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愛を刃に変えて、もう君を想わない

愛を刃に変えて、もう君を想わない

By:  希乃Completed
Language: Japanese
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【夫に隠し子がいたら、あなたは許せますか?】 その投稿を見つけたのは、ちょうど飛行機を降りたばかりのときだった。海外での仕事を予定より早く切り上げ、私は家へ帰るところだった。 なんとなくコメント欄を開き、自分のことを書き込んだ。 【私は再婚です。前の夫に三階から突き落とされたとき、今の夫が下で私を受け止めてくれました】 【そのせいで夫は背骨にひびが入り、19日間もICUにいました】 【それでも退院後、足を引きずりながら私の前にひざまずいて、「命を半分懸けて守った人だから、残りの半分も全部、君を愛するために使いたい」と言ってくれたんです】 【でも結婚して2年目、夫のスマホに見知らぬグループチャットがあるのを見つけました。メンバーは夫と一人の女、それから夫を「パパ」と呼ぶ男の子だけでした】 夫は泣きながら私にすがりつき、ひざまずいて謝った。子どもは私との結婚前にできた子だと。 今愛しているのは私だけだと。 家も車も貯金もすべて私に渡した。そして私の目の前で、その女の連絡先を全部削除した。 「今日から毎日、どこにいるか動画を送る。365日、一日だって欠かさない」 それから今日で3年目。夫は毎日、朝昼晩の三回、必ず動画を送ってきた。一度たりとも欠かしたことはなかった。 コメント欄には、【つらいことを乗り越えて、やっと幸せになれたんですね】【そんなに愛してくれる旦那さんなら、きっと大丈夫】そんな言葉が次々と並んだ。 私は小さく笑ってスマホを閉じると、キャリーケースを引いて自宅の前までやって来た。 玄関の鍵は開いていた。 靴を脱ごうとしてふと足元を見ると、玄関には大人用のスリッパが二足、その隣に子ども用の小さなスリッパが一足並んでいた。 リビングを覗くと、大きなお腹を抱えた女が、六歳くらいの男の子と一緒に積み木で遊んでいた。 物音に気づいた女は、こちらを振り返りもせず、そのままごく自然な口調で言った。 「あなた、遅かったわね。私もこの子もお腹ぺこぺこ。お肉、ちゃんと買ってきた?」

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Chapter 1

第1章

キャリーケースの車輪がフローリングを転がり、静かな部屋に音が響いた。

女が振り返った瞬間、視線がぶつかった。

女が着ていたのは、私が一番気に入っていたシルクのナイトウェアだった。

結婚一周年のとき、夫の石井拓海(いしい たくみ)がわざわざヨーロッパまで足を運び、私のためだけに仕立ててくれたものだ。裾には、私、高橋美雨(たかはし みう)のイニシャルまで刺繍されている。

