【愛屍の臨界】東京ゾンビサバイバル──人類最後の希望に焚くべられたふたりの恋人の物語

【愛屍の臨界】東京ゾンビサバイバル──人類最後の希望に焚くべられたふたりの恋人の物語

last updateآخر تحديث : 2026-01-19
بواسطة:  斉城ユヅルمستمر
لغة: Japanese
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【ゾンビサバイバル&極限ラブストーリー】 ──《愛してる。だから、殺せた》── 渋谷に現れた1体のゾンビが、秩序ある日常を24時間で破壊した。 美咲は死なせない。俺も死にたくない ならば、ふたりで生き抜くしかない。 そのためなら、なんだってやってやる。 ──なんだって── これは、美咲を愛した俺が、人類の英雄になるまでの物語だ。

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الفصل الأول

プロローグ ゾンビが、いる。この東京に。

「今日は一段と眠そうだな、鉄」

「どうせ夜遅くまでゲームしてたんでしょ」

 朝の教室。賑やかな声に肩を叩かれ、俺は顔を上げた。

 声の主は、幼馴染の戌亥 甚太いぬい じんた柊 蓮花ひいらぎ れんか。小さいころからずっと一緒にいて、高校に入っても相変わらずの付き合いだ。

 ちなみに俺の名前は虎牙 鉄弥こが てつや。白銀海聖学院の二年生。海沿いに建つ中高一貫の進学校で、制服からはどこか上品さが漂っている……らしい。少なくとも俺はそう思ったことはないが。

「そんなんじゃねーよ。ただ、昨日は月がきれいだったから」

「ああ、満月だったな。……お前、また浜辺でぼーっとしてたのか?」甚太が呆れ混じりに笑う。

「ほんと好きねぇ、ロマンチストっていうか。今度ポエムでも書いて読み上げなさいよ!」蓮花はくすっと笑って俺をからかう。

「そんなの書けるかっての!」

 俺が抗議する声をかき消すように、チャイムが鳴った。すでにホームルームの時間だというのに、担任はまだ来ない。

「なんでも今日来る転校生が遅れてるみたいだぞ」甚太が小声で教えてくれる。

 なるほど、それでみんな騒いでいたのか。耳を澄ませば、クラスのあちこちで「男かな?」「女かな?」「可愛い?」「カッコイイ?」と盛り上がっている。まったく、高校生にもなって転校生でこんなに浮かれるとは……。

 ……いや、可愛い女の子だったら俺も浮かれる。できれば、アイドル級に可愛い子が来てほしい。

「鉄、お前はどっちだと思う?」

「もちろん女の子だな。可愛いならなお良し!」

「はは、即答かよ!」

「まったく……。目の前にこんなに可愛い女の子がいるのに」蓮花が拗ねたように唇を尖らせる。

「いやお前はもう見慣れてるし」

「だな」

「二人揃ってハモるなーっ!」

 俺たちの笑い声に混じって、教室のドアがガラリと開いた。担任が入ってきて、教壇に立つ。

「はいはい、席につけー。今日から転校生が来るぞ。みんな仲良くしてやれよ。……じゃあ、入ってきてくれ」

 次の瞬間、教室の空気が凍りついた。

 月の光を閉じ込めたような黒髪が背中まで流れる絹のような艶めいて、透き通る白い肌に、わずかに陰を宿した大きな瞳。

 ――完璧な美貌の少女が、そこに立っていた。

椿 小夜つばき さよと申します。家の事情でこちらに転入することになりました。……どうぞ、よろしくお願いします」

 澄んだ声と同時に見せた笑顔に、一瞬、時間が止まった。

 そして爆発するように教室がざわめきだす。

「可愛いっ!」「やばい、マジ天使」「惚れるわ……!」

 男子も女子も、みんなが目を奪われていた。それもそのはずだ、こんな美人がクラスに来たら誰だって騒ぎたくなる。それに、彼女の魅力は容姿だけではなく、何か人を惹きつける不思議な磁場みたいなものがあった。あの眼に正面から見つめられたら、心のどこかの重力がふっと彼女の方角へ傾く。視線を外そうとしても、糸でつながれているみたいに戻ってしまう。なんだ、この感覚、危険な感じがするのに、目が離せない。

 彼女が転校して来てから数日間の休み時間は、ほんとうにすごいことになっていた。噂は学院中に広まり、その姿を一目見ようと中等部からも生徒が押し掛ける。廊下の角ってこんなに人が隠れられるスペースあったっけ? というくらい、見知らぬ顔が壁に張りついている。

 担任は「通路は走るな、溜まるな、騒ぐな」の三連発でどうにか人波を押し流しているけど、鐘が鳴るたびにまた満ち潮のように戻ってくる。やれやれ、白銀海聖学院の潮汐は今日も活発らしい。

 当然、休み時間の彼女の周囲には厚い人の壁ができる。近づこうものなら、まず一層目の「声かけ隊」を抜け、二層目の「質問係」を突破し、三層目の「無言で近くにいたい係」の視線をくぐり抜け、そのうえ最後に「ファンクラブ幹部(自称)」の審査を受けねばならない。門、多くない? ここ入国審査ですか? いや、むしろ王城か。

「相変わらず、すごい人気ねー」

「ほんとにな。来て数日で学院のマドンナ的存在になったらしいからな」

「あの美貌だからな。仕方ないだろ。むしろ、あの美貌に魅了されないほうが失礼に値する」

「鉄、あんた鼻の下伸びてるよ」

 言われて思わず鼻の下を手で覆い隠す。反射速度だけは一流だと自負している。

「でも、同じクラスなのに声もかけることが出来ないのは異常だろ。鉄だって狙ってるんだろ?」

「当たり前だ! 真っ先に行ったさ、だが人の層が厚すぎて近寄ることすら出来なかったがな」

「ほんと、あんたたちは」

 仕方ないという風に蓮花はため息をつく。こういうバカな話を遠慮なくできる女子は蓮花だけだ。だからこそ、三人でいるこの時間が、俺はたまらなく好きだ。俺のどうでもいい見栄も、くだらない冗談も、だいたい蓮花のツッコミと甚太の笑いに救われてきた。けど、今日は救いよりも煽りが勝っている気がする。気のせいか?

