Share

第9話

Author: ととまる
「んっ……んんっ!」

真帆は声を上げようとしたが、口には詰め物をされており、くぐもった音しか出なかった。

必死に身をよじる真帆のそばへ、看護師が歩み寄ってくる。

その手には、麻酔薬の入った注射器が握られていた。

「奥様、抵抗なさらないでください。黒川社長から、和香様を必ず助けるようにと指示されています」

看護師は真帆の腕を押さえ、静かに言った。

「少しだけ我慢してください。すぐに終わりますから」

冷たい薬液が、血管の中へ流れ込んでいく。

真帆は大きく目を見開き、頭上の無影灯を見つめた。

目尻から、涙が音もなく流れ落ちる。

恭介。

どうして――

どうして、私にこんなことができるの。

意識が完全に途切れる直前、扉の向こうから恭介の声が聞こえた。

「手術中に何かあった場合は、和香を優先しろ」

……

再び目を覚ましたとき、真帆のそばには誰もいなかった。

ただ一人、恭介の秘書である石田圭介(いしだ けいすけ)が、ベッドの脇に立っていた。

「奥様、お目覚めになりましたか」

石田は丁寧に頭を下げた。

「社長はここ数日、どうしても外せない用件があり、しばらくこちらへは来られません。奥様がお怒りになるのも承知しておりますが、今回のことについては、後日、社長ご本人から説明なさるとのことです」

そう言うと、石田は一通の書類と、宝石箱を差し出した。

「こちらは社長から奥様への贈り物です。都心にある邸宅は、すでに奥様名義へ変更されています。こちらのジュエリーも、先日のオークションで落札したものです。きっと奥様にお似合いになると、社長がおっしゃっていました。今後も……相応の償いをさせていただくつもりです。どうか、社長にも事情があったことをご理解いただければと……」

真帆はゆっくりと顔を向け、目の前に並べられた高価な品々を見つめた。

乾いてひび割れた唇が、かすかに歪む。

やがて、真帆の口から笑い声が漏れた。

初めは小さかったその声が、次第に大きくなり、悲鳴にも似たものへ変わっていく。

涙が堰を切ったようにあふれ、瞬く間に枕を濡らした。

「償い?あの人は、こんなもので何を償えると思っているの?」

石田は目を伏せた。

「奥様、社長もやむを得ず――」

「出ていって!」

真帆は宝石箱をつかむと、残された力を振り絞り、扉へ向かって投げつけた。

箱が床に落ち、鋭い音を立てる。

「そんな汚らわしいものを持って、今すぐ出ていって!」

真帆は激しく肩で息をしながら、赤く充血した目で石田をにらみつけた。

「恭介に伝えて。私があの人に求める償いは、たった一つだけ。愛する和香と一緒に、二度と私の前に現れないことよ。私の人生から、完全に消えて。もう二度と――絶対に、恭介の顔なんて見たくない!」

