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第3話

Author: クルミ
午前九時、景斗から電話がかかってきた。

「マンションの地下駐車場で待ってる。降りておいで」

あらかじめ用意しておいた供物を抱え、私は彼の車に乗り込んだ。

祖母が亡くなったのは、私が大学二年のときだった。

本当は、故郷の山の上に眠らせてあげるつもりだった。

でも景斗は、「おばあさんをひとり田舎に置いていけない」と言って、南城の霊園に祖母を埋葬した。

でも、今になって思う。

私はこの街を去るつもりだし、どのみち祖母はひとりこの街に取り残される。

あのとき、彼の約束なんて信じるべきじゃなかった。

祖母のことを思うと、涙が止まらなかった。

車の中で肩を震わせる私を見て、景斗は慌てて車を脇に寄せ、私を抱きしめた。

「みのり、泣かないで……おばあさんが天国で心配しちゃうだろ」

私の涙の理由なんて知らずに、彼は偽善的な態度を取り繕っている。

この男は、最後まで私を騙し通すつもりなのだ。

「……そうね。心配させちゃいけないわね。もう行きましょう」

景斗は、私の顔を覗き込みながら言った。

「みのり……何かあったのか?おばあさんが亡くなってもう随分経つのに、今日の君の様子はおかしいよ」

私は首を振った。

「ううん。ただ、急に恋しくなっただけ」

彼に何度か問いかけられたけど、私は何も答えなかった。

「……もう泣かないで。さもないと、おばあさんに『みのりは弱虫だ』って言いつけるよ?」

私は黙ったまま、視線を落とした。

墓地に着くと、供物を手に車を降りた。

景斗が手伝おうとするも、私は避けた。

「自分で、おばあちゃんに渡したいの」

二人で並んで墓地の階段を登った。

祖母の名前が刻まれた墓碑が目に入り、胸が張り裂けそうになった。

私はゆっくりと膝をつき、墓碑に手を添えた。

景斗も隣で膝をつき、手を合わせた。

「おばあさん、安心してください。俺が、みのりを一生守ります」

どうしてこの男は、祖母の前で平気でそんな嘘がつけるのだろう。

私は袋の中から、赤い組紐を取り出した。

祖母の墓前に置こうとしたそのとき、景斗が私の手首を掴んだ。

「みのり……それって、俺たち二人のために編んだ組紐だろ?」

私は小さく頷いた。

「結婚式で交換するって約束したものだよな?」

景斗は眉をひそめた。

「式の日まで大事に取っておくって、言ってたじゃないか?」

「また、新しいのを用意するから」

私がそう言うと、彼はしぶしぶ手を離した。

組紐を墓前に置いたとき、彼の目にかすかな不安が浮かんだ。

「みのり……君は――」

その言葉を遮って、澄んだ声が墓地の静寂を破った。

「……景斗さん!」

振り返ると、白いワンピースを着た沢木詩織が立っていた。

黒髪が風に揺れ、儚げに見える。

景斗は顔を強張らせ、詩織へ歩み寄る。

「……どうしてここに?」

私は聞こえなかったふりをして、袋の中から故郷の小屋をかたどった石彫を取り出した。

「おばあちゃん、もうすぐ私はここを出て行くの。今日はこれを置いていくね」

そう心の中で呟きながら、墓前に置こうとしたとき、横から伸びた手が石彫を奪い去った。

驚いて顔を上げると、沢木詩織が石彫を胸に抱き、涙をこぼしていた。

「橘さん……この石彫、私の祖父母の家にそっくりなの。譲ってもらえないかしら?」

私は即座に首を振った。

「……ごめんなさい。それは私が祖母のために彫ったものです。返してください」

詩織は返さず、泣きながら景斗に助けを求めるような目で見つめた。

「景斗……知ってるでしょ。私の祖父母は生前、ずっと故郷を恋しがっていたの。これにそっくりなのよ……お願いだから、私に譲ってくれない?」

景斗は私に視線を向けた。

「みのり……詩織に譲ってくれないか?おばあさんには、また新しいのを作ればいいだろ?」

その瞬間、血の気が引いた。

彫刻を習い始めた頃、血だらけになった私の指を見て、彼は泣きそうな顔で、「君の手は、患者を救うための手だ」と言っていた。

それでも彫り続ける私に、「完成したら、もう二度と彫刻はしないでくれ」と、彼は念を押していた。

それなのに今、彼女に譲れと言う。

私はうつむき、小声で告げた。

「……それは、おばあちゃんのために作ったものよ」

景斗は腰をかがめ、耳元で囁いた。

「詩織は……もう長くないんだ。頼むよ、みのり」

「もし、私が嫌だと言ったら?」

その言葉に、景斗は口をつぐんだ。

墓地の空気が一気に張り詰めた。

詩織が胸を押さえ、泣き声をあげる。

「景斗さん……」

景斗は振り返り、「……持ってっていいよ、詩織」と言った。

その瞬間、詩織は笑顔を見せると、私の石彫を抱えたまま彼女の祖父母の墓前へと駆け去った。

私は祖母の墓碑を見つめ、口元をひきつらせながら目尻を赤くした。

景斗が隣で何か言っていたけど、耳に入ってこなかった。

ただただ思った。

あの石彫は、私が手を血まみれにして、何度も失敗を重ね彫り上げた祖母への形見だったのに、彼は一瞬で差し出したのだ。

この人は、私のものを、私の想いを、いつだって簡単に他人に譲れてしまう。

――おばあちゃん、ごめんね。私には、人を見る目がなかった。

でも、まだ間に合う。

私は、この男を捨てる覚悟を決めた。
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