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5年の恋に別れを告げ、私は遠くへ旅立つ

5年の恋に別れを告げ、私は遠くへ旅立つ

Von:  涼木Abgeschlossen
Sprache: Japanese
goodnovel4goodnovel
11Kapitel
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Zusammenfassung

切ない恋

ひいき/自己中

クズ男

愛人

不倫

妻を取り戻す修羅場

「手付金までお支払いいただいたのに、本当に新居を解約なさるんですか?婚約者様のお戻りを待ってから、お二人でサインを……」 不動産屋の担当者が戸惑うのも無理はない。 私・高瀬紗良(たかせ さら)はテーブルの上にそっと鍵を置き、静かに微笑んだ。 「いいえ、待たなくて結構です。彼は今、初恋の彼女と雪山でスキーを楽しんでいるので」 交際して5年。 婚約者である成瀬朔也(なるせ さくや)は、毎年冬になると「海外出張」と称して北の国へ飛んでいた。 しかし彼のSNSの裏アカウントにアップされていたのは、仕事の風景ではなく、いつも美しい白銀の連峰の写真ばかり。 「新婚旅行はいつ行く?」と私が聞くたびに、彼は「そのうちな」と誤魔化してきた。 ――昨日、彼が家に忘れていった古いデジカメを見るまでは。 そこには何百枚もの写真が収められていた。 同じ構図、同じ背景、そして同じ女性。 異国の街並み、オーロラ、白雪。そして彼女がそこにいた。 私が朔也と遠出したのは、たった一度だけ。隣町の物件を内見しに行ったあの日だけだ。 その時、彼は私の腕を引き寄せながらこう言ったのだ。 「俺たちはロマンチックな無駄遣いはやめて、堅実に生きていこうな」と。 自分が一から壁紙や内装を選んだ新居の間取り図を眺めていると、限界まで張り詰めていた糸がプツンと切れ、不意に涙が溢れて止まらなくなった。 「……あの、本当に解約でよろしいですか?」 担当者がおずおずと書類とペンを差し出してくる。 「はい。お願いします」 私は笑って涙を拭い、迷いなくサインした。 退職届はすでに受理されている。私がこの街を去る日は、もうすぐそこまで迫っていた。 彼が愛したあの美しい雪景色が、私のもとへ来ることは永遠にない。 ――だから私はもう、二度と来ない「そのうち」を待つのはやめる。 あなたから遠く離れ、私だけの新しい人生を歩き出すのだ。