石田は、今は何を言っても無駄だと悟ったのだろう。

それ以上何も言わず、急いで病室を出ていった。

扉が閉まると、真帆は震える手を背中へ回し、腰のあたりに触れた。

ひどく痛んだ。

骨髄を採取された箇所からは、今も血がにじんでいる。

けれど、そんな痛みは胸の苦しみに比べれば、ほんのわずかなものだった。

このところ味わってきた、数々の苦しみが次々と脳裏によみがえる。

恭介の冷たい態度。

和香の悪意に満ちた挑発。

姉ばかりをかばう両親。

留置場で受けた暴力。

地震で負傷したとき、恭介が迷わず和香を選んだこと。

そして今度は、和香を救うために薬を盛られ、無理やり手術台へ乗せられた。

恭介は、ただ人違いをしただけだったのかもしれない。

けれど、その間違いによって、真帆はすべての真心と誇りを奪われた。

涙が堤防を決壊させたように、次々とあふれ出した。

真帆はもう耐えられなかった。

見捨てられた子どものように、冷たい病床の上で身体を丸め、声を上げて泣いた。

両肩が激しく震える。

その泣き声は絶望に満ち、息が詰まるほど苦しげだった。

このひと月の間に積み重なった悔しさも、悲しみも、壊された心も、すべて涙とともに吐き出そうとするかのようだった。

胸が裂けそうになるほど泣き続けた。全身が震え、やがて喉が潰れ、声さえ出なくなった。

最後には、ただ身体を震わせ、音もなく涙を流すことしかできなかった。

どれほど時間が経ったのか分からない。

突然、スマホの着信音が鳴り響き、息苦しいほどの静寂を打ち破った。

中村弁護士からだった。

「高瀬さん、離婚届が正式に受理されました。これですべての手続きは完了です。必要であれば、市役所で離婚届受理証明書を申請できます」

真帆の涙が、ぴたりと止まった。

離婚が――

正式に成立した。

真帆は深く息を吸い、激痛に耐えながら身体を起こした。

「今から市役所へ行きます」

看護師たちは必死に引き止めたが、真帆は聞き入れなかった。

無理を押して退院手続きを済ませ、その足で市役所へ向かった。

窓口で申請を済ませ、しばらく待ったあと、真帆は一枚の離婚届受理証明書を受け取った。

そこには、黒川恭介との離婚届が正式に受理されたことが、淡々と記されていた。

証明書に記された「離婚届受理」の文字が、胸の奥に冷たく突き刺さった。

けれど同時に、それは三年間続いた愚かな結婚が、ようやく終わった証でもあった。

真帆は一度自宅へ戻った。だが、そこに未練など一つもなかった。

すでにまとめてあった荷物を持ち、そのまま空港へ向かう。

出発ロビーは、大勢の旅行客で混み合っていた。

真帆は大きな窓の前に立ち、滑走路を離着陸する飛行機を見つめた。

そしてスマホを取り出し、何も見なくても入力できるほど覚えている番号を開いた。

指先を画面の上で止めたまま、長い間動けなかった。

それでも最後には、震える指で一文字ずつ打ち込んだ。

【恭介、私、もう行くね。離婚届が受理されたことを証明する書類は、書斎に置いてある。昔、あなたを助けたのが和香だったことも、私をその人だと思い込んでいたことも、全部知った。

私は、誰かを愛することもできるし、手放すこともできる。あなたがいなければ生きていけないわけじゃない。だから、三人で続けてきたこの関係から、私はもう降りる。

これからは、それぞれ別の道を歩こう。あなたと私の間には、もう何も残っていない】

送信を終えると、恭介へつながるすべての連絡先を受信拒否にした。

そして、スーツケースを引きながら、一歩ずつ搭乗口へ向かった。

腰の傷からは、まだ血がにじんでいた。

足を踏み出すたびに、身体を貫くような痛みが走る。

それでも真帆は、一度も振り返らなかった。

やがて飛行機は滑走路を離れ、厚い雲を突き抜けて上空へ昇っていった。

真帆は窓越しに、眼下で次第に小さくなっていく街を見つめた。

さようなら。

恭介。

もう二度と、会うことはない。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 愛の果てに、君はいない   第20話

    その言葉は、どんな責めよりも、どんな罰よりも、恭介を深く傷つけた。全身から骨を抜かれたように、その場へ崩れ落ちる。瞳は虚ろで、魂さえも真帆の言葉とともに、パリの冷たい空気へ溶けて消えてしまったようだった。もう泣きもせず、笑いもしない。ただ呆然と座り込み、捨てられ、存在する意味を失った人形のように動かなかった。翌朝、真帆は玄関前に置かれた茶封筒を見つけた。中に高価な贈り物は入っていなかった。あったのは、一通の手紙だけだった。便箋はひどくしわになり、文字も大きく乱れている。涙でインクがにじんでおり、激しい苦しみの中、意識さえ定かでない状態で書かれたことが分かった。【真帆へ。すまなかった。この言葉があまりにも軽く、君が受けた傷のほんの一部すら償えないことは分かっている。俺はようやく知った。一度犯してしまえば、二度と取り返しのつかない過ちがあることを。割れた鏡は、どれほど丁寧につなぎ合わせても、ひびが消えることはない。君に許してほしいとは言わない。そんなことを望むのは、また別の形で君を縛ることになるから。ただ、君が無事でいてほしい。穏やかに笑い、この好きな街で、本当に望んでいた人生を生きてほしい。俺はパリを離れる。これからは二度と、君の生活を乱さない。もしも――もし、次の人生があるのなら。そのときだけは、もう一度機会をくれないだろうか。最初から、きちんと君を愛したい。誰かと取り違えず、君を傷つけず、ただ君一人だけを愛したい。黒川恭介絶筆】手紙には、公証を受けた法的書類も同封されていた。恭介は、黒川グループの株式の70%を、無条件かつ撤回できない契約によって、真帆へ譲渡していた。真帆が何もしなくても、黒川グループ最大の株主となり、財界全体を揺るがすほどの富と権限を手にすることになる。真帆は手紙と書類を手に、長い間窓辺に立っていた。ガラス越しに差し込む朝の光が、静かな表情を照らしている。やがて真帆は、手紙を丁寧に折りたたみ、引き出しの最も奥へしまった。一方、株式譲渡に関する書類は弁護士へ預けた。その資産をもとに支援基金を設立し、家庭内暴力や深刻な精神的被害に苦しむ女性たちを支援するよう依頼した。真帆には、恭介の金など必要なかった。彼の懺悔もいらない。望んで

