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助けたせいで、好きになってごめん

助けたせいで、好きになってごめん

By:  猫田西行Completed
Language: Japanese
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私・衣川真梨奈(きぬかわ まりな)は8歳のとき、拉致されそうになっていた白石成巳(しろいし なるみ)を助けた。 そのせいで、両手両脚は二度と動かなくなった。 それからずっと、成巳は私のそばにいる。食事も着替えも移動も、身の回りのことは全部、彼がやってくれる。 本当の娘――衣川佐友里(きぬかわ さゆり)って子が見つかった途端、両親は「偽物」の私を家から追い出した。あのときも成巳だけは、何も言わずについてきてくれた。 ふたりでいくつもの街を転々とした。成巳は治療費を稼ぐために、無理を重ねて体を壊しながら働いてくれた。 20歳になった年、成巳に思わぬ話が舞い込む。教授が彼の研究を見込んで、海外留学の話を持ってきてくれたのだ。 自分のことみたいに嬉しかった。すぐにでも祝福を伝えたくて、車椅子を走らせて彼の部屋へ向かった。 部屋の前に着いたとき、ドアが少し開いているのに気づいた。中から成巳の声が聞こえる。電話をしているらしい。 聞き覚えのある声が、スマホの向こうから漏れていた。佐友里だ。 「あんなの、ただのお荷物でしょ。いつまで面倒見るつもり?さっさと捨てちゃいなよ」 成巳は黙っていた。数秒の沈黙のあと、通話を切る気配がした。 ドアが開く。顔を出した成巳は、いつもと同じ声で言った。 「今日は、海に行こうか」 私は笑った。たぶん、うまく笑えていたと思う。 「うん。成巳となら、どこでもいい」