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Kapitel 1

第1話

「手付金までお支払いいただいたのに、本当に新居を解約なさるんですか?婚約者様のお戻りを待ってから、お二人でサインを……」

不動産屋の担当者が戸惑うのも無理はない。

私・高瀬紗良(たかせ さら)はテーブルの上にそっと鍵を置き、静かに微笑んだ。

「いいえ、待たなくて結構です。彼は今、初恋の彼女と雪山でスキーを楽しんでいるので」

交際して5年。

婚約者である成瀬朔也(なるせ さくや)は、毎年冬になると「海外出張」と称して北の国へ飛んでいた。

しかし彼のSNSの裏アカウントにアップされていたのは、仕事の風景ではなく、いつも美しい白銀の連峰の写真ばかり。

「新婚旅行はいつ行く?」と私が聞くたびに、彼は「そのうちな」と誤魔化してきた。

――昨日、彼が家に忘れていった古いデジカメを見るまでは。

そこには何百枚もの写真が収められていた。

同じ構図、同じ背景、そして同じ女性。

異国の街並み、オーロラ、白雪。そして彼女がそこにいた。

私が朔也と遠出したのは、たった一度だけ。隣町の物件を内見しに行ったあの日だけだ。

その時、彼は私の腕を引き寄せながらこう言ったのだ。

「俺たちはロマンチックな無駄遣いはやめて、堅実に生きていこうな」と。

自分が一から壁紙や内装を選んだ新居の間取り図を眺めていると、限界まで張り詰めていた糸がプツンと切れ、不意に涙が溢れて止まらなくなった。

「……あの、本当に解約でよろしいですか?」

担当者がおずおずと書類とペンを差し出してくる。

「はい。お願いします」

私は笑って涙を拭い、迷いなくサインした。

退職届はすでに受理されている。私がこの街を去る日は、もうすぐそこまで迫っていた。

彼が愛したあの美しい雪景色が、私のもとへ来ることは永遠にない。

――だから私はもう、二度と来ない「そのうち」を待つのはやめる。

あなたから遠く離れ、私だけの新しい人生を歩き出すのだ。

……

「紗良、あんた本当に解約したの?」

私が不動産屋の自動ドアを抜けた瞬間に、親友の高梨明日香(たかなし あすか)から電話がかかってきた。

「うん、したよ」

「頭金6百万も払ってたのに、あんた一人の一存で解約なんてして……朔也は知ってるの?」

「彼は今、北の国に行ってるから」

「また出張?」

私は答えなかった。

電話の向こうで、明日香が数秒沈黙する。

「紗良、いくら喧嘩したからって、新居の解約はさすがに……」

「彼の古いデジカメにね、何百枚も写真が入ってたの。同じ女、同じ雪景色。それが5年間分ずっと」

ピタリと、明日香の息を呑む気配が伝わってきた。

「……白石莉子(しらいし りこ)と一緒に撮ってたってこと?」

私が何も答えずにいると、それが肯定だと悟ったのだろう。明日香は痛ましそうに息を吐き、それ以上何も言えなくなってしまった。

帰り道、朔也からメッセージアプリに写真が届いた。

白い陶器のマグカップに注がれたホットココア。カップの側面には小さな鹿のイラストが描かれている。

【こっちの街は雪が降ってきた。死ぬほど寒い】

写真に添えられたテキストを見て、私はふっと自嘲気味に息を吐いた。

この鹿のカップには見覚えがある。

去年の冬にも、彼は同じ角度、同じ構図の写真を送ってきたからだ。

当時、私がどこのお店かと聞くと、彼は「適当に入った店だから覚えてない」と素っ気なく答えた。

でも、あの古いデジカメの中に答えがあった。

莉子が同じカフェに座り、手元にあの鹿のマグカップを置いて、カメラに向かって無邪気に微笑んでいる写真。

彼女が首に巻いていたワインレッドのマフラーは、私が見たことのないものだった。

5年間。毎年冬に、同じカフェで、同じココアを頼み、同じ女の笑顔をレンズ越しに見つめていたのだ。

その間、私に送られてくるのはいつも食べ物と風景の写真ばかり。

そこに「人」が写っていたことは、ただの一度もなかった。

朔也と同棲しているマンションに帰りつき、玄関で靴を脱ごうとして、ふとシューズボックスの中に視線が止まった。

朔也の黒いスニーカーの隣に、見慣れない白いキャンバス地のスニーカーがちょこんと並べられている。

サイズは22.5センチくらいだろうか。

私のサイズは23.5センチだ。

屈み込んで、そのスニーカーを手に取った。そこで、靴に貼られた付箋が目に入った。

【サクくんへ。前に買ってもらったこの靴、靴擦れしちゃったから置いておくね】

