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愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた
愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた
Auteur: 黒い土地

第1話

Auteur: 黒い土地
エアコンは26度に設定されているのに、私の心はどんどん冷えていくのを感じていた。

手には、まだプレゼント用に包装できていない、陽性反応が出たばかりの妊娠検査薬があった。

ほんの数分前まで、私はこのサプライズを知ったら前田勲(まえだ いさお)がどんな顔をするか、ワクワクしながら想像していたのに。

きっとプロポーズの時みたいに、目を潤ませて私を抱きしめてくれるはず。そして、まだ何も聞こえないって分かっていても、そっと私のお腹に耳を当てるんだろうな。

だって、勲は誰もが認めるほどの愛妻家なんだから。

私が「南区のケーキが食べたいな」ってつぶやいただけで、土砂降りの中でも彼は、2時間も車を走らせて買って来てくれていた。

胃が痛いと言えば、わざわざ胃に優しいレシピを探してきては手料理を作ってくれたりもした。

極めつけは、私たちの結婚式のために、60億円もの契約を断って、自ら海外までウェディングドレスを選びに行ってくれたことだ。

それなのに……半開きになった書斎のドアの前に立った私は、隙間から漏れ聞こえてくる会話を、聞いてしまったんだ。

「上田家との話はついたのか?」勲の声は、私が今まで聞いたこともないほど冷たかった。

「社長、上田さんの検査結果が届きました。体外受精は成功です」秘書の小野哲也(おの てつや)の声は緊張しているみたいだった。「しかし……これは、上田さんがあまりにもお気の毒です。それに、もし石田(いしだ)さんがお知りになったら……」

「黙れ」

勲は哲也の言葉を、冷たく遮った。

「美羽には重い遺伝病があって、自然に子供を授かるのは難しい。それでも彼女は子供が欲しいって言うし、そして俺も、上田家に恩を返さなければならないから、これは取引だ」

その話し声と共にカチッ、とライターの音がして、タバコの匂いが漂ってきた。

「生まれた子は上田家の籍に入れる。俺は恩を返し、向こうは子供を手に入れる。これでチャラになる」勲はそう言って煙を吐き出しながら、まるで仕事の話でもするように淡々と続けた。「遥のことは……」

そこまで聞いて、私は、息をするのも忘れていた。

「遥は純粋すぎる。こんな汚い話は、絶対に知られてはいけない」勲の声は少しだけ優しくなった。でも、その言葉には私がぞっとするような、恐ろしい独占欲が潜んでいるようだった。

「結婚式も近いんだ。遥を悲しませたくない。子供が生まれても、遥の目に触れない場所で育てれば、裏切りにはならない」

裏切りにはならないって?

あの優しそうな仮面の下で、勲はとっくに私たちの愛や結婚を、利益と天秤にかけていたんだ。そして彼にとって私はいつでも切り捨てられる、代替案なんだ。

恩返しのために、上田家の令嬢・上田美羽(うえだ みう)と子供を作る?

じゃあ、私のお腹にいる子供たちは?ただの邪魔者ってこと?

もしかして……この子たちが勲の邪魔になったら、厄介払いみたいに、始末されちゃうの?

そう思っていると書斎から足音がして、勲が出てきた。

私は急いで妊娠検査薬をネグリジェのポケットにしまい、何食わぬ顔でドアノブに手をかけたが、指先は凍えるほど冷え切っていた。

するとドアが、内側から開かれた。

チャコールグレーの部屋着を着た勲が、私を見て、ごく自然に腰へと手を回してきた。

ネグリジェ越しに伝わる体温に、私はただただ鳥肌が立った。

「遥?」勲は優しく声をかける。「ドアの前に突っ立ってどうした?裸足じゃないか。風邪ひくだろ?」

私は舌先を強く噛んだ。その痛みでこみ上げてくる何かを必死にこらえ、引きつった笑顔を作って言った。「ちょうどあなたを呼びに来たの。おやつができたから、山下(やました)さんが、温かいうちにって」

「そうか、じゃあいただこうかな」勲はいつものように優しく私の髪を撫でた。

彼の後ろにいた哲也は、俯いたまま、私と目を合わせようともせずに足早に去っていった。

一方私は勲に手を引かれるまま、階段を降りた。

部屋のあちこちに飾られた、結婚式用の飾り付け。テーブルに山積みになった、昨日届いたばかりの引き出物、そのすべてが私をあざ笑っているかのようだった。

そう思っていると、「手が冷たいぞ?」勲は私の手を握りしめてきて、眉をひそめた。「どこか具合でも悪いのか?」

「お腹がすいただけよ」私は自分でも聞こえないくらい、か細い声で答えた。

その夜の勲は、いつも以上に優しかった。

私の髪を乾かしてくれたり、全然面白くない冗談で笑わせようとしたり。電気を消す前には、おでこにキスまでしてくれた。

「おやすみ、遥」

だが、暗闇の中、私は目を開けたまま、隣で眠る勲の穏やかな寝息をただ聞いていた。

そして、そっと下腹部に手を当てて、ここには、小さな命が宿っているのを実感しながら、この子の父親は、別の女の子供を利用して、前田家の未来を盤石にしようとしていることが改めて脳裏を過った。

勲、あなたって本当に欲張りね。全てを手に入れて、私には何も知らないバカでいろって言うの?

そんなの、絶対に許さない。

私は勲に背を向けて寝返りを打ち、スマホを取り出して画面の明かりを一番暗くした。

そして半年ぶりに、あるラインのアカウントを開くと、相手は、私が勤めていた新聞社の編集長だ。

結婚の準備をするために、半年前、編集長から提案されたアフロテラ共同体支援プロジェクトを断ったんだった。

だが、今、私は震える指でメッセージを打っては、消すのを繰り返しているのだ。

そして、ついに深く息をした後、私は再度入力をし始めた。今度は、指先が驚くほど安定していた。

【編集長、例のアフロテラ共同体支援プロジェクトの駐在記者派遣枠、私がやります。できるだけ早く出発したいです】

だが、メッセージを送った瞬間、胸のつかえが取れるどころか、もっと大きな石が心臓にのしかかってきたようで、息ができなくなるほど、苦しくなった。

でも、その痛みと同時に、一筋の光が見えた気がした。ここから逃げ出すための、道が。

スマホの明かりが、左手の薬指にはめられた5カラットのダイヤモンドの指輪を照らし、その完璧なほどまでに美しい輝きが、今は冷たい手錠のように見えた。

すると、すぐに返信が来た。【石田さんか?月末に結婚式じゃなかったのか?冗談はやめろよ】

それを見て私は無表情でキーボードを叩き、一文字一文字に、決意を込めて返信をした。【結婚は、しません。必要な手続きはすぐに済ませますので、月末には出発できます】

それからしばらく間が空いて、一言だけ返ってきた。【わかった】

スマホを置いた後、私は目を閉じた。

そして涙が堰を切ったように溢れ出し、枕に染み込んでいった。まるで、心の中にあった勲への愛を、全て洗い流していくようだった。
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