Mag-log in荻村文昭(おぎむら ふみあき)と付き合って4年。彼の車の助手席には、たくさんの人が座った。 母親、従妹、女性の同僚、それから「仲のいい友達」の白岩エレン(しろいわ えれん)。 なのに、私だけは座ったことがない。 そのたびに聞くと、彼は決まってこう言った。 「後ろに座るのと何が違うんだ?そんなの、大したことじゃないだろ」 私は数えていた。「大したことじゃない」という言葉を、彼は私に76回も口にしていた。 私の誕生日なんて、大したことじゃない。 私の卒業式なんて、大したことじゃない。 彼の隣に座りたいという私の願いも、大したことじゃない。 けれど昨日、エレンが別の男の車の助手席に座って帰った。 そのとき、文昭は初めて私に怒鳴った。 「もう少し早く降りられなかったのか?明澄を待ってたせいで、エレンを迎えに行くっていうあんな大事な用事に遅れたんだぞ!」 焦りで赤くなった彼の目を見つめながら、私は思った。 彼は、助手席がどういう意味を持つのか、ちゃんと分かっていた。 ただ、相手が私になると、「大したことじゃない」に変わるだけだった。 私は車のキーをリビングのローテーブルに置いた。 「じゃあ、もう座らない。前も後ろも、もう座らない」
view more文昭が最後に私の前に現れたのは、それから2年後のことだ。その頃には、私は自分の家と新しい白いセダンを買った。車の中には、余計な飾りは何もない。ただ、運転席の隣に、小さなジャスミンの鉢植えが置いてある。自分で買った花だ。誰かのために育てているわけじゃない。その日、私はちょうど案件の契約を終えて外へ出たところだ。昴が道端で待っている。私たちはもう婚約している。彼の手には、和菓子が一箱ある。「午後、何も食べてないでしょ。とりあえず、少し入れておいて」私は受け取った。「今日は当直じゃないの?」「休みを取った」彼は私の書類袋を後部座席に入れてくれた。「夜は結婚式の料理を試しに行こう。派手にはしたくないって言ってただろ。小さい個室を取ってある」私は頷いた。振り返ったとき、少し離れたところに文昭が立っているのが見えた。黒いコートを着ていて、かなり痩せている。手には花も、指輪もない。ただ静かに、私を見つめている。昴が聞いた。「知り合い?」「昔の取引先」その言葉を聞いて、文昭のまつげがわずかに震えた。彼は数歩近づき、適度な距離で足を止めた。「今日は明澄に戻ってきてほしくて来たんじゃない」私は彼を見た。「じゃあ、手短に」彼は書類袋から一通の公正証書を取り出した。「荻村グループの残りの株と、M市にある俺名義の家を、取り消せない形で明澄に譲る手続きをした。受け取ってもいいし、弁護士に任せてもいい」「いらない」「分かってる」文昭の声は低い。「何かと交換したいわけでもない。これで償いが済むとも思ってない。ただ、俺がずっと明澄に借りてたものだ」私は受け取らなかった。昴は隣に立ったまま、急かすこともなかった。文昭は書類を車のボンネットに置き、車内のジャスミンへ目を向けた。彼は長いこと見つめていたが、ふと笑った。ひどく苦い笑みだ。「昔、明澄が俺のオフィスで一鉢育ててたな。俺はエレンに捨てさせた」「知ってる」「ごめん」その言葉を口にするまでに、あまりにも長い時間がかかった。薄い紙切れみたいに、軽く感じた。私は何も返さなかった。文昭も、もう無理に何かを求めなかった。一歩下がった。「結婚するんだってな」「うん」「彼は、明
文昭がこちらへ歩いてきた。雨が髪の先からぽたぽた落ちている。昴が私に傘を差しかけているのを見て、手にしたケースが潰れるほど握りしめた。「明澄、話がある」昴が私を見た。「離れましょうか?」「ううん、大丈夫です」私は傘を自分のほうへ引き寄せた。「荻村社長、お久しぶりです」「荻村社長」という呼び方を聞いた瞬間、文昭の目が赤くなった。彼はケースを開けた。中にはダイヤの指輪が入っている。私が昔選んだものより、ずっと高価なものだ。「結婚指輪、作り直した。M市に新居も買った。車も廃車にした。これからは俺が運転しなくてもいい」文昭の声はひどく震えている。「会社の株も一部売った。残りは全部明澄に渡す。俺はもう何もいらない。だから、戻ってきてくれないか?」雨粒がケースの中に落ち、ダイヤは水滴だらけになっている。私はそれを見た。「私が指輪を欲しがってると思ってるの?」彼は必死に首を振った。「分かってる。明澄が欲しいわけじゃない。ただ、俺が埋め合わせたいんだ」「何を?」私の声は淡々としている。「出血性胃潰瘍になって、自分でタクシーを拾って病院へ行ったこと?卒業式で一人で写真を撮ったこと?それとも、私の海外研修の枠をエレンに渡したこと?私が文昭から離れたら何もできないって言ったこと?」文昭の顔は真っ白になった。昴は口を挟まず、ただ静かに横に立っている。突然、文昭が膝を折った。冷たい雨の中に、そのまま跪いた。水が跳ねて、ズボンの裾を汚した。「俺が悪かった」周りの人たちが振り返った。文昭はそんなことなど気にも留めないようだ。「明澄、本当に俺が悪かった。もう一度だけ、俺を見てくれ。一度だけでいい」私は彼を見下ろした。昔、彼が頭を下げてくれるのを待っていた。誕生日の日に帰ってきてくれるのを待っていた。胃が痛んだとき、車を引き返してくれるのを待っていた。会議室で、一度くらい私の味方になってくれるのを待っていた。なのに、あのとき彼が見ていたのは、いつもエレンだった。「文昭、今さら跪いたのは、私を愛してるからじゃないよ」彼が顔を上げた。その目は、今にも崩れ落ちそうにぼろぼろだ。私は続けた。「4年間ずっと後ろの席に置いてた人が、本当に車から降りた
