LOGIN【夫に隠し子がいたら、あなたは許せますか?】 その投稿を見つけたのは、ちょうど飛行機を降りたばかりのときだった。海外での仕事を予定より早く切り上げ、私は家へ帰るところだった。 なんとなくコメント欄を開き、自分のことを書き込んだ。 【私は再婚です。前の夫に三階から突き落とされたとき、今の夫が下で私を受け止めてくれました】 【そのせいで夫は背骨にひびが入り、19日間もICUにいました】 【それでも退院後、足を引きずりながら私の前にひざまずいて、「命を半分懸けて守った人だから、残りの半分も全部、君を愛するために使いたい」と言ってくれたんです】 【でも結婚して2年目、夫のスマホに見知らぬグループチャットがあるのを見つけました。メンバーは夫と一人の女、それから夫を「パパ」と呼ぶ男の子だけでした】 夫は泣きながら私にすがりつき、ひざまずいて謝った。子どもは私との結婚前にできた子だと。 今愛しているのは私だけだと。 家も車も貯金もすべて私に渡した。そして私の目の前で、その女の連絡先を全部削除した。 「今日から毎日、どこにいるか動画を送る。365日、一日だって欠かさない」 それから今日で3年目。夫は毎日、朝昼晩の三回、必ず動画を送ってきた。一度たりとも欠かしたことはなかった。 コメント欄には、【つらいことを乗り越えて、やっと幸せになれたんですね】【そんなに愛してくれる旦那さんなら、きっと大丈夫】そんな言葉が次々と並んだ。 私は小さく笑ってスマホを閉じると、キャリーケースを引いて自宅の前までやって来た。 玄関の鍵は開いていた。 靴を脱ごうとしてふと足元を見ると、玄関には大人用のスリッパが二足、その隣に子ども用の小さなスリッパが一足並んでいた。 リビングを覗くと、大きなお腹を抱えた女が、六歳くらいの男の子と一緒に積み木で遊んでいた。 物音に気づいた女は、こちらを振り返りもせず、そのままごく自然な口調で言った。 「あなた、遅かったわね。私もこの子もお腹ぺこぺこ。お肉、ちゃんと買ってきた?」
View More私はもう拓海に手を差し伸べなかった。そのまま背を向け、黒い傘を差して路肩に停めてある車へ歩いていく。運転席の颯真が身を乗り出し、助手席のドアを開けてくれた。何も言わずに私の手から濡れた傘を受け取る。後部座席から、杏奈が小さな顔を覗かせた。手には、描き終えたばかりの絵を持っている。「ママ、さっき、水たまりのところにいた人、だあれ?」私は助手席に座り、シートベルトを締める。そして振り返ると、杏奈の頭を優しく撫でた。「知らない人だよ。道に迷っちゃった人なんじゃないかな」窓がゆっくり閉まった。颯真がエンジンをかける。タイヤが路面に溜まった雨水を静かに踏み越え、車は滑るように走り出した。バックミラーの中、泥水に倒れ込んだ黒い影が、少しずつ小さくなっていく。拓海にはもう、追いかける力さえ残っていなかった。叫ぶこともやめた。冷たいアスファルトに伏したまま、降り続く雨に傷口を打たせている。そのときになってようやく、拓海は理解したのかもしれない。あの火事で燃え尽きたのは、家でも金でもなかった。美雨を自分につなぎ止めておけるという、思い込みだった。かつて拓海は、「命を半分懸けた」という恩を鎖にして、私を自分のそばへ縛りつけようとした。妻として、子どもを産む存在として、決して自分から逃げない人形として。けれど最後に、その鎖に縛られたのは拓海自身だった。これから先、長く、希望のない年月を、痛む身体を抱えたまま、一人で生きていく。かつて自分の手の中にあった幸せを、自分自身で壊したという事実だけを抱えて、いつまでも、あの場所に取り残されたまま。やがて前方の交差点で、赤信号が青に変わった。車内には、穏やかなピアノ曲が流れている。颯真がそっと、私の左手を握った。その手の温かさが、雨の中で冷えた指先をゆっくりと温めていく。私はシートに身体を預けた。フロントガラスの向こうでは、厚い雲の切れ間から少しずつ光が差し始めている。長かった雨が、ようやく止もうとしていた。私は静かに目を閉じた。車は揺れることなく、明るくなっていく空の下を、そのまま遠くへ走っていった。【完】