 チャイムが鳴って、数学が始まって、終わって、またチャイム。鐘って偉いよな、鳴るだけで教室の空気をがらりと変える。

 次の休み時間、俺はささやかな作戦を立てた。まずは遠巻きに様子を見て、波が引く一瞬を狙って声をかける。要はサーフィンだ。波を読むのが肝心。

 ところが、俺の「波を見る眼」は海の素人そのものだった。引いたと思えば別の波が押し寄せ、隙間ができたと思えば「え、椿さんって部活どこ入るの?」「ねえねえ、出身って――」の連続で、彼女の横顔は見えるのに半径一メートルにバリアが張られたまま。くぐり抜けた先に彼女の視線がすっと動いて、ふっと笑うのが見えた。笑顔は遠くでもわかる。肺の奥が少し熱くなって、俺は自分の机に戻った。焦るな。焦ると足をもつれさせて海に落ちる。そう、俺は慎重派。今日は偵察。うん、偵察。

 昼休み、購買の前はいつも以上に混んでいた。揚げパン待ちの列が蛇みたいに廊下を伸びる。俺も並んでいると、前の奴がスマホでこっそり撮って、後ろの奴は「貸して!」って小声で騒いでる。

 ダメだぞ、そういうの。心の中で説教していると、横を白い影がすっと通った。彼女だ。購買の喧騒をよけるみたいに流れていく。タブレットの広告画面が彼女の頬を青く染め、制服の襟元には細い銀のチェーンがのぞいていた。ペンダント、じゃないな。ただのネームプレートか。それとも、違う何か。なんで俺はそんな細部ばかり見てしまうんだろう。癖か。悪い癖だ。でも、目に入ってしまう。

 午後、古典の時間。先生が昔の恋文を朗読して、教室が微妙な笑いで揺れた。俺は教科書の余白に意味もなく波線を書いて、ちょっとだけ横目で窓際を見る。彼女は真面目に本文を追っていて、指先が紙の端に触れていた。白い。季節のせいだけじゃない冷たさが見える。俺は衝動的に消しゴムを落とした。転がった先は――彼女の机の脚に当たって、止まる。おい、狙ったみたいになってる。俺は椅子を引いて拾いに行き、息を止めて手を伸ばした。彼女の視線がゆっくりと下りてきて、目が合う。心臓が「どく」と音を立てたのがわかる。

「あ、ごめん。消しゴム、落として」

 彼女は小さく首を横に振って、ほんの少しだけ笑った。言葉はない。なのに、妙に通じた気がした。俺は「ありがとう」とか「すみません」とか、どっちの台詞を言うべきか迷って、どっちも言えずに席へ戻る。ダサい。けど、たぶん俺はずっとこうだ。

 放課後。靴箱の前で、甚太が肩で大きく笑った。

「消しゴム作戦、成功したか?」

「作戦、だったわけじゃない」

「結果的に成功か失敗かで言うと?」

「言葉が出なかったから、失敗……なのか?」

「そうね。百点満点で十五点」

「辛口審査員、現る」

「十五点の理由は“目が合ってから固まる時間が長い”。あと、“戻るときに足もつれそうだった”」

「見てたのか」

「見てた。というか、クラス半分くらい見てた」

 ぐうの音も出ない。いや、出すまい。今日の俺は反省と改善の塊だ。

 その帰り道、空はうっすらと曇っていた。海から上がる風が濡れていて、制服の裾をひやりと撫でる。校門の向こう、歩道に白い傘がひとつ咲く。彼女は傘を差す姿すら絵になる。歩幅が一定で、足首の角度が綺麗で、前を見ている。俺は一歩、二歩、足を止めて、それから歩き出した。追いかける理由はない。けど、目で追ってしまう。視界の端に白い円が小さくなって、角を曲がって消えた。

 翌日も、その次の日も、似たような風景の中で小さな違いが混ざった。例えば、彼女が図書室で借りた本は海洋生物図鑑と古い詩集で、たぶん二冊同時に読むタイプ。例えば、体育の見学のとき、ベンチに座っているのに足首だけは軽く動いていて、リズムを刻む癖がある。例えば、保健室の前で先生と話していたとき、先生の顔より窓の外を見ていた。気づいてしまう自分が厄介だ。気づけば気づくほど、距離が縮まった気になって、でも実際の距離は相変わらず遠い。

 そんなふうに一週間が過ぎて、土曜の短縮授業。三限で終わる。解放感が教室を軽くして、男子はボールを持ち出しそうな勢いだ。そこで俺は決めた。波を読むんじゃない、波に乗るんだ。行くぞ俺。行ける、行けるはず。

 鐘が鳴って、ざわ、と音が広がる。彼女の机の周りは――いつもほど混んでいない。三人、四人、五人。少ない。いける。俺は椅子を引いて、深呼吸して、立ち上がる。足は真っ直ぐ。途中で蓮花が視界の端で親指を立てた。甚太はニヤニヤしている。余計な情報を遮断。ターゲットロックオン。あと三歩。二歩。――

「椿さーん、これさ、部活見学の……」

 先に声がかかった。陸上部の女子だ。彼女は丁寧に受け取って、柔らかく笑って、短い会話を交わす。俺は足を半歩止めて、笑顔が終わるのを待つ。陸上部女子が去る。よし、今だ。

