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第2話

Author: 黒い土地
朝の7時。ダイニングテーブルに座っていると、タブレットに共有カレンダーの通知が表示された。勲が共有設定を切るのを忘れていたみたいだ。

【9:30東都私立病院、東都不妊治療センター、VIP診察室3、上田さん・再診。備考:関係者用通路は避けること】

その通知画面を私は数秒見つめてから、無表情でスワイプした。

それから階段から足音がして、勲が下りてきた。仕立てのいいスーツを着て、手には老舗の紙袋を提げている彼の額にはうっすらと汗も滲んでいた。

「遥、起きてたのか?」勲は紙袋を私の前に置いた。その眼差しは溺れてしまいそうなほど優しい。「3つ先の通りまで走って買ってきたクリームパンだ。温かいうちに早く食べて」

私はそれを手に取って、一口かじった。

だが、甘ったるいクリームが舌の上でとろけるのを感じて、胃のムカムカが一向に治まらなかった。

「こんなに朝早くから、疲れないの?」私は目を伏せたまま、淡々とした口調で尋ねた。

「お前のためなら、大したことないさ」と勲は笑い、ブラックコーヒーを一口飲むと話を続けた。「そうだ遥、会社で最近、西区の大きなプロジェクトを受注したんだ。取引先が厄介でね。しばらく残業しなきゃいけないから、夜ご飯は外で済ませてくるよ」

西区のプロジェクト……東都病院も、西区にある。

そう思って私は食べ物を飲み込んで、勲を見上げて言った。「そんなに大事なプロジェクトなの?」

「前田家の下半期の株価を左右するからな」勲の表情は真剣そのものだった。「俺たちの未来のためだ。頑張らないと」

昔の私なら、きっと勲を抱きしめて、無理しないでねって言っていたはずだ。

でも今は、「仕事熱心」で「愛情深い」って書いてあるみたいなその顔を見てるだけで、吐き気がするほど嘘くさく感じて仕方がないのだ。

だから、「あまり無理しないでね」と私はただそう言ってティッシュで口を拭いた。

勲は私の素直な態度に満足したのか、身を乗り出して手を握ってきた。「このプロジェクトが終わったら、新婚旅行に行こう。好きな場所を選んでいい。俺が全部手配するから」

その手は乾いていて温かい。かつてそれは、私にとって一番の安らぎだった。でも今は、それに嫌悪感しか感じないのだ。

「どこでもいいよ」私はさりげなく手を引き、ごまかすように牛乳のカップを持ち上げた。「ねえ、勲。私たち、いつ子供を考える?」

すると、目玉焼きを切っていた勲の手が、ぴたりと止まる。ナイフが皿に当たって、キーッと耳障りな音を立てた。

勲は顔を上げた。一瞬だけ視線が泳いだけど、すぐに笑顔で隠した。「どうして急にそんなことを聞くんだ?俺たちはまだ若いじゃないか。遥は戦場記者になりたいんだろ?子供ができたら、足枷になるだけだ。もう少し先でいいよ。二人だけの時間を、もっと楽しみたい」

もう少し先で……それは、美羽が前田家の長男を産んで、その子が大きくなるまで待つってこと?

じゃあ、私との子供は?日の目を見ることのない隠し子になるか、それとも邪魔者として消される運命なの?

「確かにそうね」私はカップを置いて、自分でも気づかないうちに皮肉な笑みを浮かべた。「だって、前田家に認められた『血筋』じゃなかったら、産まれてきても辛い目に遭うだけだものね」

それを聞いて勲は眉をひそめた。「今、なんて言った?」

「別に」私は勲の視線を受け止めた。「あなたの考えは、本当に周到だなって言ったの」

その時、テーブルの端に置いてあった勲のスマホの画面が光り、ラインの通知がポップアップした。

【勲さん、昨日はありがとう。おかげで体調もずっと良くなったよ。朝の検査、付き添ってくれる?】

それを見た勲の顔色が一瞬で変わり、スマホをすぐに裏返しに伏せた。

「迷惑メールだ」勲の説明は早口で、喉仏が動いた。「最近、資産運用の勧誘が多くてさ」

私は静かに彼を見つめた。かつて、どしゃ降りの雨の中で私を背負って2つ先の通りまで歩いてくれた彼。絶対に嘘はつかないと誓ってくれた、そんな彼が少しずつ廃れていくのを目の当たりにしたかのように思えた。

「最近のセールスって」私は微笑みながら、一語一句、区切るように言った。「ずいぶん、なれなれしいのね」

勲はこの話題を続けたくないのか、急いでコーヒーを飲み干して立ち上がった。「もう時間だ。西区に出張してくる。家でいい子にしてろよ」

そう言って勲はダイニングテーブルを回り込み、いつものように私の唇にキスをしようとした。

だが、私はさっと顔を背け、椅子の背もたれに掛けたジャケットを取るふりをした。

そのキスは、結局私の冷たい頬に落ちた。

そして男物の香水と、嘘の匂いが混じったその気配に、私はぞわっと鳥肌が立った。

しかし、「行ってくる」と勲は何も気づかないまま、車のキーを持って足早に去っていった。

玄関のドアが閉まった瞬間、家の中は静まり返った。

私は洗面所に駆け込み、蛇口をひねると、冷たい水で勲に触れられた場所を夢中で洗い流した。

べたつくような感触が消えるまで、肌が赤くなるほどこすり続けた。

ようやく顔を上げると、鏡の中には、目の縁を赤くしながらも、妙に落ち着いている自分がいた。

「勲、私たち、もうこれで終わりよ」

私はポケットから、とっくに記入を済ませていたアフロテラ共同体支援プロジェクトの申請書を取り出した。それを丁寧に折りたたむと、一番奥にしまい込んだ。
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