INICIAR SESIÓN私はもう拓海に手を差し伸べなかった。そのまま背を向け、黒い傘を差して路肩に停めてある車へ歩いていく。運転席の颯真が身を乗り出し、助手席のドアを開けてくれた。何も言わずに私の手から濡れた傘を受け取る。後部座席から、杏奈が小さな顔を覗かせた。手には、描き終えたばかりの絵を持っている。「ママ、さっき、水たまりのところにいた人、だあれ?」私は助手席に座り、シートベルトを締める。そして振り返ると、杏奈の頭を優しく撫でた。「知らない人だよ。道に迷っちゃった人なんじゃないかな」窓がゆっくり閉まった。颯真がエンジンをかける。タイヤが路面に溜まった雨水を静かに踏み越え、車は滑るように走り出した。バックミラーの中、泥水に倒れ込んだ黒い影が、少しずつ小さくなっていく。拓海にはもう、追いかける力さえ残っていなかった。叫ぶこともやめた。冷たいアスファルトに伏したまま、降り続く雨に傷口を打たせている。そのときになってようやく、拓海は理解したのかもしれない。あの火事で燃え尽きたのは、家でも金でもなかった。美雨を自分につなぎ止めておけるという、思い込みだった。かつて拓海は、「命を半分懸けた」という恩を鎖にして、私を自分のそばへ縛りつけようとした。妻として、子どもを産む存在として、決して自分から逃げない人形として。けれど最後に、その鎖に縛られたのは拓海自身だった。これから先、長く、希望のない年月を、痛む身体を抱えたまま、一人で生きていく。かつて自分の手の中にあった幸せを、自分自身で壊したという事実だけを抱えて、いつまでも、あの場所に取り残されたまま。やがて前方の交差点で、赤信号が青に変わった。車内には、穏やかなピアノ曲が流れている。颯真がそっと、私の左手を握った。その手の温かさが、雨の中で冷えた指先をゆっくりと温めていく。私はシートに身体を預けた。フロントガラスの向こうでは、厚い雲の切れ間から少しずつ光が差し始めている。長かった雨が、ようやく止もうとしていた。私は静かに目を閉じた。車は揺れることなく、明るくなっていく空の下を、そのまま遠くへ走っていった。【完】
「大丈夫」私は颯真に小さな声で言った。颯真は黙って頷くと、杏奈をかばうように車へ乗せ、後部座席のドアを閉めた。雨音が遮られる。あとに残ったのは私と泥水の中に這いつくばる拓海だけだった。「美雨……俺も車に乗せてくれよ……」杏奈が車に乗ったのを見て、私が折れたと勘違いしたらしい。拓海は必死に肘を地面について、上半身を起こした。「これからは何だってする……美雨のためなら、一生尽くすから……」「拓海」ようやく口を開いた私の声は、冷たい雨音の中でもはっきりと響いた。「あなたがあの日、私を受け止めたこと。その代償ならもう十分払ったよ。私の財産も、三年間という時間も、あなたに踏みにじられて、失った自尊心も、全部あなたが最初から計算して手に入れたものでしょ?それが、あなた自身が決めた命を救った代金だった」地面についていた拓海の手が震え始めた。信じられないものを見るように、私を見上げる。「でも俺は、お前を助けて脚まで駄目にしたんだぞ!」「そうだね」私は少し腰をかがめ、拓海と目線を合わせた。「その恩を盾にして、あなたは私を殺させようとした。私の財産を勝手に移して、最後には私を客室に閉じ込めて、自分たち三人が私の家を乗っ取っていくところを見せつけた」濁った目をまっすぐ見つめる。「だから私はあの火事ですべて終わらせた。あなたが欲しがったお金も、守りたかった体面も、全部あの家と一緒に燃えた。自分で仕掛けたことが、自分に返ってきただけだよ。それから、刑務所で駄目にしたもう片方の脚だけど」私は身体を起こした。伸ばされてきた拓海の手を避けるように、半歩後ろへ下がる。「あれは自分が少しでも早く出たくてやったことでしょ?私に何の関係があるの?」拓海の唇が激しく震えた。乱れた髪を伝った雨水が、そのまま口元へ流れ込んでいく。何か言い返そうとするが、一つとしてまともな言葉にならなかった。「私たちの間にもう愛なんてない。たぶん、最初からなかったんだよ。あなたが愛してたのは、私じゃない。命を救ってやったっていう恩を使えば、絶対に自分から離れない女。何をしても許して、自分の言うことを聞く女。そういう人形が欲しかっただけ。それに、自分の子どもさえ残せるなら、相手が誰なのかなんて、本当はどうでもよかったんでしょ?自分がいつも上