「大丈夫」私は颯真に小さな声で言った。颯真は黙って頷くと、杏奈をかばうように車へ乗せ、後部座席のドアを閉めた。雨音が遮られる。あとに残ったのは私と泥水の中に這いつくばる拓海だけだった。「美雨……俺も車に乗せてくれよ……」杏奈が車に乗ったのを見て、私が折れたと勘違いしたらしい。拓海は必死に肘を地面について、上半身を起こした。「これからは何だってする……美雨のためなら、一生尽くすから……」「拓海」ようやく口を開いた私の声は、冷たい雨音の中でもはっきりと響いた。「あなたがあの日、私を受け止めたこと。その代償ならもう十分払ったよ。私の財産も、三年間という時間も、あなたに踏みにじられて、失った自尊心も、全部あなたが最初から計算して手に入れたものでしょ?それが、あなた自身が決めた命を救った代金だった」地面についていた拓海の手が震え始めた。信じられないものを見るように、私を見上げる。「でも俺は、お前を助けて脚まで駄目にしたんだぞ!」「そうだね」私は少し腰をかがめ、拓海と目線を合わせた。「その恩を盾にして、あなたは私を殺させようとした。私の財産を勝手に移して、最後には私を客室に閉じ込めて、自分たち三人が私の家を乗っ取っていくところを見せつけた」濁った目をまっすぐ見つめる。「だから私はあの火事ですべて終わらせた。あなたが欲しがったお金も、守りたかった体面も、全部あの家と一緒に燃えた。自分で仕掛けたことが、自分に返ってきただけだよ。それから、刑務所で駄目にしたもう片方の脚だけど」私は身体を起こした。伸ばされてきた拓海の手を避けるように、半歩後ろへ下がる。「あれは自分が少しでも早く出たくてやったことでしょ?私に何の関係があるの?」拓海の唇が激しく震えた。乱れた髪を伝った雨水が、そのまま口元へ流れ込んでいく。何か言い返そうとするが、一つとしてまともな言葉にならなかった。「私たちの間にもう愛なんてない。たぶん、最初からなかったんだよ。あなたが愛してたのは、私じゃない。命を救ってやったっていう恩を使えば、絶対に自分から離れない女。何をしても許して、自分の言うことを聞く女。そういう人形が欲しかっただけ。それに、自分の子どもさえ残せるなら、相手が誰なのかなんて、本当はどうでもよかったんでしょ?自分がいつも上
それから二年後。激しい雷雨の日だった。朝から降り続く雨の中、私は黒い傘を差して、杏奈が通う幼稚園の前で迎えを待っていた。雨に煙る道路の向こう。一人の男が、背中を丸めながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。古びたジャケット。油でべったりとした髪。松葉杖さえ持っていない。拾ってきたらしい太い木の枝を両手で必死に支えにしながら、ひどく歪んだ右脚を泥水の中で引きずっていた。拓海だった。刑務所内での行動と、重い後遺症が考慮され、予定より早く仮釈放されたのだ。手元にはほとんど金もなく、身分を証明するものすらまともに持っていなかった。電車にもバスにも乗れず、人から食べ物や金を恵んでもらいながら、記憶だけを頼りに三か月かけて、この南の街までたどり着いたらしい。両手には厚いまめができていた。一歩進むたび、壊れた脚から鈍い痛みが走る。