そのナイトウェアが今、別の女の大きく膨らんだお腹を包んでいた。

カーペットに座っていた六歳の男の子は、大人たちの間に漂う異様な空気など気にも留めていない。緑色の腕輪を手にして、目の前の木製の積み木に何度も叩きつけていた。

カンッ、と乾いた音が響く。目が釘付けになった。息が止まる。

それは、お母さんの形見だ。亡くなった母が私に遺してくれた翡翠の腕輪。

傷つけるのが怖くて身につけることさえできず、ずっと寝室の金庫に大切にしまっていたものだった。

「やめて!」

私は駆け寄り、男の子の手首をつかんで腕輪を取り上げた。表面には、すでに白い傷が一本ついている。

男の子は突然おもちゃを奪われきょとんとした。次の瞬間、思いきり私の手首に噛みついた。

小さな歯が皮膚に食い込み、血がにじむ。痛みに耐えきれず、反射的に手を振り払った。

男の子は尻もちをつくようにカーペットへ倒れ、その途端、火がついたように泣き出した。

「何するの!」

女が悲鳴を上げる。そしてそのまま後ろへ倒れ込み、お腹を押さえて苦しそうに顔を歪めた。

「痛っ……お腹が……!なんで子どもに手を出すの!」

そのとき玄関のドアが開いた。

拓海が肉や野菜の入った買い物袋を提げて立っていた。額には汗が浮かんでいる。

部屋の中を見た瞬間、それまで浮かんでいた笑みが凍りついた。驚愕、そして、明らかな動揺。

私の手首からは、まだ血が滴っていた。震えながら拓海を見る。部屋にいたのは三年前、もう二度と連絡を取らないと、拓海が約束したはずの女だった。

拓海の手から買い物袋が落ちた。バサッと鈍い音がする。肉のパックから漏れた赤い汁が床に広がっていった。

かつて私を助けるために背骨を痛め、今も足を引きずって歩く男。

その男は今、私の横を素通りした。そして床に倒れている女のもとへ駆け寄り、真っ先にその大きなお腹を両手でかばった。

女を起こそうと立ち上がった拍子に、拓海の腕が私の肩にぶつかる。いや、ぶつかったなんてものじゃない。私は強く後ろへ押しのけられた。

腰が玄関の靴箱に激突する。鋭い痛みが走った。

「子ども相手に何やってるんだよ!」

拓海の怒鳴り声がリビングに響き渡った。女は拓海の胸にもたれ、泣きながら訴える。

「拓海……私、ちょっと荷物を取りにこの子を連れてきただけなの。そしたら奥さんが帰ってきた途端、いきなり……。お腹、すごく痛い……」

男の子も拓海の脚にしがみついた。

「パパ!あの女の人が僕のおもちゃ取った!」

私は靴箱にもたれたまま、その光景を見ていた。もう腰の痛みすら感じなかった。手首から流れた血が、指先を伝って一滴ずつ床へ落ちていく。

この家で、私だけがよそ者だった。

拓海がこちらを振り返った。私の血まみれの手首を見て、顔色が変わる。慌てて女から手を離し、足を引きずりながら私のもとへ近づいてきた。

「美雨……」

肉の赤い汁で汚れた手を伸ばし、私を抱きしめようとする。目には涙が浮かび、声まで震えていた。

「美雨、聞いてくれ。今日はあいつの家のお手伝いさんが休みで、仕方なく二人を半日だけここに連れてきただけなんだ……」

「触らないで!」

私は身を引き、その手を避けた。

母が遺してくれた翡翠の腕輪を、強く握りしめる。硬い石が手のひらに食い込み、骨まで痛むほどだった。

三年前、私は拓海の裏切りをすべて知ったつもりでいた。

けれど違った。あれは始まりにすぎなかったのだ。

拓海の手が宙で止まる。私の目を見つめたまま、突然その場に膝をついた。

三年前と同じように、私の脚にすがりつき、膝に顔を押しつける。肩が大きく震えていた。

「美雨、ごめん。本当に俺が悪かった。腹の子だって、ただの事故なんだ。あいつのことなんて愛してない。俺が愛してるのは美雨だけだ……」

背後から、女のすすり泣く声が聞こえた。

私は腰をかがめ、脚に絡みつく拓海の指を一本ずつ引き剥がした。そしてゆっくりと言った。