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Chapter 1

第1話

青く透きとおった海水が、もう身体の半分まで届いていた。なのに、温度だけが感じられない。

もう少し進めば、海の温度がわかるはずだ。

そう思った矢先、あごの先に波が触れそうになったところで、成巳の足が止まった。水位は私の首のあたりでぴたりと止まる。

彼が、静かに泣いている。生ぬるい涙がぽつり、ぽつりと落ちてきて、頬に当たる。

「何ぼさっとしてんのよ、手を離しなさい!」

後ろから響いたのは佐友里の声だった。

両親が探し当てたという「本物の娘」だけど、その顔立ちは両親の誰ともまるで似ていなくて……ただ、私という厄介者を手放したいだけなのだと、ずっとわかっている。

その命令に、成巳の腕から力が抜ける。支えを失い、私の体はあっという間に海中へ没していった。

「真梨奈……真梨奈!」

泣き声の混じった成巳の叫びが、どんどん遠ざかっていく。

ああ、これでやっと終わる。

彼は知らなかったはずだ。私がとっくに人に頼んで、車椅子のバッテリーを抜いておいたことを。もう自動で固定する機能はなくなっている。

この瞬間、ようやく感じた。海の温度は、思っていたよりずっと冷たかった。

さっきの涙も、この海水も、どちらもしょっぱいのだと、初めて知った。

身体が沈み続ける。不意に、強烈な力が私を逆方向へ引っ張り上げる。

岸に上がると、成巳はずぶ濡れの私を抱きしめて、泣きじゃくりながら何度も謝った。

「ごめん、真梨奈、ごめん。俺の手が滑ったんだ」

口と鼻を塞いだ海の砂にむせ返り、咳が止まらない。

「大丈夫だよ……私が、自分で泳げないだけだから」

手を伸ばして、泣き濡れた彼の頬を拭ってやりたい。でも、動かせるのは首から上だけだった。仕方なく、ずぶ濡れの成巳の髪に、そっと頭を擦り寄せる。

「ごめん……ごめん……」

成巳の声がひどく震えている。子どもみたいだ、と思った。

身体の感覚はとうに失われているのに、胸が痛い。

どうして助けたの。あと数秒で、私はこの世界からきれいに消えて、誰の足も引っ張らずに済んだのに。

成巳は私を家まで抱えて帰ると、そのまま浴室へ運び、浴槽に座らせてシャワーをひねった。もの憂げな顔で背を向け、外へ出ていく。

なのに、シャワーの水がいきなり顔へ降りかかってきた。息ができない。口と鼻を水が覆い、むせ返る。

ドアの向こうから、かすかに泣き声が聞こえた気がした。

耳を澄ませようとした瞬間、体がぐらりと傾いた。もう支えられない。浴槽の縁に背中を滑らせ、水がゆっくりと床へあふれ出していく。

ざあざあという水音だけが、浴室に響いている。

浴槽に顔をすべて沈めたまま、不思議と心は凪いでいた。

このままゆっくり死ねれば、もう誰の足も引っ張らずに済む。

薄れていく意識のなかで、ふと蘇るのは、まだあどけなかった頃の成巳の顔だ。

あの日、成巳は仕事に出ていて、家には私ひとりだった。車椅子がバランスを崩して倒れ、太ももに果物ナイフが突き刺さった。

体に感覚なんてないから、床に血の海が広がって初めて、自分が怪我をしたとわかった。でも、なにもできない。ただじっと、血が増えていくのを見つめるしかなかった。

成巳が戻ってきたとき、私はショック寸前だった。彼は私を抱えながら必死に助けを呼び、病院へ向かうあいだずっと、声がかれるまで泣きじゃくっていた。うるさくて仕方なかったのを覚えている。

