Share

第4話

Penulis: 冬霧の島
体の傷が少し落ち着いてから、詩乃は鷹宮家へ向かった。

今夜は、約束どおり彼が迎えに来る日だった。離婚のことを、先に莉子へ伝えておくつもりでいた。何はともあれ、五年も嫁として過ごしたのだから、最後の礼儀くらいは尽くすべきだと思ったのだ。

莉子は庭の籐椅子に腰かけ、スマホを手にビデオ通話をしていた。

詩乃は歩み寄った。

「お義母さま」

彼女だと分かると、莉子はそっけなく「ええ」と返しただけで、視線をすぐにスマホへ戻した。その表情は、目に見えてやわらかくなっていく。

「おばさま!蓮司くんから、体調を崩されたって聞きましたよ。もうすぐ着きますからね!」

安奈の声がスピーカー越しに聞こえてきた。甘くやわらかく、語尾には甘えるような響きがあった。

莉子は目尻を下げて笑った。

「そうなの。あなた、クッキーが好きだったでしょう?今から田中さんに焼かせておくわ。着いたらすぐ食べられるようにね」

安奈が嬉しそうな声を上げる。二人は本当の家族のように、和やかに話していた。

通話を切ってから、莉子はようやく笑みを収めた。

「あなたは、いつもの紅茶でいいわね?」

詩乃が答えるより先に、彼女はそばの使用人へ顎で合図をした。

使用人はすぐに紅茶を一杯運んできて、詩乃の前に置いた。

詩乃は紅茶が好きではない。

ここへ来るたびに、そう伝えてきた。けれど莉子が彼女に用意するのは、いつも決まって紅茶だった。

以前、冗談めかして蓮司に愚痴をこぼしたことがある。ただ、何気なく聞いてほしかっただけだった。けれど彼はこう言った。

「母さんは物覚えがよくないんだ。それに、お前は母さんの世話をしに行ってるんであって、もてなされに行ってるわけじゃないだろ」

蓮司は、母は物覚えがよくないと言った。

けれど、めったに来ない安奈がクッキー好きなことは覚えていて、わざわざ先に焼かせておく。

詩乃は毎週三、四回も通い、三年間ずっと世話をしてきた。それでも莉子は、彼女が紅茶を飲まないことさえ覚えていなかった。

「詩乃、はっきり言わせてもらうわね」

詩乃は目を上げて彼女を見た。

「安奈と蓮司は、小さい頃から私が見てきた子たちなの。二人は昔から仲がよくて、お互いのこともよく分かっている。ここ数年、私の世話をしてくれているのはあなたで、人柄が悪いとは思わないわ。ただ、少し堅すぎるのよ。

蓮司があなたのどこを気に入ったのかは分からないけれど、結婚生活には努力も必要でしょう。安奈は性格が明るいし、蓮司もあの子といるとよく笑うの。あなたも少しは安奈を見習って、どうしたら蓮司を喜ばせられるのか、あの子に教えてもらったらどう?」

詩乃は指先が冷えていくのを感じた。

夫の母が、別の女に夫の機嫌の取り方を教えてもらえと言っている。

しかも、それをあまりにも当然のように。

馬鹿げているにもほどがあった。

詩乃はその紅茶に手をつけず、淡々と言った。

「ご心配には及びません。私と蓮司は離婚します」

「おばさま!」

甘ったるい声が、玄関のほうから大げさに響いてきた。彼女の言葉は、その声にかき消された。

安奈が小走りで入ってきて、にこにこと莉子のそばへ寄った。

「今着きました。これ、おばさまに買ってきたんです!」

莉子はたちまち顔をほころばせた。

「来てくれるだけでいいのに、わざわざ何か持ってこなくてもいいのよ」

安奈はしばらく甘えるように話していたが、ふいに額を軽く叩いた。

「あっ、そうだ。会社の取引先が今日イベントを開くんだった。蓮司くんに同伴者がいないって言ってたから、私、行かなきゃ。今日は一緒にいられなくてごめんなさい。また改めて来ますね」

莉子は手を振った。

「行ってらっしゃい。仕事のほうが大事よ」

安奈はそこで振り返り、初めて詩乃に気づいたかのような顔をした。

「詩乃さん?いらしてたんですね」

彼女は自分から詩乃の腕を取り、申し訳なさそうな声を出した。

「詩乃さん、この前のこと、全部聞きました。私が酔ってひどいことを言ったのが悪かったんです。どうか本気にしないでください。埋め合わせをさせてください。私、みんなにちゃんと説明しますから。ね?」

