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色を奪ったあなたへ、さようなら

色を奪ったあなたへ、さようなら

Por:  徒然Completado
Idioma: Japanese
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御影樹(みかげ いつき)は、私が明るい色の服を着るのを嫌がった。 派手な色は安っぽい。自分まで安く見られる。 そう言われていたから、結婚して六年。 私のクローゼットには、黒と白とグレーの服しかなかった。 一度だけ、違う色を着たことがある。 樹が新鋭画家賞を受賞した日だった。 私は、初めて彼に会った日に着ていた小花柄のワンピースを選び、オーダーメイドの小さなケーキを手に、お祝いに向かった。 「脱げ。じゃなきゃ、俺の車には乗せない」 その場にいた人たちが、一斉に私を見た。 笑っていた顔が、今にも崩れそうになる。ケーキの袋の持ち手が、手のひらに食い込んで痛かった。 「樹、帰ってから話そう?」 けれど彼は、何も言わずに車を出した。 その日は、ひどい雨だった。 樹は一度も振り返らなかった。知らない街に、雨の中、私を置いていった。 …… そして、カラフル・マラソンの取材に行った日。 私は、一組のカップルに声をかけた。 二人が顔を上げる。 樹と、彼の幼なじみの森美詩(もり みう)だった。 美詩は楽しそうに話しながら、小花柄のワンピースの裾を揺らしていた。 まるで蝶みたいに、樹のそばで軽やかに笑っている。 私は目を伏せた。 黒ずくめの自分が、視界に入る。 なるほど、安っぽかったのは、色じゃなかった。 私だった。

