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第8話

Auteur: 歩々花咲
蓮は苑に「休め」と言った。

けれど、苑は休まなかった。

まだ、終わらせなければならないことがたくさんあった。

彼女は会社に行き、ひとつひとつの業務を片づけていった。

引き継ぎの資料、契約書の整理、蓮の重要案件のログ――すべてをきっちり分類して、完璧に整えた。

その日の昼、社内の給湯室で、同僚たちの噂話が耳に入ってきた。

「聞いた?朝倉社長、結婚式のために帝都中の電子広告スクリーンを買い取ったんだって。全部で生中継するらしいよ!」

次の日。苑は、蓮の住んでいた部屋に置いていた自分の持ち物をすべて荷造りした。

そして、それらをボランティア団体に預けて、必要な人に届けてもらうよう依頼した。

その現場で、ボランティアたちの会話がふと聞こえてきた。

「天城家、すごいよね。天城様の結婚祝いで、帝都全体に宴を振る舞うって。しかも、ご祝儀は一切不要なんだって!」

三日目。苑はひとり、万仏山を訪れた。

そこにある縁結びの石には、かつて苑と蓮が刻んだふたりの名前があった。

彼女は六時間かけて、その文字をひとつずつ、指の力だけで削り取っていった。

削り終えたとき、指先には血が滲んでいた。

帰宅後、テレビをつけると、蓮と琴音の合同インタビューが流れていた。

蓮は、カメラの前でこう言った。

「きっと、みなさんの記憶に残るような、斬新な式にします」

そして、四日目――婚礼の前日。

苑は式のリハーサルを見に、会場まで足を運んだ。

華やかな会場には、琴音と蓮が並び立っていた。

琴音は、苑を見つけると、満面の笑みで、彼女をステージに上げるよう招いた。

「白石さん、明日、私のすぐ後ろに立っててくださいね、ブーケを投げるから、後ろでちゃんと受け取ってね。

そうすれば、私の幸せがあなたにも届くわ。きっと素敵な人に出会えるから」

苑は、言われた通りにステージの後ろに立った。

彼らのリハーサルを、黙って見届ける。

蓮が琴音に愛の誓いを捧げ、指輪をその指にそっとはめるのを見た。

琴音が目を閉じ、顔を上げてキスを待つのも見た。

でも――蓮はキスをしなかった。

代わりに、苑の方を見た。

そこには、穏やかで落ち着いた表情の苑がいた。

感情を押し隠すのではなく、心から静かな瞳で、彼らを見ていた。

その姿が、まるで知らない誰かのように思えて、蓮の胸にざわついた何かが生まれた。

言葉にできない違和感。

説明のつかない不安。

そして、心の奥に沈む、焦りのようなもの――

「……今日はこれで終わりにしよう。ちょっと疲れた」

そう言って、蓮はキスをしなかった。

もし、苑がその瞬間を見ていたなら。

たぶん、彼女の心はもっと確実に、完全に――壊れていたかもしれない。

でも今日見なかったなら、明日ももう見られない。

だって苑は、もう明日ここに来ないのだから。

「蓮……」

琴音は不満げに唇を噛む。

彼女は、苑の目の前で蓮と甘く絡み合いたかった。

その姿を見せつけることで、苑の中の未練を完全に消し去るために。

「白石、ちょっと来い」

蓮が琴音の言葉をさえぎるように、苑を呼んだ。

「何かご指示でしょうか、朝倉社長」

苑の声は、完璧に事務的だった。

蓮は黙って、自分の首元のネクタイを外した。

何かを言いたげに苑を見つめたが、結局何も言えず、そのネクタイを彼女に投げ渡した。

「これ、替えといてくれ」

そのとき、琴音が苛立った様子で蓮のネクタイをひったくり、苑に冷たい声を浴びせた。

「明日はもう来ないで。あんたなんか、式にいてほしくない」

蓮がキスをしなかった――それは、間違いなく苑が原因。

そう確信した琴音は、さっきの蓮の視線を思い出して、胸がざわついた。

最初は、苑に自分たちの幸せな姿を見せつけて、諦めさせるつもりだった。

でも今は、彼女が式に現れるのが怖い。

彼女がいれば、何かが起きそうでならなかった。

そんな琴音の動揺を、苑は見逃さなかった。

ふっと口元に笑みを浮かべる。

「じゃあ、あなたの式には一人、付き添いが足りなくなりますね」

「そんなの関係ない。とにかく、明日来ないで。来たら後悔させてやるから」

琴音の目は敵意でぎらついていた。

あの日、ドレスの試着で自分がまんまと彼女に仕組まれたことを思い出しながら、苑はふっと微笑んで、小さく頷いた。

「分かりました。でも、ひとつだけ言いたいことがあります」

「……なに?」

苑が指をくいっと曲げて合図すると、琴音は警戒しながらも、数歩だけ前に出た。

その瞬間だった。

苑は片手で琴音の腕を引き寄せ、もう片方の手で彼女の腰に何かを突き立てた。

「っ……!」

ビクリと体を震わせ、琴音の目が大きく見開かれる。

「芹沢さん」

苑の声が、それをかき消すように強く響く。

「あなたと朝倉社長が末永く幸せでいられるよう、そして早くお子さんに恵まれますよう、心からお祈りしています」

苑が一言ずつ発するたびに、琴音の腰に刺さる細い針――

あの日、琴音が苑に仕掛けた、鋭く冷たい報復だった。

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