詩乃が断る間もなく、車に押し込まれていた。

会社の下に着くと、蓮司がロビーの入口に立って待っていた。

彼の視線は詩乃に落ち、眉がわずかに寄った。

「今日は母さんの世話に行くんじゃなかったのか?」

安奈が駆け寄り、彼の腕を軽く叩いた。

「同伴者がいないって言ってたじゃない。ちょうど詩乃さんがいたから、一緒に来てもらったの」

蓮司は何も言わず、詩乃を上から下まで一瞥すると、踵を返して中へ入っていった。足を止めることも、彼女を待つこともしなかった。

安奈は笑った。

「蓮司くん、いつもああなんです。詩乃さん、気にしないでくださいね」

詩乃は彼女に強引に引っ張られるまま、中へ入った。

中に入ってから、詩乃はようやく、蓮司がさっき向けたあの視線の意味を理解した。

イベントは会社の最上階の宴会場で行われていた。そこにいるビジネス関係者たちは、皆きちんとした装いで、身だしなみも隙がない。

一方、詩乃が着ていたのは、退院後に適当に袖を通した色あせたTシャツだった。顔には下地すら塗っていない。

安奈はいつの間にか場にふさわしい上品なミニドレスに着替え、細いハイヒールを鳴らしてそばを通り過ぎた。そして申し訳なさそうに笑った。

「私ったら、本当にうっかりしてました。詩乃さんの服を用意するのを忘れてしまって。気にしませんよね?」

詩乃は彼女に付き合うつもりなどなかった。

「わざと私に恥をかかせようとしたの?」

安奈は、いつも黙って耐えていた詩乃が面と向かって問いただすとは思っていなかったのだろう。笑顔がたちまち固まり、目元がすぐに赤くなった。

いつの間にか蓮司が近くに来ていた。今の言葉を明らかに聞いていた彼は、すぐさま安奈の前に立った。

「来るなら前もって言えばよかっただろ。安奈だって知らなかったんだ。そこまで悪く取るべきじゃないし、人前でそんな言い方をする必要もない」

——私が来たいと言ったのか。

明らかに、安奈が私の拒絶を無視して無理やり連れてきたのだ。

彼の口調には、かすかな苛立ちが混じっていた。

「まだ安奈が酔って言ったことを根に持ってるのか。どうせお前は、ここにいる連中の前で顔を見せて、何かを証明したいだけなんだろ。連れていってやる」

そう言い終えると、彼は有無を言わせず彼女の手首をつかみ、人の輪の中へ引っ張っていった。

それでも礼儀として、たとえ彼女の服装が場にそぐわなくても、グラスを手に挨拶に来る人はいた。

彼女はまだ酒を飲めないため、代わりにお茶で乾杯した。しばらく挨拶を交わしたあと、適当な理由をつけて隅へ逃れた。

隙を見てそっと帰ろうとしたそのとき、背後で急にざわめきが起こった。

振り返ると、蓮司が一人の男の手首を強くつかんでいた。少しひねっただけで、男の腕は不自然な角度に垂れ下がり、関節が外れる鈍い音が、男の悲鳴に混じって響いた。

安奈はそのそばに立っていた。目を赤くし、小さな声で言う。

「蓮司くん、あの人はただ……ちょっと触ってきただけだよ。私は大丈夫だから……詩乃さんのそばにいてあげて……」

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第14話

    これで終わったのだと思っていた。けれど蓮司は目を覚ましたあと、どうしても帰国しようとしなかった。どこで詩乃の住所を調べたのか、傷がある程度癒えると、蓮司は彼女の前に姿を現した。脇腹の傷は、明らかにまだ完治していなかった。そこに立つ姿には、どこか痛々しさすらある。詩乃は彼に会わなかった。数日放っておけば、そのうち諦めるだろうと思っていた。けれど彼女は、蓮司の執念を甘く見ていた。蓮司は人づてにジュエリーボックスを届けてきた。中に入っていたのは、カルティエのオートクチュールのネックレスだった。手書きのカードが一枚添えられていて、そこにはたった一行だけ、こう書かれていた。【ごめん。もう一度だけ、チャンスをください】詩乃はそのカードを三秒ほど見つめた。