あれ以来、どんなに遠くても、どんなにきつい仕事でも、成巳は必ず私を連れていくようになった。

「一生お前の手足になる。世界中の一番綺麗な景色を、一緒に見に行こう」

そう言ってくれた……

気づいたときには、成巳が浴槽から私を抱え上げている。その頃にはもう酸欠で、すとんと何もわからなくなっていた。

「動けよ、なんで動かないんだよ!」

水面を殴りつける音と、裂けそうなほどの怒鳴り声が鼓膜を刺す。酒にでも酔ったみたいに取り乱した成巳がいた。

顔を真っ赤にして、あのときよりもずっと大きな声で泣き叫んでいる。怖くて、目を開けられなかった。

「お前が動かないせいで、囚われてるのはお前だけじゃないんだぞ!」

私の知っている成巳は、いつだって優しくて、陽だまりみたいに笑うひとだった。こんな姿、見たことがない。

「それに、俺の人生だって……」

声がどんどん小さくなっていく。代わりに、押し殺した泣き声が静かな浴室に響いた。

私は必死で唇を噛んだ。泣くな、泣いちゃだめだ。そう思った。

口のなかに血の味が広がる。胸が苦しくて、ようやく私は、絞り出すように何度も「ごめん」と繰り返した。

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第1話
青く透きとおった海水が、もう身体の半分まで届いていた。なのに、温度だけが感じられない。もう少し進めば、海の温度がわかるはずだ。そう思った矢先、あごの先に波が触れそうになったところで、成巳の足が止まった。水位は私の首のあたりでぴたりと止まる。彼が、静かに泣いている。生ぬるい涙がぽつり、ぽつりと落ちてきて、頬に当たる。「何ぼさっとしてんのよ、手を離しなさい!」後ろから響いたのは佐友里の声だった。両親が探し当てたという「本物の娘」だけど、その顔立ちは両親の誰ともまるで似ていなくて……ただ、私という厄介者を手放したいだけなのだと、ずっとわかっている。その命令に、成巳の腕から力が抜ける。支えを失い、私の体はあっという間に海中へ没していった。「真梨奈……真梨奈!」泣き声の混じった成巳の叫びが、どんどん遠ざかっていく。ああ、これでやっと終わる。彼は知らなかったはずだ。私がとっくに人に頼んで、車椅子のバッテリーを抜いておいたことを。もう自動で固定する機能はなくなっている。この瞬間、ようやく感じた。海の温度は、思っていたよりずっと冷たかった。さっきの涙も、この海水も、どちらもしょっぱいのだと、初めて知った。身体が沈み続ける。不意に、強烈な力が私を逆方向へ引っ張り上げる。岸に上がると、成巳はずぶ濡れの私を抱きしめて、泣きじゃくりながら何度も謝った。「ごめん、真梨奈、ごめん。俺の手が滑ったんだ」口と鼻を塞いだ海の砂にむせ返り、咳が止まらない。「大丈夫だよ……私が、自分で泳げないだけだから」手を伸ばして、泣き濡れた彼の頬を拭ってやりたい。でも、動かせるのは首から上だけだった。仕方なく、ずぶ濡れの成巳の髪に、そっと頭を擦り寄せる。「ごめん……ごめん……」成巳の声がひどく震えている。子どもみたいだ、と思った。身体の感覚はとうに失われているのに、胸が痛い。どうして助けたの。あと数秒で、私はこの世界からきれいに消えて、誰の足も引っ張らずに済んだのに。成巳は私を家まで抱えて帰ると、そのまま浴室へ運び、浴槽に座らせてシャワーをひねった。もの憂げな顔で背を向け、外へ出ていく。なのに、シャワーの水がいきなり顔へ降りかかってきた。息ができない。口と鼻を水が覆い、むせ返る。ドアの向こうから、かすかに泣き声が
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第2話