「拓海、あの人が着てるの、私のナイトウェアだし、履いてるのも、私のスリッパなのよ。半日だけ連れてきた、なんて本気で私が信じると思ってるの?」

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第1章
キャリーケースの車輪がフローリングを転がり、静かな部屋に音が響いた。女が振り返った瞬間、視線がぶつかった。女が着ていたのは、私が一番気に入っていたシルクのナイトウェアだった。結婚一周年のとき、夫の石井拓海(いしい たくみ)がわざわざヨーロッパまで足を運び、私のためだけに仕立ててくれたものだ。裾には、私、高橋美雨(たかはし みう)のイニシャルまで刺繍されている。そのナイトウェアが今、別の女の大きく膨らんだお腹を包んでいた。カーペットに座っていた六歳の男の子は、大人たちの間に漂う異様な空気など気にも留めていない。緑色の腕輪を手にして、目の前の木製の積み木に何度も叩きつけていた。カンッ、と乾いた音が響く。目が釘付けになった。息が止まる。それは、お母さんの形見だ。亡くなった母が私に遺してくれた翡翠の腕輪。傷つけるのが怖くて身につけることさえできず、ずっと寝室の金庫に大切にしまっていたものだった。「やめて!」私は駆け寄り、男の子の手首をつかんで腕輪を取り上げた。表面には、すでに白い傷が一本ついている。男の子は突然おもちゃを奪われきょとんとした。次の瞬間、思いきり私の手首に噛みついた。小さな歯が皮膚に食い込み、血がにじむ。痛みに耐えきれず、反射的に手を振り払った。男の子は尻もちをつくようにカーペットへ倒れ、その途端、火がついたように泣き出した。「何するの!」女が悲鳴を上げる。そしてそのまま後ろへ倒れ込み、お腹を押さえて苦しそうに顔を歪めた。「痛っ……お腹が……!なんで子どもに手を出すの!」そのとき玄関のドアが開いた。拓海が肉や野菜の入った買い物袋を提げて立っていた。額には汗が浮かんでいる。部屋の中を見た瞬間、それまで浮かんでいた笑みが凍りついた。驚愕、そして、明らかな動揺。私の手首からは、まだ血が滴っていた。震えながら拓海を見る。部屋にいたのは三年前、もう二度と連絡を取らないと、拓海が約束したはずの女だった。拓海の手から買い物袋が落ちた。バサッと鈍い音がする。肉のパックから漏れた赤い汁が床に広がっていった。かつて私を助けるために背骨を痛め、今も足を引きずって歩く男。その男は今、私の横を素通りした。そして床に倒れている女のもとへ駆け寄り、真っ先にその大きなお腹を両手でかばった。女を起こ
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第2章
拓海の表情が一瞬だけ固まった。私が体勢を立て直すより早く、拓海は立ち上がった。抵抗する私を無視して、強引に抱き上げる。馴染みのある匂いに、生臭い血のようなにおいが混じっていた。私は必死に拓海の胸を押した。「下ろして!触らないで。気持ち悪い!」「暴れるな。先に傷の手当てをする」私が胸を叩いても、拓海はまるで気にしなかった。足を引きずりながら私を抱えているのに、その腕だけは逃がすまいと強く私を抱き締めている。拓海は、すでにあの女に占領されていた主寝室には向かわなかった。私をそのまま客室へ運ぶと、後ろ手にドアを閉めた。救急箱を開く。消毒液を含ませた綿棒が手首の傷に触れた。染みる痛みに思わず肩がすくむ。すると拓海は突然、私の手首をつかんだ。そのまま背を向け、シャツを乱暴にまくり上げる。背骨に沿って長く残る傷跡が目の前に現れた。「美雨。触ってみろ」拓海は私の手をつかみ、無理やりその傷跡へ押し当てた。その瞬間、5年前に三階から落ちたときの浮遊感が一気によみがえった。拓海が振り返る。真っ赤になった目で私を見つめていた。「俺は命を半分削って、お前を助けたんだ。今だって、この身体には美雨を守るために壊した骨の跡が残ってる。そんな俺が、美雨を愛してないわけないだろ?向こうに二人目ができただけなんだ。自分の子どもを路頭に迷わせるわけにはいかないだろ。