サクくん。

交際して5年になるけれど、私は一度も朔也をそんな甘えた愛称で呼んだことはない。

彼自身が、私にそう呼ぶことを決して許さなかったからだ。

靴を元の場所に戻し、寝室へ向かう。

デスクの上に置かれた彼のノートパソコンは、スリープ状態が解除されたまま画面が光っていた。

表示されていたのは、旅行サイトの予約完了ページ。

行き先は北の雪山リゾート。2月14日出発、プライベートスパ付きの客室と、高級コース料理のペア宿泊プラン。

備考欄には短く、こう記されていた。

【莉子の誕生日祝い】

私の誕生日は3月9日。

莉子の誕生日は2月15日だ。

去年の3月9日、せめて夜ご飯だけでも一緒に食べられないかと聞いた私に、彼は「会社の付き合いがある」と答えた。

夜中の11時まで一人で彼を待っていた私のスマホに届いたのは、たった一通のメッセージだった。

【今家に着いた。もう寝た?誕生日おめでとう、お祝いはまた今度な】

また今度。

「そのうちな」と誤魔化された新婚旅行と同じように、その約束が果たされることは一度もなかったのだ。

デスクの上のパソコンから、朔也のクラウドアルバムを開いてみた。

保存されている写真は、3千枚以上。

その中で、私が写っているものはたったの「11枚」しかなかった。

しかも、そのうち7枚は付き合い始めた最初の年に撮られたもの。

残りの4年間で、私が彼のカメラに収まったのはたったの4回だけだった。

『北の国の雪』と名付けられたフォルダを見つけ、クリックする。

画面を埋め尽くしたのは、すべて莉子の姿だった。

現地の華やかな民族衣装を着て微笑む姿。新雪の上をはしゃいで歩く姿。荘厳な古い大聖堂の前で、静かに祈りを捧げる姿。

どの写真も構図にこだわり抜かれ、光の加減まで計算されていて、まるでファッション誌のワンページのように美しかった。

私が「たまには私も綺麗に撮ってよ」と頼んだ時、彼はいつも適当にスマホのシャッターを切り、角度も光も気にしなかった。

彼に文句を言うと、いつもこう返された。

「写真なんてただの記録なんだから、べつにいいだろ」

『べつにいいだろ』。

思えばそれは、彼が私に対して一番よく使う言葉だった。

ふいにスマホが震え、朔也からビデオ通話の着信が入った。

通話ボタンをタップする。

画面に映った彼はグレーの厚手コートを着ており、背景は高級そうなホテルの廊下だった。

「メシ、食ったか?」

「うん」

「明後日帰る。午後3時の便だ」

「わかった」

「……なんか声、変じゃないか?」

「ちょっと疲れてるだけ」

「そうか。早く寝ろよ」

彼が通話を切ろうとしたその時、画面の向こうから声が響いた。

「サクくん、車来たよー」

朔也は声のした方へ顔を向けて短く返事をし、再び画面越しの私を見た。

「莉子が呼んでるから、もう切るな」

「……どうして彼女が、あなたのホテルにいるの?」

「たまたま隣の部屋なんだよ。これから一緒に夕飯食う約束しててさ」

「毎年の出張、ずっと一緒にいたの?」

「だから、たまたま出張の日程が被っただけだって。変な想像するなよ」

朔也はフッと笑った。

その笑顔はあまりにも自然で、後ろめたいことなど何一つない、弁明すら必要ないという余裕に満ちていた。

「ああそうだ、お土産にマグネット買ったぞ。今回は結構迷ったんだ」

そう言い残し、通話は一方的に切られた。

私はスマホを握りしめたままキッチンへ向かい、冷蔵庫の前に立った。

扉には、4つのマグネットが貼られている。どれもかの有名な白銀の雪山をモチーフにしたもので、大きさやデザイン、そして買った年が違うだけ。

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第1話
「手付金までお支払いいただいたのに、本当に新居を解約なさるんですか?婚約者様のお戻りを待ってから、お二人でサインを……」不動産屋の担当者が戸惑うのも無理はない。私・高瀬紗良(たかせ さら)はテーブルの上にそっと鍵を置き、静かに微笑んだ。「いいえ、待たなくて結構です。彼は今、初恋の彼女と雪山でスキーを楽しんでいるので」交際して5年。婚約者である成瀬朔也(なるせ さくや)は、毎年冬になると「海外出張」と称して北の国へ飛んでいた。しかし彼のSNSの裏アカウントにアップされていたのは、仕事の風景ではなく、いつも美しい白銀の連峰の写真ばかり。「新婚旅行はいつ行く?」と私が聞くたびに、彼は「そのうちな」と誤魔化してきた。