「椿さ――」

 同時に、前から三年の男子が来た。テニス部のエース、三木谷先輩。うん、知ってる。背が高い。声がいい。笑顔の角度が既に完成されている。「このあと時間ある?」みたいな、慣れた調子。彼女はそれにどう答えたんだっけ。俺は聞き取れないまま、喉の奥に引っかかった自分の「椿さん」を飲み込んだ。先輩の笑い声の波が、俺のつま先に当たって砕ける。潮目が変わった。今日は引く。俺は踵を返して、自分の席へ戻った。

 席に戻る途中、窓の外がきらっと光った。雲間から陽が差して、遠くの海が一瞬だけ眩しく反射する。俺はその光に救われるふりをして、深呼吸。大丈夫。焦るな。焦ったやつから海に落ちる。俺は――俺は、逃げない。

 昼前、短縮授業は終わる。教室に残る者、部活へ向かう者、駅へダッシュする者、分かれる動線の真ん中で、蓮花が俺の肩を軽く叩いた。

「今日は撤退。正しい判断だね」

「……見てたのか」

「見てたよ。エース先輩の壁高いね〜」

「まあな」

「でも、波は毎日違う。明日はもっといい波が来る。サーファー甚太が保証するぜ」

「お前、サーフィンできないだろ」

「海を愛する心はある」

「海じゃなくて、鉄の背中を押しなさいよ」

 笑い合う。笑い合うけど、胸の奥の渇きは消えない。たぶん俺はもう、あの笑顔に水をもらうことを知ってしまったんだ。喉が渇くたび、思い出す。教壇の前で一礼した横顔、窓辺で水を飲む仕草、消しゴムを拾ったときに一瞬だけ合った眼差し。全部が、俺のなかの記録媒体に高解像度で刻まれていく。忘れようとしても、たぶん無理だ。

 帰り支度をしながら、ふと思う。彼女の周りにはいつも誰かがいるのに、ふとした瞬間だけ、輪の中心から半歩外側に立っていることがある。笑顔の奥に、耳鳴りみたいな静けさが見えるときがある。誰も気づかないほど短い瞬間。……俺は、たまたま見た。たまたま、拾った。たまたま、目が合った。たまたま、心臓が跳ねた。たまたま、でも、もう偶然では片づけられないくらい、心がそっち側に傾いている。

 次は、言おう。ちゃんと。真正面から。波がどうだとか、門が多いとか、そういう言い訳は置いておいて、俺の口で俺の声で、普通に。「よかったら、一緒に行かない?」って。それだけでいい。たぶん、最初の一言が一番難しい。だけど、言えさえすれば、あとは歩幅を合わせて歩くだけだ。

 窓の外では、風が校舎の角を回って、桜の残り花弁をさらっていく。きれいだ。風はいつでも、誰かの背中を押している。なら、今日くらいは――俺の背中も、押してくれ。そう心の中で頼んで、俺は鞄を肩にかけた。明日は、今日より少しだけうまくやれる気がする。いや、やる。やってみせる。俺は階段を降り、昇降口へ向かった。扉の向こう、潮の匂いがふっと鼻をくすぐる。海が近い。満ち引きの音が、どこかで反芻されている。

 教室に戻れば、また人の波。廊下に出れば、また風の波。浜辺に立てば、月の波。どれも俺を運ぶためにあるみたいに、今日だけは思えた。明日、俺はあの白い波の向こうへ、もう一歩。たった一歩でいい。踏み出す。

「あ、でも、この前三年の三木谷先輩があの子に告白したって聞いたよ」

「なに!? あの、たらしの三木谷がか?」

 たらしの三木谷――この学院じゃほとんど固有名詞だ。三年、テニス部のエース。長身、整った顔立ち、さわやかスマイル完備。校内放送のゲストに呼ばれればリスナー数が跳ね上がり、学園祭では模擬店の売上まで上げてしまうらしい。ファンクラブがあるとかないとか、いや、ある。昼休みの渡り廊下で列を作らせたら、そのまま購買の行列と合流できそうだという冗談まであるくらいだ。おまけに、人たらし。誰にでも肩の力が抜けた声で話しかけ、距離の詰め方がプロ。なるほど、敵に回したくないタイプ。いや、今は完全に敵だ。

「ああ、俺もその話聞いたぜ。街でデートしてるところを見たって奴もいたな」

「な・ん・だ・と!? 甚太、俺はイケメンが憎いぜ」

「ああ、俺もだ」

 二人で同時に机に突っ伏して嘆いてみせる。とはいえ、甚太、お前は普通にモテる。高身長、整った顔、サッカー部のエースストライカー。女子の歓声がゴールネットよりよく揺れる。ファンクラブの噂もある。なのに一緒に嘆いてくれるあたり、幼馴染補正って偉大だ。

 俺はというと――たぶん、きっと、モテるはず。どこかの教室の片隅で、ひっそりとファンクラブ第一期生が水面下で活動している可能性だって、ある。うん、ある。人は希望で生きる生き物だ。

「はいはい、アンタたちには美少女・蓮花ちゃんがいるんだから、いいじゃない」

「おーそうだった。俺たちには『自称』美少女のれんかちゃんがいるのだった!」

「確かに『自称』美少女の蓮花ちゃん、ありがたや~」

「ハッ倒すよ!」

 いつものコントで、教室の片隅に笑いが生まれる。こういうバカ話を遠慮なくできる女子は、蓮花だけだ。肩までの髪を後ろでひとつに結んだポニーテールは、今日も快晴。動くたびに弾み、本人の気っ風の良さをそのまま線にしたみたいに軽い。表情もよく動くし、ちょっと怒っても、すぐ笑う。クラスの空気を明るく保つ、たぶん誰よりも難しい役を、彼女はいつの間にか引き受けている。好きか嫌いかで言えば、好きだ。友達として、すごく。

 だが今は、心の中心に別の月がある。黒髪の転校生、椿小夜。教壇で自己紹介したときの、あの一瞬の微笑。視線を受け止める角度が、完璧に計算されたみたいに美しいのに、どこか心細い影を帯びていた。あれが、頭から離れない。

 ……三木谷先輩が、告白?