俺があいつに渡してるのは金だけだ。愛情なんかない。それで十分じゃないか。どうして少しくらい受け入れてくれないんだよ」赤く充血した拓海の目を見ながら、私はあまりの身勝手さに言葉を失った。「受け入れる……?」吐き気がした。私はポケットからスマホを取り出した。「夫の毎日の報告」と名前をつけたフォルダを開き、一番新しい動画を再生する。画面の中では、拓海が清潔なバスローブを着ていた。背後に映っているのは七十万円もしたヨーロッパ製のベッド。「美雨、今日もちゃんと薬飲んだよ。会いたいな」私はスマホの画面を拓海へ向けた。動画の撮影時刻は昨夜の十時。「拓海。毎日、私のベッドに座って、会いたいって動画を撮って、そのあとこの家であの人を抱いて寝てたんでしょ?」私は拓海の目をまっすぐ見た。声は自分でも驚くほど静かだった。「動画は全部で2190本。私が買った家の中で、3年間
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第3章
三日目の午後、颯真から送られてきた資料が私のメールに届いた。私は客室の机に座り、三時間もの間、画面に並ぶ入出金履歴と借入記録を見続けていた。ひとつひとつの金の流れが、この三年間の私の愚かさを嘲笑っているようだった。あの日、拓海が私の目の前で差し出した銀行口座。そこに入っていた金は、その翌日には「資産運用」の名目で次々と海外口座へ移されていた。私名義にしたと言っていた不動産も、複数の契約を巧妙に組み合わせて担保に入れられ、すでに現金化されていた。では、その金はどこへ消えたのか。あの女のために、都内の人気学区に高級マンションを買っていた。それだけじゃない。今、私がいるこの家さえ、半月ほど前、危うく私の知らないところで名義変更の手続きが完了するところだった。「美雨のためなら命さえ惜しくない」そう言っていた男にとって、私の愛も、私の財産も、すべては自分の子どもたちを養うための餌にすぎなかったのだ。そのとき、玄関の鍵が開く音がした。この時間、拓海は会社で会議のはずだった。やがてドアが開き、床を叩くヒールの音が近づいてくる。入ってきたのはあの女だった。大きなお腹を抱えながら、手にした合鍵を見せつけるように揺らしている。「かわいそう。自分で買った家なのに、その中の客室に閉じ込められるなんて」私の机の前まで来ると、青ざめた私の顔を眺め、満足そうに目を細めた。私はパソコンを閉じた。「ここは私の家よ。出ていって」女は吹き出すように笑った。勝手に椅子を引いて座り、お腹を撫でる。「拓海は優しいから言えないこともあるの。あなたがショックを受けると思って、黙ってるみたいだけど。いつまでも勘違いしてるのもかわいそうだから、教えてあげる」ブランドバッグから数枚のコピー用紙を取り出し、机の上に投げる。銀行の取引明細だった。「五年前、元旦那さんに三階から突き落とされたとき、どうして拓海が、偶然あの場所にいたと思う?」心臓を強くつかまれたような感覚がした。私は明細に目を落とした。日付は、私が転落したその前日。振込人は石井拓海。そして受取人は、ギャンブルに溺れていた私の元夫だった。女の声が耳の奥で響く。「拓海は最初から、あなたの家の資産が目当てだったの。元旦那さんに一千万円払って、お芝居をしてもらったのよ。あな
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第4章
あの日を境に、私は完全に自由を奪われた。拓海は私のスマホやパソコンをすべて取り上げ、家のネット回線まで切った。それだけじゃない。私が飲んでいた抗うつ薬も、動悸や息苦しさを抑える薬も、勝手にやめさせた。私は客室に閉じ込められた。拓海は毎日決まった時間になると食事を運んできて、何事もなかったように笑いながら私の口元へ差し出した。一方、リビングから聞こえてくる物音は、日に日に耳障りになっていった。私はドアのそばにもたれ、冷めた目でその光景を眺めていた。あの女が業者たちにあれこれ指示を出し、家の中を好き勝手に変えていく。