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Capítulo 1

第1話

御影樹(みかげ いつき)は、私が明るい色の服を着るのを嫌がった。

派手な色は安っぽい。自分まで安く見られる。

そう言われていたから、結婚して六年。

私のクローゼットには、黒と白とグレーの服しかなかった。

一度だけ、違う色を着たことがある。

樹が新鋭画家賞を受賞した日だった。

私は、初めて彼に会った日に着ていた小花柄のワンピースを選び、オーダーメイドの小さなケーキを手に、お祝いに向かった。

「脱げ。じゃなきゃ、俺の車には乗せない」

その場にいた人たちが、一斉に私を見た。

笑っていた顔が、今にも崩れそうになる。ケーキの袋の持ち手が、手のひらに食い込んで痛かった。

「樹、帰ってから話そう?」

けれど彼は、何も言わずに車を出した。

その日は、ひどい雨だった。

樹は一度も振り返らなかった。知らない街に、雨の中、私を置いていった。

……

そして、カラフル・マラソンの取材に行った日。

私は、一組のカップルに声をかけた。

二人が顔を上げる。

樹と、彼の幼なじみの森美詩(もり みう)だった。

美詩は楽しそうに話しながら、小花柄のワンピースの裾を揺らしていた。

まるで蝶みたいに、樹のそばで軽やかに笑っている。

私は目を伏せた。

黒ずくめの自分が、視界に入る。

なるほど、安っぽかったのは、色じゃなかった。

私だった。

「あれ、紗和じゃん!」

美詩は笑いながら、樹の腕に絡めた手にさらに力を込めた。

「紗和、悪いのは樹だよ。今回の優勝賞品、私へのプレゼントにするって言い出してさ。私が甘やかしすぎたから、こんなことになっちゃった」

今回のマラソンは、カップル向けのイベントだった。

優勝賞品は、二人だけの刻印を入れられるプラチナリング。

私は、樹の手元に目を落とした。

いつもどおり、そこには何もない。指輪の痕すら残っていなかった。

一方で、私の指には、結婚指輪がぽつんとはまっている。

六年ものあいだ、ほとんど体の一部みたいになっていたはずのそれが、今は妙に指に当たった。

胸の奥に湧いた違和感を飲み込み、私はなだめるように笑った。

「今回はカップル取材なので、こちらは――」

美詩が歓声を上げ、樹の腕を揺らした。

「私、出たい!」

樹は眉をひそめた。

それでも最後には、彼女を甘やかすように笑う。

「仕方ないな。少しだけ付き合ってやる」

私も、どうにか笑顔を作った。

付き合っていた頃から、カラフル・マラソンのゴールでキスをしたカップルは一生幸せになれる、という話を聞いていた。

でも樹は、人混みが好きじゃないと言った。

私のことを、子どもっぽすぎるとも言った。

だから私は、物分かりのいいふりをして、その話をしなくなった。

六年かけて、自分をモノトーンに染めながら。彼は芸術家だから。人に合わせないのも、彼らしさなのだと。そう、自分に言い聞かせていた。

今になって、ようやく分かった。

彼が折れるのは、いつだって美詩のためだけだったのだ。

「御影紗和(みかげ さわ)、始めてくれ」

また、その呼び方。

姓も名もつけて呼ばれるたび、私たちは同じベッドで眠っているだけの他人なのだと思い知らされる。

何度もこなしてきた相性クイズだった。けれど今回だけは、質問を重ねるほど、顔から血の気が引いていった。

どうして彼が毎年、私がアレルギーを起こす白いバラを誕生日に贈ってきたのか。

どうして家にまるで合わないピンクのバス用品一式を、置いたままにしていたのか。

どうして寝るときのアイマスクが、妙なキャラクター柄だったのか。

私は深く息を吸い、震えそうになる声を押さえ込んだ。

「おめでとうございます。お二人の相性度は100%です」

一刻も早く、取材を終わらせたかった。

けれど、美詩に引き止められる。

「紗和、カップル取材なのに、お決まりの祝福コメントとかないの?」

私は一瞬、固まった。

思わず樹を見る。

彼は顔をそむけ、私の視線から逃げた。

私は目に滲んだものを瞬きで押し戻し、一言ずつ、私の夫とその幼なじみを祝福した。

「どうぞ、末永くお幸せに」

取材は終わった。

樹はそのときになって、ようやくまずいと思ったらしい。

「紗和、美詩はそういう性格なんだ。気にするな」

なのに、私は少し笑いたくなった。

樹は昔から、言葉の少ない人だった。結婚式の誓いの言葉さえ省いた。

雷が怖くて彼の腕の中で震えていたときも、浅く息をするだけで、「怖がるな」の一言すらくれなかった。

その彼が、私に向けて言った一番長い言葉が、幼なじみをかばうためのものだなんて。

「やだ、紗和って本当にプロ意識ないんだね」

我に返ると、美詩が露骨に嫌そうな目で私を見ていた。