 授業中なのに、脳内では警報が鳴りっぱなしだ。黒板の数式たちが渋滞し、記号のうち幾つかは嫉妬に見える。イコールの線が二本あるのも気に食わない。一本でいいだろ。いや、待て落ち着け俺。深呼吸。吸って、吐いて。先生に当てられたら一巻の終わりだぞ。

 放課後。ニュースの真偽を確かめるべく、俺たちはテニスコート脇のフェンスに張り付いていた。というか、俺が勝手に足を向けたら、二人もついてきてくれた。練習はちょうど終わり際。夕焼けを受けた白いユニフォームが風に揺れる。コートの中央で、三木谷先輩が後輩に声をかけている。軽く、優しく、そして中心的。反射的に、歯を食いしばってしまう。

「きゃー、三木谷さん、今日もキレてるー!」と観覧席の女子の声。うん、キレてる。フォームも、笑顔も、空気の取り方も。だが俺はテニスラケットではなく、言葉とタイミングで戦うタイプだ。負ける気はしない。負けてるけど、負ける気はしない。

 彼女の姿は――いない。そりゃそうだ、わざわざ部活終わりのコートまで見に来ない。そう思いかけたとき、フェンスの外、校庭と通学路の境目あたりに白い影が見えた。小夜だ。夕暮れの光に浮かんだ横顔は、静かに整っていて、やっぱりどこか遠い。三木谷先輩がふとこちらを向いた。彼女もこちらを見た――のかどうか、距離があってよくわからない。わからないけれど、俺の心臓だけははっきりわかった。跳ねた。二段ジャンプした。フェンスを飛び越えそうになって、蓮花に袖を掴まれて現実に戻る。

「鉄。落ち着きなさいよ」

「落ち着いてる」

「顔が落ち着いてない」

 ふと見ると、甚太が視線を斜めに流して、軽く息を吐いた。気遣いだ。幼馴染というやつは、どうして心の鼓動にまでチャンネルを合わせるのが上手いんだろう。

「帰ろうぜ。今日ここにいても、確かめられることは多くない」

 そうだな、と俺も頷く。あの距離からは何も見えない。何も言えない。俺にできるのは、近づくことだけだ。

 帰り道、商店街のアーケードを三人で歩く。たこ焼きの匂い、焼き鳥の煙、夕飯の買い物袋を腕に提げた人々のざわめき。町は暮れていくのに、どこか温度が増していく感じがする。俺の胸の内側も、似たような温度になっていた。

「イケメンが憎い」とか言いながら、本気で憎いわけじゃない。本当に憎いのは、自分の鈍さだ。波を読む、なんて言っている間に波は岸に砕ける。声をかけようとするたび、足が止まる。三木谷先輩の距離の詰め方に嫉妬しているのは、つまり俺がまだスタートラインに立っていないからだ。立て。今すぐ。明日にでも――いや、次の休み時間にでも。

「はい、肉まん」

 急に蓮花が俺の手に温かいものを掴ませた。商店街の角の中華屋台、いつの間にか買っていたらしい。甚太にはピザまんが渡る。

「お前、いつの間に」

「今。鉄が難しい顔してたから。糖と油でどうにかしなさい」

「科学的アプローチだな」

「そうよ。女子の直感は往々にして科学的なのよ」

 肉まんの湯気が顔に当たる。うまい。舌に乗せると、脳みその端っこで鳴っていたサイレンの音量が少し下がった。歩きながら食べるなんて、ちょっとした反則感がある。けど、こういう反則は、いい。

「なあ蓮花」

「なあに?」

「もし……“そう”だったら、俺、どうすればいいんだろうな」

 言葉を濁してしまう。彼女はすぐにわかって、わからないふりをしてくれる。

「“そう”が何か具体的に言えない時点で、今はまだ考えない方がいいと思うけど」

「身も蓋もない」

「でも、分岐はだいたい近づいたあとに出てくる。遠くから地図見て悩むより、交差点に立ってから迷ったほうが、たいてい正解に近いよ」

 交差点。なるほど。蓮花の言葉はいつも、冗談と実用のちょうど真ん中あたりに落ちてくる。助かる。こういう時、俺は何度も彼女に救われている。気づかないふりをしてきたけど、実は気づいている。

「ありがとう」

「どういたしまして。――ほら、落ち着いた顔になってきた。肉まんの勝利ね」

「科学すげえ」

 笑い合って、商店街を抜ける。海からの風がまた少し冷たくなって、アーケードの外では夕暮れの色が青に傾き始めていた。街灯がひとつ、またひとつ灯り、遠くで踏切のベルが鳴る。

 家に着いてからも、俺は机に向かって参考書を開き、まったく目に入らない文字列を眺めながら、明日の台詞を考えた。最初の一言。それだけに全エネルギーを割く。

 ――「椿さん、次の移動、よかったら一緒に行かない?」

 普通だ。普通すぎる。でも、普通が一番難しい。飾りをつければ逃げ道ができる。逃げたくない。逃げない。そう決めて、鉛筆を置く。窓の外、雲が流れて、わずかに月が顔を出した。満月じゃない。けれど、海に映る月はいつだって形を変えている。掬えそうで、掬えない。だからこそ、近づきたくなる。