その左手には、私の結婚指輪がはめられていた。拓海が「わざわざ南アフリカまで行って選んだんだ」と自慢していたダイヤが、女の指で眩しく光っている。リビングの中央に飾られていた大きな結婚写真も、壁から外された。女はハサミを持つと、写真に写る私の顔だけを丁寧に切り取っていく。そして細かくなった紙片を、そのままゴミ箱へ捨てた。主寝室では工事が始まった。壁紙は新しく張り替えられ、ベビーベッドまで運び込まれた。私の服、化粧品、両親が遺してくれた数冊の本まで、何もかもゴミ袋に詰め込まれ、部屋の外へ放り出された。拓海はそのすぐそばにいた。止めることもなく、ただ黙って、あの女がこの家から私の存在を一つずつ消していくのを見ていた。なのに時折こちらを振り返ると、ガラス越しに私へ微笑みかける。私はもう怒鳴らなかった。食事を拒むこともしなかった。ただベッドに横になり、天井を見つめながら、頭の中で十日間を数えていた。そして十日目。あの女が、胎児の精密超音波検査を受けに病院へ行く日が来た。その日だけは珍しく、拓海は客室のドアに鍵をかけなかった。玄関で靴を履きながら、こちらを振り返る。「美雨。今日、検査が終わったら、あのマンションを正式にあいつの名義にする。子どもが生まれたら、ちゃんとあいつを遠ざける。だからもうこんなふうに争うのはやめよう。な?」ベッドの端に座ったまま、私はその優しげな顔を見つめた。そして小さく頷いた。「うん」拓海は心底ほっとしたように笑った。そのまま女の身体を支えながら、玄関を出ていく。やがて鍵の閉まる音がした。私は静かに立ち上がった。赤ちゃん部屋へと変えられた主寝室へ向かう。ベビーベ
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第5章
消防車のサイレンが、住宅街の静けさを切り裂いていた。放水された大量の水が、黒く焼け焦げた窓枠を叩く。白い煙がまだ絶え間なく立ち上っていた。拓海は車を乱暴に停めると、エンジンすら切らずに飛び出した。足をもつれさせながら、必死に建物へ向かう。もともと悪かった脚を無理に引きずったせいで、靴の中で傷が開いたのか、床には途切れ途切れに血の跡が残っていた。警察が張った規制線さえ、そのまま突っ切る。「危険です!中には入れません!」消防隊員二人が、拓海の身体を必死に押さえた。だが拓海は、目を血走らせたまま二人を引きずるようにして前へ進んだ。「離せ!妻が中にいるんだ!」制止を振り切り、焼け跡となった家へ飛び込んでいく。高価だった家具も内装も、ほとんど灰になっていた。客室のドアは焼け落ち、原形すら残っていない。拓海はベッドのあった場所へ駆け寄った。焼け残ったフレームの上、むき出しになったスプリングの上に、人の形をした黒焦げの遺体が丸まるように横たわっていた。衣服だったものは熱で溶け、黒い塊となって身体にこびりついている。消防の水が、床一面を流れていた。白かった壁には、まだ赤い文字が残っている。水で滲み、輪郭は崩れていた。それでも、何と書かれているのかは分かった。「半分の命返すね」拓海はその場に崩れ落ちた。水浸しの床に膝をつく。手を伸ばしかけて止めた。目の前の黒焦げになった死体に、触れることすらできなかった。かつて背骨を痛めたときでさえ、一滴の涙も見せなかった男だった。その喉から今、獣のような声が漏れた。やがて拓海は、突然床へ頭を打ちつけ始めた。何度も何度も。額が切れ、血が流れても止まらなかった。そのとき、慌ただしいヒールの音が響いた。警備員に付き添われ、あの女が大きなお腹を抱えて上がってきた。焼け焦げたにおいに顔をしかめ、鼻を手で覆う。そして部屋の惨状を見るなり、悲鳴のような声を上げた。「うそ……こんなに燃えちゃったの?ここ、今日私の名義にしてもらったばかりなのに!こんなんじゃ、私と子どもはどこに住めばいいのよ!」甲高い不満の声が、焼け跡に響き渡る。拓海の動きが止まった。ゆっくりと顔を上げる。額から流れた血が鼻筋を伝い、顎から滴り落ちていた。女を見るその目に、以前のような優しさはもうなかった。あ