音を聞きつけた佐友里が駆け寄ってきて、成巳の肩に手を回した。その声も涙ぐんでいる。「ねえ、そんなに真梨奈が気になるなら、私、別の家を持ってるんだ。ぜんぶ声で操作できるようになってて、真梨奈にちょうどいいと思うの。その家、あげるから、かわりに一緒に留学に来てくれない?」私は唇の端を持ち上げて、笑みの形を作った。「いいよ。そっちのほうが、成巳も楽でしょ」成巳は答えなかった。腫れた瞼のまま私を背負い、車椅子に座らせると、無言で新しい家へと向かった。家は広くて、内装も素敵だった。24時間対応の介護ロボットまで備えつけてある。家中のスマート家電に私の声紋を登録し終えると、背を向けた成巳の表情は見えなかった。ただ、彼が長く息を吐き出すのが聞こえた。そのまま、一度も振り返らずに出て行った。玄関のドアが重い音を立てて閉まる。世界がふたつに断たれた。この部屋にはもう、生きている人間は私ひとりだ。「一人で、悪くないよね」誰も返事をしない。昔なら、こんなとき成巳が決まって「何よ、二人がいいに決まってる」ってふざけて言ったものだ。夜、ロボットが夕食を作っている最中、突然家が停電した。慣性でロボットの手から滑った熱い鍋が、まともに私の頭を直撃する。「動いて!」叫んでも、停電では何も反応しない。なんとか頭を振って鍋を落とした拍子に、横の棚にぶつかってしまった。ぐらりと揺れた花瓶が、今にも頭めがけて落ちてくる。私は固く目を閉じて、死を待った。よかった、成巳。やっと私は、誰の足も引っ張らずに済むよ。けれど、いつまでたっても痛みは訪れない。恐る恐る目を開けると、暗がりの中で、疲れ切った成巳の虚ろな瞳とかち合った。「留学、行かなかったの?」鼻の奥がツンと痛んで、息ができなくなった。吐くことも、吸うことも、そのまま固まってしまう。成巳は長く息を吐くと、そっと手を伸ばして、火傷で爛れた私の頬に触れた。赤くなった目が今にも泣き出しそうで、声は擦り切れたみたいに掠れている。「置いていけるわけないだろ。お前は親に捨てられたんだ、俺まで手放せるかよ。お前には、もう俺しかいないんだ」火傷を負ったのは顔なのに、胸が痛くて、うまく息ができなかった。家に戻ると、テーブルの上にクシャクシャに丸められた書類が置かれているのが目に入った
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第3話
成巳の声に、佐友里の肩が跳ねた。まさか彼がすぐ外にいるとは思っていなかったのだろう。「もう誰にも迷惑かけないでくれるか。俺ひとりじゃ足りないのかよ、真梨奈!」成巳の言葉には、鋭い咎めと、どうしようもないやるせなさが滲んでいる。「悪いのは全部俺だ。佐友里はお前に何もしてない」佐友里は一瞬ぽかんとして、それから急に惜しむような口調で彼をなだめ始めた。「大丈夫よ。私たち、衣川家の娘同士じゃない。困ったときはお互い様でしょ」息を整えるのにしばらくかかった。それから私は必死に作り笑いを貼り付ける。「違うの。治療に行くんだよ。海外に有名な先生がいるんだって。身体が治るかもしれないって」その瞬間、成巳の堪忍袋の緒が切れたように怒鳴り返してきた。「体だけじゃなくて頭までやられたのか?もし本当に治る見込みがあれば、衣川家がお前を捨てるわけないだろ!」涙がまぶたの裏でにじむ。どうしていいかわからず、私は佐友里を見た。いま、この場で私の嘘を潰せば、あなたの計画も台無しになるはずだ。それだけを願って、目で訴える。佐友里は一拍置いてから、私の言葉を裏付けるように口を開いた。「本当よ。付き添いの人もちゃんと手配してあるから」そう言って、スマホをポケットから取り出す。どうやら事前に連絡してあったらしい。ほどなくして柔和な笑みを浮かべた年配の女性が入ってきて、軽く会釈をした。佐友里はさらにスマホの画面を成巳に見せると、彼はようやく疑いを解いたらしく、ほっと力を抜いた。すべてが片付いた。身も心も、びっくりするほど軽くなる。荷物をまとめる時間もないまま、成巳は私とお手伝いさんを車に乗せた。発車する直前、彼は海外行きの航空券を二枚取り出す。自分と、佐友里の分だ。それをじっと見つめる横顔からは、あの眉間の深い皺が消え、久しぶりの笑みが口元に浮かんでいる。大丈夫だ。もう少しの辛抱だわ。ふたりが無事にこの国を離れてしまえば、それでいいの。しかし、車がまだ半分も走っていないうちに、例の「お手伝いさん」は本性を現した。手のひらを返したように小切手を奪い取り、役立たずの私を無造作に路上へ放り出す。「お願い、もっと遠くに捨てて。こんな場所じゃすぐ見つかる。誰もいないところにして」私の必死の懇願も、彼女には聞こえていない。忌々しげな
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第4話
