ログイン秘密の結婚生活も3年目。 家の靴箱には、相変わらず三足のスリッパが並んでいる。 高橋修一(たかはし しゅういち)のもの、学生のもの、そして友人のもの。 私、結城咲希(ゆうき さき)の分だけが、ぽつんと欠けている。 彼が新しい使い捨てスリッパを差し出してきたとき、私は淡々とした声で口にした。 「私が買ったあのスリッパは?」 彼は私を見ようともせず、「あいつらが来る前に捨てた」と答えた。 私は「そう」とだけ声を漏らした。 胸の奥がツンと痛むのを押し殺し、何気ない風を装って尋ねる。「美波も今回来たの?」 「いや、来てない」 彼は嘘をついている。 なぜなら、ついさっき星野美波(ほしの みなみ)から挑発するようなメッセージが届いたばかりだからだ。 【実のところ、あなたってすごく可哀想。私たちが遊びに行くたび、清掃員のふりをしてゴミを持って下へ降りなきゃいけないんだから。 考えたことない?彼は関係を公表できないんじゃなくて、ただ公表したくないだけかもしれないって】 スマートフォンの画面を消し、私は洗面所へ向かった。 洗面台の鏡にべったりと残された無数の手形は、まるで何かの宣戦布告のようだった。 修一のそばを通り過ぎる時、なぜ私に嘘をついたのか。 それに、なぜ彼のトークアプリで一番上にピン留めされているのが私ではなく、星のアイコンの彼女なのかと彼を問い詰めなかった。 リビングで彼に付き合ってテレビのサッカー中継を観て、窓の外の星をしばらく眺めたあと、私は金庫の中に隠されていたスリッパを取り出し、笑みを浮かべながら彼の前に押し出した。 「そんなに彼女が大切なら、いつまでもコソコソ隠してないで、堂々と表に出してあげればいいのに」
もっと見る私はスマートフォンの画面をタップして返信した。【分かったわ。マンションの向かいのカフェで会いましょう】S市の天気は、あの頃と何も変わっていなかった。あの異国の街のような深い霧も、底冷えする陰鬱な空気もない。ただ、ぽかぽかとした暖かな陽射しだけが心地よく降り注いでいる。しかし残念なことに、その穏やかなひとときは、ドアを押し開けて入ってきた修一の姿によって完璧に台無しにされてしまった。彼は入り口で数秒立ち尽くし、やがて躊躇うように重い足取りで、私の席へ近づいてきた。向かいに腰を下ろすと、ごくりと唾を飲み込む。「咲希……ずいぶん、変わったな」私は冷淡な視線を投げかけた。瞳の奥には、さざ波ひとつ立っていない。修一は慌てたように言葉を継いだ。「どうしてずっと返事をくれなかったんだ?ずっと探してたんだぞ、誰もお前の居場所を知らなくて……」私は気のない様子で、淡々とあしらった。「離婚協議書を渡すために私を探していたなら、今ここで出してちょうだい」その言葉を耳にした瞬間、修一の目頭がカッと赤く染まった。彼は私を真っ直ぐに見つめ、かすれた声で絞り出した。「どうして……」私は苛立ちを込めて答えた。「どうしてって何が?あの協議書、あなたはもう3年も引き延ばしているのよ」「でも、俺たちはまだ離婚してないじゃないか!」感情を激昂させた修一の瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。私は眉ひとつ動かさずに言い放った。「ええ、そうね。あなたが同意しなかっただけ。でも私の心の中では、私たちはずっと昔に離婚しているわ」修一は唇を噛み締め、さらに目を真っ赤に腫らした。その姿はかつて私が悲しみに暮れていた時の姿と、そっくり同じだった。彼は身を乗り出し、声を押し殺して、哀願するような口調で言った。「頼む、そんなふうに突き放さないでくれ。今の俺には、もうお前しかいないんだ!もう教師でも、教授でもない。俺には……もう何も残ってないんだ」「ええ、知ってるわ。あなたを破滅させたのは、あのお気に入りの教え子、美波でしょう?」修一は数秒言葉を失い、やがて口元に苦渋の笑みを浮かべた。「咲希、俺は本当に後悔してるんだ。あの時お前の忠告を聞いて、もっと早く俺たちの関係を公表しておけば……」私は再び彼の言葉を遮った。
