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隠れ妻の座はもういらない

隠れ妻の座はもういらない

作家:  イケメン男子完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

ひいき/自己中

クズ男

愛人

後悔

妻を取り戻す修羅場

不倫

秘密の結婚生活も3年目。 家の靴箱には、相変わらず三足のスリッパが並んでいる。 高橋修一(たかはし しゅういち)のもの、学生のもの、そして友人のもの。 私、結城咲希(ゆうき さき)の分だけが、ぽつんと欠けている。 彼が新しい使い捨てスリッパを差し出してきたとき、私は淡々とした声で口にした。 「私が買ったあのスリッパは?」 彼は私を見ようともせず、「あいつらが来る前に捨てた」と答えた。 私は「そう」とだけ声を漏らした。 胸の奥がツンと痛むのを押し殺し、何気ない風を装って尋ねる。「美波も今回来たの?」 「いや、来てない」 彼は嘘をついている。 なぜなら、ついさっき星野美波(ほしの みなみ)から挑発するようなメッセージが届いたばかりだからだ。 【実のところ、あなたってすごく可哀想。私たちが遊びに行くたび、清掃員のふりをしてゴミを持って下へ降りなきゃいけないんだから。 考えたことない?彼は関係を公表できないんじゃなくて、ただ公表したくないだけかもしれないって】 スマートフォンの画面を消し、私は洗面所へ向かった。 洗面台の鏡にべったりと残された無数の手形は、まるで何かの宣戦布告のようだった。 修一のそばを通り過ぎる時、なぜ私に嘘をついたのか。 それに、なぜ彼のトークアプリで一番上にピン留めされているのが私ではなく、星のアイコンの彼女なのかと彼を問い詰めなかった。 リビングで彼に付き合ってテレビのサッカー中継を観て、窓の外の星をしばらく眺めたあと、私は金庫の中に隠されていたスリッパを取り出し、笑みを浮かべながら彼の前に押し出した。 「そんなに彼女が大切なら、いつまでもコソコソ隠してないで、堂々と表に出してあげればいいのに」

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第1話

第1話

星の刺繍が施されたそのスリッパを見て、修一の口元の笑みが一瞬引きつった。

それでも、彼はまだ言い訳を試みた。

「美波がうちで一番悪ふざけの過ぎる学生だって、お前も知ってるだろう。ただのいたずらさ」

そう言いながら、彼の指がすっと絡みつき、昔のように私の掌を軽くくすぐってきた。

私は何の反応も示さなかった。

ただ、聞きたかった。

どういう図太い神経をしていれば、一介の学生が、指導教員の家を自由に出入りできるのか。

二人は洗面所で何をして、どれだけ長く留まれば、鏡にあれほど無数の痕跡を残せるのか。

出かかった言葉を、私はグッと飲み込んだ。

絡みつく彼の手も避けた。

私は彼を見つめた。「つまり、あなたの学生は、家の暗証番号も、寝室の暗証番号も、挙句の果てには金庫の暗証番号まで知っているってこと?」

彼は口を固く結び、何も答えなかった。

私を見つめるその瞳には、どこか非難めいた色が滲んでいる。

あの金庫は、私が初任給で彼に贈ったプレゼントだった。

将来、俺たちの婚姻届受理証明書や家の権利書、家族の通帳、そして子どもの出生届受理証明書をここに入れようと、彼は言っていた。

だが今、私の履くスリッパは、この広い家のどこにも置き場所がない。

彼の学生のスリッパは、平然と金庫の中に隠されているというのに。

「最初はスリッパ、次は暗証番号、今度は金庫の話か?咲希、お前は一体何が言いたいんだ?」

痛いところを突かれるたび、彼は決まって話をすり替える。

そして、すべての責任を私に押し付ける。

私が彼に問い詰めた時だって、そうだった。

「いつになったら、この家に堂々と私のスリッパを置けるようになるの?あなたの学生や同僚、友人が遊びに来るたびに、スリッパを捨てられずに済むのはいつなの?」

彼はいつも笑って答えた。「俺たちの関係を公表する日が来たらね」

「じゃあ、いつ公表するの?」

彼は眼鏡を押し上げながら言った。「俺が正教授に昇進するまで待ってくれ。今、自分の教え子と結婚したなんて知られたら、これまでの努力がすべて水の泡になってしまう……」