  • 愛の果てに、君はいない   第19話

    「必要だった!」恭介は焦ったように起き上がろうとした。だが、その動きで傷口が引きつり、鋭い痛みに息をのむ。額には細かな冷や汗が浮かんでいた。それでも恭介は、頑なに真帆から目をそらさなかった。その瞳には、拭いきれない後悔と苦しみが深く沈んでいる。「真帆……地震のとき、俺は選ぶ相手を間違えた……あのことを、ずっと後悔していた……だから今度は……命を懸けて、君を選んだんだ……」「でも、私はもう気にしていない」真帆は彼の言葉を遮った。澄んだ眼差しは、氷のように冷たかった。恭介の瞳が大きく見開かれる。その一言に、恭介は全身を硬直させた。「あなたが誰を選ぶかも、どんな怪我を負ったかも、命を懸けたことも……今の私には、もう何の意味もない」真帆は椅子から立ち上がり、ベッドの上の恭介を見下ろした。一語ずつ、はっきりと告げる。「恭介、愛には限りがあるの。あなたは三か月かけて、私が三年間抱いてきた想いを、すべて使い果たさせた。今のあなたは、私をかばって刺された、ただの他人よ。助けてくれたことには感謝する。でも、それだけ」恭介の顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。瞳の奥にかろうじて残っていた最後の希望も、完全に消えていく。まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭が、風にかすかに揺れたあと、そのまま静かに消えてしまうようだった。底のない絶望が、一瞬で恭介をのみ込んだ。口を開いたものの、声は出なかった。やがて視界が暗く閉ざされ、再び深い闇の中へ沈んでいった。退院後、恭介の心は完全に壊れた。真帆の言った「もう何の意味もない」という言葉が、最後に残っていた何かを決定的に打ち砕いた。それからの恭介は、さらに常軌を逸した、自らを傷つけるような行動を繰り返すようになった。真帆のマンションの前へ移り住み、路上生活者のように入口を見張り続けた。食事も取らず、水さえほとんど口にしない。ただ同じ場所に座り込み、風や日差しにさらされるまま過ごした。わずか数日で、見る影もないほど痩せ細った。真帆が外出すると、恭介はよろめきながら数メートル後ろをついて歩いた。ただその背中を、取りつかれたように見つめる。そして何度も、同じ言葉を繰り返した。「真帆……すまなかった……」セーヌ川沿いでは、酒に溺れた。

  • 愛の果てに、君はいない   第18話

    それから半月後、パリ・ファッションウィークが予定どおり開幕した。真帆の「メタモルフォーゼ」シリーズは、セーヌ川に係留された改装済みのバージ船を会場に、新進デザイナー部門のフィナーレを飾ることになった。モデルたちが身にまとっているのは、炎で焼き、引き裂いたあと、金糸で縫い合わせた布から作られた衣装だった。灰を敷き詰めたランウェイを、一人、また一人と歩いていく。壊れたものが再び形を取り戻し、生まれ変わっていく。その力強い世界観は、会場にいたすべての観客を圧倒した。ショーは、予想をはるかに上回る成功を収めた。舞台裏は歓声に包まれ、開けられたシャンパンの泡があちこちで弾けていた。真帆は記者やバイヤーたちに取り囲まれ、絶え間なく向けられるフラッシュに目がくらみそうになる。それでも笑顔を崩さず、一人一人からの祝福に丁寧に応じた。だが、長く続いた緊張と過酷な作業の反動で、何度も目眩に襲われていた。祝賀会は、会員制クラブで開かれた。真帆は少しだけ酒を口にしたものの、二次会への誘いは丁重に断り、一人で早めに席を立った。外の空気を吸いたかった。そのまま川沿いを歩いて、ゆっくりマンションまで帰ることにした。すでに夜は深く、河岸を歩く人の姿もまばらだった。真帆はコートの前をきつく合わせた。ヒールが石畳を打つたび、澄んだ音が夜道に響く。真帆は気づいていなかった。少し離れた後方から、キャップを深くかぶった大柄な男が、長い間あとをつけていたことに。マンションへ続く細い路地へ曲がった、その瞬間。男が突然、足を速めて駆け寄ってきた。「高瀬真帆!やっと見つけたぞ!」狂気を帯びた声が響いた。男の目は赤く充血し、手には冷たい光を放つ刃物が握られていた。「お前のせいで、あの人が負けたんだ!あの人が一番なのに!お前なんか消えてしまえ!」真帆の瞳が大きく見開かれた。酔いは一瞬で吹き飛んだ。狂信的なファンだと、すぐに分かった。真帆は背を向けて逃げようとした。だが、ヒールを履いたままでは思うように走れない。刃先が胸元へ迫る。その刹那。横から一つの黒い影が飛び込み、真帆をかばうように前へ立ちはだかった。刃が肉に食い込む鈍い音が、静まり返った路地に響いた。恭介!いつ現れたのか分から

