Masuk家同士の縁談によって、高瀬真帆(たかせ まほ)は、上流社会で「血も涙もない男」と恐れられる黒川恭介(くろかわ きょうすけ)との結婚を強いられた。 恭介は冷酷非情で、情け容赦のない男だと噂されていた。 幼い頃から誇りが高く、気の強かった真帆は、誰かに自分の人生を決められることが何よりも嫌いだった。ましてや、ろくに知りもしない、好きでもない男と結婚するなど、到底受け入れられるはずがない。 だから真帆は、ことあるごとに反発した。 恭介が最高級のジュエリーを贈っても、ろくに目も通さず金庫へ放り込み、「趣味が悪い」と言い捨てた。 オークションへ連れていかれても、途中で席を立ち、親友の岸本奈緒(きしもと なお)と買い物へ出かけた。 接待で酒を飲みすぎた恭介を迎えに来てほしいと秘書から連絡があっても、スマホの電源を切り、そのまま眠ってしまった。 一度など、恭介が胃出血で入院したとき、真帆はパリにいた。奈緒とブランドショップを回っている最中にその知らせを聞いても、「そう」と一言返しただけで、何事もなかったように次の店へ入っていった。 周囲の誰もが思っていた。 ここまで好き勝手に振る舞っていれば、真帆はいずれ恭介から手痛い仕打ちを受ける、と。 だが、恭介は何もしなかった。 それどころか、真帆のわがままをすべて受け入れた。
Lihat lebih banyakその言葉は、どんな責めよりも、どんな罰よりも、恭介を深く傷つけた。全身から骨を抜かれたように、その場へ崩れ落ちる。瞳は虚ろで、魂さえも真帆の言葉とともに、パリの冷たい空気へ溶けて消えてしまったようだった。もう泣きもせず、笑いもしない。ただ呆然と座り込み、捨てられ、存在する意味を失った人形のように動かなかった。翌朝、真帆は玄関前に置かれた茶封筒を見つけた。中に高価な贈り物は入っていなかった。あったのは、一通の手紙だけだった。便箋はひどくしわになり、文字も大きく乱れている。涙でインクがにじんでおり、激しい苦しみの中、意識さえ定かでない状態で書かれたことが分かった。【真帆へ。すまなかった。この言葉があまりにも軽く、君が受けた傷のほんの一部すら償えないことは分かっている。俺はようやく知った。一度犯してしまえば、二度と取り返しのつかない過ちがあることを。割れた鏡は、どれほど丁寧につなぎ合わせても、ひびが消えることはない。君に許してほしいとは言わない。そんなことを望むのは、また別の形で君を縛ることになるから。ただ、君が無事でいてほしい。穏やかに笑い、この好きな街で、本当に望んでいた人生を生きてほしい。俺はパリを離れる。これからは二度と、君の生活を乱さない。もしも――もし、次の人生があるのなら。そのときだけは、もう一度機会をくれないだろうか。最初から、きちんと君を愛したい。誰かと取り違えず、君を傷つけず、ただ君一人だけを愛したい。黒川恭介絶筆】手紙には、公証を受けた法的書類も同封されていた。恭介は、黒川グループの株式の70%を、無条件かつ撤回できない契約によって、真帆へ譲渡していた。真帆が何もしなくても、黒川グループ最大の株主となり、財界全体を揺るがすほどの富と権限を手にすることになる。真帆は手紙と書類を手に、長い間窓辺に立っていた。ガラス越しに差し込む朝の光が、静かな表情を照らしている。やがて真帆は、手紙を丁寧に折りたたみ、引き出しの最も奥へしまった。一方、株式譲渡に関する書類は弁護士へ預けた。その資産をもとに支援基金を設立し、家庭内暴力や深刻な精神的被害に苦しむ女性たちを支援するよう依頼した。真帆には、恭介の金など必要なかった。彼の懺悔もいらない。望んで
「必要だった!」恭介は焦ったように起き上がろうとした。だが、その動きで傷口が引きつり、鋭い痛みに息をのむ。額には細かな冷や汗が浮かんでいた。それでも恭介は、頑なに真帆から目をそらさなかった。その瞳には、拭いきれない後悔と苦しみが深く沈んでいる。「真帆……地震のとき、俺は選ぶ相手を間違えた……あのことを、ずっと後悔していた……だから今度は……命を懸けて、君を選んだんだ……」「でも、私はもう気にしていない」真帆は彼の言葉を遮った。澄んだ眼差しは、氷のように冷たかった。恭介の瞳が大きく見開かれる。その一言に、恭介は全身を硬直させた。「あなたが誰を選ぶかも、どんな怪我を負ったかも、命を懸けたことも……今の私には、もう何の意味もない」真帆は椅子から立ち上がり、ベッドの上の恭介を見下ろした。一語ずつ、はっきりと告げる。「恭介、愛には限りがあるの。あなたは三か月かけて、私が三年間抱いてきた想いを、すべて使い果たさせた。今のあなたは、私をかばって刺された、ただの他人よ。助けてくれたことには感謝する。でも、それだけ」恭介の顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。瞳の奥にかろうじて残っていた最後の希望も、完全に消えていく。まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭が、風にかすかに揺れたあと、そのまま静かに消えてしまうようだった。底のない絶望が、一瞬で恭介をのみ込んだ。口を開いたものの、声は出なかった。