だから私は、歯を食いしばって待ち続けた。

彼が遠距離恋愛は嫌だと言うから、私は海外留学のチャンスを諦めた。

彼が「胃が痛む」とこぼしたから、私は民間企業で受付の仕事を選んだ。残業も夜更かしもせず、ただ彼の胃を労わるためだけに。

彼の生活に溶け込み、共通の話題を持つために、私は仕事さえ辞め、死に物狂いで彼が勤める大学の職員採用試験の勉強に励んだ。

それなのに、昇進を果たせば、今度は重要なプロジェクトを勝ち取らなければと言い、プロジェクトが終われば、今度は学内の優秀職員表彰を狙うと言い出した。

この3年間、私はまるで雑巾のようだった。

必要な場所を、必要な時に拭くためだけの存在。

彼の同級生、友人、同僚が家で食事会を開くとなれば、仕事を休んで買い出しに行くのは私で、テーブルから溢れんばかりのごちそうを用意するのも私。

料理を作り終え、皿に美しく盛り付け、ワインの準備まで済ませた後、私はパンパンに膨らんだゴミ袋を提げ、マスクをして階段を降りていく。

10フロア分もの階段。

1階降りるごとに、私は考えずにはいられなかった。

スリッパはもう捨てたから、彼らが家に入って靴を履き替える時、何も怪しまれないはずだ。

まな板は元の場所に戻したし、冷蔵庫の食材も補充した。枕に落ちていた髪の毛すら一本残らず拾い集め、ゴミ箱に捨ててすべて下に持ってきたから、証拠は何も残っていないはずだ、と。

あの日々。私は彼の同僚から見れば、料理のうまい家政婦さんだった。

彼の友人から見れば、よく働くお手伝いさんだった。

ただ一つ、彼が対外的に紹介する「高橋夫人」であることだけは絶対にあり得なかった。

それなのに、私がどれほど長く耐えて待ち望んだその居場所を、まさか一人の女子学生にいとも容易く奪われてしまうなんて。

彼は私の存在がバレるのを恐れ、私のスリッパをゴミ箱に捨てた。

彼は美波の存在が私にバレるのを恐れ、彼女のスリッパを金庫に隠した。

私がこれほど尽くし、これほど寛容に振る舞って手に入れた場所は、所詮ゴミ箱と同じだったのだ。

まったく、笑わせてくれる。

そんな回想は、聞き慣れた男の声に遮られた。

「お前もかつては俺の教え子だったんだから、学生の苦労は分かるだろう。美波は身寄りがない孤児で、両親がいないんだ。俺は少し面倒を見てやっているだけだ。変な勘繰りをするのはやめてくれないか?」