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プロローグ ゾンビが、いる。この東京に。
ゾンビが、いる。 この東京に。もしかしたら、ドアのすぐ先に。 いるかもしれない。その現実に、玄関のドアノブに伸ばした自分の手が震えていた。 ガシッと後ろから肩を掴まれる。 ビクッと身体が飛び上がる。振り返れば美咲が励ますように頷いてきた。表情は落ち着いているのに、呼吸だけは浅く速い。梅雨の外気とリビングの冷気が混ざり空気はひんやり淀んでいる。 玄関前。こげ茶のドア。銀色のドアノブが玄関灯を反射して、鈍く光っていた。ほんの6時間前まで何気なく歩いていたドアの《外》が、今やいつ死んでもおかしくない地獄になっていた。行きたくない。胸がギュッと軋んだ。 「……怖いな……」「そうね……でも、行きましょう」 食料も水も僅かしかないのだ。 行くしかない。 「はぁ……はぁ……」 額から垂れる汗は緊張のせいじゃなく、夏なのに冬物コートを着ているせいだ。 冷たいドアノブに指を掛け、祈るように目を閉じた。 ──もしも、だ。もしも・・・・・・ゾンビに出会ったなら グッ、とドアノブを強く握り締め、背後で息を殺している美咲を思う。 ──美咲を守る。この《命》に代えてでも ゆっくり目を開き、言葉にはしなかった《覚悟》を込めて、美咲に告げた。 「……開けるぞ」 *※ドアを開く6時間前。【6月20日(金曜日)19:47】 ──ブルブル 寝落ちしたまま握り締めたスマホが震えて、俺は目を覚ました。 ──メッセージ1件。 19時47分。美咲:今からアンタんち行くから! 寝ぼけながら「了解」と返し、そのあまりに一方的なメッセージに苦笑する。アプリを落としたスマホの待ち受けには、スーツ姿で腕を組む彼女の写真。アイツと付き合い始めたころに「写真ないか?」と言ったら、秒で送ってきた奴だ。後輩の彩葉に撮らせたらしい。ノリノリでポーズを決める二人の光景が目に浮かぶ。 「さてと……最低限片付けるか」 呟きつつ、ギシッと鳴る安物のシングルベッドから腰を上げた。今日は金曜日。週末だからと油断して、スーツを脱ぎ、そのままベッドで寝ていたようだ。床には散らばったジャケットとズボン。机の上には置きっぱなしのコンビニ弁当の空き容器とビールの空き缶。男の一人暮らしなんてこんなもんだろう?八畳一間のワンルーム。服をク
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第1節 俺はゾンビが存在する世界でドアノブに手をかけた。
「パソコン、貸しなさい!」 そう言って、美咲はクローゼットからジャージとTシャツを引っ張り出し、ノートPCを立ち上げる。 「アンタはスマホ。関連情報を洗って。真偽と実態を」 命令口調。けれど、それでこそ美咲だ。さっ、と検索窓に指を走らせる。 まずはSNSだ。映像の断片が次々と流れてくる。渋谷の路地。誰かが悲鳴をあげ、群衆が散る。複数のアングルで同じ場面が映っている。立っている男の腹部から、ヒモのようなものが垂れ下がっていた。 ・・・内臓?いや、ベルトにしては太いし、血に濡れている。 警察が駆けつけ、取り押さえられている写真もあった。 返信欄を追う。 「薬物中毒らしい」「精神病だって」「内臓はコスプレ小道具だろ」 ・・・真偽不明のコメントが洪水のように流れてくる。 いくつか動画を確認し、どうやら本物っぽいと判断するが、何なのかが分からない。 世の中には、意味不明な暴れ方をする奴なんて沢山いる。駅前で怒鳴り散らす酔っ払いも、電車で急にキレる男も見てきた。 日本は広い。変な奴はいる。 でも・・・あの内臓みたいなものは、なんだ?結論の出ぬまま、美咲に話しかける。 「動画は本物っぽいぞ。複数の角度で撮られてて整合性もあるし、犯人は捕まっている。ニュースもあった。《錯乱の可能性》だって。……あれは、ベルトでも垂れてたのかなぁ?内臓は無理だろ」「動画を拡大してみたけど、あれは大腸ね。腹腔が裂けている。痛みで呻くことしかできない重症のはず。走るなんて絶対無理。それに、あの出血量は致命傷レベル」「でも、走ってたぞ」「だから異常なの」 美咲の声が部屋に冷たく響いた。 「あり得ないことが起きている」「つまり──死にかけでも動ける人間がいる。もしくは、死んでも動く人間がいる」 ──死んでも動く人間 俺はそれを知っている。ほら、何度も人類を滅ぼしてきた、《アイツら》だ。 「それって……ゾンビじゃん」 真顔で頷く美咲。ためらいもなく、論理の延長として。 ゾンビ?あのゾンビだって。あり得ないだろ。物理的にも、生物学的にも考えられない。 仮にゾンビがいると認めたとしよう。流石に人類は滅ばないよな? ──本能のままに動くだけの素手相手だぞ?と頭の中でゾンビの愚かさについて検討していると、美咲がPC画面をこちらに向けてきた。
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第2節 あの男はゾンビか人間かそれが分からないのが大問題。
