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第4話

Author: ゴブリン
庭志はそれを聞くと、手に持っていたグラスを強くテーブルに置いた。「俺が許可したが、それがどうした?」

「私の許可もなく、どうして勝手に部屋に入って物を動かすの?」

「煙月、ここは神崎家だ。莉花は俺の婚約者だ。神崎家では彼女がどの部屋に入ろうと自由だ」

煙月は冷水を浴びせられたように固まった。

莉花は優しく「注意」した。「庭志、そんな言い方はだめよ。煙月が悲しむじゃない」

そして煙月に向き直り、続けた。「煙月、家政婦さんから聞いたんだけど、庭志の服や靴、ずっとあなたの部屋に置いてあったのよね。女の子は服が多いし、彼が半分のクローゼットを占領してたから、あなたの服が入りきらなかったでしょ? だから私が頑張って、彼の服を全部私たちの寝室に移したの」

庭志は昔から煙月にべったりだった。

子供の頃から彼女が一通もラブレターをもらえなかったのも、すべて庭志のせいだった。

その後、彼は自分の服まですべて煙月の部屋に運び入れた。「毎朝、煙月が選んでくれたシャツとネクタイを着て出勤できる」と、もっともらしい理由までつけて。

彼の服やネクタイがどこにあるか、本人よりも煙月のほうがよく知っていた。

煙月は急いで自分の部屋へ駆け上がった。

部屋の中は、まるで泥棒でも入ったかのような惨状だった。

服も、靴も、化粧品も、すべてが床に散らばっていて、見るに堪えないほどだった。

煙月は怒りを抑えきれず、床一面の混乱を指差して莉花に詰め寄った。「服の片付けって、こんなやり方ある?」

莉花はすぐに目を潤ませた。「ごめんなさい煙月、本当にうっかりして……」

「うっかりで私の部屋をここまで散らかせるの?随分とすごい『うっかり』ね!」

庭志がそれを聞いて眉をひそめた。「煙月、言葉に気をつけろ!」

煙月は笑った。「結局、私は何もしてないのに、また私が悪いのね?」

「莉花はお前の未来の義姉だ。敬意を持て」

「神崎庭志、自分の目で確認したら?」

庭志はゆっくりと階段を上がり、部屋の散らかりを見て一瞬驚いた。

けれど、それもほんの一瞬のことだった。

すぐに莉花に甘い笑みを向けた。「次からは俺たちの寝室は使用人に頼もう」

「でも、自分の服を他人に触らせたくないの。特に……ネグリジェは」

「ネグリジェ」という言葉を、莉花はわざと強調しながら口にした。頬には瞬く間に赤みが差す。

庭志は仕方なさそうにうなずいた。「わかった。じゃあ、これからは俺が片づけるよ。君は座って休んでて、な?」

莉花は舌を出して甘えた。「庭志、私ちょっとドジかもね」

「いいよ。俺がいるから、少しくらいドジでも全然いいさ」

煙月は目を閉じた。

これほどまでに「退職の引き継ぎ期間」が憎らしいと感じたのは、人生で初めてだった。

こんな混乱した状況を味わうくらいなら、もうとっくに国外に飛んでいたかった。

「煙月、莉花が壊した服や機材の数を教えろ。全部弁償する」

煙月は呆れて笑った。

まさか庭志が、お金で人の口を塞ごうとするなんて。

しかも、その相手がよりにもよって自分だなんて。

莉花がそっと彼女の腕を触り、小声で言った。「煙月、遠慮しないでたくさん請求してね。私がいるからいくらでも払ってくれるわ」

庭志は甘えるように言った。「君はもう外の人間と組んで夫の財布を空にする気か?」

莉花は可愛らしく舌を出した。「これからは煙月の義姉だもの。私、絶対に煙月の味方よ」

煙月は冷たく笑った。

外の人間。

そうだ。今、一番親しいのはあの二人。

彼女、煙月は所詮ただの神崎家の養女であって、完全なる「外の人間」だ。

その時、煙月の電話が鳴った。

青山先生からだった。

気持ちを整えてから、煙月は通話を押した。

「青山先生?」

「煙月、君が以前撮った鳥の写真とても評判が良くて、こちらの雑誌の編集長がネガを見たいと言ってる。もう一回送ってくれるか?」

「はい、少しお待ちください」

煙月は自分の部屋に戻った。

彼女は昔からフィルムカメラを愛用していて、撮影したネガは鍵付きの小さな引き出しに保管していた。

いつものように鍵を探そうとしたその時に、引き出しの表面が、ぐっしょりと濡れていることに気づいた。

「煙月、ごめんね……さっきコーヒーこぼしちゃって、それで汚しちゃいけないと思って……引き出し、丸ごと水で洗っちゃったの……」

その言葉を聞けば聞くほど、煙月の胸の内はどんどん冷えていった。

もう莉花に何も言いたくなかった。急いで鍵を差し込み、引き出しを開けた。

そして、目にした光景に、心が完全に折れた。

整然と並べてあったフィルムたちは、今や水の中に沈んでいた。

すでにほどけてしまったもの、変色しているもの、絡まり合って判別もつかないもの……溶け出した染料で、水はすでに褐色に濁っていた。

三年以上かけて撮ってきた、すべての作品のネガだった。

すべて、台無しになったのだ。

煙月は震えて言葉が出なかった。

いつの間にか、庭志が部屋に入ってきていた。状況を目にしながらも、無関心な口調で言った。「これも金額を教えろ。莉花と一緒に弁償するから」

煙月はついに爆発した。「お金で済む問題じゃないのよ!彼女は何も知らなかったとしても、あなたまで知らないの?私にとってこのフィルムがどれだけ大切か、あなたには分からないの?」

庭志は眉をひそめた。「でももうダメになったものはどうしようもないだろう? 怒ったって現実は変わらない。莉花は好意で服を片付けようとしただけで、コーヒーをこぼしたのはただの事故なんだ」

「事故だったら全部許されるの? 車で人を轢いても、『ごめんなさい』の一言で済むってこと?」

「煙月!」庭志の声が鋭くなった。「いい加減にしろ。フィルムと人の命を一緒にするな。写真なんて、また撮ればいい話だろう!」

そのとき、電話の向こうから青山先生の心配そうな声が聞こえた。「煙月、どうした? 何かあったのか?」

煙月は重い息を吐いて答えた。「すみません先生……ネガが……今はちょっと渡せそうにありません。改めて、新しい写真を撮ってお送りします」

「わかった、急がなくていいよ。ビザも半月はかかるし」

「はい」

庭志が聞き逃さなかった。「ビザ?国外に行くのか?」

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