――昨日、彼が家に忘れていった古いデジカメを見るまでは。そこには何百枚もの写真が収められていた。同じ構図、同じ背景、そして同じ女性。異国の街並み、オーロラ、白雪。そして彼女がそこにいた。私が朔也と遠出したのは、たった一度だけ。隣町の物件を内見しに行ったあの日だけだ。その時、彼は私の腕を引き寄せながらこう言ったのだ。「俺たちはロマンチックな無駄遣いはやめて、堅実に生きていこうな」と。自分が一から壁紙や内装を選んだ新居の間取り図を眺めていると、限界まで張り詰めていた糸がプツンと切れ、不意に涙が溢れて止まらなくなった。「……あの、本当に解約でよろしいですか?」担当者がおずおずと書類とペンを差し出してくる。「はい。お願いします」私は笑って涙を拭い、迷いなくサインした。退職届はすでに受理されている。私がこの街を去る日は、もうすぐそこまで迫っていた。彼が愛したあの美しい雪景色が、私のもとへ来ることは永遠にない。――だから私はもう、二度と来ない「そのうち」を待つのはやめる。あなたから遠く離れ、私だけの新しい人生を歩き出すのだ。……「紗良、あんた本当に解約したの?」私が不動産屋の自動ドアを抜けた瞬間に、親友の高梨明日香(たかなし あすか)から電話がかかってきた。「うん、したよ」「頭金6百万も払ってたのに、あんた一人の一存で解約なんてして……朔也は知ってるの?」「彼は今、北の国に行ってるから」「また出張?」私は答えなかった。電話の向こうで、明日香が数秒沈
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第2話
5年間の交際で、私が彼から受け取った「海外出張」のお土産のすべてがこれだった。一方で、莉子が受け取っていたのはどうだろう。プライベートスパ付きの高級リゾートでの宿泊、民族衣装を着てのデート、豪華な誕生日のサプライズ。そして――彼女だけが呼ぶことを許された「サクくん」という特別な愛称。手元のスマホが再び光り、朔也から一枚の写真が送られてきた。まだパッケージに入ったままの、鹿の形をしたマグネット。【可愛いだろ?莉子が一緒に選んでくれたんだ】私への適当なお土産すら、彼女が選んでいる。胸の奥で、何かが完全に冷え切って、粉々に砕け散るのを感じた。私はメッセージの入力欄に文字を打ち込んだ。【あなたは白石さんに何を買ってあげたの?】けれど、送信ボタンの上で指を止め、入力した文字を一文字ずつ、ゆっくりと消していく。そして、たったひと言だけ返信した。【うん】……朔也がマンションに帰ってきた。彼はスーツケースを引きずって玄関に入ってくると、サイドポケットから小さな紙袋を取り出して私に差し出した。「ほら、土産のマグネット」そして、別のポケットからもう一つ大きなブランドの紙袋を取り出し、無造作に玄関のたたきに置いた。「それは何?」「莉子への土産。マフラーだよ。あっちの国特有の柄が可愛いから買ってきてほしいって頼まれてさ」紙袋の隙間から、ワインレッドのマフラーの端が覗いている。最高級のカシミヤ製だ。そっと指先で触れてみると、とろけるように柔らかかった。去年の冬、私は彼に「カシミヤのマフラーが欲しいな」とおねだりしたことがある。すると彼は、「マフラーなんてわざわざ買う必要ないだろ。お前のクローゼットに何本も入ってるじゃないか」と言い放ったのだ。私のクローゼットにあるマフラーは、すべて自分で、自分のお金で買ったものだったのに。「白石さんに、マフラーを買ってきてあげたの?」「あいつに頼まれたからな。ついでだよ、ついで」朔也は靴を脱いでリビングに入ると、どさりとソファに腰を下ろした。「あー、疲れた。飛行機で4時間も揺られてクタクタだよ」「……ねえ、いつになったら私をあの北の国へ連れて行ってくれるの?」私が尋ねると、彼は一瞬きょとんとした顔をした。「なんだよ、急に」「急じ
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第3話