翌朝、再び目を開けてわかったのは、ばかな成巳が、やっぱり最後の最後で手を下せなかったということだ。なぜだろう、胸が痛い。声を振り絞って彼の名を呼んだ。しかし、返ってきたのは佐友里の声だった。彼女は入り口に立ち、汚れたものでも見るような目を私に向けている。その顔には、今すぐにでも私を殺したいという激情がありありと浮かんでいる。きっと例の一件が尾を引いているのだろう。彼女が私から取った距離は、以前よりもさらに遠い。「あの日、搭乗寸前だったのよ。成巳も教授も、すごく喜んでた。なのに、あんたのせいで全部台無し!たった一本の電話で、何もかもよ!」逆上した佐友里は、手当たり次第に私の髪を掴んで後ろに引きずると、詰め寄ってきた。「なんで憑きまとうの?どうすれば成巳を解放してくれるわけ?」胸の奥から、また新たな罪悪感が込み上げてくる。もう少しだったのに。あと一歩で、成巳は私から遠く離れられたはずなのに。どうして私は、これほどまでに不甲斐ないのだろう。「もう二度と成巳には付きまとわない。約束するから、車椅子に乗せてほしい」懇願する私に、佐友里はあからさまに顔をしかめ、ぶつぶつと文句を吐きながら、乱暴に私の身体を抱え上げた。けれど非力な彼女には重すぎたのだろう。バランスを崩し、私もろとも車椅子が横転して、そのか細い体の上にのしかかってしまった。「きゃあっ!」鋭い悲鳴が上がる。ちょうどそのとき、外から戻った成巳がこの光景を目にした。彼は慌てて駆け寄ると、私と車椅子を乱暴に引き起こして脇へ追いやり、床に倒れている佐友里を慎重に助け起こした。でも、成巳は忘れている。私も動けないということを。床に打ちつけられたままの私は、ぴたりと冷たい床に頬を張り付かせている。とても冷たい。成巳は、もう抑えがきかないようだった。私を無理やり引きずり起こして乱暴に車椅子へ放り込むと、勢いのまま頬を張り飛ばした。紙のように青白い顔で、まるで抜け殻のような目で私を見下ろしている。感情の箍が外れたように、彼は叫び狂った。「佐友里だって、あの女がそんなことをするなんて知らなかったんだ。もう彼女を責めるのはやめてくれないか!この人生すべてを捧げてもまだ足りないのか?なあ、いっそあの拉致の時に死なせてくれよ!なんで助け出したのに、俺のことを
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第5話
落下する瞬間、すべての音が消えた。代わりに耳をつんざくのは、ごうごうと唸る風の音だけ。それなのに、心の底から奇妙なほど安堵していた。視界が暗転し、そのまま何もわからなくなる。痛みすら感じ取れないことが、これほど嬉しいことだとは知らなかった。身体がふわりと浮き上がる。現実とは違う、もうひとつの次元に迷い込んだみたいだ。そこには健康な私がいて、未来に満ち溢れた成巳がいる。私はここが好きだ。ずっとこうしていたかった。佐友里の診察に付き添っていた成巳は、病院の自動ドアを抜けたとき、ふと、全身にシーツをかけられたストレッチャーが視界の隅を通り過ぎるのを見た。死ぬことが、もしこんなにも簡単ならばいいのに、と小さくため息をついた。けれどストレッチャーの後ろから、静かに運ばれてきたあの車椅子を見て、次の瞬間、彼の顔色がガラリと変わった。見間違えようもない。長い時間をかけて金を貯め、私のためだけに特注した、世界にたったひとつの音声制御の車椅子だった。あれを動かせるのは、この世に真梨奈ひとりしかいない。あの日、「自分で動かせる足をやるからな」とひどく興奮していた成巳を、私は何を馬鹿なことを言っているんだと笑った。けれど、あの特注の車椅子が姿を現したとき、私は声を上げて泣いてしまった。それからのふたりは毎日、散歩に出かけた。散歩だけが日課で、あとは冷たい水で腹を満たすだけの生活。家には食事の蓄えすら底をついていたけれど、それでもふたりは幸せだった。成巳は恐慌をきたし、佐友里を置き去りにしてストレッチャーの傍らに駆け寄った。「そこの方、何をされるんですか!めくってはいけません、これは患者様のプライバシーで……!」医療スタッフが必死に制止するのも虚しく、シーツ布は彼によって端がめくられ、血塗れになった私の頭が露わになった。成巳はその場に立ち尽くし、呆然としたまま医療スタッフに向かって叫び散らした。「彼女は体が動かせないんだ!全身だ!なのに、なんで怪我なんてするんだ!動けない人間なんだぞ!」確かに、家を出る前、車椅子からバッテリーを抜いておいたはずだ。だというのに、なぜこんなことになったのか。「こちらさまは、お知り合いの方ですか?崖の下で発見されたのですが、いまだご家族の方とは連絡がつかず……目撃者の証言では、彼女は車椅子に乗ったまま……
