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第137話

Author: 歩々花咲
夜の点滴室は静かで、点滴が血管に滴り落ちる音さえ聞こえてきそうだった。

和樹は何も言わず、その底の見えない瞳で、苑の期待に満ちた眼差しを見つめていた。

そして、手の中のカップをくるりと回す。

苑には、例の買い手が、彼にとって口にしづらい相手なのだと見て取れた。

人に対する最大の優しさとは、無理強いをしないことだ。

それに気づいた苑が、言いにくいなら結構です、と口を開こうとした、その時。

静寂な空間に、落ち着いていて、それでいて力強い足音が響いた。

遠くから、だんだんと近づいてくる。

その人物が姿を現す前に、苑はやはり口を開いた。

「すみません、ただ、私は……」

彼女がそこまで言った時、和樹の視線が、ドアの方へと向けられた。

その暗い瞳が、わずかに揺らぐ。

苑はドアの横側に座っていたため、少し首を傾けた。

そして、ドアの前に立つ人物を見て、息を呑んだ。

蒼真が、ドアの前に立っていた。

シャツの襟元は半分開かれ、袖は高くまくり上げられている。

その冷たい表情は、ドアの入り口の明暗の境目に隠れ、瞳の奥の色までは見えない。

だが、その奥で、暗い流れが渦巻いているのを感じ取れた。

この点滴室には、苑と和樹の二人しかいない。

もし二人がただの他人同士なら、まだよかった。

だが、あいにく……蒼真は、彼女に対して誤解を抱いている。

苑のこめかみが、ぴくりと跳ねた。

静止していない蒼真を前に、彼女は自分から口を開いた。

「どうして、こちらに?」

蒼真は彼女を見つめる瞳を動かし、その静止画のような光景に終止符を打った。

「俺が来たら、何か不都合でも?」

その言葉の響きは、普通ではなかった。

嫉妬が滲む、棘のある言い方だ……

苑はその理由が分かっていたが、説明するつもりはなかった。

信じてくれる人には、説明は不要だ。

信じてくれない人には、説明しても無駄なのだから。

ましてや、自分は、心に何もやましいことはない。

蒼真は話しながら、その長い脚で、大股に二歩、すでに苑の目の前に立っていた。

その大きな影が苑を覆い隠すと同時に、彼の手のひらが、彼女の額に置かれた。

まだ下がりきっていない熱に、彼の眉間に皺が刻まれる。

「何の点滴だ、これは。まだ熱があるじゃねえか」

その声には、冷たさがこもっていた。

「まだ始めたばかり
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