ドアノブを握る手が汗で滑る。静かに回し、少しだけ押す。隙間から覗いたマンションの廊下。毎朝見慣れた、白い廊下。だが、何かが違った。音がない。人の気配もない。匂いもない。──真空のような静寂心臓の音だけがやけに煩く響く。ドアを押し広げて、死角を確認する。非常口の赤いランプ。廊下には誰もいない。背中にひやりとした感覚が走る。夜の廊下って、こんなに静かだったか。この違和感が、深夜午前2時にいつもは外に出ないからだとしても、今は、否定せずに受け止めた方がいい。そんな気がした。その瞬間、美咲が俺の横をすり抜ける。下は黒いジャージ。上は真夏にはあり得ない冬物コート。見えないが、その袖の下、左腕にはタオルとガムテープが巻かれ、即席の護りになっている。セミロングの髪は緩やかに巻かれ、廊下の光を拾って柔らかく波打った。少し身をかがめ、足音を抑えて歩く姿は、戦場の兵士のよう。美咲は音を立てず、階段に向かう。俺はその背中を目で追い、自然と深く息を吸い込んだ。──これが、俺たちの《フォーメーション》だ鍵は開けたままにする。追われたとき、鍵を開けている間に死にたくはない。美咲と俺は、誰にも出会わず、マンションのエントランスまで降りた。「ここで待ってて」囁いた美咲が大通りに面した出入り口から外を覗き、手招く。後ろや死角を覗き込みながら追いかける。深夜2時。終電も終わった《護国寺駅》前。閑散としているどころか、人が一人もいない。「この時間に外出できたのは幸運だったわね!」美咲が囁きながら喜ぶという芸をしていた。「よし、緑と赤どっちに行く?」「大通りを渡りたくない。緑に行きましょ」チキンが美味しいコンビニはエントランスを出て、右手に80メートルくらいだ「ついてきて」最後に全周を見渡した美咲が壁沿いを歩き始める。俺も後を追う。彼女は前方に集中している。その分、俺は、脇道の奥、マンションの入り口を覗き、ときおり、背後を振り返る。街路樹の影、美咲がぴたりと止まった。振り返りざまに、指先で「動くな」と合図を寄越す。ピタッと立ち止まり、ゆっくり周囲を見渡した。・・・誰もいない。夜の護国寺は不自然なほど静まり返っている。風もなく、街灯だけが淡く道を照らしていた。「……あっ」美咲の視線の先に人影を見る。大通りの向こう側。
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第3節 可愛い彼女に、優しい世界を。
カーテンの隙間から差し込む朝の光に目が覚めた。隣では、美咲が静かに寝息を立てている。こちらを向き、毛布が規則正しく動いている。眉は凛としていて、まつ毛は長い。普段は勝ち気に光る瞳は閉じられ、今だけは可愛らしさが見て取れる。張りのある唇は柔らかく結ばれ、まるで守られるべき少女のようだ。これは、目が覚めればすぐに消えてしまう《幻》。その安らかな寝顔を、今は、壊したくなかった。 窓の外からは小鳥の鳴く声、信号待ちの車のエンジン音が聞こえてくる。まるで深夜の買い出しが悪夢だったみたいだ。暑苦しい《ツーマンセル》。あれが一夜の笑い話になればいい。いや、そうあってほしい。 祈るようにゆっくりスマホを手を伸ばす。待ち受けには午前9時08分の文字。6時間弱寝たことになる。SNSで情報収集を始めた。 ──なん、だよ、これ 加速度的に状況は悪化していた。SNSのトレンドは昨夜の事件のニュース、暴力事件も入っている。それは野球やテレビ番組の中に異物のように紛れ込んでいた。渋滞、運休の文字も踊っている。 都心ヤバすぎのSNS投稿。首都高で複数箇所の玉突き事故。通行止め。都内の路線は始発こそ動いていたが、複数の列車で車内トラブルのため、一時停止。今はまだ動いているが、断続的に列車が止まっている。 『山手線が動いては止まるを繰り返していてウケるwww』 列車が止まる。犯人は暴れて、ケガ人が感染するならその人たちはどこに行く? 警察署と病院だ。ケガ人と暴徒の対応で電車が止まる。1箇所じゃない。ポツポツそういう人がいるだけで、列車のダイヤは崩壊した。脆すぎる・・・。 『梅雨なのに東京は大雪状態w』 幹線道路の渋滞情報を見る。川越街道、不忍通り、明治通り・・・都心の太い道路が黄色、オレンジでベタ塗になっている。赤ではないから、詰まってはいない。でも、渋滞だ。複数の玉突き事故と放置車両? 放置車両ってなんだ。道路上に車だけが置いてあるってことか。 何故? 事故処理車も渋滞に巻き込まれてスタックしている報告がSNSのドライバー経由で上がっている。 『事故した人たちが乱闘中』 もう、動画を開く気にはならない。見なくても分かる。《暴徒》と一般人だろう。 いつの間にかスクロールする指が止まっていた。握ったスマホの裏側がじんわり暖かい。画面を見ているようで俺
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第4節 絶望という感覚を、生まれて初めて俺は知った。
「おはよう、悟司」 ぼんやりと微笑んだ美咲。だが、その可憐さは、一瞬で消え去った。 「今何時!」 叫びながら飛び起きると、カーテンを開け放ち、外を確認する。差し込む朝の光。遠くで小鳥の声、信号待ちの車、子どもの笑い声。 「10時。外は平和だよ。見える範囲では」 俺の返事に、美咲がこちらを振り向いた。その目は問う──「見える範囲では?」と。 息が詰まる。胸が痛い。それでも首を横に振り、言葉を絞り出した。 「状況は最悪だ。調べた限り、明確に悪化している。俺にはこれからどうなるか、もう分からない」 俺の話を聞きながら、美咲は立ち上がり、冷蔵庫から昨夜の弁当を取り出した。電子レンジにかけながら、ぼそりと呟いた。 「しっかり食べて、生活を崩さない。サバイバルの基本……って聞いたことがある。守りましょう」 ご飯を口に運び、着ていたパジャマを脱ぎ捨て、黒いジャージに着替える。それだけで美咲はもう戦場モードに切り替わっている。 「さて・・・」 テーブルに腰を下ろすと、開口一番。 「これは現実かどうか。その判断は終わり。これは現実よ!」 その言葉に頷く。 「手当たり次第に調査するのは時間の無駄。最優先は安全な生存手段の確定!まずは政府対応と公式発表を探すわ。