その夜、美波の暴露配信のアーカイブは、ネット上で瞬く間に百万回以上の再生数を叩き出した。当事者である二人が「大学教授と学生」という禁忌の関係にあり、その特殊な立場も相まって、ネットに大炎上を巻き起こした。修一は怒りのあまり発狂寸前だったが、もはや打つ手は残されていなかった。何度か自らも配信を立ち上げて反論しようと思い詰めたものの、結局最後まで実行に移すことはできなかった。カメラの向こうで何万という人間から袋叩きにされる恐怖に耐えられなかったし、何より、これほどまでに惨めな自分の姿を咲希に見られることだけは避けたかったのだ。大学側は事態の悪質さを重く受け止め、彼の教授職を即座に懲戒解雇とした。さらに学内外への悪影響を鑑みて「永久に再雇用しない」という通達を下した。一夜にして、修一はすべてを失った。世間から後ろ指を指され、ありとあらゆる嘲笑と罵詈雑言に晒され続けた。完全に手詰まりとなった修一は、部屋に引きこもり、ただ浴びるように酒を飲むだけの廃人同然の生活へと転落していった。――それから、あっという間に3年の月日が流れた。私は「S市博物館リニューアルプロジェクト」の設計案を携え、帰国の途についていた。帰国を直前に控えた夜。ルームメイトの水野玲奈(みずの れいな)に引き留められ、二人で酒を酌み交わした。「このプロジェクトが無事に終わったら、国内の支社は咲希、あなたがトップに立って引っ張ってちょうだい。『私には無理』なんて泣き言は聞かないわよ。学生時代からがむしゃらな努力家だったけど、今のあなたの働きぶりはそれに輪をかけて凄まじいんだから。国内の支社は、他の誰に任せても不安なの。あなた以外に適任はいないわ」玲奈の真剣な眼差しを受け止めた私は、多くを語らずにテーブルのグラスを持ち上げ、彼女のグラスと軽く合わせた。「分かったわ」私は笑って、力強く頷いた。帰国便の座席に深く身を沈めて初めて、張り詰めていた肩の力がようやく抜けていくのを感じた。月日の流れるのは、本当に早い。空港に降り立ち、スマートフォンの電源を入れた途端。立て続けに何件もの通知が画面を埋め尽くした。【咲希、帰国したんだろ?】【家に帰ってきてくれないか?部屋はあの頃のままだ、俺はずっと家でお前を待ってる!】【一度だけでいい
美波は目を真っ赤に充血させ、半狂乱になって修一の胸に飛び込もうとした。修一は激しい吐き気を催し、ついに抑え込んでいた怒りを爆発させた。すがりつこうとする美波を容赦なく蹴り飛ばして廊下へ追い出し、凄まじい音を立ててドアを叩きつけた。美波を叩き出した後、修一は部屋に戻るなり狂ったように掃除用具を引っ張り出し、美波の痕跡を消し去るように、彼女の私物を手当たり次第にゴミ袋へと放り込んだ。彼女の過去の薄汚い素性を思い出す度、まるで汚水でも飲み込んだかのようなおぞましい嫌悪感が胃の腑から込み上げてくる。怒りと嫌悪で修一の顔面は引きつり、その頬からは完全に血の気が失せていた。すべてを捨て終え、ソファにどさりと腰を下ろした彼は、苛立ち紛れにローテーブルを力任せに蹴り上げた。その時、再びスマートフォンが鳴り響いた。今度の相手は学長ではなく、普段から親しくしている同僚の教授だった。「高橋さん!大変です!