修一は少し眉をひそめた。

顔に浮かんだ苛立ちを押し殺すと、彼は息を吐き、私の腰に手を回した。

「分かった、もう怒るな。約束するよ。結婚3周年の記念日に、俺たちの関係を公表しよう」

私は数秒だけ動きを止めた。

そして、彼の指を一本ずつ引き剥がした。

私は顔を上げ、修一の訝しむような視線を真っ向から見据えた。「もう公表しなくていいわ。私たち、離婚しましょう」

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第1話
星の刺繍が施されたそのスリッパを見て、修一の口元の笑みが一瞬引きつった。それでも、彼はまだ言い訳を試みた。「美波がうちで一番悪ふざけの過ぎる学生だって、お前も知ってるだろう。ただのいたずらさ」そう言いながら、彼の指がすっと絡みつき、昔のように私の掌を軽くくすぐってきた。私は何の反応も示さなかった。ただ、聞きたかった。どういう図太い神経をしていれば、一介の学生が、指導教員の家を自由に出入りできるのか。二人は洗面所で何をして、どれだけ長く留まれば、鏡にあれほど無数の痕跡を残せるのか。出かかった言葉を、私はグッと飲み込んだ。絡みつく彼の手も避けた。私は彼を見つめた。「つまり、あなたの学生は、家の暗証番号も、寝室の暗証番号も、挙句の果てには金庫の暗証番号まで知っているってこと?」彼は口を固く結び、何も答えなかった。私を見つめるその瞳には、どこか非難めいた色が滲んでいる。あの金庫は、私が初任給で彼に贈ったプレゼントだった。将来、俺たちの婚姻届受理証明書や家の権利書、家族の通帳、そして子どもの出生届受理証明書をここに入れようと、彼は言っていた。だが今、私の履くスリッパは、この広い家のどこにも置き場所がない。彼の学生のスリッパは、平然と金庫の中に隠されているというのに。「最初はスリッパ、次は暗証番号、今度は金庫の話か?咲希、お前は一体何が言いたいんだ?」痛いところを突かれるたび、彼は決まって話をすり替える。そして、すべての責任を私に押し付ける。私が彼に問い詰めた時だって、そうだった。「いつになったら、この家に堂々と私のスリッパを置けるようになるの?あなたの学生や同僚、友人が遊びに来るたびに、スリッパを捨てられずに済むのはいつなの?」彼はいつも笑って答えた。「俺たちの関係を公表する日が来たらね」「じゃあ、いつ公表するの?」彼は眼鏡を押し上げながら言った。「俺が正教授に昇進するまで待ってくれ。今、自分の教え子と結婚したなんて知られたら、これまでの努力がすべて水の泡になってしまう……」だから私は、歯を食いしばって待ち続けた。彼が遠距離恋愛は嫌だと言うから、私は海外留学のチャンスを諦めた。彼が「胃が痛む」とこぼしたから、私は民間企業で受付の仕事を選んだ。残業も夜更かしもせず、ただ彼
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第2話
修一はまるで質の悪い冗談でも聞いたかのように鼻で笑った。「お前、ふざけてるのか?」私は首を横に振った。彼は唇を固く結び、すっと表情を冷たくした。彼が怒りを露わにする時のサインだ。「たかが美波のスリッパ一足のことでか?」私は唇を動かし、違うと言い返したかった。だが、ふと気づいた。私が耐え忍んできた3年、1000日以上も味わってきた惨めさを、彼は見ていない。いや、見ようとしていないのだと。ならば、言っても言わなくても同じことではないか。私は伏し目がちになり、初めて彼を無視して、自分の部屋に戻ろうと踵を返した。だが、手首を力任せに掴み止められた。「待てよ!」修一は苛立たしげにリビングを指差した。「これ、片付けないつもりか?」彼が指し示す方へ視線をやる。照明の光に照らされた彼の指先が、やけに眩しく目に刺さった。薬指にあるはずの結婚指輪は、とうの昔に消え失せている。指輪の跡すら、微塵も残っていない。結婚した翌日に彼は指輪を外してしまい、当時の私は少し悲しい思いをしたものだ。彼は私の耳元に顔を寄せ、甘い息を吹きかけながら笑って慰めてくれた。「午後から授業があるんだ。辛い思いをさせてるのは分かってる。後で全部埋め合わせるから、な?」彼の言葉はひどく甘く響いた。けれど、その指輪が再び彼の指に戻ることはなかった。時には、そのことで文句を言ったこともある。すると彼は決まって、物分かりの悪い子供を見るような目で私を見下ろした。