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第6章
事件の捜査は驚くほどの速さで進んだ。証拠はどれも決定的で、言い逃れの余地などなかった。拓海名義の資産と銀行口座はすべて凍結され、焼け落ちたあのマンションも差し押さえられた。あの女も、その日のうちに住む場所を失った。大きなお腹を抱え、男の子の手を引きながら行く当てもなく街をさまよう。これまで付き合いのあった知人たちに片っ端から連絡したものの、誰からも相手にされなかった。夜も更けた頃、女が高架下で身を寄せるように座っていると、一人の男が現れた。全身に派手なタトゥーの入った男。女の元恋人だった。「逃げるんじゃなかったのか?」男は女の髪をつかみ、乱暴に引き起こした。「俺の子ども連れて金持ちに寄生してたんだろ?金はどこだよ」女は怯えながら、反射的にお腹をかばった。「やめて!あの人は捕まったの!お金も全部凍結されてる!」「使えねぇな」男は吐き捨てるように言うと、女の太ももを蹴りつけた。そしてバッグの中にあった現金と腕時計を奪っていく。男の子は少し離れた場所で、小さく身体を丸めて震えていた。その一部始終を映した防犯カメラの映像、そして数通の鑑定書。二日後、それらは颯真を通じて捜査側へ提出され、拓海にも開示された。拘置所の面会室で、拓海は無精ひげを生やし、疲れ切った姿でガラスの向こうに座っていた。手には手錠がかけられている。担当者が、傷害に関する鑑定書とDNA鑑定の結果をガラス越しに示した。「石井美雨さんは生前、弁護士に財産整理と離婚手続きを依頼していました。こちらはその手続きに関係する資料です。内容を確認してください」拓海は濁った目をゆっくりと上げた。そして、そこに並ぶ文字を見た瞬間、瞳孔が大きく開いた。DNA鑑定の結果、あの男の子と拓海の間に、親子関係は認められなかった。子どもの父親はあの女の元恋人だった。「……そんなはずない!」拓海が勢いよく立ち上がった。「あの日だって、俺たちは確かに……!」担当者は表情一つ変えず、次の鑑定書を開いた。そして医学的所見の部分を指す。「五年前の事故で腰椎周辺の神経を損傷しています。その影響で、あなたはすでに自然妊娠が極めて困難な状態にあり、回復の見込みもないと診断されています。また、当時あなたに説明されていた妊娠についても、事実と異なる内容が含まれて
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第7章
南の街では、季節の境目があまりはっきりしない。一年を通して柔らかな風が吹き、時間までゆっくり流れているような街だった。「雨の日フラワー」と書かれた店の看板を掲げて、もう三年になる。木製のひさしには、いつの間にか蔓がびっしりと絡みついていた。その朝も私は、咲き始めたバラの鉢植えを店先へ運び、いつものように水をやっていた。手首に残っていた噛み跡も、左の腰を強く打ちつけた古傷も、今ではすっかり治っている。以前は雨の日になると疼くこともあったのに、それすらなくなった。都会で起きたあの醜い駆け引きも、その後、家に閉じ込められていた日々も、今では、ひどく遠い昔の悪夢のようだった。一台の車が店の前に停まった。運転席から降りてきたのは颯真だった。手には朝食の入った紙袋を提げている。「西村先生、今日は裁判ないの?」受け取りながら笑うと、颯真も口元を緩めた。「共同経営者には、それなりの特権があるんだよ。今日は休みだし、二人を海に連れていこうと思って」その声を聞いたのか、店の奥のカーテンが勢いよく開いた。二歳を少し過ぎた女の子が、まだおぼつかない足取りで駆けてくる。「そうまおじちゃん!だっこ!」そのまま颯真の脚に抱きついた。颯真は慣れた手つきで腰をかがめ、杏奈(あんな)を片腕で抱き上げる。そして小さな鼻を軽くつまんだ。杏奈は、二年前に私が養子として迎えた子だった。この子と暮らすようになってから、胸の奥に残っていた空白が、少しずつ温かなもので満たされていったのは確かだった。