  • 愛の果てに、君はいない   第17話

    真帆の手が、わずかに止まった。鉛筆の先が紙へ深く食い込み、黒い跡を残す。だが次の瞬間、真帆は何の表情も浮かべないまま、静かに画面を閉じた。本当の嵐が起きたのは、激しい雨が街を打ちつける、ある深夜のことだった。パリの天気は変わりやすい。猛烈な風が大粒の雨を巻き上げ、窓ガラスへ激しく叩きつけていた。真帆は、腰の奥をえぐるような痛みに目を覚ました。こうした荒れた天気の日には、決まって古傷が痛んだ。ベッドから起き上がって水を注ぎ、鎮痛剤を一錠のみ込む。雷鳴を少しでも遮ろうと窓辺へ向かい、厚いカーテンに手をかけた。カーテンを閉じかけた、そのときだった。階下から放たれた眩しいヘッドライトが雨の幕を貫き、真帆の目を引いた。マンションの前には、黒いベントレーが止まっていた。そのボンネットの上に、一人の男がうつ伏せになっている。恭介だった。全身ずぶ濡れで、高価なスーツは身体に張りつき、痩せて浮き出た背中の線を際立たせていた。そばには、白衣を着て医療用のケースを持った男が立っている。激しく手を震わせているその男は、恭介のかかりつけ医だった。雨にかすむ視界の中、ボンネットには使い捨ての滅菌布が敷かれ、その上に冷たい光を放つ穿刺用の器具が並んでいるのが見えた。その中でも、ひときわ太い針。骨髄穿刺に使うものだった。真帆の心臓が強く縮み、指先から一気に血の気が引いた。恭介が顔を上げた。激しい雨越しにもかかわらず、まっすぐ真帆の窓を見つめている。その顔は死人のように青白く、雨と冷や汗が入り交じり、顎の線を伝って流れ落ちていた。何か叫ぼうと口を開いたが、その声は雷鳴にかき消された。そして、医師へ合図を送った。医師は震える手で穿刺針を持ち上げた。針先がヘッドライトを受け、冷たく光る。次の瞬間、恭介は顔を腕の中へ押しつけた。背中の筋肉が激しい痛みに痙攣し、喉の奥から獣のうなり声のような低い声が漏れる。「採れ!採れるだけ採れ。真帆が味わった痛みより、十倍でも百倍でも痛くしろ!」麻酔は使われていなかった。恭介は冷たい豪雨の中、車のボンネットに身体を伏せたまま、太い針を腰の骨へ突き刺されていた。かつて真帆が骨髄を採取されたのと、同じ場所だった。最初の穿刺で、暗めの赤色の骨髄