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第6話
彼はその場に立ち尽くした。今の私が、本当に言葉も発せず、意識すらなく、指一本も動かせない、完全な麻痺状態になってしまったのだとは、成巳は思いもしなかったのだろう。家に戻ったあと、がらんどうの部屋を見つめて、立ちすくんでいた。それから、いくつか大切なものをまとめはじめる。手に取る品のひとつひとつが、ふたりだけの特別な記憶を否応なく呼び覚ましていく。これは、私が衣川の家を追い出されたとき、彼のために録った誕生日のメッセージだ。あの頃の成巳は、これを何度も繰り返し聴いていた。それから、これ。暗闇が怖いと言っていた成巳に、私がプレゼントした大きなクマのぬいぐるみ。当時の成巳はまだ小さくて、このクマのほうが彼より一回りも大きかった。まだ衣川の家にいた頃、私はよく執事に頼んで、自分のお小遣いで成巳に贈り物を買っていた。受け取るたびに、成巳はいつも恐縮した顔をする。でも私は、ただ笑って言うだけだった。「私は体が動かないんだから、お金の使い道なんてないよ」あの日、衣川の家から追い出されたとき、私は道端にしゃがみこんで、いつまでも泣き続けた。そんな私の手を、成巳はぎゅっと握って、衣川の連中みたいな薄情な真似は絶対にしない、一生面倒を見ると誓った。あの日からふたりは、たった二人で生きてきた。仕事に出かける朝は、いつも心配そうに何度も振り返っていた成巳。私は彼を遅刻させまいと、動かない身体で車椅子を走らせ、遠くまで見送ったものだ。そして帰りは、ひとりで路地の角まで迎えに出た。箱から次々と取り出されるのは、かつて私が彼に贈った品々だ。気がつけば、成巳の頬は涙でぐっしょりと濡れていた。身体の動かない人間が贈った、なんの意味もないガラクタを、彼がなぜこうも大切そうに取り出すのか。佐友里はその後ろで、黙って、しかし理解できないといった顔つきで前の男を見ている。成巳は寝ずの看病を続けた。毎日、私の枕元でたくさんの言葉を語りかけ、車椅子を押して庭園へ散歩に連れ出していった。一方、私はといえば、まるで極楽のような世界にいた。そこでは手足は自由に動き、成巳はその世界の研究分野で誰もが認めるエリートになっている。私たちはそこで、ただひたすらに幸せに暮らしていた。現実の、息が詰まって壊れてしまいそうな生活より、ずっと素晴らしい日
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第7話
完全自動化された新しい家での生活が始まった。地下室には発電機が据え付けてあり、停電の心配はもうない。毎日、私は左手のリハビリに励み、定期的に病院へ通って経過観察を受けた。少しずつ動くようになったその手で、いつかは誰の助けも借りずに何かを成し遂げたい。そう思って、身の回りのことを自分でやろうと試みるようになった。しかし、現実はそう甘くはない。ただ水を飲もうとするだけなのに、何度もグラスを手から滑らせては床に砕け散らせた。結局、家じゅうのグラスや皿はすべて割れないステンレス製に入れ替えられ、壊れやすい物という物が根こそぎ消え去った。特注の車椅子が壊れてからは、ごく普通の車椅子に替えるしかなかった。けれどその操作パネルは私には過ぎるほど敏感で、言うことを聞かない左手ではうまく制御できない。家のなかをあちこちで暴走しては、硝子やガラス細工を次々に砕き、飛び散った破片が肌に刺さることも一度や二度では済まなかった。スマート家電も立て続けに壊れ、音声操作は使えなくなり、すべて手動に逆戻りだ。結局、成巳の手を借りなければならない場面は、またひとつ、またひとつと増えていく。それだけではない。