ANMELDEN「手付金までお支払いいただいたのに、本当に新居を解約なさるんですか?婚約者様のお戻りを待ってから、お二人でサインを……」 不動産屋の担当者が戸惑うのも無理はない。 私・高瀬紗良(たかせ さら)はテーブルの上にそっと鍵を置き、静かに微笑んだ。 「いいえ、待たなくて結構です。彼は今、初恋の彼女と雪山でスキーを楽しんでいるので」 交際して5年。 婚約者である成瀬朔也(なるせ さくや)は、毎年冬になると「海外出張」と称して北の国へ飛んでいた。 しかし彼のSNSの裏アカウントにアップされていたのは、仕事の風景ではなく、いつも美しい白銀の連峰の写真ばかり。 「新婚旅行はいつ行く?」と私が聞くたびに、彼は「そのうちな」と誤魔化してきた。 ――昨日、彼が家に忘れていった古いデジカメを見るまでは。 そこには何百枚もの写真が収められていた。 同じ構図、同じ背景、そして同じ女性。 異国の街並み、オーロラ、白雪。そして彼女がそこにいた。 私が朔也と遠出したのは、たった一度だけ。隣町の物件を内見しに行ったあの日だけだ。 その時、彼は私の腕を引き寄せながらこう言ったのだ。 「俺たちはロマンチックな無駄遣いはやめて、堅実に生きていこうな」と。 自分が一から壁紙や内装を選んだ新居の間取り図を眺めていると、限界まで張り詰めていた糸がプツンと切れ、不意に涙が溢れて止まらなくなった。 「……あの、本当に解約でよろしいですか?」 担当者がおずおずと書類とペンを差し出してくる。 「はい。お願いします」 私は笑って涙を拭い、迷いなくサインした。 退職届はすでに受理されている。私がこの街を去る日は、もうすぐそこまで迫っていた。 彼が愛したあの美しい雪景色が、私のもとへ来ることは永遠にない。 ――だから私はもう、二度と来ない「そのうち」を待つのはやめる。 あなたから遠く離れ、私だけの新しい人生を歩き出すのだ。
Mehr anzeigen私はドアの前に立ったまま、彼を振り返らなかった。開いたドアの隙間から冷たい風が吹き込み、ふっと目頭が熱くなった。けれど、もう涙がこぼれ落ちることはなかった。私の中で彼のために流す涙は、とうの昔に枯れ果てていたからだ。「ええ、朔也。あなたの言う通りよ。私は愛されるべき人間だわ」私は前を向いたまま、毅然と、はっきりと口にした。「だから私は、私を愛してくれる場所へ行くことを選んだの。それは決して、あなたの隣じゃないわ」一歩を踏み出し、ドアを抜ける。外の空気は冷たかったけれど、見上げた新しい街の空は、どこまでも澄み切って晴れ渡っていた。……「高瀬さん、お荷物が届いてますよ」新しい職場の受付の女の子が、大きめのダンボール箱を抱えて私の席までやってきた。伝票に印字された発送元の住所は、私がかつて住んでいたあの街。そして送り主の欄には、朔也の名前が記されていた。私は少しだけ躊躇った後、カッターを取り出してガムテープを切り裂いた。箱の一番上には、薄いクリアファイルが乗っていた。中に入っていたのは、『婚約解消合意書』。最後のページをめくると、右下の署名欄に朔也の名前がサインされていた。ペンの筆圧が異常なほど強く、インクが深く紙に食い込んでいる。まるで、自分の未練を力ずくでねじ伏せるような筆跡だった。日付は、3日前になっている。彼がこの街から帰った直後に書いたものだ。ファイルの下には、いくつかの品物が丁寧に梱包されて収まっていた。一つ目は、気泡緩衝材で何重にも包まれた、私の『家づくりノート』。添えられたメッセージカードには、彼特有の癖のある字でこう書かれていた。【これはお前に返す。お前が4ヶ月間、たった一人で心血を注いだ記録だ。俺には、これを手元に残す資格がない】ノートの下には、私が置いてきたあの5つのマグネットが、一つずつ小さな箱に入れられていた。彼はこれを捨てずに、わざわざ送り返してきたのだ。そこにも短いメモが添えられている。【この5つのマグネットは、お前が5年間の交際で受け取った土産のすべてだ。俺にはこれを捨てる権利もないから、お前に返す】そして、箱の一番底にもう一つ、見慣れない小さな包みが埋もれていた。開けてみると、出てきたのは新しいマグネットだった。あの雪山
朔也の腕から完全に力が抜け、だらりと垂れ下がった。指の隙間から滑り落ちた銀色のネックレスが、冷たいタイルの床に落ちて、チャリン……と甲高い音を立てる。私は一度も振り返らなかった。「そのネックレス、持って帰って。それは、私のものじゃないから」……「……高瀬さん、あの男の人、昨日の夜からずっとあそこにいたみたいですよ」翌朝出社すると、同僚の女性が心配そうに教えてくれた。「警備員さんが言ってたんですけど、エントランスのソファに一晩中座り込んでて、明け方になってようやく帰っていったらしいです」私はオフィスの窓から下を見下ろした。エントランスの前に、もう彼の姿はない。午前10時、朔也からメッセージが届いた。【俺は絶対に諦めない。お前が俺と話す気になってくれるまで、ずっと待ってる】お昼休みになると、明日香から電話がかかってきた。「紗良。朔也のやつから、あんたに伝言を頼まれたんだけど」「……どんな伝言?」「あいつ、莉子の連絡先を全部消したらしいよ。位置情報の共有アプリも解除して、五年分のチャット履歴も完全に削除したってさ」「そう。それで?」「そのあと……あいつ、あんたたちが昔よく通ってたっていう、あの大衆食堂に行ったらしいよ」私がお弁当をつつく手が、ピタリと止まる。あの大衆食堂。交際して最初の年に、彼が私に「一生一緒にいよう」と告白してくれた場所。