再びスマホの画面が明るくなり、二通目のメッセージが届いた。【紗良さん、お義母さんね、あなたにだけ本音を言うわ。莉子ちゃんは私が小さい頃から見てきた子だし、朔也とも気心が知れてるの。あなたはいい子なんだけど、あまり人の世話が得意じゃないみたいね。もうすぐ夫婦になるんだから、少しは莉子ちゃんを見習ってちょうだいね】私は画面を暗くして、スマホをテーブルに伏せた。ドアが開いて、朔也が寝室に入ってくる。「お前、夕飯食べないのか?」「……お腹空いてない」朔也はそのままクローゼットへ向かい、パジャマを取り出そうとした。その時、彼が脱いだスーツの内ポケットから、赤いベルベット生地の小さな箱が覗いているのが見えた。「それは何?」「ああ、これか。莉子への誕生日プレゼントだよ。ネックレス」朔也は隠す素振りも見せず、パカッと箱を開けて私に見せてきた。シルバーの華奢なチェーン。ペンダントトップは北の国の『雪の結晶』を模した繊細なデザインで、その中央には小さくアルファベットが一文字刻まれていた。『S』。朔也の、Sだ。「これ、オーダーメイドでさ。完成まで2ヶ月も待ったんだぜ」私たちの婚約指輪は、彼がネット通販で適当にポチった安物だった。私が「お店に行って一緒に選びたいな」と言った時、彼は「指輪なんてどれも丸いだけで同じだろ。わざわざ店に行く必要ない」と吐き捨てた。そして、届いた段ボールをバリッと開けて、緩衝材にまみれたケースから指輪をつまみ出し、そのまま私の指にはめたのだ。「……白石さんには、わざわざネックレスをオーダーメイドしたんだ」「あいつの誕生日だし、まあ気持ち程度にな」「私の誕生日には、何をくれた?」朔也は少し考えるような素振りを見せた。「去年は……メッセージアプリで、なんかギフト券送ったよな?」「送られてないよ」「あ、じゃあ忘れてたんだな。まあ、そのうち埋め合わせするよ」そのうち。永遠にやってこない、『そのうち』。「ねえ、朔也。白石さんにはオーダーメイドのネックレスを作って、私には適当なマグネット。白石さんの誕生日は豪華にお祝いして、私の誕生日は忘れる。白石さんをお義母さんの家に手伝いに行かせて、私は行く機会すら与えられない。……これが、普通のことだと思う?」朔也はベルベ
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第4話
宴会が中盤に差し掛かった頃、酒の回った圭吾がニヤニヤしながら提案してきた。「よしよし、お前らカップルの愛の深さをテストしてやろう!朔也、紗良さんが一番好きな花はなんだ?」朔也はしばらく天井を見て考え込んだ。「……バラ?」「残念、トルコキキョウでした。じゃあ、紗良さんの誕生日は?」「3月……9日?」少し間を置いてから、ようやく正解を絞り出した。「じゃあ最後、紗良さんが一番怖いものは?」「紗良は怖いものなんてないよ」朔也は鼻で笑った。「こいつは昔から気が強くて、肝が据わってるからな」私は、暗いところが苦手だ。付き合い始めた最初の年に、そう伝えたはずだったのに。彼は完全に忘れていた。「だめだなぁ朔也、全然わかってねーじゃん!よし、次は莉子に問題だ。朔也が一番よく飲むコーヒーは?」「ブラックコーヒー。お砂糖抜きで、少しだけぬるめのやつ」「正解!じゃあ、朔也が一番怖いものは?」「雷。子供の頃、実家の庭の木に雷が落ちて、怖くて大泣きしたことがあるの」「ははっ、正解!最後、朔也の口癖は?」「『べつにいいだろ』」ドッとその場に笑いが起きた。圭吾が机をバンバン叩いて大笑いする。「すげー!莉子の方が、紗良さんより朔也のことよくわかってんじゃん!」「まあ、付き合いが長いからね。もう10年の仲だし」莉子が誇らしげに微笑んだ。10年。彼女が朔也を知って10年、私は5年。彼女は彼が雷を怖がることを知っているけれど、私は知らない。私が彼を知ろうとしなかったわけではない。彼が、私に自分のことを何も話してくれなかっただけだ。私と一緒にいる時の朔也は、何を聞いても「適当でいい」「なんでもいい」「特に話すようなことじゃない」と口を閉ざす。でも、莉子と一緒にいる時の彼は、まるで別人のように饒舌で、生き生きとした表情で笑うのだ。宴会がお開きに近づいた頃、私は席を立って化粧室へ向かった。すると、背後から莉子が付いて入ってきた。「紗良さん」彼女は洗面台に寄りかかり、鏡に向かって口紅を塗り直しながら声をかけてきた。「ちょっと言いにくいんだけど、気を悪くしないで聞いてね。サクくんってガサツなところはあるけど、根は悪い人じゃないの。だから、あんまり彼のことを責めないであげてほしい
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第5話