それからドアを開け、蓮司の目の前で、そのジュエリーボックスを床へ叩きつけた。箱が弾けるように開き、ネックレスが飛び出した。砕けたダイヤの欠片が床に散らばり、細かな音を立てて滑っていく。「蓮司、これ以上憎ませないで」蓮司は床に散らばった破片を見つめ、しばらく黙っていた。そして言った。「これが気に入らないんだな。別のものに替えてくる」詩乃は、あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失いそうになった。「そんなことをして何の意味があるの?私たちはもう離婚したのよ」「分かってる。でも……」「もうあなたを愛していないの」詩乃は彼の言葉を遮った。一語一語、はっきりと、迷いなく告げる。「あなたとはもう、何の関わりも持ちたくない。分からないの?今さら愛してるなんて言われても、軽く聞こえるだけよ」蓮司の喉仏が上下した。「構わない。お前が俺を愛していなくても……俺が愛していれば、それでいい」それを聞いて、詩乃は思わず笑い出しそうになった。「あなたが私を愛してる?よくそんなことが言えるわね。愛しているなら、どうして私を一人にしたの?愛しているなら、どうして一度も私の言葉を信じてくれなかったの?そんなものを、どうやって信じろと言うの?」蓮司は何も言わなかった。蓮司はその場で、まっすぐ膝をついた。どん、と鈍い音が響く。床に膝を強く打ちつけたせいで脇腹の傷に響いたのか、蓮司の顔色は一瞬でさらに青くなった。額には冷や汗が滲んでいる。それでも彼は、一言

  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第13話

    安奈は、自分の手にあるナイフを見下ろし、全身を強張らせた。「私……私、そんな……」彼女は震えながら、何度も後ずさった。「蓮司くん、わざとじゃないの……そんなつもりじゃなかったの……」蓮司は、地面に座り込んでいる詩乃を見た。血は、蓮司の脇腹から絶え間なくあふれ出していた。顔からはすでに血の気が引き、額には細かな冷や汗が滲んでいる。それでも詩乃を見つめる目には、どこかほっとしたような、穏やかな優しさがあった。「怪我は……ないか?」彼はそう尋ねた。声はとてもかすかで、残った力をすべて振り絞っているようだった。詩乃はその場で固まった。目がわずかに見開かれ、彼のシャツに広がっていく血を見つめたまま、頭の中が真っ白になった。蓮司は彼女に向かって一歩踏み出した。だが膝から力が抜け、そのまま片膝を地面についた。「詩乃……」彼は手を伸ばし、彼女の顔に触れようとした。けれど、その指先は宙で止まった。彼は苦しげに笑い、手を落とした。「ごめん……」次の瞬間、彼の体は前のめりに傾き、重い音を立てて地面に崩れ落ちた。詩乃は、彼が倒れていくのを見た。瞳がかすかに揺れる。考えるより先に、体が動いていた。詩乃はしゃがみ込み、両手で蓮司の脇腹の傷口を押さえる。血が指の隙間からあふれ出した。温かく、ぬめりを帯びていて、どれだけ強く押さえても止まらなかった。「救急車を呼んで。警察にも」声は落ち着いていたが、いつもより明らかに早口だった。怜央はすでに電話をかけていた。彼も険しい顔をしている。足早に近づくと、上着を脱いで詩乃に差し出した。「これで押さえて」詩乃はそれを受け取り、傷口に強く押し当てた。手はわずかに震えていた。けれど顔には、ほとんど表情がなかった。目の前で人が血を流して倒れているのだ。平然としていられるはずがない。蓮司は地面に横たわり、意識が少しずつ薄れていっていた。それでも視線だけは詩乃に向けられ、唇がかすかに動いている。何かを言おうとしているようだった。詩乃は身をかがめて聞こうとはしなかった。それでも、蓮司の声はかすかに届いた。息も絶え絶えで、どこか安堵したような響きがあった。「前は……きっと、すごく痛かったんだろうな。今度は……俺が一度だけ、代わりに痛がるよ……」