生き延びるための避難指示や対処指針を拾いましょう」 その方針に沿って、俺は、美咲と手分けして政府系のサイトから《生存のヒント》を探していく。厚労省、内閣府、警察庁。 ・・・何もない。 あるのは、危機管理局が出した「自宅待機」の指示だけ。 「そっか。今日は土曜日。政府の対応力は下がっている……国会も、省庁も休み」 画面をスクロールする手が止まる。 「あ、運休。そもそも役人の人たち、省庁に出勤できないんじゃないか?」 ──政府の機能不全 「物理的に会議を開けない。決められない?そういうのはリモートで……手軽にできるのかしら」 美咲の呟きは、虚空に溶けた。 「避難所開設の公式発表はないな。護国寺の近くに学校ってあったか?体育館だろ?」「災害時はね。でも、これは違う」 美咲が珍しく迷っている。 「悟司、どうしたらいいと思う?」 頼られると頑張りたいが、俺の凡人発想力じゃあなぁ。 「……幸い、先行事例は多い。大抵の場合、避難所、ショッピングセンター、自宅籠城、自警団の結成で
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第5節 ゾンビとの初遭遇で、俺たちは徹底的に破壊された。
「ぶっ殺すぞ、このクソババァ!!」破裂するような怒声が窓ガラスを震わせた。真剣に暴徒の動画分析をしていた俺は、その場でビクリと跳ねた。見れば、美咲すら肩を強張らせている。さっきまで子どもの笑い声が響いていたはずの昼下がり。今はただ、威嚇する獣の咆哮だけが響いていた。美咲がしなやかな猫のように機敏に席を立ち、窓際へ駆け寄る。「下かも。見えるかな」隣に立った俺に美咲が囁く。彼女は真剣な表情でカーテンを指先でかき分け、音を立てぬように窓を開ける。2Fのベランダに身を伏せ、目だけを外に出して覗き込んだ。俺も習う。視線の先。片側2車線の大通りの向こう側。正面だ。歩道に地味な服装の小柄な女性が倒れていた。一つ結びの白髪交じりからして中年だろうか。その女性に怒鳴りつけているのは身長180センチはある大男だった。分厚い肩と太い腕。汗に濡れた顔を歪め、怒声を繰り返している。──どう見てもカタギじゃない。どういう状況だ?混乱するが目が離せない。状況が動く。四つん這いになった小柄な中年女性が起き上がり、大男に向けて全力疾走する。女の体当たりを肩で弾き飛ばす大男。後ろに吹き飛ぶ女。だが、激突の勢いに男も体勢を崩す。飛び跳ねるように起き上がった女が男に迫る。ファイティングポーズを取った男の拳が閃いた。顎先、鼻梁、こめかみ──人間なら即座に沈む急所を容赦なく狙い撃つ。女の鼻から血が噴き出し、首がねじ切れそうに顔が揺れる。鈍く重い音が続けざまに響いた。「上手いわね」横で美咲が低く
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第6節 絶望の中でも選べる選択肢。
美咲の血の気の失せた白磁のような頬を涙が伝う。無表情の中、目だけが僅かに揺れていた。 彼女は考えて、《死》という結論を得た。今、感情が追いついてきたんだろう。 俺は警官のいない交番を見て、ゾンビが増えることを考えて、頭で《死》を理解した。でも、まだ、感情が追いついていない。 「何とかなるさ」というカラ元気も、「きっと政府が何とかしてくれる」という希望的観測も、今は何の役にも立たない。そんな小手先の言葉では、美咲の明晰な理性の前で、慰めにすらならない。 ──あまりにも無慈悲だ 美咲が見せる絶望の涙。拭くことも、顔を覆うこともなく。俺を見ているようで、何も見ていない。・・・美咲のこんな表情、見たくはなかったなぁ。慰めたい。でも、言葉なんて思いつかない。 だから、そっと美咲を抱き寄せる。 「……助からない」 力なく引かれるままもたれ掛かる美咲を、ギュッと強く抱きしめる。 「どこにも可能性がない」こんなに熱くて柔らかい美咲の身体が、冷えて硬くなるなんて、俺には信じられなかった。でも、頭では理解している。どう動いても、死ぬ以外の選択肢が見つからない。 ゾンビに齧られて、激痛の中、息絶えるのか。停電になって冷房が無くなった部屋で渇き死にするのか。 選べるのは死に方だけだ。 ──美咲だけでも助けたい だが、状況は俺の命を使ってどうこうできる領域には、ない。 どうせ死ぬなら・・・ 「一緒に死ぬか……」覚悟もなく、考えもせず、ただ、想いが口から漏れる。俺の腕の中で、美咲がビクリと震えて止まる。言っていてなんだが、悪くない選択肢に思えてくる。昨日まで自殺願望などなかったんだがな。ゾンビにならず、あまり苦しまずに、一緒に逝けるなら。飛び降りで即死するには何階以上に登ればいいんだろう・・・? 俺の頭が死に逃げ始めたとき、美咲の声が引き留めた。 「死にたく、ない。アンタに死んでほしくない。アタシも、まだ生きていたい」 絶望の中で美咲が呟く「生きたい」。その言葉が、どうしようもなく胸を揺らす。思わず、歯を食いしばった。視界が滲んでくる。死のうかと言ったときには出なかった《涙》が今更に込み上げる。 俺だって生きたい。まだプロポーズすら・・・できていないのだ。生きたいと言い、強く俺にしがみ付く美咲の肩に顔を埋めた。涙が零れていくが
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第7節 俺の質問、美咲の発想が、生存の可能性を繋ぐ。