私は前を向いたまま、ふっと笑い声を漏らした。「ええ、そうね」これ以上ないほど、完璧な答えだった。「もう十分だわ」……土曜日の朝、私はキッチンで温かい雑炊を作った。「朔也、今日は一日、出かけずに家にいてくれない?」白だしの優しい香りがする雑炊に、彼が好きな梅干しと、出汁巻き卵。これらはすべて、朔也のお気に入りの朝食メニューだ。私が尋ねると、彼は少し驚いたような顔をした。「いいよ。今日は特に予定もないしな」そう言ってふっと笑い、ダイニングチェアに座って雑炊を口に運んだ。私は彼の向かいに座り、その顔をじっと見つめた。この顔を、しっかりと記憶に焼き付けておくために。「ねえ、朔也。私のこと、愛してる?」梅干しをつまもうとしていた彼の箸が、ピタリと止まる。「なんだよ、急に」「一度くらい、言葉にして聞いてみたかったの」「俺はお前と結婚するんだぞ?言わなくてもわかるだろ」「結婚することと、愛していることは違うわ」「……お前、今日はどうしたんだよ?」「ただ、あなたの口から直接聞きたいだけ」朔也は箸を置き、まっすぐに私を見た。「紗良、俺は当然、お前のことを――」その時、テーブルの上の彼のスマホが震えた。朔也は画面に目を落とす。「莉子からだ」「……出ないで」「ちょっと見るだけだよ」彼は画面をスワイプしてメッセージを開いた。「あいつのマンション、水道管が破裂したらしい。床が水浸しだってさ」「管理会社か、修理業者を呼べばいいじゃない」「業者が来るまで一、二時間かかるだろ?その間に部屋が水没しちまうよ」朔也は椅子から立ち上がった。「ちょっと様子見てくる。すぐ戻るから」「……今日はいち日、出かけないって約束したわよね?」「わかってるけど、緊急事態だろ?水道管が破裂してるのを放っておけないじゃないか」「じゃあ、私はどうなるの?」「お前はどうもなってないだろ?俺がいなくたって、一人でなんでもできるじゃないか」彼にとって、私はいつだって「一人で平気な、手のかからない女」なのだ。莉子の家の水道管が破裂したことは一大事で、私の心が粉々に砕け散っていることなど、彼には少しも見えていないのだから。付き合い始めた最初の年。彼は私にこう言って告白した。
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第6話
新しい街に到着した時、改札口で私を待っている人は誰もいなかった。でも、不思議と寂しさはなかった。今の私には、もうどうでもいいことだ。スマホの電源を入れると、通知音が狂ったように鳴り響き、大量のメッセージがなだれ込んできた。最後に入っていた二通は、朔也からのものだった。【テーブルの上のマグネット、見た】【紗良、お願いだから電話に出てくれ】それが、彼から送られてきた27通目のメッセージだった。無視していると、今度は親友の明日香から電話がかかってきた。「紗良!ちょっと、本当にこの街からいなくなったの!?朔也が狂ったように探し回ってるよ!あいつ、会社にまで押しかけたみたいなんだけど、上司から『長期休暇に入った』って言われたらしくて……!」「長期休暇じゃないよ。退職したの」「退職……!?嘘でしょ、仕事まで辞めたの!?」「うん。別の街で、ゼロからやり直すことにした」明日香は息を呑んだ。「……あいつ、私にも8回も電話かけてきたの。紗良がどこに行ったか知らないかって」「なんて答えたの?」「『知らない』って突っぱねたわよ」明日香はそこで言葉を区切り、ため息をついた。「……あいつ、声が震えてたよ。なんで急にいなくなったのか、全然意味がわからないって。『俺たちは上手くいってたはずなのに』って言ってた」上手くいってた。あれのどこが?彼は本気で、私たちが上手くいっていると信じていたのだ。婚約者が一人で新居の内装を決め、一人で解約の手続きをし、一人で荷物をまとめて姿を消したというのに。彼の目には、それが「上手くいっている」ように映っていたらしい。「明日香。彼に、一つだけ伝言をお願いできるかな」「いいよ。なんて言えばいい?」「『テーブルに置いたメモに、すべて書いてある』って。それだけ」「……本当に、それだけでいいの?」「うん。それだけでいい」通話を切り、私は新しく借りたマンションで、荷解きを始めた。1LDKの南向きで、日当たりがとてもいい部屋。あのマンションの半分ほどの広さしかないけれど、この空間の隅から隅まで、すべてが私のものだ。ここには、莉子の白いスニーカーもない。イチゴ味のヨーグルトもない。そして、あの『S』の文字が刻まれた雪の結晶のネックレスも、存在しない。
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第7話