それから二年後。激しい雷雨の日だった。朝から降り続く雨の中、私は黒い傘を差して、杏奈が通う幼稚園の前で迎えを待っていた。雨に煙る道路の向こう。一人の男が、背中を丸めながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。古びたジャケット。油でべったりとした髪。松葉杖さえ持っていない。拾ってきたらしい太い木の枝を両手で必死に支えにしながら、ひどく歪んだ右脚を泥水の中で引きずっていた。拓海だった。刑務所内での行動と、重い後遺症が考慮され、予定より早く仮釈放されたのだ。手元にはほとんど金もなく、身分を証明するものすらまともに持っていなかった。電車にもバスにも乗れず、人から食べ物や金を恵んでもらいながら、記憶だけを頼りに三か月かけて、この南の街までたどり着いたらしい。両手には厚いまめができていた。一歩進むたび、壊れた脚から鈍い痛みが走る。それでもその目だけは、異様なほど強い執念に満ちていた。雨粒が私のスカートの裾を濡らす。やがて幼稚園のチャイムが鳴った。先生に連れられ、子どもたちが順番に出てくる。黄色い長靴を履いた杏奈が、私を見つけるなり駆けてきた。「ママー!」そのまま、ぎゅっと私の脚に抱きつく。ちょうどそのとき、颯真の車が道路脇に停まった。大きな傘を差して降りてきた颯真は、私のバッグを受け取り、後部座席のドアを開ける。そして杏奈の顔についた雨粒をハンカチで丁寧に拭き、温かい飲み物の入った水筒を手渡した。その光景が、拓海の目にまともに飛び込んだ。かつて自分が命を半分懸けて救ったと信じていた女。さらに今では、もう片方の脚まで失いかけている。そこまでして取り戻したかった妻が、今は別の男の隣に立ち、自分とは何の血のつながりもない子どもを、大切そうに守っている。長い間押し殺してきた嫉妬が、拓海に残っていた最後の理性まで壊した。支えにしていた木の枝を放り捨てる。まともに動かない脚を引きずり、泥水の中へ転びながら、それでも必死にこちらへ這ってきた。「美雨……!美雨!」歯の抜けた隙間から漏れるような声は、聞くに堪えないほど掠れていた。颯真がすぐに振り返る。私と杏奈を背後へかばい、泥まみれの男を警戒するように見据えた。拓海は必死に顔を上げた。泥だらけの頬を、涙が何本も伝っている。颯真の革靴の前まで這ってくると、そ
南の街では、季節の境目があまりはっきりしない。一年を通して柔らかな風が吹き、時間までゆっくり流れているような街だった。「雨の日フラワー」と書かれた店の看板を掲げて、もう三年になる。木製のひさしには、いつの間にか蔓がびっしりと絡みついていた。その朝も私は、咲き始めたバラの鉢植えを店先へ運び、いつものように水をやっていた。手首に残っていた噛み跡も、左の腰を強く打ちつけた古傷も、今ではすっかり治っている。以前は雨の日になると疼くこともあったのに、それすらなくなった。都会で起きたあの醜い駆け引きも、その後、家に閉じ込められていた日々も、今では、ひどく遠い昔の悪夢のようだった。一台の車が店の前に停まった。運転席から降りてきたのは颯真だった。手には朝食の入った紙袋を提げている。「西村先生、今日は裁判ないの?」受け取りながら笑うと、颯真も口元を緩めた。「共同経営者には、それなりの特権があるんだよ。今日は休みだし、二人を海に連れていこうと思って」その声を聞いたのか、店の奥のカーテンが勢いよく開いた。二歳を少し過ぎた女の子が、まだおぼつかない足取りで駆けてくる。「そうまおじちゃん!だっこ!」そのまま颯真の脚に抱きついた。颯真は慣れた手つきで腰をかがめ、杏奈(あんな)を片腕で抱き上げる。そして小さな鼻を軽くつまんだ。杏奈は、二年前に私が養子として迎えた子だった。この子と暮らすようになってから、胸の奥に残っていた空白が、少しずつ温かなもので満たされていったのは確かだった。そしてこの二年間、颯真は杏奈にとって父親のような存在になっていた。そんな穏やかな毎日が、ゆっくりと私たちの暮らしに根を張っていた。その頃、ここから千キロ以上離れた刑務所では、まったく別の時間が流れていた。刑務作業の時間。拓海は重い工具を握り、黙々と作業を続けていた。汗と埃にまみれた顔はひどく老け込み、まだ三十代半ばだというのに、五十を過ぎた男のように見えた。三年前、颯真からあの写真を見せられて以来、拓海の中では一つの歪んだ思い込みだけが、生きる支えになっていた。「美雨は、俺が償い終わるのを待っている」それを信じ込むことでしか、自分を保てなかった。少しでも早く外へ出るため、少しでも仮釈放の審査で有利になるため、拓海は誰もやりたがらない重