美咲を追って、クーラーの効いた室内に戻る。重く閉じられたカーテンの隙間からは、さっきまでの修羅場の音も届かない。快適ないつもの日常だ。ローテーブルを挟んで、美咲と向かい合った。彼女は姿勢を正し、冷たい声で切り出す。「現時点で、アタシたちに生き残る可能性はない」俺は唇を噛み、頷いた。美咲は表情を変えず、言葉を積み重ねていった。「最善の選択は籠城。でも、さっきの女性を見たわね?顎を殴られても鼻を潰されても、止まらなかった。小柄な女ですら致命的脅威よ。もし大柄な男だったら? 勝てるわけがない」事実の羅列。希望の余地は削られていく。「つまり、最善手を打ち続けてもアタシたちは死ぬ。もって……1週間ってところね」淡々としたその言葉は、絶望を告げているのではない。ただの事実確認だ。何故だろう、彼女の顔は、唇を固く結び、《重苦しい覚悟》に染まっていた。美咲は何を思いついたんだ?身じろぎすらせず、彼女に言葉を待った。美咲は俺を真っ直ぐに見つめ、言う。「そして、アンタの問い。答えは一つ」「この状況で生き延びる人間は、既に生き延びる準備をしてきた人間だけよ」「アタシたちが生き延びる方法は、生き延びる準備をしてきた人の保護を受ける、寄生する、または、乗っ取る……。それしかない。他人が作った生存の可能性に相乗りするわよ」──生き残る準備をしてきた人間あぁ、なるほど、確かに。可能性の細い道。暗闇の中、さっきまでは無かった未来に続く一本のラインが見えた。生き残る用意をしている人間は、助かりうる。その人間に助けを求める。だが、美咲は言葉を繋いだ。──乗っ取る。寄生する。助けてくれと言って助けてくれるわけがない。
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第1章 最終節 さらば愛しき法と秩序の日々。
パソコンを閉じ、美咲もローテーブルに座る。「駐屯地に受け入れてもらえるか……これは賭けね。フェンスを乗り越えて入る。保護されている内に役割を見つけて軍内で価値ある人材になる」「今の時点で、自衛隊がアタシたちに危害を加えるとは思えない。保護される可能性は十分にある。入れてもらえないかもしれないけど……そのときはそのときね。諦めず侵入する手を探しましょう」──もし断られたら?そのリスクを指摘しようとして、だからなんだと言う答えを自分で得る。ここに残っても、受け入れられなくても、死ぬだけだ。動いて、受け入れてもらえるなら生きる可能性が繋がる。もはや、0ではないという可能性に縋るしかない。「問題はどう行くかだな」練馬駐屯地の最寄り駅『平和台』まで電車で15分。一瞬で行ける。・・・動いていればな。最新の情報で運休が確定した。ダイヤ調整は諦めたらしい。「……徒歩で行く」「護国寺から練馬までか?」頷く美咲。「それしかないわよ」──ゾンビがいる中、歩きで延々と?正直怖い。危険すぎる。心はそう言っている。「幹線道路は渋滞。車は無理。音が出るバイクもダメ。自転車はいいけど、警戒が疎かになる。タックルされたら転倒して死ぬ」「だから、静かに偵察しつつ移動できる徒歩移動しかない」しかし、美咲の言葉を頭で《理解》してしまう。それしかない。ならば、問題はいつ動くか?そして、どうゾンビと戦うか?スマホを傾ける。勝ち気な美咲の待ち受け画像に時刻が出る。──14時38分まだ明るいが、もうす
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第2章 プロローグ 甘い匂いと柔らかな熱と俺の死。
【第2章 犯罪者の成れ果て、或いは、異様な戦士】──首筋を噛まれた。 皮膚に食い込む鋭く硬い歯の感触がやけに生々しい。 背中と胴体に回った腕が俺の身体を拘束する。肩口に絡みつく細い指。必死にしがみ付いて離れない。爪が布越しに食い込み、痛みを訴えている。 胸に押し当てられる身体は熱い。柔らかさと汗ばみが混ざった温度。だが、胴体に回された腕は固く、逃げ場を与えない。 目だけ動かして美咲を見る。髪が頬を掠めた。 セミロングの髪──光を受けて黒に近い茶色。 汗とシャンプーの匂いが混じった甘さが、呼吸のたびに肺に侵入してくる。艶めく毛先が唇に触れ、ざらつく。 肩から首筋を圧迫する重さ。歯の硬さと、熱い液体が皮膚に広がっていく感覚。圧迫感は痛みよりも、なぜか安堵に似ていた。 ──これで死ぬ 目の前にいるのは、美咲。その甘い匂いと、柔らかな抱擁に包まれながら。 美咲に噛まれ、抱かれ、死んでいくのだと理解した。*美咲に甘噛みされることしばし。触れる吐息は温かいのに、噛まれるたびに皮膚がひりつき、心臓が跳ねる。 彼女の顔には、冗談も色香も一切なかった。 研究者のような冷静さで、俺の身体に食らいつき、部位ごとに判定していく。 首筋。肩口。肩から手先。そのたびに「ここは噛みやすい」「ここも危険」と低く結論を落とす。 「ベッドに横になりなさい」 との美咲の声。 次に膝下に体重をかけ、噛みつこうとする美咲が「ゆっくり蹴って」と注文を付ける。 太ももに近いと膝で押しのけられる。足先や脛を噛む動きは丁度蹴りやすい。 下肢は守りやすいと彼女は頷いた。 キスから始まり、次々噛みつかれる感覚に耐えながら、俺は身を固くする。 「アンタを襲ってみたけど……顔面、首筋、肩口、肩から手先。ここは危険すぎる。他は噛みつきにくい。守れる。胴体と脚は難しいわね。転倒しているならもう死んだも同然だから守りは後回しでもいいか」 そこに感情はない。ただ生存のための分析。 ──しっかり検証するわよ ホントに噛むの!?と驚く俺に美咲は断言した。やれる準備はすべてやると。 それが逆に俺の胸を締め付ける。そこまでしても、生き残れるか分からないのだから。 こうやって、守るべき箇所を選んでいるのは理
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