【紗良、お願いだ。一度だけでいいから俺に会ってくれ】それが、彼から送られてきた51通目のメッセージだった。……新しい街での生活が始まって3日目。私は履歴書の作成を始め、いくつかの企業にエントリーした。すでに二社から面接の連絡が入り、私の日常は少しずつ新しいリズムを刻み始めていた。手早く作ったパスタで一人きりの遅いランチをとっていると、テーブルの上のスマートフォンが震えた。画面には、親友である明日香の名前が光っている。「もしもし、明日香?」「紗良。……あのさ、朔也のやつ、昨日あの新居に行ったらしいよ」通話に出るなり飛んできたその名前に、私はフォークを持った手をピタリと止めた。「……どうして?もう解約したはずだけど」「不動産屋に頼み込んで、無理やり鍵を開けてもらったんだって。もう次の入居者の募集をかけてるからって最初は断られたらしいんだけど、『どうしても一度だけ見せてくれ』ってしつこく食い下がったみたいでさ」「それで?」「中に入ったきり、あいつ、2時間も出てこなかったんだって」私は手元のフォークを皿に置き、ふう、と静かに息を吐き出した。電話の向こうで、明日香が少しだけ躊躇うような間を空けてから続ける。「さっき、私にも電話がかかってきてさ。あいつ、「ドアを開けた瞬間、息が詰まりそうになった」って言ってた」「どういう意味?」「紗良が、あの部屋をあんなにも丁寧に作り込んでたなんて、少しも知らなかったらしいの」明日香の声には、呆れと、少しの哀れみが混じっていた。「リビングの壁紙は温かみのあるミルクホワイトで、寝室のカーテンは紗良がずっと好きだったミスティブルー。書斎には、自分で図面まで引いて職人さんに作ってもらった壁一面の造作本棚があって……」「…………」『キッチンのタイルも一枚一枚こだわって選んであって、ベランダには大切に育ててたミントの鉢植えが残されてたって』明日香の声が、微かに震えを帯びる。「あいつ、泣きそうな声で言ってたよ。「俺はあそこに、ただの一度も見に行かなかった」って。紗良が4ヶ月もかけて、たった一人であの部屋を完成させたのに、自分は一回も足を運ばなかったって……」4ヶ月。その言葉を聞いて、私は当時の記憶をぼんやりと引きずり出した。毎週末、一人で現場に通って工事
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第8話
【朔也に直接聞いて】【聞いたけど、何も教えてくれないの。紗良さん、もしかしてサクくんと喧嘩でもした?】【喧嘩じゃないよ。私、家を出たの】【家を出た……?どこに行ったの?】【朔也と別れたの】メッセージの画面に「入力中」の表示が出たり消えたりして、長い沈黙が流れた。やがて、画面を埋め尽くすような長文が送られてきた。【紗良さん、出過ぎたことを言うようだけど……サクくん、紗良さんのこと本当に大切にしてたよ?サクくんって根がお人好しで、誰にでも優しくしちゃう人だから。私に親切にしてくれたからって、そんなに嫉妬しないでほしいな。私たち、本当にただの幼馴染だし。そんなことで別れちゃうなんて、もったいなさすぎるよ】彼女は、私がただの「女の嫉妬」で家を出たと思っているのだ。私が一人で勝手に大騒ぎをして、駄々をこねていると本気で信じている。私は冷え切った指先で、画面に問いかけた。【ねえ白石さん、朔也のどこが、私を大切にしてたと思う?】今度は3分ほど間が空いてから、返信が届いた。【だって、5年間も付き合って、新居の頭金も払ってくれて、結婚の準備まで進めてくれたじゃない。サクくん、紗良さんのこと話す時、いつも『すごく自立してて、一人で何でもこなせるから尊敬してる』って言ってたよ】「尊敬」――愛おしさでも、愛しさでも、失うことを恐れる執着でもない。それはまるで、水やりすら必要としない砂漠のサボテンを遠くから眺めて、「手がかからなくて立派だ」と感心しているだけの感情。彼が私に向けていたのは、愛などではなく、ただの都合のいい評価に過ぎなかったのだ。私はメッセージアプリの入力欄に、今まで胸の奥に溜め込んでいた疑問を一つずつ、淡々と打ち込んでいった。【ねえ、白石さん。彼が毎年冬にあなたをあの北の国へ連れて行っている間、私が一人きりで暗い家で彼を待っていたことを、あなたは知っていたの?】【……あれは、ただの出張のついでで……】【彼があなたのために二ヶ月もかけて特注のネックレスを作る裏で、私の婚約指輪がネット通販の安物だったことは知ってた?】【……】【彼があなたの誕生日を豪華に祝う裏で、私の誕生日はプレゼントどころか完全に忘れられていたことは?】【私には『義母は人が来るのを嫌がるから』と言って実家
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第9話