「こんなにださい黒いスーツで取材に来るだけでもどうかと思うのに、マラソンにもついて走らないなんて。そんなので、いい記事なんか書けるの?」

私が反応するより早く、彼女は突然、私を突き飛ばした。

ハイヒールでは踏ん張れず、私はコースの内側に倒れ込んだ。

全身にカラーパウダーを浴び、足首もひねってしまう。

地面に倒れたまま、痛みに息をのむ。

舞い上がった粉で、さらに咳き込んだ。

カメラマンに助け起こされた頃には、美詩はもう樹を引っ張って、遠くへ走っていた。

「早く走って!優勝できなくなっちゃう!」

風に乗って、樹の甘い声が届く。

「まったく、いたずらっ子だな」

カメラマンが水を差し出し、大丈夫かと尋ねてくれた。

私は痛みで滲んだ涙をさりげなく拭い、カメラに向かって笑った。

「大丈夫です。私が足を滑らせただけです」

スマホが震えた。

樹からのメッセージだった。

【きれいにしてから戻ってこい】

目の奥が熱くなる。

私は【わかった】と返した。

一日分の取材を終える頃には、私はすっかりみすぼらしい姿になっていた。

ハイヒールを手に提げ、ドリンクショップの前を通りかかる。

【二杯目半額】

ふと、前にもそれを買ったことを思い出した。

褒めてほしくて差し出したのに、最後には樹に中身をトイレへ流された。

私は口元をかすかに歪め、角を曲がった。

そこで、樹と美詩が同じドリンクを手にしているのが見えた。

期待に満ちた美詩の視線を受けて、樹は笑いながら、彼女の鼻先を軽くつつく。

「けっこううまい」

その光景を見て、私は妙にすとんと腑に落ちた。

これが普通なのだ、と。

私は静かに視線を外し、その場を離れた。

ホテルでシャワーを浴びてから家に戻り、樹のアトリエの扉を叩いた。

「薬、塗ってくれない?」

中からは、筆がキャンバスを走る音がした。

返事はない。

私はため息をつき、自分で薬を塗った。

夜になっても、樹はアトリエにこもったままだった。

私は布団の中で体を縮め、魂まで砕かれそうな雷鳴を聞いていた。

ふいに、隣が沈む。

誰かが布団越しに私を抱き寄せた。

樹は何も言わなかった。

ただ、私の背中を軽く叩くだけだった。

私は布団から顔を出した。風のように軽いキスが、額をかすめる。

「お前の会社の取材、受けることにした」

私の目がぱっと明るくなった。

けれど、まだ何も言わないうちに、彼は続けた。

「今日、美詩がしたことがネットに出たら、いろいろ言われる。

美詩は子どもっぽいところがある。お前が大人の対応をしてくれ。

取材のマスター映像を持ち帰ってこい」

珍しく長い言葉。珍しく優しい態度。

結局、それも美詩のためだった。

私は自嘲するように口元を引き、なぜかまた足首が痛み出した気がした。

「記事の本数が足りなかったら、私、クビになるかもしれない」

樹の目は静かだった。

彼は手を伸ばし、私の耳にかかった髪をそっと整える。

「だから、お前の会社の取材を受けると言ってる」

私は樹を見つめた。

その目も、見慣れてしまえばどうということはないのだと、ふと思った。

私は承諾した。

樹の新作を取材できれば、昇進は難しくない。

取材当日、私は現場へ急いだ。

だがそこには、同じ会社のライバル、藤沢瑛里(ふじさわ えり)もいた。

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第1話
御影樹(みかげ いつき)は、私が明るい色の服を着るのを嫌がった。派手な色は安っぽい。自分まで安く見られる。そう言われていたから、結婚して六年。私のクローゼットには、黒と白とグレーの服しかなかった。一度だけ、違う色を着たことがある。樹が新鋭画家賞を受賞した日だった。私は、初めて彼に会った日に着ていた小花柄のワンピースを選び、オーダーメイドの小さなケーキを手に、お祝いに向かった。「脱げ。じゃなきゃ、俺の車には乗せない」その場にいた人たちが、一斉に私を見た。笑っていた顔が、今にも崩れそうになる。ケーキの袋の持ち手が、手のひらに食い込んで痛かった。「樹、帰ってから話そう?」けれど彼は、何も言わずに車を出した。その日は、ひどい雨だった。樹は一度も振り返らなかった。知らない街に、雨の中、私を置いていった。……そして、カラフル・マラソンの取材に行った日。私は、一組のカップルに声をかけた。二人が顔を上げる。樹と、彼の幼なじみの森美詩(もり みう)だった。美詩は楽しそうに話しながら、小花柄のワンピースの裾を揺らしていた。まるで蝶みたいに、樹のそばで軽やかに笑っている。私は目を伏せた。黒ずくめの自分が、視界に入る。なるほど、安っぽかったのは、色じゃなかった。私だった。「あれ、紗和じゃん!」美詩は笑いながら、樹の腕に絡めた手にさらに力を込めた。「紗和、悪いのは樹だよ。今回の優勝賞品、私へのプレゼントにするって言い出してさ。私が甘やかしすぎたから、こんなことになっちゃった」今回のマラソンは、カップル向けのイベントだった。優勝賞品は、二人だけの刻印を入れられるプラチナリング。私は、樹の手元に目を落とした。いつもどおり、そこには何もない。指輪の痕すら残っていなかった。一方で、私の指には、結婚指輪がぽつんとはまっている。六年ものあいだ、ほとんど体の一部みたいになっていたはずのそれが、今は妙に指に当たった。胸の奥に湧いた違和感を飲み込み、私はなだめるように笑った。「今回はカップル取材なので、こちらは――」美詩が歓声を上げ、樹の腕を揺らした。「私、出たい!」樹は眉をひそめた。それでも最後には、彼女を甘やかすように笑う。「仕方ないな。少しだけ付