「咲希、俺は准教授になったばかりで、大学の幹部たちからも期待されてるんだ。今は波風を立てるわけにはいかない。些細なことほど慎重にしておかないと駄目なんだよ」あの頃の私は、本当に愚かで純粋だった。彼の言葉なら何でも信じた。思いもしなかったのだ。あの指輪が、私やこの結婚と同じように、彼の目にはどうでもいい「些細なこと」でしかないなんて。美波が腹痛を訴えることよりも。彼女がホームシックでご飯が喉を通らないことよりも。彼女が奨学金をもらえなくて落ち込み、彼が直接慰めに行かなければならないことよりも、価値がないのだ。そんな過去を思い返し、再び目の前の惨状に目を向ける。私はふいに、声を上げて笑ってしまった。テーブルクロスには茶色い油汚れがべったりと広が
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第3話
朝8時。私が起きた時、修一はすでに大学へ行っていた。テーブルには、彼が珍しく用意した朝食と一枚のメモが置かれていた。【リビングは業者に片付けさせた。子供みたいなワガママは言わず、しっかり寝て、起きたら朝食を食えよ】修一の筆跡は、息を呑むほど端正だ。どこまでも清らかで気品があり、彼の知的で整った佇まいそのものだった。メモを見つめながら、温かいご飯と出汁巻き卵を口へ運ぶ。胸にポッカリと空いた穴が、少しずつ塞がっていくような気がした。だが、それもほんの束の間の錯覚に過ぎなかった。ピロンと通知音が鳴り、スマートフォンの画面に美波のSNSの投稿が表示された。私の目の前にあるご飯と出汁巻き卵が、彼女の食卓にも寸分違わず並んでいた。しかも、私よりも量が多い。写真にはこんな一言が添えられていた。【超ラッキー!学生と一緒に朝食を食べてくれる最高の指導教員をついにゲット!】写真に写っている黄色と青のペアのお椀は、見覚えがありすぎて目に刺さった。それは去年、修一が私を旅行に連れて行ってくれた時、自ら選んでくれたものだ。このお椀の明るい色合いが、よく私に似ていると言って。私は口では照れ隠しに文句を言いながらも、胸の中は喜びで満ちていた。使うのがもったいなくて、宝物のように戸棚に飾り、わざわざ隣に二人のツーショット写真を置いていたほどだ。その後、あの写真はなぜか忽然と姿を消してしまった。残されたのは、このペアのお椀だけ。そして今、彼はそのお椀を使って、美波にご飯をよそっているのだ。これまで何度もあったことだ。私がまだ退社していないというのに、彼から催促の電話がかかってくる。「美波がまた胃が痛いって言ってるんだ。お前の作るお汁は美味いから、飲みたいってせがんできてさ」あれは、私が風邪をこじらせて熱を出し、体温が40度まで上がった2日目のことだった。朝起きた時、病院まで車で送ってくれないかと彼に頼んだ。彼は鏡に向かってネクタイを締め直しながら言った。「午前中に会議があるんだ。会議が終わったら、送っていくよ」私はその言葉を信じ、会社に座って一分一秒と待ち続けた。ポケットからスマートフォンを取り出しては、またしまうのを繰り返した。同僚に「彼氏からの連絡待ち?」と冷やかされ、私は苦笑いを浮かべて
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第4話
美波の足元では、星の刺繍が施されたあのスリッパが、得意げにぴょこぴょこと上下に揺れている。一方、私が履いているのは安っぽい使い捨てスリッパのままだ。キッチンからは油の爆ぜる音が聞こえてくる。私を見ると、美波は立ち上がった。昼間の挑発的な態度はすっかり影を潜め、いかにも恩義を感じているような殊勝な顔つきだ。「咲希さん……」私は彼女を無視して通り過ぎ、クローゼットへスーツケースを取りに向かった。その時、修一がキッチンから出てきて、私を咎めるような声を上げた。「咲希、何ツンツンしてんだよ。美波がわざわざお礼を言いに来てくれたんだ、もう少し大人な対応ができないのか?」フライ返しを握り、エプロンを身に着けた彼の姿が視界を掠める。私と結婚して今日に至るまで、修一がキッチンに立ったことなど一度たりともなかった。鼻炎だから油の匂いは嗅げない、と言っていた。大学教授である自分の手はペンを握るためのものだ、と言っていた。それなのに今、可愛い教え子のために、彼は片手にフライ返しを、もう片手に布巾を握っている。鼻炎も、あの高尚ぶった学者気取りも、すっかり綺麗に治ってしまったらしい。