私は自分のデスクに座ったまま、ガラスのパーティション越しに彼の姿を見つめた。最後に会った時よりずっと頬がこけ、無精髭も剃られておらず、目の下にはくっきりと青いクマができている。その手には、見覚えのない紙袋が握られていた。受付の女の子が困ったようにこちらを振り返ったので、私は小さく首を横に振った。「申し訳ありません、高瀬さんは本日不在にしております」「不在……?いつ頃戻られますか?」「はっきりとは存じ上げません。何かお預かりいたしましょうか?」朔也はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて紙袋の中からひとつの箱を取り出し、受付のカウンターに置いた。「これ……彼女に渡しておいてください」彼が背を向けて立ち去った後、受付の女の子がその箱を私の席まで持ってきてくれた。中に入っていたのは、深いネイビーの最高級カシミヤのマフラーだった。莉子のものとは違い、どこにもアルファベットの刺繍はない。そして、その下には一枚の小さなメモが添えられていた。【去年の冬、お前がカシミヤマフラーを欲しがった時、俺は「買う必要ない」って言ったよな。ごめん、1年遅くなったけど、お前のために選んだんだ】1年、遅くなった。私が欲しがった時に、彼は「必要ない」と切り捨てた。そして私が彼を捨てた今になって、彼はわざわざ別の街までそれを届けにきたのだ。でも、その1年の間に、莉子はあのワインレッドのカシミヤマフラーを、彼の『ついで』の好意としてとっくに受け取っていたのに。私は冷めた気持ちのまま、そのマフラーを空き箱に戻し、デスクの一番下の引き出しに無造作に放り込んだ。夕方の5時を過ぎた頃、同僚の女性が私の席に小走りでやってきた。「紗良さん、一階のエントランスにずっと立ってる男の人がいるんですけど……警備員さんが声をかけたら『待ち合わせです』って言ってるみたいで」私は立ち上がり、オフィスの窓から下を見下ろした。朔也がエントランスの外に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだまま、焦ったように何度もスマホの画面を確認している。私はゆっくりとエレベーターで一階に降り、自動ドアを抜けた。私の足音に気づいた彼が、弾かれたように顔を上げる。「紗良……!」「……どうして、この場所がわかったの?」「明日香に、頼み込んで聞い
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第10話
朔也の腕から完全に力が抜け、だらりと垂れ下がった。指の隙間から滑り落ちた銀色のネックレスが、冷たいタイルの床に落ちて、チャリン……と甲高い音を立てる。私は一度も振り返らなかった。「そのネックレス、持って帰って。それは、私のものじゃないから」……「……高瀬さん、あの男の人、昨日の夜からずっとあそこにいたみたいですよ」翌朝出社すると、同僚の女性が心配そうに教えてくれた。「警備員さんが言ってたんですけど、エントランスのソファに一晩中座り込んでて、明け方になってようやく帰っていったらしいです」私はオフィスの窓から下を見下ろした。エントランスの前に、もう彼の姿はない。午前10時、朔也からメッセージが届いた。【俺は絶対に諦めない。お前が俺と話す気になってくれるまで、ずっと待ってる】お昼休みになると、明日香から電話がかかってきた。「紗良。朔也のやつから、あんたに伝言を頼まれたんだけど」「……どんな伝言?」「あいつ、莉子の連絡先を全部消したらしいよ。位置情報の共有アプリも解除して、五年分のチャット履歴も完全に削除したってさ」「そう。それで?」「そのあと……あいつ、あんたたちが昔よく通ってたっていう、あの大衆食堂に行ったらしいよ」私がお弁当をつつく手が、ピタリと止まる。あの大衆食堂。交際して最初の年に、彼が私に「一生一緒にいよう」と告白してくれた場所。「これからは毎年の記念日に、必ずこの店に来よう」と約束し、そして彼が二度と足を運ばなかった場所。「あいつ、そこで一人でうどんを食べて、帰り際に店の大将にこう言ったんだって」「なんて?」「『大将、来年の今日も必ず来るから、席を空けといてくれ』って」私は何も答えず、ただ静かに息を吐いた。電話の向こうで、明日香も切なそうに息をつく。「紗良。あんたがこの五年間、あいつに散々傷つけられて、我慢ばかりさせられてきたのはわかってる。でも……あいつ、本当に変わろうとしてるみたいだよ」「……彼が変わろうがどうしようが、もう私には関係ないわ」「どうして?」「だって私はもう、5年前の『ただ彼を待つしかできなかった私』じゃないから」午後3時、朔也は再びオフィスのビルの前に姿を現した。今度は中には入らず、向かいのカフェの軒先に立って、ずっと
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