そしてこの二年間、颯真は杏奈にとって父親のような存在になっていた。そんな穏やかな毎日が、ゆっくりと私たちの暮らしに根を張っていた。その頃、ここから千キロ以上離れた刑務所では、まったく別の時間が流れていた。刑務作業の時間。拓海は重い工具を握り、黙々と作業を続けていた。汗と埃にまみれた顔はひどく老け込み、まだ三十代半ばだというのに、五十を過ぎた男のように見えた。三年前、颯真からあの写真を見せられて以来、拓海の中では一つの歪んだ思い込みだけが、生きる支えになっていた。「美雨は、俺が償い終わるのを待っている」それを信じ込むことでしか、自分を保てなかった。少しでも早く外へ出るため、少しでも仮釈放の審査で有利になるため、拓海は誰もやりたがらない重
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第8章
それから二年後。激しい雷雨の日だった。朝から降り続く雨の中、私は黒い傘を差して、杏奈が通う幼稚園の前で迎えを待っていた。雨に煙る道路の向こう。一人の男が、背中を丸めながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。古びたジャケット。油でべったりとした髪。松葉杖さえ持っていない。拾ってきたらしい太い木の枝を両手で必死に支えにしながら、ひどく歪んだ右脚を泥水の中で引きずっていた。拓海だった。刑務所内での行動と、重い後遺症が考慮され、予定より早く仮釈放されたのだ。手元にはほとんど金もなく、身分を証明するものすらまともに持っていなかった。電車にもバスにも乗れず、人から食べ物や金を恵んでもらいながら、記憶だけを頼りに三か月かけて、この南の街までたどり着いたらしい。両手には厚いまめができていた。一歩進むたび、壊れた脚から鈍い痛みが走る。それでもその目だけは、異様なほど強い執念に満ちていた。雨粒が私のスカートの裾を濡らす。やがて幼稚園のチャイムが鳴った。先生に連れられ、子どもたちが順番に出てくる。黄色い長靴を履いた杏奈が、私を見つけるなり駆けてきた。「ママー!」そのまま、ぎゅっと私の脚に抱きつく。ちょうどそのとき、颯真の車が道路脇に停まった。大きな傘を差して降りてきた颯真は、私のバッグを受け取り、後部座席のドアを開ける。そして杏奈の顔についた雨粒をハンカチで丁寧に拭き、温かい飲み物の入った水筒を手渡した。その光景が、拓海の目にまともに飛び込んだ。かつて自分が命を半分懸けて救ったと信じていた女。さらに今では、もう片方の脚まで失いかけている。そこまでして取り戻したかった妻が、今は別の男の隣に立ち、自分とは何の血のつながりもない子どもを、大切そうに守っている。長い間押し殺してきた嫉妬が、拓海に残っていた最後の理性まで壊した。支えにしていた木の枝を放り捨てる。まともに動かない脚を引きずり、泥水の中へ転びながら、それでも必死にこちらへ這ってきた。「美雨……!美雨!」歯の抜けた隙間から漏れるような声は、聞くに堪えないほど掠れていた。颯真がすぐに振り返る。私と杏奈を背後へかばい、泥まみれの男を警戒するように見据えた。拓海は必死に顔を上げた。泥だらけの頬を、涙が何本も伝っている。颯真の革靴の前まで這ってくると、そ
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第9章