「これからは毎年の記念日に、必ずこの店に来よう」と約束し、そして彼が二度と足を運ばなかった場所。「あいつ、そこで一人でうどんを食べて、帰り際に店の大将にこう言ったんだって」「なんて?」「『大将、来年の今日も必ず来るから、席を空けといてくれ』って」私は何も答えず、ただ静かに息を吐いた。電話の向こうで、明日香も切なそうに息をつく。「紗良。あんたがこの五年間、あいつに散々傷つけられて、我慢ばかりさせられてきたのはわかってる。でも……あいつ、本当に変わろうとしてるみたいだよ」「……彼が変わろうがどうしようが、もう私には関係ないわ」「どうして?」「だって私はもう、5年前の『ただ彼を待つしかできなかった私』じゃないから」午後3時、朔也は再びオフィスのビルの前に姿を現した。今度は中には入らず、向かいのカフェの軒先に立って、ずっと
私は自分のデスクに座ったまま、ガラスのパーティション越しに彼の姿を見つめた。最後に会った時よりずっと頬がこけ、無精髭も剃られておらず、目の下にはくっきりと青いクマができている。その手には、見覚えのない紙袋が握られていた。受付の女の子が困ったようにこちらを振り返ったので、私は小さく首を横に振った。「申し訳ありません、高瀬さんは本日不在にしております」「不在……?いつ頃戻られますか?」「はっきりとは存じ上げません。何かお預かりいたしましょうか?」朔也はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて紙袋の中からひとつの箱を取り出し、受付のカウンターに置いた。「これ……彼女に渡しておいてください」彼が背を向けて立ち去った後、受付の女の子がその箱を私の席まで持ってきてくれた。中に入っていたのは、深いネイビーの最高級カシミヤのマフラーだった。莉子のものとは違い、どこにもアルファベットの刺繍はない。そして、その下には一枚の小さなメモが添えられていた。【去年の冬、お前がカシミヤマフラーを欲しがった時、俺は「買う必要ない」って言ったよな。ごめん、1年遅くなったけど、お前のために選んだんだ】1年、遅くなった。私が欲しがった時に、彼は「必要ない」と切り捨てた。そして私が彼を捨てた今になって、彼はわざわざ別の街までそれを届けにきたのだ。でも、その1年の間に、莉子はあのワインレッドのカシミヤマフラーを、彼の『ついで』の好意としてとっくに受け取っていたのに。私は冷めた気持ちのまま、そのマフラーを空き箱に戻し、デスクの一番下の引き出しに無造作に放り込んだ。夕方の5時を過ぎた頃、同僚の女性が私の席に小走りでやってきた。「紗良さん、一階のエントランスにずっと立ってる男の人がいるんですけど……警備員さんが声をかけたら『待ち合わせです』って言ってるみたいで」私は立ち上がり、オフィスの窓から下を見下ろした。朔也がエントランスの外に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだまま、焦ったように何度もスマホの画面を確認している。私はゆっくりとエレベーターで一階に降り、自動ドアを抜けた。私の足音に気づいた彼が、弾かれたように顔を上げる。「紗良……!」「……どうして、この場所がわかったの?」「明日香に、頼み込んで聞い
【朔也に直接聞いて】【聞いたけど、何も教えてくれないの。紗良さん、もしかしてサクくんと喧嘩でもした?】【喧嘩じゃないよ。私、家を出たの】【家を出た……?どこに行ったの?】【朔也と別れたの】メッセージの画面に「入力中」の表示が出たり消えたりして、長い沈黙が流れた。やがて、画面を埋め尽くすような長文が送られてきた。【紗良さん、出過ぎたことを言うようだけど……サクくん、紗良さんのこと本当に大切にしてたよ?サクくんって根がお人好しで、誰にでも優しくしちゃう人だから。私に親切にしてくれたからって、そんなに嫉妬しないでほしいな。私たち、本当にただの幼馴染だし。そんなことで別れちゃうなんて、もったいなさすぎるよ】彼女は、私がただの「女の嫉妬」で家を出たと思っているのだ。私が一人で勝手に大騒ぎをして、駄々をこねていると本気で信じている。私は冷え切った指先で、画面に問いかけた。【ねえ白石さん、朔也のどこが、私を大切にしてたと思う?】今度は3分ほど間が空いてから、返信が届いた。【だって、5年間も付き合って、新居の頭金も払ってくれて、結婚の準備まで進めてくれたじゃない。サクくん、紗良さんのこと話す時、いつも『すごく自立してて、一人で何でもこなせるから尊敬してる』って言ってたよ】「尊敬」――愛おしさでも、愛しさでも、失うことを恐れる執着でもない。それはまるで、水やりすら必要としない砂漠のサボテンを遠くから眺めて、「手がかからなくて立派だ」と感心しているだけの感情。彼が私に向けていたのは、愛などではなく、ただの都合のいい評価に過ぎなかったのだ。私はメッセージアプリの入力欄に、今まで胸の奥に溜め込んでいた疑問を一つずつ、淡々と打ち込んでいった。【ねえ、白石さん。彼が毎年冬にあなたをあの北の国へ連れて行っている間、私が一人きりで暗い家で彼を待っていたことを、あなたは知っていたの?】【……あれは、ただの出張のついでで……】【彼があなたのために二ヶ月もかけて特注のネックレスを作る裏で、私の婚約指輪がネット通販の安物だったことは知ってた?】【……】【彼があなたの誕生日を豪華に祝う裏で、私の誕生日はプレゼントどころか完全に忘れられていたことは?】【私には『義母は人が来るのを嫌がるから』と言って実家