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第2話
彼女は、鮮やかな青いワンピースを着て、マイクを整えていた。私が声をかけるより早く、樹はうなずいた。「藤沢さん、始めてください」樹は口数こそ少ない。けれど、どの記者が相手でも見栄えのする記事が書けるだけのことは、十分に話していた。ただ、その向かいに座っている記者は、私ではなかった。私は壇下に立ったまま、黒いスーツに包まれた自分を見下ろした。それから、樹の向かいにある鮮やかな青へと目を移す。卒業した年。将来に迷っていた私を、彼はこう慰めてくれた。「何を心配してるんだ?俺が有名な画家になったら、お前が俺を取材すればいい」あのとき、私は顔を上げた。彼が身をかがめ、私にキスをする。シャッターが一度光った。その卒業写真には、彼の嘘まで写り込んでいた。取材が終わると、私は樹の袖口を掴んだ。問いただしたかったのは、今日のことなのか。それとも、あの日の約束なのか。自分でも分からなかった。「私が取材するって、約束したよね?」樹の表情は変わらない。私を見る目は、淀んだ水面みたいに静かだった。結婚して六年。私は、その目が何を意味するのか、嫌というほど知っている。家を出て、鍵を忘れたとき。彼がどこにいるのか分からなくて、私だけが焦って汗だくになったとき。彼の乗った飛行機が無事に着いたか心配で、夜中まで眠れなかったとき。樹はいつも、その目をしていた。どこか他人事みたいに、私を物分かりの悪い女だと責める目。でも、彼は知らない。私が彼を好きになったのは、その目のせいだった。名もない小さな展覧会だった。片隅に、一枚の絵が飾られていた。私がその絵に見入っていると、彼が尋ねた。「その絵、好き?」振り返った私は、彼の瞳に宿る星の光にぶつかった。そこから、もう引き返せなくなった。今、その光は消えている。私の声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。「新作の予告が必要なの。そうじゃないと、私、クビになるかもしれない」樹は眉を上げた。その声は、氷水みたいに冷たかった。「予告なら、もう彼女に話した。クビになるなら、お前の能力不足だ」樹は、私が握って皺になった袖口を整えると、一度も振り返らずに歩き去った。胸の奥から冷たさが広がっていく。けれど、それに
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第3話
私は聞こえなかったふりをして、気に入ったウサギのぬいぐるみを手に取った。そのまま店を出ようとする。「紗和!」手首を、樹に掴まれた。彼は私の目を見て、一瞬だけ動きを止める。「お前……なんか変じゃないか?」「そう?」樹は何か言いかけた。けれど、手に込める力はさらに強くなる。痛みに顔をしかめた瞬間、美詩が私の手からぬいぐるみを奪い取った。「これ、かわいい!紗和、私のものを奪ったんだから、これくらい譲ってよ」「美詩、いたずらしないで、それは彼女が先に取った――」樹はぬいぐるみを取り返し、私に渡そうとした。「いいよ」樹は怪訝そうに私を見る。私は笑った。「美詩にあげて。ちょうど、私もいらなくなったところだから」言い終えた直後、美詩は樹の腰に両腕を回して抱きついた。「紗和って太っ腹。じゃあ、これも譲ってくれる?」「ふざけるな!」樹の目が、ほんの一瞬だけ慌てたように揺れた。彼は、腰に絡みついた美詩の腕を外そうとする。私は、二人のペアリングが照明の下できらきら光るのを見つめていた。そして、樹が唯一、結婚指輪をはめた日のことを思い出す。六年前の、結婚式の日だ。前に一度、どうして指輪をしないのかと聞いたことがある。彼は、指輪をしていると絵が描きにくいと言った。私は六年間、それを信じていた。「持っていけば」樹の動きが、ぴたりと止まった。顔色を沈ませ、にこにこと笑う私の目を見る。私は踵を返した。「譲るわ」ギフトショップの入り口に立つと、雨はもう本降りになっていた。「紗和、お前どうした?」私は振り返り、雨の幕を見つめた。もう愛していないだけだとは、言わなかった。美詩が小さく身を震わせた。「樹、寒い」樹は上着を脱いだ。そして、私のむき出しの腕を一度だけ見る。私は、好きにすれば、と目で示した。彼は満足げにそのまま美詩の肩に上着をかけた。「雨が強くなってきた。先に美詩を送ってから、迎えに来る」私はうなずいた。二人が一枚の上着をかぶり、雨の中へ走っていくのを見送る。美詩の家は、ここから車で十分ほどの距離にある。私はハイヒールのまま、一時間半待った。送ったメッセージには、ひとつも返事がなかった。「お客様、そろそろ閉店の