それでもなお、彼は私が間違っていると思っている。私はもう、言い争う気力すら失っていた。ただ首を横に振り、背を向けて立ち去ろうとした。彼が私の腕を掴み、真摯な目を向けてきた。「俺たちの関係、美波に話したよ。お前が俺の妻だってこと、あいつにも分かってもらったから」私は足を止め、何の感情も浮かばない瞳で彼を見つめ返した。「……それで?」修一は眉をひそめ、どこか言い淀んでいるようだった。代わりに美波が目を赤くして近寄ってきた。「咲希さん、私と先生の関係を誤解なさっています。先生はただ、私の境遇を不憫に思って力になろうとしてくださっただけなんです。今回の採用試験、咲希さんが合格されて、大学の掲示板にもお名前が貼り出されていますよね。ですから……その」彼女は私をちらりと見た。怯えたような声色とは裏腹に、その眼差しは冷酷だった。「ご自分から辞退を申し出ていただけないでしょうか……咲希さんが自発的に辞退してくだされば、私の採用も名実ともに正当なものになりますから」その言葉が落ちた瞬間、修一はばつが悪そうに目を逸らした。
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第5話
修一はスマートフォンを握りしめたまま、一睡もせずに夜を明かした。あれほど何度も電話をかけたのだから、一度くらいは私から折り返しがあるはずだと信じて疑わなかったのだろう。だが、待てど暮らせど着信画面には何の通知も現れなかった。夜が明けても、私が家に帰ることはなかった。焦りに駆られた彼は、家中をひっくり返すようにして手当たり次第に探し回った。身分証もない、キャッシュカードもない。残されていたのは、クローゼットの片隅にあったあの古ぼけたスーツケースだけだった。もっとも、あの中に収まっていた私の私物など、もとから無いに等しかった。持って出ようが置いていこうが、大した違いなどありはしない。逃げ場のない底知れぬ恐怖が、冷たい水のようにじわじわと修一を呑み込んでいった。ふと、油汚れがつき、激昂のあまり自らの手でいくつにも引き裂いた離婚協議書の切れ端に視線が留まる。その時になってようやく、彼は悟った。あの離婚協議書は、ただ彼を脅すための切り札などではなかった。私が本気で、心の底から離婚を望んでいるのだということを。彼は慌てて私の以前の勤め先へと電話をかけたが、人事の担当者からは「結城さんは半年前に退職しております」と無情に告げられただけだった。そこで初めて、彼は私が本当に半年前に仕事を辞めていた事実を思い出した。この半年間、私は日中彼の身の回りの世話をし、夜は灯りの下で必死に勉強していた。分からない問題があれば、彼の書斎のドアをノックして教えを乞うたことさえあった。だが、彼から返ってきたのは丁寧な指導などではなく、苛立ちに満ちた冷たい非難だった。「お前はどうしてそんなに頭が悪いんだ?こんなことも分からないのか」記憶の中の、感情を抑えきれずに妻を疎んじていた自分の姿を思い返し、修一の胸は急激に締め付けられた。自分は一体、いつからこんな風になってしまったんだ?その時、けたたましくスマートフォンの着信音が鳴り響いた。彼は弾かれたように電話に出た。「咲希!」だが次の瞬間、画面に表示された名前に気づき、力なく肩を落として声を濁らせた。「……美波か。何の用だ?」修一は頭を抱え込んだ。その目には、どうしていいか分からない焦燥と、激しい後悔が渦巻いている。「先生。咲希さん、帰ってきましたか?」修一は息を吐き出し
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第6話
「君が推薦してきたのは、一体どこの馬の骨だ!あの星野美波という学生と、君は裏でどういう関係にある!自分の教え子の素性をちゃんと把握していたのか!あいつの過去を知っていたのか?ろくに調べもせずに、総務の専任枠に推薦するとは!今やあいつの黒歴史がネットで晒されて、全国中からうちの大学が笑い者にされているんだぞ!『大学の連中は目が節穴か、パトロン相手に体を売っていたような女を総務に雇おうとしたのか』ってな!我が校の百年の名誉が台無しだ!すべて君のせいだからな!」修一は頭ごなしに散々怒鳴りつけられ、一言も口を挟む余地がなかった。どうにか弁解しようと口を開きかけた時、すでに電話は一方的に切られていた。修一は慌ててウェブサイトを開き、記事のページを上から下まで目で追った。