「大丈夫」私は颯真に小さな声で言った。颯真は黙って頷くと、杏奈をかばうように車へ乗せ、後部座席のドアを閉めた。雨音が遮られる。あとに残ったのは私と泥水の中に這いつくばる拓海だけだった。「美雨……俺も車に乗せてくれよ……」杏奈が車に乗ったのを見て、私が折れたと勘違いしたらしい。拓海は必死に肘を地面について、上半身を起こした。「これからは何だってする……美雨のためなら、一生尽くすから……」「拓海」ようやく口を開いた私の声は、冷たい雨音の中でもはっきりと響いた。「あなたがあの日、私を受け止めたこと。その代償ならもう十分払ったよ。私の財産も、三年間という時間も、あなたに踏みにじられて、失った自尊心も、全部あなたが最初から計算して手に入れたものでしょ?それが、あなた自身が決めた命を救った代金だった」地面についていた拓海の手が震え始めた。信じられないものを見るように、私を見上げる。「でも俺は、お前を助けて脚まで駄目にしたんだぞ!」「そうだね」私は少し腰をかがめ、拓海と目線を合わせた。「その恩を盾にして、あなたは私を殺させようとした。私の財産を勝手に移して、最後には私を客室に閉じ込めて、自分たち三人が私の家を乗っ取っていくところを見せつけた」濁った目をまっすぐ見つめる。「だから私はあの火事ですべて終わらせた。あなたが欲しがったお金も、守りたかった体面も、全部あの家と一緒に燃えた。自分で仕掛けたことが、自分に返ってきただけだよ。それから、刑務所で駄目にしたもう片方の脚だけど」私は身体を起こした。伸ばされてきた拓海の手を避けるように、半歩後ろへ下がる。「あれは自分が少しでも早く出たくてやったことでしょ?私に何の関係があるの?」拓海の唇が激しく震えた。乱れた髪を伝った雨水が、そのまま口元へ流れ込んでいく。何か言い返そうとするが、一つとしてまともな言葉にならなかった。「私たちの間にもう愛なんてない。たぶん、最初からなかったんだよ。あなたが愛してたのは、私じゃない。命を救ってやったっていう恩を使えば、絶対に自分から離れない女。何をしても許して、自分の言うことを聞く女。そういう人形が欲しかっただけ。それに、自分の子どもさえ残せるなら、相手が誰なのかなんて、本当はどうでもよかったんでしょ?自分がいつも上
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第10章
私はもう拓海に手を差し伸べなかった。そのまま背を向け、黒い傘を差して路肩に停めてある車へ歩いていく。運転席の颯真が身を乗り出し、助手席のドアを開けてくれた。何も言わずに私の手から濡れた傘を受け取る。後部座席から、杏奈が小さな顔を覗かせた。手には、描き終えたばかりの絵を持っている。「ママ、さっき、水たまりのところにいた人、だあれ?」私は助手席に座り、シートベルトを締める。そして振り返ると、杏奈の頭を優しく撫でた。「知らない人だよ。道に迷っちゃった人なんじゃないかな」窓がゆっくり閉まった。颯真がエンジンをかける。タイヤが路面に溜まった雨水を静かに踏み越え、車は滑るように走り出した。バックミラーの中、泥水に倒れ込んだ黒い影が、少しずつ小さくなっていく。拓海にはもう、追いかける力さえ残っていなかった。叫ぶこともやめた。冷たいアスファルトに伏したまま、降り続く雨に傷口を打たせている。そのときになってようやく、拓海は理解したのかもしれない。あの火事で燃え尽きたのは、家でも金でもなかった。美雨を自分につなぎ止めておけるという、思い込みだった。かつて拓海は、「命を半分懸けた」という恩を鎖にして、私を自分のそばへ縛りつけようとした。妻として、子どもを産む存在として、決して自分から逃げない人形として。けれど最後に、その鎖に縛られたのは拓海自身だった。これから先、長く、希望のない年月を、痛む身体を抱えたまま、一人で生きていく。かつて自分の手の中にあった幸せを、自分自身で壊したという事実だけを抱えて、いつまでも、あの場所に取り残されたまま。やがて前方の交差点で、赤信号が青に変わった。車内には、穏やかなピアノ曲が流れている。颯真がそっと、私の左手を握った。その手の温かさが、雨の中で冷えた指先をゆっくりと温めていく。私はシートに身体を預けた。フロントガラスの向こうでは、厚い雲の切れ間から少しずつ光が差し始めている。長かった雨が、ようやく止もうとしていた。私は静かに目を閉じた。車は揺れることなく、明るくなっていく空の下を、そのまま遠くへ走っていった。【完】
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