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第4話
到着してから、私はネットで内見を予約していた家を見に行った。部屋は広く、南向きで日当たりもいい。庭には、枝を大きく広げたマンゴーの木まであった。大家さんは満足そうに言った。「これはね、南国から取り寄せたものなんです。大事に育てれば、毎年実がなりますよ」私は小さく笑い、マンゴーの幹にそっと触れた。「マンゴーなんて、もうずいぶん食べていません」「どうしてですか?」樹にアレルギーがあったから。それに、あの鮮やかな黄色を見るのも嫌がったから。私はその理由を飲み込み、軽く手を振った。「大した理由じゃありません。今はもう、関係のないことですから」一週間後、私は新しい会社に入社した。会社では歓迎会を開いてくれて、私はかなり飲んだ。少しふらつきながら家へ向かっていると、知らない番号から電話がかかってきた。深く考えずに出る。「紗和、お前、何を騒いでる?」電話の向こうから聞こえた声には、妙に覚えがあった。私は酔いでぼんやりする頭を揺らした。「誰?元旦那に声、似てるね」そう言って、自分で先に笑ってしまう。「ありえないか。あの人は大画家だから。毎日、自分のミューズにお茶を出したり、優しく気遣ったりして、忙しいはずだもんね」電話の向こうの男が、もう一度口を開いた。「俺だ。樹だ。ひとまず戻ってこい。誤解なら、いくらでも解ける」御影樹。昔の私なら、その名前だけで胸が跳ねた。今では、酔いを一気に冷ます氷水でしかない。「戻る?どこへ?私の好きな服が一着もなくて、母の形見ひとつ置いておけない家に?」彼はため息をついた。「違う、そうじゃ――」私は彼の言葉を遮った。「それとも、誤解って何?あなたと彼女がカップル取材を受けたこと?ペアリングをしていたこと?私が仕事を失う原因を作ったこと?それとも、何度も私を雨の中に置き去りにしたこと?」電話の向こうが、しばらく黙った。次に聞こえた声は、少しかすれていた。「そんなに傷ついていたなんて、知らなかった」私は怒りを通り越して、笑ってしまった。「知らなかった?そんなに何も見えてなくても、画家ってできるんだね。私たちの間に、誤解なんてない。あなたはただ、私が傷ついているかどうかなんて、最初から気にもしていなかっただけ
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第5話
これ以上、彼の芝居に付き合う気にはなれなかった。私は苛立ちを隠さずに言った。「じゃあ、もう帰ってくれる?」彼は口を開いた。私を引き止めようとしたらしい。けれど、手についた花粉が気になるのか、近づくことも離れることもできずにいた。私は深く息を吸い、彼の横を通り過ぎる。そのとき、震えるような小さな声が聞こえた。「悪かった」樹が、こんなふうに頭を下げて謝るところを、私は一度も見たことがなかった。ひどくばつが悪そうで。ひどく、御影樹らしくない。昔の私なら、きっとその顔をじっくり眺めていただろう。彼が耳まで赤くなるまでからかって、ようやく満足したはずだ。でも今は、その芝居じみた謝罪が気持ち悪いだけだった。……仕事は順調だった。樹と過ごした六年間で積み上げた美術の知識を生かし、私は国際的にも知られる画家、フランクへの取材を無事に取りつけた。共通の話題が多かったこともあり、私たちはそれなりにうまくやっていた。彼は樹とは違う。外向的で、気さくで、いつも目元に笑みを浮かべている。話も弾む人で、場の空気を冷ますことがなかった。樹と並んでも見劣りしない顔立ちのせいもあって、私は少しだけフランクに好感を持っていた。二度目の取材が終わり、フランクを会社の外まで見送ったときだった。そこで、樹に出くわした。彼は車にもたれていた。私を見ると、数歩でこちらへ近づいてくる。そこでようやく、彼が何を持っているのか分かった。キャンディの瓶だった。けれど、中に入っていたのはキャンディではない。透明なキャンディの包み紙で折られた、たくさんの折り鶴だった。付き合って二年目の頃、彼に聞かれたことがある。どうしていつも折り鶴を折っているのか、と。私は言った。このキャンディ瓶いっぱいに折り鶴を詰めたら、それを「結納品」にして、私があなたを「お嫁にもらう」のだと。彼はおかしそうに笑い、私の頭を撫でただけで、何も言わなかった。けれど、私が瓶いっぱいのキャンディを食べ切って虫歯になる前に、彼は黙ってプロポーズしてくれた。私は急に怖くなった。フランクに、私たちの過去を知られるのが怖かった。樹が本当にそのキャンディ瓶を持って、もう一度、私の前で片膝をつくのが怖かった。樹は私