佐友里が成巳を訪ねてくるたび、私の手がまた車椅子を暴走させ、彼女にぶつかってしまう。この前は、あやうく車輪ごと彼女の上に倒れ込むところだった。「もう自分で動き回るな。どこかに行きたいなら、俺が連れて行く。わかったか」その声は、まるであの夢に出てきた機械人形のように、疲れ果て、抑揚のない声だった。私はただ呆けたように肯うことしかできない。でも、私はただ、早く治りたかっただけなのだ。もうこれ以上、迷惑をかけたくなかっただけなのだ。昔は、成巳もよく同じことを口にした。けれど、そのときの語調はまったく違っていた。「どこへでも連れて行くよ」記憶のなかの少年は、眩しい笑顔で首をかしげて、そう言った。それからの私は、ほとんど部屋にこもったまま、食事も水も拒んだ。こうすれば、これ以上迷惑はかからないはずだ。成巳が私に費やす時間も、きっと少しは減るだろう。左手までもが私に背いている。一ヶ月以上も訓練を続けたのに、その指先は一枚の紙さえ、いまだに持ち上げられない。医師からは、また新たな体の問題を告げられた――食事を拒み続けたせいで栄養が足りず、左腕の回復
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第8話
それはきっと、成巳の限界を決定的に超えた最後の一押しだったのだろう。諸々の始末をつけて家にたどり着いたその眉間から、深かった皺がゆっくりと消えていった。重たい荷物を、ようやく手放した人の顔だった。「障害者施設に預けようと思う。そっちのほうが、お前も少しは快適に過ごせるかもしれない」「うん」私は淡々と頷き、それだけを返した。今度は他人にまで迷惑をかけてしまった。成巳は機嫌を損ねているってわかっている。何より、私が怪我を負わせたのは衣川家の娘だ。あの家がこれで黙っているはずもない。障害者施設。それがきっと、誰にとっても最善の選択なのだろう。手際よく荷物をまとめ、施設へ向かう車に乗り込む間際、成巳は、どうしても会いたくなったらこれを呼び出せと言って私にメモを差し出した。笑顔で受け取った私は、背を向けた瞬間、音もなくそれを細かく破り捨てた。運転手の顔には見覚えがあった。佐友里の専属運転手だ。けれど、かつてはあの男も、私を送り迎えするのが仕事だった。彼はバックミラー越しに私をちらりと見ると、小さくため息をついて、すぐに視線をそらした。私はまるでいつもの帰り道のように、道中、不思議なほど不安も違和感も覚えなかった。障害者支援施設に着くと、そこには、私と同じような境遇の人たちが大勢いた。ここでは、車椅子など珍しくもない光景だった。看護師さんが、私にバルコニー付きの部屋を割り当ててくれた。休憩のときには外の景色を眺められるし、陽の光もたっぷりと差し込んでくる。同室の子も、やはり車椅子に乗った、堀下夏菜美(ほりした かなみ)という女の子だった。右腕のリハビリをしている最中だという。「うわあ、私たち、すごくお似合いじゃない?左手と右手なんて!ねえ、あなたも生まれつき?やったあ、ついに話し相手ができた!このままだと、私、ここで干からびて死んじゃうところだったんだから!」夏菜美は車椅子を操作し、楽しそうに私の周りをぐるぐると回っている。その動きからは、溢れるような力がみなぎっていた。私は力なく首を横に振った。「違うよ。私は、人を助けて、こうなったの」彼女がぱっと顔を輝かせて言った。「じゃあ、あなたはきっとすごく強い人なんだね!その助けられた人、絶対にあなたにめちゃくちゃ感謝してるでしょ!」私は少しだけ記
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第9話
