れること。

二度と、正明の顔など見たくなかった。

退院の日、彼女は一人だった。

出発前の最後の週、会社の提携先が主催するボクシング観戦イベントの招待状が届いた。

正明と共に参加してほしい、との案内だった。

要請に応じて、千里は静かに準備を整えて出かけた。

正明は車の横に立っていた。

ダークカラーのスーツが彼の凛とした雰囲気を際立たせていた。

だがその手は、車の屋根に添えられ、雅美を助手席にエスコートしていた。

雅美は淡いピンクのベアトップドレスに身を包み、長い髪をなびかせていた。

整ったメイクに星のような瞳で正明を見上げ、笑みを浮かべていた。

そのあまりにも親密な光景に、千里は思わず足を止めた。

だがすぐに表情を整え、何事もなかったように後部座席へと乗り込んだ。

車中、彼女はただ静かに窓の外の風景を眺めていた。

正明と雅美がどれだけ楽しげに会話をしていても、千里は一言も発さなかった。

やがて、車内に静寂が訪れた。

その空気の中、時折刺すような視線を感じた。千里が視線を向けると、ちょうど正明と目が合った。

だが正明は、すぐに目を逸らした。

会場には、多くの来賓客が集まっていた。

正明は雅美と腕を組み、千里を一歩後ろに残したまま会場へ入っていった。

友人を紹介し、椅子を引き、身を寄せて試合の説明をしていた。

「ネットの噂って本当なんだな。橘社長は奥さんのこと、まったく気に入ってないみたいだ」

「誰が見ても分かるだろ。今、隣にいるのは橘雅美さん。あれだけ気遣ってるんだ。もうすぐ離婚って噂、あながち嘘じゃなさそうだな」

千里の耳に、そんなささやきが入ってくる。胸の奥がちくりと痛み、思わず指先に力が入った。

だが表情は変えなかった。

リング上では激しいボクシングが繰り広げられていた。

血の匂いに耐えきれず、千里はそっと席を立ち、後方へと歩き出した。

その時だった。

突然、雅美が立ち上がり、慌てて周囲を探し始めた。

「ネックレスが……私のネックレスがないの!」
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