事件の捜査は驚くほどの速さで進んだ。証拠はどれも決定的で、言い逃れの余地などなかった。拓海名義の資産と銀行口座はすべて凍結され、焼け落ちたあのマンションも差し押さえられた。あの女も、その日のうちに住む場所を失った。大きなお腹を抱え、男の子の手を引きながら行く当てもなく街をさまよう。これまで付き合いのあった知人たちに片っ端から連絡したものの、誰からも相手にされなかった。夜も更けた頃、女が高架下で身を寄せるように座っていると、一人の男が現れた。全身に派手なタトゥーの入った男。女の元恋人だった。「逃げるんじゃなかったのか?」男は女の髪をつかみ、乱暴に引き起こした。「俺の子ども連れて金持ちに寄生してたんだろ?金はどこだよ」女は怯えながら、反射的にお腹をかばった。「やめて!あの人は捕まったの!お金も全部凍結されてる!」「使えねぇな」男は吐き捨てるように言うと、女の太ももを蹴りつけた。そしてバッグの中にあった現金と腕時計を奪っていく。男の子は少し離れた場所で、小さく身体を丸めて震えていた。その一部始終を映した防犯カメラの映像、そして数通の鑑定書。二日後、それらは颯真を通じて捜査側へ提出され、拓海にも開示された。拘置所の面会室で、拓海は無精ひげを生やし、疲れ切った姿でガラスの向こうに座っていた。手には手錠がかけられている。担当者が、傷害に関する鑑定書とDNA鑑定の結果をガラス越しに示した。「石井美雨さんは生前、弁護士に財産整理と離婚手続きを依頼していました。こちらはその手続きに関係する資料です。内容を確認してください」拓海は濁った目をゆっくりと上げた。そして、そこに並ぶ文字を見た瞬間、瞳孔が大きく開いた。DNA鑑定の結果、あの男の子と拓海の間に、親子関係は認められなかった。子どもの父親はあの女の元恋人だった。「……そんなはずない!」拓海が勢いよく立ち上がった。「あの日だって、俺たちは確かに……!」担当者は表情一つ変えず、次の鑑定書を開いた。そして医学的所見の部分を指す。「五年前の事故で腰椎周辺の神経を損傷しています。その影響で、あなたはすでに自然妊娠が極めて困難な状態にあり、回復の見込みもないと診断されています。また、当時あなたに説明されていた妊娠についても、事実と異なる内容が含まれて
消防車のサイレンが、住宅街の静けさを切り裂いていた。放水された大量の水が、黒く焼け焦げた窓枠を叩く。白い煙がまだ絶え間なく立ち上っていた。拓海は車を乱暴に停めると、エンジンすら切らずに飛び出した。足をもつれさせながら、必死に建物へ向かう。もともと悪かった脚を無理に引きずったせいで、靴の中で傷が開いたのか、床には途切れ途切れに血の跡が残っていた。警察が張った規制線さえ、そのまま突っ切る。「危険です!中には入れません!」消防隊員二人が、拓海の身体を必死に押さえた。だが拓海は、目を血走らせたまま二人を引きずるようにして前へ進んだ。「離せ!妻が中にいるんだ!」制止を振り切り、焼け跡となった家へ飛び込んでいく。高価だった家具も内装も、ほとんど灰になっていた。客室のドアは焼け落ち、原形すら残っていない。拓海はベッドのあった場所へ駆け寄った。焼け残ったフレームの上、むき出しになったスプリングの上に、人の形をした黒焦げの遺体が丸まるように横たわっていた。衣服だったものは熱で溶け、黒い塊となって身体にこびりついている。消防の水が、床一面を流れていた。白かった壁には、まだ赤い文字が残っている。水で滲み、輪郭は崩れていた。それでも、何と書かれているのかは分かった。「半分の命返すね」拓海はその場に崩れ落ちた。水浸しの床に膝をつく。手を伸ばしかけて止めた。目の前の黒焦げになった死体に、触れることすらできなかった。かつて背骨を痛めたときでさえ、一滴の涙も見せなかった男だった。その喉から今、獣のような声が漏れた。やがて拓海は、突然床へ頭を打ちつけ始めた。何度も何度も。額が切れ、血が流れても止まらなかった。そのとき、慌ただしいヒールの音が響いた。警備員に付き添われ、あの女が大きなお腹を抱えて上がってきた。焼け焦げたにおいに顔をしかめ、鼻を手で覆う。そして部屋の惨状を見るなり、悲鳴のような声を上げた。「うそ……こんなに燃えちゃったの?ここ、今日私の名義にしてもらったばかりなのに!こんなんじゃ、私と子どもはどこに住めばいいのよ!」甲高い不満の声が、焼け跡に響き渡る。拓海の動きが止まった。ゆっくりと顔を上げる。額から流れた血が鼻筋を伝い、顎から滴り落ちていた。女を見るその目に、以前のような優しさはもうなかった。あ