不安な気持ちを抱えながらも、私は夏菜美のあとに続いて、おそるおそるショッピングモールへと足を踏み入れた。私とは対照的に、夏菜美の振る舞いはどこまでも堂々としている。ここは外の店と何も変わらない。ただひとつ、目に入る客の多くが車椅子に乗っていることだけが、唯一の違いだった。夏菜美とふたりでお揃いのワンピースを選び、試着室の鏡の前に車椅子を止めて、私はそこに映る自分を、長いことただ呆然と見つめていた。自分がこんなにも綺麗になれるなんて、想像したこともなかった。施設に戻ると、院長先生が待合室に私の面会者が来ていると教えてくれた。一瞬、頭が真っ白になった。ぼんやりしたまま車椅子を進めているうちに、気がつくと私は、成巳の前にいた。「久しぶりだな、真梨奈。今日は、すごく綺麗だ」はっとして見下ろすと、私は確かに、あの新しいワンピースを着ている。「……久しぶり、成巳」まだ何か言いたいことがあった。けれど、言葉は喉元で絡まって、出てこない。成巳はさらに痩せ、頬はこけ、よく見ればその顔には浅い皺さえ刻まれていた。「仕事、うまくいってないの?」そう聞いた途端、成巳の目がふいに潤んだ。「ああ」感情を必死に押し殺し、そのたった一言を絞り出した。手を伸ばしてその涙を拭うと、それがあだになったのか、成巳はますます声を詰まらせる。「左手……動くようになったんだな。おめでとう、真梨奈」私は何も言わず、そっと微笑み返した。長い沈黙のあと、成巳は涙をぬぐって私に尋ねる。「家、帰るか?」その声からは、何の感情も読み取れなかった。まるで街中でふと立ち寄った店先でかけるような気安さが滲んでいる。でも、私に帰る家なんて、一体どこにあるのだろう。もうどこにもないはずなのに。施設に私を預けたあと、成巳は佐友里と共に国外へ旅立った。だが、その研究プロジェクトはなぜか、一向に進展しなかったらしい。一番最初のプロジェクトは、真梨奈が一晩中そばに付き添っていたからこそ、突破口が見えたのではなかったか――成巳はそう考えていたという。けれど研究の進み具合が、真梨奈と何の関係があるというのだろう。佐友里がそばにいても、苛立ちは募るばかりだった。ついには眠りに落ちた口から、うわ言で「エアリアル・ガーデン」と、真梨奈の名が漏れた。こんな話
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第10話
顔を上げると、見慣れたその顔がすぐ目の前にあった。私が口を開くより先に、夏菜美が横から口を挟む。「すみません、当モールにエアリアル・ガーデンはございません」成巳は何も答えず、ただ真っ直ぐに私を見つめている。その視線に、私は少しのあいだ息を止めてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。「エアリアル・ガーデンは……もう荒れ果てて、誰もいなくなりました」聞きたかった答えとは違ったのだろう。成巳はそれでも何も言わず、ただ悲しそうに目を伏せて、背を向けて去っていった。夏菜美が小さく唇を尖らせて呟く。「なにあの人、変なの」あの頃を思い出す。家を追い出されて初めて借りた部屋には、屋上があって、所狭しと色とりどりの花が咲き乱れていた。成巳はいつも、そこを「エアリアル・ガーデン」と呼んでいた。そして彼がその言葉を口にするときは、必ず「家に帰りたい」という合図だった。初めての給料をもらった彼の誕生日、ちょうど佐友里が私を訪ねてきた。私は彼女に、成巳への誕生日プレゼントを託そうと思った。せめて、思い出だけでも彼の手元に残るようにと、包みの中には、あの「エアリアル・ガーデン」を模したスノードームが入っている。けれど、私が包みを差し出すより早く、佐友里は無言で箱を押しつけてきた。「これ……成巳の、遺骨よ」私は硬直し、左手に持っていたスノードームがするりと抜け落ちて、足元で粉々に砕け散る。エアリアル・ガーデンは、もう跡形もなく消えてしまった。そして成巳も、どこか遠くへ行ってしまったらしい。「成巳、亡くなる前にね、ノートいっぱいに『エアリアル・ガーデンに帰りたい』って、そればかり書いてたの」佐友里はひどく残念そうに続ける。「私にはその言葉がわからなかった。もう、おかしくなったのかと思ってた」成巳は過去に戻りたかったんだ。私にだけは、わかる。だけど、私たちはようやく、ここまで這い上がってきたばかりなのに。どうして今さら、あの苦しかった時代に戻りたいなんて思うんだろう。左手に託された骨壺は、ずっしりと重い。涙がこぼれた。あとから、少し遅れて、声が出た。その後、私は仕事を辞めて、「エアリアル・ガーデン」という名の花屋を始めた。目を閉じると、いまもあの日の彼の声が聞こえる。「いつか、ふたりで花屋をやろうよ。名前は『エア
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