やがて視界が暗く閉ざされ、再び深い闇の中へ沈んでいった。退院後、恭介の心は完全に壊れた。真帆の言った「もう何の意味もない」という言葉が、最後に残っていた何かを決定的に打ち砕いた。それからの恭介は、さらに常軌を逸した、自らを傷つけるような行動を繰り返すようになった。真帆のマンションの前へ移り住み、路上生活者のように入口を見張り続けた。食事も取らず、水さえほとんど口にしない。ただ同じ場所に座り込み、風や日差しにさらされるまま過ごした。わずか数日で、見る影もないほど痩せ細った。真帆が外出すると、恭介はよろめきながら数メートル後ろをついて歩いた。ただその背中を、取りつかれたように見つめる。そして何度も、同じ言葉を繰り返した。「真帆……すまなかった……」セーヌ川沿いでは、酒に溺れた。
それから半月後、パリ・ファッションウィークが予定どおり開幕した。真帆の「メタモルフォーゼ」シリーズは、セーヌ川に係留された改装済みのバージ船を会場に、新進デザイナー部門のフィナーレを飾ることになった。モデルたちが身にまとっているのは、炎で焼き、引き裂いたあと、金糸で縫い合わせた布から作られた衣装だった。灰を敷き詰めたランウェイを、一人、また一人と歩いていく。壊れたものが再び形を取り戻し、生まれ変わっていく。その力強い世界観は、会場にいたすべての観客を圧倒した。ショーは、予想をはるかに上回る成功を収めた。舞台裏は歓声に包まれ、開けられたシャンパンの泡があちこちで弾けていた。真帆は記者やバイヤーたちに取り囲まれ、絶え間なく向けられるフラッシュに目がくらみそうになる。それでも笑顔を崩さず、一人一人からの祝福に丁寧に応じた。だが、長く続いた緊張と過酷な作業の反動で、何度も目眩に襲われていた。祝賀会は、会員制クラブで開かれた。真帆は少しだけ酒を口にしたものの、二次会への誘いは丁重に断り、一人で早めに席を立った。外の空気を吸いたかった。そのまま川沿いを歩いて、ゆっくりマンションまで帰ることにした。すでに夜は深く、河岸を歩く人の姿もまばらだった。真帆はコートの前をきつく合わせた。ヒールが石畳を打つたび、澄んだ音が夜道に響く。真帆は気づいていなかった。少し離れた後方から、キャップを深くかぶった大柄な男が、長い間あとをつけていたことに。マンションへ続く細い路地へ曲がった、その瞬間。男が突然、足を速めて駆け寄ってきた。「高瀬真帆!やっと見つけたぞ!」狂気を帯びた声が響いた。男の目は赤く充血し、手には冷たい光を放つ刃物が握られていた。「お前のせいで、あの人が負けたんだ!あの人が一番なのに!お前なんか消えてしまえ!」真帆の瞳が大きく見開かれた。酔いは一瞬で吹き飛んだ。狂信的なファンだと、すぐに分かった。真帆は背を向けて逃げようとした。だが、ヒールを履いたままでは思うように走れない。刃先が胸元へ迫る。その刹那。横から一つの黒い影が飛び込み、真帆をかばうように前へ立ちはだかった。刃が肉に食い込む鈍い音が、静まり返った路地に響いた。恭介!いつ現れたのか分から
真帆の手が、わずかに止まった。鉛筆の先が紙へ深く食い込み、黒い跡を残す。だが次の瞬間、真帆は何の表情も浮かべないまま、静かに画面を閉じた。本当の嵐が起きたのは、激しい雨が街を打ちつける、ある深夜のことだった。パリの天気は変わりやすい。猛烈な風が大粒の雨を巻き上げ、窓ガラスへ激しく叩きつけていた。真帆は、腰の奥をえぐるような痛みに目を覚ました。こうした荒れた天気の日には、決まって古傷が痛んだ。ベッドから起き上がって水を注ぎ、鎮痛剤を一錠のみ込む。雷鳴を少しでも遮ろうと窓辺へ向かい、厚いカーテンに手をかけた。カーテンを閉じかけた、そのときだった。階下から放たれた眩しいヘッドライトが雨の幕を貫き、真帆の目を引いた。マンションの前には、黒いベントレーが止まっていた。そのボンネットの上に、一人の男がうつ伏せになっている。恭介だった。全身ずぶ濡れで、高価なスーツは身体に張りつき、痩せて浮き出た背中の線を際立たせていた。そばには、白衣を着て医療用のケースを持った男が立っている。激しく手を震わせているその男は、恭介のかかりつけ医だった。雨にかすむ視界の中、ボンネットには使い捨ての滅菌布が敷かれ、その上に冷たい光を放つ穿刺用の器具が並んでいるのが見えた。その中でも、ひときわ太い針。骨髄穿刺に使うものだった。真帆の心臓が強く縮み、指先から一気に血の気が引いた。恭介が顔を上げた。激しい雨越しにもかかわらず、まっすぐ真帆の窓を見つめている。その顔は死人のように青白く、雨と冷や汗が入り交じり、顎の線を伝って流れ落ちていた。何か叫ぼうと口を開いたが、その声は雷鳴にかき消された。そして、医師へ合図を送った。医師は震える手で穿刺針を持ち上げた。針先がヘッドライトを受け、冷たく光る。次の瞬間、恭介は顔を腕の中へ押しつけた。背中の筋肉が激しい痛みに痙攣し、喉の奥から獣のうなり声のような低い声が漏れる。「採れ!採れるだけ採れ。真帆が味わった痛みより、十倍でも百倍でも痛くしろ!」麻酔は使われていなかった。恭介は冷たい豪雨の中、車のボンネットに身体を伏せたまま、太い針を腰の骨へ突き刺されていた。かつて真帆が骨髄を採取されたのと、同じ場所だった。最初の穿刺で、暗めの赤色の骨髄