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第8話

Author: ととまる
だが、恭介は数秒間黙り込んだあと、こう答えた。

「あのときは一刻を争う状況だった。和香のほうが重傷で、容体も安定していなかった。先に手術をする必要があったんだ。君の脚も重傷だったが、すぐに命に関わる状態ではなかった」

嘘だった。

真帆は、平然とそう言い切る恭介の顔を見つめた。心のどこかにわずかに残っていた期待が、今度こそ完全に消えた。

なぜ、こんな状況になってまで真実を隠すのだろう。

真帆が本当のことを知れば、騒ぎ立てるとでも思っているのだろうか。

それとも――

真帆には、真実を知る資格すらないと思っているのだろうか。

そのとき、恭介のスマホが鳴った。

彼は画面を確認すると、椅子から立ち上がった。

「ゆっくり休め。少し用事がある。あとでまた来る」

真帆は何も答えなかった。

どこへ行くのかは、聞かなくても分かっていた。

和香のもとへ行くのだ。

案の定、それから数日間、恭介が真帆の病室を訪れることはなかった。

その代わり、和香からは毎日決まったようにメッセージが届いた。

写真や動画が、一つ、また一つと送られてくる。

写真の中で、恭介は和香に食事を食べさせ、付き添って院内を歩いていた。

ある写真では、和香を腕に抱き上げ、窓の外の景色を見せている。

動画では、街の東側にある店のスイーツが食べたいと和香が甘えていた。

すると恭介は、自ら車を出して買いに行った。

それらを目にしても、真帆の心はもう動かなかった。

涙も出なかった。悲しみすら、ほとんど感じなかった。

ただ淡々とメッセージを削除し、和香の連絡先を受信拒否にした。

入院から一週間が過ぎ、医師から退院の許可が下りた。

手続きを済ませた真帆が最初に向かったのは、国外へ出るためのビザ申請窓口だった。

離婚が成立したら、この街には一秒たりとも残りたくなかった。

両親にも会いたくない。和香の顔も見たくない。そして何より、恭介とは二度と会いたくなかった。

ビザの手続きは滞りなく進んだ。

弁護士からも、離婚手続きは最終段階に入り、間もなく正式に成立すると連絡があった。

すべてが、もうすぐ終わる。

その日、真帆がビザ申請窓口の建物を出たところで、奈緒から電話がかかってきた。

「真帆!今、すごい話を聞いたんだけど!」

奈緒の声には、戸惑いと興奮が入り交じっていた。

「和香に罰が当たったのよ!」

真帆は足を止めた。

「……どういうこと?」

「和香、白血病なんだって」

奈緒は一気に続けた。

「今、適合する骨髄提供者を必死で探しているらしいの。お姉さん相手にこんなことを言うのはよくないけど、今まで真帆にあれだけひどいことをしてきたんだから、自業自得よ。それに恭介だって、和香のことがあんなに大切なんでしょう?今度はどうするつもりなのかしらね」

真帆はスマホを耳に当てたまま、人通りの多い街角に立ち尽くした。

どこか現実味がなかった。

白血病。

和香が。

「真帆?聞いている?」

奈緒の声で、真帆は我に返った。

「……うん。聞いている」

「大丈夫?」

奈緒が慎重な声で尋ねる。

「いくらあんな姉でも、やっぱり少しは――」

「大丈夫よ」

真帆はその言葉を遮った。

声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「もうすぐ離婚も成立する。和香のことも、恭介のことも、私には関係ないから」

電話を切ると、真帆は一人で自宅へ戻った。

その後の数日間、予想どおり恭介は帰ってこなかった。

和香が重い病にかかったのだ。きっと、ずっとそばに付き添っているのだろう。

帰ってこなくてよかった。

このまま離婚が成立するまで、二度と家に戻らなければいい。

真帆も、彼の顔など見たくなかった。

ところが、その夜、恭介は突然帰宅した。

真帆がリビングでテレビを見ていると、玄関の扉が開く音がした。

振り返ると、恭介が家に入ってきたところだった。

思いがけない姿に、真帆はわずかに目を見開いた。

「どうして帰ってきたの?」

恭介はコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。その声からは、何の感情も読み取れなかった。

「今日は、俺たちの三回目の結婚記念日だ」

真帆は一瞬、言葉を失った。

結婚三周年。

もうすっかり忘れかけていた。

「レストランを予約してある」

恭介は真帆を見た。

「支度をしろ。食事に行く」

真帆は、見慣れているはずなのに、今ではひどく遠く感じるその顔を見つめた。

胸の中に、さまざまな感情が入り交じる。

これが最後の結婚記念日になる。

それなら、それでいい。

食事の席で、離婚のことをきちんと話せばいいのだ。

「分かった」

真帆は立ち上がった。

「少し待っていて」

向かったのは、恭介が以前からよく利用しているレストランだった。

案内されたのは店内でも最も眺めのよい席で、テーブルには薔薇とキャンドルが飾られていた。

あまりにもロマンチックな雰囲気で、今の二人には不釣り合いなほどだった。

食事が始まると、恭介は普段以上に真帆を気遣った。

料理を取り分け、ワインを注ぐ。

真帆の口元にソースがつくと、ナプキンを手に取り、そっと拭ってくれた。

あまりにも優しい仕草に、真帆は一瞬、何もかも忘れそうになった。

まるで――

二人が、以前の関係に戻ったかのようだった。

だが、真帆は分かっていた。

もう戻ることなどできない。

今夜の食事はきっと、恭介が自分に与える最後の優しさなのだろう。

食事が終わりかけた頃、真帆はナイフとフォークを置いた。

離婚について話そうと、口を開く。

「恭介、話しておきたいことがあるの」

だが、言い終える前に、突然強い目眩に襲われた。

視界がぼやけ、手足から力が抜けていく。

椅子に座っていることすら難しくなった。

「あなた……」

真帆は額に手を当てた。そこでようやく、何が起きているのかを理解した。

信じられない思いで、恭介を見る。

「ワインに……何を入れたの?」

恭介はグラスを置き、静かに真帆を見つめた。

「すまない、真帆」

真帆は立ち上がろうとした。

だが、身体にはまるで力が入らない。

やがて視界が暗く閉ざされ、そのまま意識を失った。

……

再び意識が戻ったとき、真帆は手術台の上にいた。

頭上には冷たい無影灯が輝き、周囲には手術着を身につけた医師や看護師が立っていた。

身体を動かそうとしたが、両手も両脚も固定されている。

そのとき、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。

恭介と医師の声だった。

「黒川社長、骨髄移植の準備は整っています。ですが、奥様には血液が固まりにくい体質があります。骨髄採取を行えば、命に関わる危険性も否定できません。ほかの適合者が見つかるまで、待つこともできます。本当に、奥様から骨髄を採取なさるおつもりですか?」

「待たない」

恭介の声は、氷のように冷たかった。

「和香には時間がない。手術は予定どおり行え。和香の安全を最優先にしろ。絶対に助けるんだ」

その瞬間、真帆の全身から血の気が引いた。

ようやく、すべてが分かった。

今日の恭介があれほど優しく、記念日まで一緒に祝ってくれたのは、すべて真帆を眠らせ、和香のために骨髄を提供させるためだったのだろう。

和香のためなら、恭介は真帆の命などどうなっても構わないというのか。

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