それでもその目だけは、異様なほど強い執念に満ちていた。雨粒が私のスカートの裾を濡らす。やがて幼稚園のチャイムが鳴った。先生に連れられ、子どもたちが順番に出てくる。黄色い長靴を履いた杏奈が、私を見つけるなり駆けてきた。「ママー!」そのまま、ぎゅっと私の脚に抱きつく。ちょうどそのとき、颯真の車が道路脇に停まった。大きな傘を差して降りてきた颯真は、私のバッグを受け取り、後部座席のドアを開ける。そして杏奈の顔についた雨粒をハンカチで丁寧に拭き、温かい飲み物の入った水筒を手渡した。その光景が、拓海の目にまともに飛び込んだ。かつて自分が命を半分懸けて救ったと信じていた女。さらに今では、もう片方の脚まで失いかけている。そこまでして取り戻したかった妻が、今は別の男の隣に立ち、自分とは何の血のつながりもない子どもを、大切そうに守っている。長い間押し殺してきた嫉妬が、拓海に残っていた最後の理性まで壊した。支えにしていた木の枝を放り捨てる。まともに動かない脚を引きずり、泥水の中へ転びながら、それでも必死にこちらへ這ってきた。「美雨……!美雨!」歯の抜けた隙間から漏れるような声は、聞くに堪えないほど掠れていた。颯真がすぐに振り返る。私と杏奈を背後へかばい、泥まみれの男を警戒するように見据えた。拓海は必死に顔を上げた。泥だらけの頬を、涙が何本も伝っている。颯真の革靴の前まで這ってくると、そ
南の街では、季節の境目があまりはっきりしない。一年を通して柔らかな風が吹き、時間までゆっくり流れているような街だった。「雨の日フラワー」と書かれた店の看板を掲げて、もう三年になる。木製のひさしには、いつの間にか蔓がびっしりと絡みついていた。その朝も私は、咲き始めたバラの鉢植えを店先へ運び、いつものように水をやっていた。手首に残っていた噛み跡も、左の腰を強く打ちつけた古傷も、今ではすっかり治っている。以前は雨の日になると疼くこともあったのに、それすらなくなった。都会で起きたあの醜い駆け引きも、その後、家に閉じ込められていた日々も、今では、ひどく遠い昔の悪夢のようだった。一台の車が店の前に停まった。運転席から降りてきたのは颯真だった。手には朝食の入った紙袋を提げている。「西村先生、今日は裁判ないの?」受け取りながら笑うと、颯真も口元を緩めた。「共同経営者には、それなりの特権があるんだよ。今日は休みだし、二人を海に連れていこうと思って」その声を聞いたのか、店の奥のカーテンが勢いよく開いた。二歳を少し過ぎた女の子が、まだおぼつかない足取りで駆けてくる。「そうまおじちゃん!だっこ!」そのまま颯真の脚に抱きついた。颯真は慣れた手つきで腰をかがめ、杏奈(あんな)を片腕で抱き上げる。そして小さな鼻を軽くつまんだ。杏奈は、二年前に私が養子として迎えた子だった。この子と暮らすようになってから、胸の奥に残っていた空白が、少しずつ温かなもので満たされていったのは確かだった。そしてこの二年間、颯真は杏奈にとって父親のような存在になっていた。そんな穏やかな毎日が、ゆっくりと私たちの暮らしに根を張っていた。その頃、ここから千キロ以上離れた刑務所では、まったく別の時間が流れていた。刑務作業の時間。拓海は重い工具を握り、黙々と作業を続けていた。汗と埃にまみれた顔はひどく老け込み、まだ三十代半ばだというのに、五十を過ぎた男のように見えた。三年前、颯真からあの写真を見せられて以来、拓海の中では一つの歪んだ思い込みだけが、生きる支えになっていた。「美雨は、俺が償い終わるのを待っている」それを信じ込むことでしか、自分を保てなかった。少しでも早く外へ出るため、少しでも仮釈放の審査で有利になるため、拓海は誰もやりたがらない重