そして足元がふらつき、あやうくその場に崩れ落ちそうになった。学長の言葉は、冗談でも何でもなかった。美波が過去に金持ちの年上男たちの愛人をしていた生々しい経歴が、ネットに洗いざらい晒し上げられていたのだ。彼の目には、不遇な環境にも負けず自力で生き抜き、周囲の冷たい視線に耐える無垢で可哀想な教え子として映っていた美波――だが彼女は決して、世の汚れを知らない清純な少女などではなかった。とうの昔に、社会の汚い欲望の泥水にどっぷりと浸かりきっていたのだ。彼がまだその衝撃から立ち直れないでいると、玄関のドアが叩かれた。その音は、次第に激しさを増していく。ドアの向こうから、今にも泣き出しそうな美波の焦燥した声が響いた。「先生、助けてください!あの記事なんて、写真も捏造された真っ赤な嘘なんです!私、誰かに陥れられたんです!」部屋の中から何の反応もないのを見て、彼女はさらに声を上げて泣きじゃくった。「きっと、私を陥れたのは咲希さんです!私に恨みを抱いて、あんな汚い手で私に泥を塗ったに決まってます!」「いい加減にしろ!お前の汚い口で咲希の名前を出すな!」修一はもう耐えきれず、勢いよくドアを開け放った。彼は氷のように冷たい顔で、エレベーターホールを指差した。「学長から直接電話がかかってきたんだぞ、これが嘘なわけがあるか!これ以上誤魔化すなら、お前のことなんか二度と面倒見ないからな!」「言います!全部話しますから!」美波は血の気を失った顔で、ヒックと咽
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第7話
美波は目を真っ赤に充血させ、半狂乱になって修一の胸に飛び込もうとした。修一は激しい吐き気を催し、ついに抑え込んでいた怒りを爆発させた。すがりつこうとする美波を容赦なく蹴り飛ばして廊下へ追い出し、凄まじい音を立ててドアを叩きつけた。美波を叩き出した後、修一は部屋に戻るなり狂ったように掃除用具を引っ張り出し、美波の痕跡を消し去るように、彼女の私物を手当たり次第にゴミ袋へと放り込んだ。彼女の過去の薄汚い素性を思い出す度、まるで汚水でも飲み込んだかのようなおぞましい嫌悪感が胃の腑から込み上げてくる。怒りと嫌悪で修一の顔面は引きつり、その頬からは完全に血の気が失せていた。すべてを捨て終え、ソファにどさりと腰を下ろした彼は、苛立ち紛れにローテーブルを力任せに蹴り上げた。その時、再びスマートフォンが鳴り響いた。今度の相手は学長ではなく、普段から親しくしている同僚の教授だった。「高橋さん!大変です!今すぐスマホを開いて、ライブ配信を見てください!あなたが指導していたあの星野美波という学生が、全国のネットユーザーに向けて、高橋さんも自分の『パトロン』の一人だったと暴露配信をしてるんです!大学側はもう蜂の巣をつついたような大騒ぎで、今、学長が学部長たちを緊急招集して高橋さんの処分について会議を開いています。今回はさすがに……」彼はそこで言葉を濁したが、その先の結末は言わずとも明らかだった。大学の教授が教え子と不適切な関係を持ったばかりか、あろうことか彼女の最大の「パトロン」だったという醜聞。おまけに彼女の手元には、修一が自筆で書いた推薦状まである。学内での採用に便宜を図った、何よりの動かぬ証拠だ。これだけの材料が世間に晒されてしまえば、今さらどんな釈明を並べ立てようと、事態を覆すことなど到底不可能だった。ここに至り、修一はもう何も隠し立てできなかった。同僚に向かって事の顛末とすべての真実を包み隠さず打ち明け、学長の前でなんとか口添えをしてくれないかとすがるように頼み込んだ。「高橋さん!なんて馬鹿なことを!あなたと咲希さんは正式に籍を入れた夫婦ですし、直接指導している学生というわけでもなかったでしょう。公表して何か不都合があったんですか!?そんなことを隠し立てした挙句、星野なんて女のせいで自分の築き上げた立場をここま
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第8話