A社の入札の最終審査の日、私は会議室で文昭と顔を合わせた。彼は向かいの席に座っていて、痩せたせいでスーツまでだぶついて見えた。A社の担当が、双方にプレゼンするよう求めた。先に文昭のチームが発表した。企画は相変わらず華やかだが、実際に進める際のリスク計算が足りない。A社から三つの質問が飛ぶと、文昭の後ろに立つ新しい企画部長はしどろもどろになった。私の番になると、私は20分だけで、費用、世間の反応、規制の要所、それに何か起きたときの別の進め方まで、すべて分かりやすく話した。A社の担当はその場で私の会社を選んだ。審査が終わると、文昭が廊下まで追ってきた。「明澄」私は足を止めた。「荻村社長、仕事の場では呼び捨てを控えてください」彼は苦笑した。「前は気にしなかっただろ」「前だって、助手席に座ってなかったよ」彼の顔から、すっと血の気が引いた。A社との契約が決まると、社長は私の共同経営者としての審査を前倒しで通してくれた。打ち上げのとき、社長が株式譲渡契約書を私に差し出した。「玉浦さん、正式に共同経営者になってくれて、ありがとう」同僚たちから拍手が起こった。私は俯いて署名した。ペン先はぶれなかった。そのとき、スマホが光った。元同僚の紗奈からメッセージが届いた。【玉浦さん、荻村グループの取締役会が責任を問うことになりました。白岩さんの件でかなりの金額を払うことになったみたいです。社長も最近ずっと様子がおかしくて、毎日、駐車場の廃車のそばに座っているそうです】私は返さなかった。文昭は、確かにおかしくなっていた。車を廃車にする前、彼は一人で後部座席に座った。かつて私が座っていた場所は、シートもすっかり古びている。彼が座席の隙間に手を差し入れると、硬くなった酔い止めパッチの包装が一枚、指先に触れた。私が落としたものだった。彼はそれを手のひらに握りしめ、長いこと俯いている。車の外に立つ助手は、声をかけることもできずにいる。やがて文昭が聞いた。「明澄は昔、車に乗るとすぐ気分が悪くなってたのか?」助手が小さな声で答えた。「以前、玉浦さんがH社へ行かれたとき、2時間くらい車に乗っていて、降りてから吐いたことがありました。そのとき社長は助手席にいた白岩さんと研
文昭が二度目にM市へ来たとき、持っているのは株式譲渡契約書だ。会社の前で私を待ち伏せし、目は真っ赤に充血している。「明澄、荻村グループの株を20パーセントやる。副社長の座もやる。俺と一緒に戻ってくれ。これから会社は明澄の好きにしていい」私は書類袋を見つめた。「まだ分かってないんだね」「分かってる」彼は焦ったように言った。「エレンは別の部署へ移すし、研修にも行かせない。車は買い替えた。明澄が嫌なものは、全部変える」「人間関係は取引と違うよ」私は警備員を呼んだ。「この人がまたここで通せんぼするなら、そのまま警察を呼んでください」文昭の顔が青ざめた。「本当に、そこまで冷たくするのか?」「ただ、文昭に教わったことを返してるだけ」彼は固まった。私はその横を通り過ぎながら言った。「大したことじゃないから、時間を使う必要はないでしょ」彼はその場に立ち尽くし、手にした契約書の端が風に煽られている。荻村グループの問題は、私が思っていたより早く表に出た。まず、H社が正式に契約を打ち切った。その次にA社が改めて入札を行い、私の今の会社も候補に入った。文昭は自らチームを率いたが、最終審査の場でA社の担当に問い詰められ、言葉を失った。私が作り上げた土台がなければ、どれだけきれいな資料を作っても、中身までは支えられない。エレンの研修資料からは、大量の盗用が見つかった。さらにひどいのは、彼女が裏で荻村グループの見積もりの最低ラインを競合相手へ流していたことだ。マーケティング部長の座を手に入れるために。文昭がそれを知るとき、地下駐車場にいる。クライアントのもとから戻ったばかりで、書類を取りに行こうとしている。隅には彼の黒いセダンが停まっている。助手席の扉はきちんと閉まっていなかった。車内灯がついている。その中には、エレンと競合相手の幹部がいて、服は乱れ、足元には見積書が散らばっている。文昭は一気に扉を開けた。エレンが悲鳴を上げ、襟元を押さえた。「文昭、違うの、聞いて!」文昭が見つめたのは、助手席だ。ピンク色のクッションが足元に落ちている。お菓子の食べかすに口紅の跡まで混じり、シートはめちゃくちゃだ。かつて彼は、エレン以外の誰にも座る資格はないと言った場所だ
Rebyu