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第5話

冬霧の島
蓮司は手を放さなかった。目の奥には、今にもあふれ出しそうな怒りが滲んでいる。

詩乃は数歩離れたところに立ち、その光景を見つめていた。ふいに、現実感が薄れていく。

蓮司がここまで怒ったところを見たのは、前に一度だけだった。

まだ二人が恋人だった頃のことだ。

詩乃が路地の入口で数人のチンピラに絡まれたとき、駆けつけた蓮司は、それでも冷たい顔で数言、警告しただけだった。

彼の育ちのよさは、取り乱すことを許さなかった。蓮司はいつだって感情を抑え、体面を崩さない人だった。

けれど今回は違った。

彼は場も、立場も、集まった取引先の目も気にせず、その男の腕の関節を外した。

騒ぎはすぐに収められた。

蓮司は安奈をかばうようにして外へ向かった。詩乃のそばを通り過ぎるとき、ふと足を止める。

彼は彼女を見た。目の奥にはまだ怒りが残り、声は低く抑えられていた。

「わざとなのか?」

詩乃はすぐには意味が分からなかった。

「何が?」

「こういう場で誰もそばについていなければ、変な人に絡まれる可能性がどれだけ高いか、分からないのか?

安奈は恋愛経験がない。断り方も分からないから、つけ込まれやすい。俺がお前についていたら、あの子を見ていられない。もう少し分別を持て」

詩乃は呆然と彼を見つめた。

かつて彼女の心を揺らした顔が、目の前にある。

冷ややかな眉目。くっきりとした輪郭。初めて会ったときと、何ひとつ変わらない。

けれど、どれほど見つめても、胸の奥は少しも波立たなかった。

どうやら、もうあの頃ほど愛してはいないらしい。

「私は、あなたにそばにいてなんて頼んでいないわ。

それに、そもそも私は来たくなかった。安奈が無理やり私を車に乗せたのよ。こういう場に連れてくるくせに、ドレスの一着も用意しなかった。私のほうこそ聞きたいわ。どういうつもりだったの?私に恥をかかせたかったの?」

その言葉が落ちた瞬間、周囲からざわざわと囁きが広がった。

安奈の目から、タイミングを見計らったように涙がこぼれた。彼女は蓮司の腕の中に小さく身を寄せ、肩をかすかに震わせる。

「詩乃さん……どうしてそんなふうに私を悪者にするの……一緒に行きたいって言ったのは詩乃さんじゃないですか。余っているドレスはないけど大丈夫かって、私、先に聞きましたよね。詩乃さんが気にしないって言ったんじゃないですか……」

詩乃の瞳がかすかに縮んだ。

安奈がこんなにも平然と事実をねじ曲げられるなんて、信じられなかった。

無理やり車に押し込んだのは安奈だ。断る余地など与えられなかった。いつ詩乃が、気にしないなどと言ったというのか。

反論しようとしたその瞬間、安奈がふいに声を高くした。

「本当は言いたくなかったんです!私だって、こんな恥ずかしいこと言いたくなかったんです!私がいったい何をしたっていうんですか?あの男にお金を渡して、私に恥をかかせるなんて……」

その一言で、会場中がどよめいた。

蓮司の顔は、見る間に陰った。

「詩乃、よくそんなことができるな」

詩乃は彼を見つめた。

私はやっていない——その一言が喉まで込み上げていたのに、どうしても口にできなかった。

やったか、やっていないか。

それが本当に重要だろうか。

大事なのは、蓮司が最初から彼女を信じていないということだった。

どれだけ言葉を尽くしても、彼は安奈のためにいくらでも反論を用意するだろう。

安奈が涙ながらに一言言うだけで、詩乃のどんな説明よりも重くなる。

愛されているか、いないか。

それは本当に、こんなにも分かりやすい。

詩乃は目を伏せた。睫毛がすべての感情を隠す。

数秒沈黙したあと、彼女は口を開いた。

声はひどく穏やかだった。

「それで、どうしてほしいの?私に謝れって言うの?」

蓮司は何も言わなかった。

ただ冷ややかに、彼女を見ていた。

詩乃は身を翻し、安奈のほうを向いた。

そして、全員が見ている前で、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。これでいい?」

その場にいた誰もが言葉を失った。

彼女がここまであっさり頭を下げるとは、誰も思っていなかったのだ。

言い訳も、口論もない。

ただ、まっすぐに謝った。

安奈はその場で固まった。頬にはまだ涙が残っていて、一瞬、どう返せばいいのか分からないようだった。

詩乃は体を起こした。

顔には何の表情もない。

そのまま背を向け、立ち去ろうとした。

その手首を、強い力が乱暴につかんだ。

「詩乃」

蓮司の声が背後から落ちてきた。低く、凍るように冷たい声だった。

「その態度は何だ。そんなものが謝罪だと思っているのか?

お前のせいで、今日のイベントは台なしになった。安奈にきちんと謝るだけじゃ足りない。取引先の皆さまにも、膝をついて詫びるべきだ」

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Aktuellstes Kapitel

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