  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第12話

    詩乃は、少し呆れたように怜央を見た。彼がなぜこんなことをしたのかは分かっていた。きっと、自分に過去と完全に決別させたかったのだろう。詩乃が何かを言うより先に、蓮司が大股でこちらへ歩いてきた。その足取りは速く、焦りすら滲んでいた。けれど詩乃の前まで来ると、彼は急に足を止めた。どう近づけばいいのか、分からなくなったようだった。「詩乃」掠れた声で、彼は言った。「ずっと探していた……どうして何も言わずに消えた?どうして、あのことを俺に話してくれなかったんだ?」彼は手を伸ばし、詩乃の肩に触れようとした。詩乃は一歩、後ろへ下がった。蓮司の手が宙で止まり、目の奥の光が一瞬で翳った。詩乃は彼を見た。表情は静かだった。「勝手に自分に酔わないで。私が何も話さなかったとでも思ってるの?私はちゃんと、全部伝えたわ。妊娠したときも伝えた。でも、あなたは返事をくれなかった。交通事故に遭ったときも電話した。でも、あなたは出なかった。中絶手術で大量出血したとき、医者も看護師も何度もあなたに電話をかけた。あのとき、あなたはどこで何をしていたの?私は全部伝えたのよ、蓮司。なのにあなたは何をしていた?安奈と一万日記念を祝っていたじゃない」そのときのことを思い出したのか、蓮司は喉を何かに塞がれたように、一言も発せなくなった。顔は青ざめ、目元は赤い。唇がかすかに震え、何かを説明しようとしていたが、彼にはもう、その資格がなかった。そのとき、地面に倒れていた安奈が立ち上がり、蓮司の前に飛び出した。彼女は彼の前に立ちはだかり、憎々しげに詩乃を睨みつける。「白川詩乃!何様のつもりなの!どうして蓮司くんを責める権利があるの?あなたの人生には男しかいないわけ?何でもかんでも話さなきゃいけないの?自分のことくらい、自分でできないの?」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、蓮司が手を伸ばし、安奈を脇へ押しのけた。その動きには、はっきりとした苛立ちと怒りが滲んでいた。安奈は二歩ほどよろめき、信じられないという顔で振り返った。目元が一瞬で赤くなった。「蓮司くん!私は蓮司くんのためを思って言ってるのに!」けれど蓮司は彼女を見なかった。その視線はずっと詩乃に向けられたままだった。だが口を開いたとき、その声には限界まで押し殺

  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第11話

    安奈は先に視線を逸らした。詩乃のそばにいる怜央をちらりと見てから、足早に近づき、声を落とした。「詩乃さん、少し話せますか?」詩乃が答えるより早く、安奈はもう脇の路地へ向かって歩き出していた。詩乃がついてくると、決めつけているようだった。怜央がわずかに眉を寄せ、詩乃を見た。詩乃は彼に小さく首を横に振り、席を立ってそのあとを追った。路地の中は静まり返っていた。両側に建つ建物に遮られて陽射しはほとんど届かず、地面には細い光の帯だけが落ちていた。安奈は振り返ると、前置きもなく切り出した。「詩乃さん、どうしてあの人と二人きりでいるんですか?」その口調には、詰め寄るような響きがあった。「蓮司くんを裏切ったんですか?」詩乃は何も言わず、ただ静かに彼女を見ていた。詩乃が答えないのを見て、安奈はさらに焦ったように言葉を重ねた。「それに、蓮司くんといったい何があったんですか?ここ数日、蓮司くん、別人みたいなんです。ずっとあなたを探してますよ。あなたはどうしてここにいるんですか?私が会いに行っても、会ってくれないどころか、家にも入れてくれなくなったんですよ」最後のほうには、声にかすかな恨めしさが滲んでいた。詩乃には分かった。安奈の長い言葉の中で、本当に言いたいことはただ一つ。蓮司が、彼女に会わなくなったということだけだった。「離婚したの」詩乃は淡々と言った。「あなたも知っているでしょう?」安奈の目の奥に、一瞬だけ嬉しそうな光がよぎった。ほんのかすかな変化だったが、詩乃は見逃さなかった。安奈はすぐにその感情を押し隠し、心配そうな顔を作って、わざとらしくため息をついた。「こんなこと、私が言うことじゃないのは分かってるんですけど……蓮司くん、詩乃さんには十分優しくしていたと思いますよ。本当に離婚なさったんですね。私はてっきり、蓮司くんを試しているだけなのかと思っていました。離婚の原因って、何だったんですか?まさか、私のせい……なんてことはありませんよね?」安奈は小さく笑った。「私と蓮司くんの関係は、詩乃さんもご存じですよね。小さい頃から一緒に育ってきたんです。少しくらい距離が近くても、普通じゃありませんか。私のことで蓮司くんと離婚なさったのだとしたら……少し、分をわきまえていないと思います」