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第6話
あのときの言葉を、そのまま返した。彼も思い出したのだろう。私の手首をつかむ力が、ふっとゆるんだ。フランクの車に乗ってから、私は気まずくなって頭をかいた。「変なところ見せちゃったね。元旦那、ちょっとおかしいんだ。助けてくれてありがとう」フランクは笑った。「お礼なんていいよ」彼は私のシートベルトを引き出して留めると、片目をつむってみせた。「ただ、さっき言ったこと、いつでも本気だから。紗和が俺と一緒にいたいと思ってくれるなら、俺の婚約者は紗和だよ」私は返事をしなかった。失敗した結婚を終えたばかりで、もう少し時間をかけて自分を取り戻したい。自分の気持ちを整理したい。そう伝えるだけにした。車を降りるとき、私は振り返って彼を見た。「キャンディの瓶、返して。あの人のものを、あなたのところに残しておくわけにはいかないから」フランクは首を横に振った。「だからこそ、紗和のところには置いておけないよ」それでも説得しようとすると、彼は胸を押さえ、今にも泣き出しそうな顔をした。「紗和、元旦那のために俺のお願いを断るの?」私は押し切られ、結局その瓶は預けることにした。……一週間後、海の向こうから荷物が届いた。樹が署名した離婚届だった。私はようやく息をついた。日々は、少しずつ正しい軌道に戻っていった。気の置けない友人が何人かでき、記者としての仕事も順調に進んだ。ほどなく昇進も決まり、恋の気配まで少しずつ増えてきたように思えた。樹は、まるで消えてしまったかのようだった。彼の消息を再び耳にしたのは、メディアの記事を通してだった。画風が激変したという。以前の、みずみずしく自然な雰囲気はすっかり消え、代わりに画面いっぱいの重苦しさと憎しみが広がっている、と。彼が公の場で、自分のインスピレーションの源であるミューズは、実は元妻だったと名指しした。さらには、取り憑かれたように絵を描く時間を削って、いわゆる恋愛カウンセラーに相談し、大金をだまし取られたという話まであった。私はそれを聞いて、ただ笑った。日々は相変わらず、静かに過ぎていく。彼はまた新作を発表した。テーマは、やはり『永遠の愛』。けれど内容は第一作よりもさらに痛々しく、さらに狂気じみていた。ま
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第7話
彼は、私の首元の赤いマフラーを何度も整えた。そして、風邪だけはひかないでくれと小さくぼやく。私は思わず笑った。彼があの赤い毛糸玉を受け取ったとき、涙を流していた姿を思い出したからだ。あんなに大柄な人が、ぼろぼろになった毛糸玉を抱えて、ぐしゃぐしゃに泣いていた。しゃくり上げながら、絶対に直すと言っていた。私は、編み針に触ったこともないくせに、絵を描くことしかできない人がどうやって直すの、と笑った。彼は何も言わなかった。ただ目を赤くしたまま、その夜のうちに十数パターンものマフラーの絵を描き、私に確認させた。ここを直して。そこは違う。そうして、元の形を一つずつ確かめていった。その頃から、彼はよく姿を消すようになった。何をしているのか、妙にこそこそしていた。私は、彼が編み物教室に通っていることに気づかないふりをした。背中の後ろに隠した編み針も、見ていないふりをした。本当に、ばかな人だ。編み物教室の申し込みメールはスマホに堂々と残っているし、あんなに長い編み針を横向きに背中へ隠せるはずもないのに。……私の誕生日の日。彼は、昔とそっくり同じ赤いマフラーを取り出した。私はそれを巻き、彼の腕に寄り添って笑った。「これで、また支えが二つになった」彼には、意味が分からなかったはずだ。それでも、私と一緒に笑ってくれた。私たちはふざけ合いながら玄関へ向かった。そこで、呼んでもいない客に出くわした。樹はギフトバッグを提げていた。その後ろには、いかにも傷ついたふうな顔をした美詩が立っている。私たちを見るなり、樹は慌ててギフトバッグから赤いマフラーを取り出した。急いで私に見せようとして、私の首元に巻かれているものに気づく。以前と、まったく同じ赤いマフラー。樹は、手の中のマフラーを握りしめた。柔らかいはずのそれを握りながら、目元を赤くしている。「これは俺が編んだ。お前が戻ってきてくれるのを、待っていた」褒めてほしそうな言葉だった。けれど今の彼は、そのマフラーを私に見せることさえ恥じているようだった。きっと、気づいたのだ。良かれと思って入れた小さな柄や模様のせいで、それがもう、元のマフラーとは別物になってしまったことに。彼がどんな気持ちなのか、私
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