  • 愛の果てに、君はいない   第16話

    晩秋のパリでは、プラタナスの葉が黄や赤に色づき、セーヌ川沿いの石畳を埋め尽くしていた。真帆はトレンチコートの前をきつく合わせ、デザイン画を詰め込んだブリーフケースを手に、チュイルリー庭園を足早に横切っていく。あの胸を引き裂くような別れから、ちょうど三か月が過ぎていた。この三か月で、真帆は炎の中から生まれ変わる不死鳥のように、新たな人生を歩み始めていた。大学時代に発揮しながら、結婚生活の中で埋もれていたデザインの才能を頼りに、小さなデザインスタジオでアシスタントとして働き始めた。夜遅くまでデザイン画を描き、生地を求めて市場を走り回る。カフェインと鎮痛剤で身体を支えながら、文字どおり自分の手で道を切り開いてきた。今では、真帆が手がけた「メタモルフォーゼ」シリーズが、フランス版「VOGUE」編集長の目に留まり、パリ・ファッションウィークの関連展示で発表されることが決まっていた。暮らしはようやく、デザイン画やサンプル、展示の準備で埋め尽くされるようになった。故郷の街や、恭介にまつわる悪夢を見る回数も、少しずつ減っていた。真帆が借りている部屋は、マレ地区に建つ古い建物の最上階にあった。窓からは、サン・ジャック塔の尖塔が見える。だが真帆は知らなかった。通りを挟んでちょうど50メートル先にある、同じように古い建物。その暗い窓の向こうには、一室ごとに高倍率の望遠鏡が設置されていた。そして、それをのぞく男は、幽霊のように人気のない建物の中をさまよっていた。恭介は、完全に壊れていた。だが、その狂気は取り乱して叫び続けるようなものではなかった。静かに、少しずつ自分を滅ぼしていくような狂い方だった。恭介は、真帆のマンションの向かいにある建物を一棟丸ごと買い取った。すべての住人を退去させ、空っぽの部屋と、無機質な観測機器だけを残した。黒川グループの経営にはほとんど関わらなくなり、意思決定のすべてを取締役会へ委ねた。そして、自らは執着に取りつかれた監視者のように、毎日ただ一つのことだけを繰り返していた。望遠鏡越しに、真帆の暮らしを見つめること。朝、目を覚ます姿。コーヒーを淹れる姿。机に向かい、何時間も作業を続ける姿。夕暮れのバルコニーで、ぼんやり空を眺める姿。恭介は、真帆の顔色が少しずつ健康的になっ

  • 愛の果てに、君はいない   第15話

    一か月後、パリ。晩秋のセーヌ川沿いには冷たい風が吹きつけ、枯れたプラタナスの葉が渦を巻きながら舞い落ち、雨に濡れた石畳を覆っていた。真帆が暮らすマンションの前には、背の高い男が、見る影もない姿で一晩中立ち尽くしていた。恭介だった。無精ひげが伸び、高価なスーツはしわだらけで、夜露と埃にまみれている。かつての気品と冷静さをまとい、常に隙ひとつなかった黒川グループの社長とは、まるで別人だった。顔は青白く、唇は寒さで紫色に変わっている。充血した目には、拭いきれない絶望がにじんでいた。やがてマンションの扉が開き、真帆が姿を現した。厚手のオートミール色のカシミヤコートに、同系色のマフラーを巻き、手には小さなエコバッグを提げていた。朝食でも買いに出るところだったのだろう。だが、入口の脇で影と同化するように立っている男に気づいた瞬間、真帆の足が止まった。見る見るうちに顔から血の気が引き、眼差しが一気に冷たくなる。「恭介」その声は、パリの寒風よりも冷え切っていた。「本当に、どこまでもつきまとうのね」その言葉に打たれたように、恭介は勢いよく顔を上げた。血走った瞳に、かすかな光が宿る。彼は焦るように一歩前へ出た。声はひどくかすれ、聞き取るのも難しいほどだった。その声には、すがるような弱さがにじんでいた。「真帆……全部調べた。和香に騙されていたんだ。車の事故も、あいつが自分で仕組んだ。白血病まで嘘だった……」「それで?」真帆は恭介の言葉を遮った。顔には何の感情も浮かんでいなかった。ただ、冷ややかな嘲りだけがにじんでいた。「謝りに来たの?」「謝るだけじゃない」恭介は必死に距離を縮めようとした。寒さでこわばった手を伸ばしかけたが、真帆に触れる勇気はなかった。「この一か月、何も考えられなかった。君がいなくなって、初めて気づいたんだ。俺は――」「何に気づいたの?」真帆は冷たく笑い、一歩後ろへ下がった。恭介の手が届かない距離を保つ。「本当は私を愛していたとでも言うつもり?」真帆の眼差しは、少しも揺れなかった。「恭介、あなたの愛はあまりにも軽いわ。たった一つの嘘で、私を無視し、濡れ衣を着せ、留置場へ送り込んだ。脚を失う寸前まで追い込み、最後には私の命も顧みず、無理やり骨髄まで

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status