  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第10話

    一か月後。詩乃が、あの出来事を思い出すことは少なくなっていた。悪夢にうなされるのも、毎晩から時折に変わり、目を覚ましたときに全身が冷や汗で濡れていることもなくなった。一晩ぐっすり眠れるようになった。朝、悪夢ではなく陽射しに起こされる日も増えていった。この一か月、怜央は詩乃にこれ以上ないほどよくしてくれた。彼女が何気なく、この国のコーヒーは苦すぎると言えば、翌日には家に国内でも名の知れたバリスタが呼ばれていた。鍋が食べたいけれど近くに店がないと言えば、次の日には近所に鍋の店が開いた。ある日、ベランダから階下の花屋を何度か眺めていただけで、夕方に戻ると部屋には白いトルコキキョウの花束が飾られていた。怜央はわざとらしく恩を着せることもなければ、自分からその話を持ち出すこともなかった。まるで、すべてが当然のことのように。けれど詩乃は、ずっと待っていた。彼がいつ、自分の要求を口にするのかを。男が何の理由もなく、ここまで女に尽くすはずがない。彼女は、あの賭けを覚えていた。半年前のことだった。怜央は詩乃の前に現れ、ひどく馬鹿げた賭けを持ちかけた。半年以内に蓮司が改心したら、怜央はもう詩乃の前に現れない。二度と関わらず、そのまま姿を消す。もしそうならなかったら、詩乃は怜央についていき、彼の手配に従う。衣食住は彼が保証する。期限はない。そのときの詩乃は、ただ戸惑うばかりだった。蓮司の宿敵である男が、なぜそんなことをするのか分からなかった。蓮司の妻がどれほど惨めに暮らしているのかを見て、彼を笑いものにするためではないかと疑ったことさえある。けれどその半年、怜央はほとんど姿を見せなかった。連絡もない。現れることもない。存在感すらなかった。まるで最初からいなかったかのように静かだった。ときどき詩乃は、あれは自分が見た夢だったのではないかとさえ思った。だが結果として、怜央は勝った。しかも、完膚なきまでに。半年のあいだ、蓮司が改心することは一度もなかった。彼女に歩み寄り、機嫌を取ろうとしたこともない。それどころか、彼女が妊娠したことも、交通事故に遭ったことも、中絶したことも、何ひとつ知らなかった。詩乃が連れ出された日、怜央は自ら迎えに来た。黒い車が路肩に停まり、彼女の姿を見た

  • 愛して、離れて、もう振り返らない   第9話

    異国の地。窓の外には、見慣れない街並みが広がっていた。海の匂いを含んだ風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。詩乃は悪夢から目を覚ました。背中には、冷たい汗がびっしょりと滲んでいた。また、あの夢だった。彼女は布団の中で体を丸め、膝を抱えたまま、乱れた鼓動が少しずつ落ち着いていくのを待った。そのとき、温かな手が背中に触れた。軽く、ゆっくりと、何度も背中を撫でる。まるで、怯えた小動物を宥めるように。「もう大丈夫。大丈夫だ」低い声が、暗闇の中に響いた。少し掠れていて、それでも不思議と心が落ち着く声だった。詩乃は顔を横へ向けた。窓の外から差し込む月明かりの中、ベッドのそばに座る人影が見える。黒瀬怜央(くろせ れお)。蓮司の宿敵だった男。彼は濃い色の部屋着を着て、ベッド脇の椅子にもたれるように座っていた。手元には開いたままの本が置かれている。もうずいぶん長いあいだ、そこにいたようだった。詩乃は一瞬、ぼんやりした。声には、まだ寝起きの掠れが残っている。「どうして……ここにいるの?」怜央は彼女の背中に置いた手を離さなかった。声は淡々としていた。「佐藤さんが最近、夜中に起きるたびに君の泣き声を聞くと言っていた。眠れていないようだから、故郷に伝わるまじないを試してみたらどうかと。誰かがそばで夢を見張っていれば、悪夢は寄りつかないらしい」詩乃は彼を見た。喉の奥がきゅっと熱くなったが、涙はどうにか堪えた。怜央も、それ以上は何も言わなかった。ただ、手のひらで彼女の背中をゆっくりと撫で続けている。長い時間が過ぎ、詩乃の呼吸はようやく少しずつ落ち着いていった。離れたからといって、すぐにすべてを手放せるわけではない。五年以上の想いだった。彼女は確かに、本気で愛していた。けれど、その気持ちをひとつずつ思い返すたびに、胸が裂けそうなほど痛んだ。詩乃はスマホを手に取った。ブロックリストから蓮司の名前を開き、彼とのトーク履歴を一つひとつ遡っていく。最初の頃のメッセージは、どれも彼女が恐る恐る送ったものだった。【蓮司、今日は寒くなったから、秘書に上着を届けてもらったわ】【うん】【いつ帰ってくる?ご飯、作ってあるの】【分からない。待たなくていい】【分かった。仕事、

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status