その夜、美波の暴露配信のアーカイブは、ネット上で瞬く間に百万回以上の再生数を叩き出した。当事者である二人が「大学教授と学生」という禁忌の関係にあり、その特殊な立場も相まって、ネットに大炎上を巻き起こした。修一は怒りのあまり発狂寸前だったが、もはや打つ手は残されていなかった。何度か自らも配信を立ち上げて反論しようと思い詰めたものの、結局最後まで実行に移すことはできなかった。カメラの向こうで何万という人間から袋叩きにされる恐怖に耐えられなかったし、何より、これほどまでに惨めな自分の姿を咲希に見られることだけは避けたかったのだ。大学側は事態の悪質さを重く受け止め、彼の教授職を即座に懲戒解雇とした。さらに学内外への悪影響を鑑みて「永久に再雇用しない」という通達を下した。一夜にして、修一はすべてを失った。世間から後ろ指を指され、ありとあらゆる嘲笑と罵詈雑言に晒され続けた。完全に手詰まりとなった修一は、部屋に引きこもり、ただ浴びるように酒を飲むだけの廃人同然の生活へと転落していった。――それから、あっという間に3年の月日が流れた。私は「S市博物館リニューアルプロジェクト」の設計案を携え、帰国の途についていた。帰国を直前に控えた夜。ルームメイトの水野玲奈(みずの れいな)に引き留められ、二人で酒を酌み交わした。「このプロジェクトが無事に終わったら、国内の支社は咲希、あなたがトップに立って引っ張ってちょうだい。『私には無理』なんて泣き言は聞かないわよ。学生時代からがむしゃらな努力家だったけど、今のあなたの働きぶりはそれに輪をかけて凄まじいんだから。国内の支社は、他の誰に任せても不安なの。あなた以外に適任はいないわ」玲奈の真剣な眼差しを受け止めた私は、多くを語らずにテーブルのグラスを持ち上げ、彼女のグラスと軽く合わせた。「分かったわ」私は笑って、力強く頷いた。帰国便の座席に深く身を沈めて初めて、張り詰めていた肩の力がようやく抜けていくのを感じた。月日の流れるのは、本当に早い。空港に降り立ち、スマートフォンの電源を入れた途端。立て続けに何件もの通知が画面を埋め尽くした。【咲希、帰国したんだろ?】【家に帰ってきてくれないか?部屋はあの頃のままだ、俺はずっと家でお前を待ってる!】【一度だけでいい
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第9話
私はスマートフォンの画面をタップして返信した。【分かったわ。マンションの向かいのカフェで会いましょう】S市の天気は、あの頃と何も変わっていなかった。あの異国の街のような深い霧も、底冷えする陰鬱な空気もない。ただ、ぽかぽかとした暖かな陽射しだけが心地よく降り注いでいる。しかし残念なことに、その穏やかなひとときは、ドアを押し開けて入ってきた修一の姿によって完璧に台無しにされてしまった。彼は入り口で数秒立ち尽くし、やがて躊躇うように重い足取りで、私の席へ近づいてきた。向かいに腰を下ろすと、ごくりと唾を飲み込む。「咲希……ずいぶん、変わったな」私は冷淡な視線を投げかけた。瞳の奥には、さざ波ひとつ立っていない。修一は慌てたように言葉を継いだ。「どうしてずっと返事をくれなかったんだ?ずっと探してたんだぞ、誰もお前の居場所を知らなくて……」私は気のない様子で、淡々とあしらった。「離婚協議書を渡すために私を探していたなら、今ここで出してちょうだい」その言葉を耳にした瞬間、修一の目頭がカッと赤く染まった。彼は私を真っ直ぐに見つめ、かすれた声で絞り出した。「どうして……」私は苛立ちを込めて答えた。「どうしてって何が?あの協議書、あなたはもう3年も引き延ばしているのよ」「でも、俺たちはまだ離婚してないじゃないか!」感情を激昂させた修一の瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。私は眉ひとつ動かさずに言い放った。「ええ、そうね。あなたが同意しなかっただけ。でも私の心の中では、私たちはずっと昔に離婚しているわ」修一は唇を噛み締め、さらに目を真っ赤に腫らした。その姿はかつて私が悲しみに暮れていた時の姿と、そっくり同じだった。彼は身を乗り出し、声を押し殺して、哀願するような口調で言った。「頼む、そんなふうに突き放さないでくれ。今の俺には、もうお前しかいないんだ!もう教師でも、教授でもない。俺には……もう何も残ってないんだ」「ええ、知ってるわ。あなたを破滅させたのは、あのお気に入りの教え子、美波でしょう?」修一は数秒言葉を失い、やがて口元に苦渋の笑みを浮かべた。「咲希、俺は本当に後悔してるんだ。あの時お前の忠告を聞いて、もっと早く俺たちの関係を公表しておけば……」私は再び彼の言葉を遮った。
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