今すぐスマホを開いて、ライブ配信を見てください!あなたが指導していたあの星野美波という学生が、全国のネットユーザーに向けて、高橋さんも自分の『パトロン』の一人だったと暴露配信をしてるんです!大学側はもう蜂の巣をつついたような大騒ぎで、今、学長が学部長たちを緊急招集して高橋さんの処分について会議を開いています。今回はさすがに……」彼はそこで言葉を濁したが、その先の結末は言わずとも明らかだった。大学の教授が教え子と不適切な関係を持ったばかりか、あろうことか彼女の最大の「パトロン」だったという醜聞。おまけに彼女の手元には、修一が自筆で書いた推薦状まである。学内での採用に便宜を図った、何よりの動かぬ証拠だ。これだけの材料が世間に晒されてしまえば、今さらどんな釈明を並べ立てようと、事態を覆すことなど到底不可能だった。ここに至り、修一はもう何も隠し立てできなかった。同僚に向かって事の顛末とすべての真実を包み隠さず打ち明け、学長の前でなんとか口添えをしてくれないかとすがるように頼み込んだ。「高橋さん!なんて馬鹿なことを!あなたと咲希さんは正式に籍を入れた夫婦ですし、直接指導している学生というわけでもなかったでしょう。公表して何か不都合があったんですか!?そんなことを隠し立てした挙句、星野なんて女のせいで自分の築き上げた立場をここま
「君が推薦してきたのは、一体どこの馬の骨だ!あの星野美波という学生と、君は裏でどういう関係にある!自分の教え子の素性をちゃんと把握していたのか!あいつの過去を知っていたのか?ろくに調べもせずに、総務の専任枠に推薦するとは!今やあいつの黒歴史がネットで晒されて、全国中からうちの大学が笑い者にされているんだぞ!『大学の連中は目が節穴か、パトロン相手に体を売っていたような女を総務に雇おうとしたのか』ってな!我が校の百年の名誉が台無しだ!すべて君のせいだからな!」修一は頭ごなしに散々怒鳴りつけられ、一言も口を挟む余地がなかった。どうにか弁解しようと口を開きかけた時、すでに電話は一方的に切られていた。修一は慌ててウェブサイトを開き、記事のページを上から下まで目で追った。そして足元がふらつき、あやうくその場に崩れ落ちそうになった。学長の言葉は、冗談でも何でもなかった。美波が過去に金持ちの年上男たちの愛人をしていた生々しい経歴が、ネットに洗いざらい晒し上げられていたのだ。彼の目には、不遇な環境にも負けず自力で生き抜き、周囲の冷たい視線に耐える無垢で可哀想な教え子として映っていた美波――だが彼女は決して、世の汚れを知らない清純な少女などではなかった。とうの昔に、社会の汚い欲望の泥水にどっぷりと浸かりきっていたのだ。彼がまだその衝撃から立ち直れないでいると、玄関のドアが叩かれた。その音は、次第に激しさを増していく。ドアの向こうから、今にも泣き出しそうな美波の焦燥した声が響いた。「先生、助けてください!あの記事なんて、写真も捏造された真っ赤な嘘なんです!私、誰かに陥れられたんです!」部屋の中から何の反応もないのを見て、彼女はさらに声を上げて泣きじゃくった。「きっと、私を陥れたのは咲希さんです!私に恨みを抱いて、あんな汚い手で私に泥を塗ったに決まってます!」「いい加減にしろ!お前の汚い口で咲希の名前を出すな!」修一はもう耐えきれず、勢いよくドアを開け放った。彼は氷のように冷たい顔で、エレベーターホールを指差した。「学長から直接電話がかかってきたんだぞ、これが嘘なわけがあるか!これ以上誤魔化すなら、お前のことなんか二度と面倒見ないからな!」「言います!全部話しますから!」美波は血の気を失った顔で、ヒックと咽