Mag-log in「っ……!」
肺に空気を吸い込んだ瞬間、眩しい白光と消毒液の匂いが押し寄せてくる。
ここは……病院? 真っ白な天井。 心電図モニターの電子音が、やけに大きく響いてる。 私、あの時…… パトカーの中で、衝撃に飲み込まれて―― 私は死んだはずじゃなかったの? 「……嘘。」思わず上体を起こすと、視界がぐらりと揺れた。
額を押さえつつ、震える手を見る。 その瞬間――呼吸が止まった。 この手……私のじゃない。 細くて白くて、手の形まで違う。 「な、に……これ……?」声まで軽い。
聞き慣れない、他人の声。 胸の奥がざわつき、私はベッドから飛び降りた。 裸足のまま洗面所へ駆け込み、鏡の前に立つ。 ……そこに映っていたのは“私”ではなかった。 影のように黒い髪が肩にかかり、ところどころ赤いハイライトが入っている。 目の色も違う。 輪郭も表情も、すべてが別人。 「嘘……でしょ……?ありえない……!」震える指で頬に触れる。
鏡の中の“彼女”も同じ動きを返す。 そのとき――「ようやく気づいたみたいね。」
背後から声がした。 「っ!」 振り向くと、洗面所の扉が静かに開いていて、 見たこともない初老の女性が立っていた。 白い髪は雪のように滑らかで、瞳は不自然なほど深い緑色《エメラルドグリーン》をしていた。 古い時代の香りをまとったような、異質な存在感。 病院という現代的な空間と噛み合わず、彼女の周囲だけ空気が歪んで見えた。 「……あなた、誰?」思わず一歩後ずさる。
その女性はゆっくりと会釈した。 「私は時雨《しぐれ》。霊感を生業とする占い師よ。 けれど今のあなたには……“知らせを届ける者”とでも名乗るべきかしら。」「知らせ……?」
「そう。
あなたは――二度目の人生を与えられたの。」心臓が止まりそうになる。
「パトカーの中で、あなたは祈ったでしょう。 “もう一度やり直したい”と。」女性の声は穏やかだが、拒むことを許さないといった不思議な威圧感があった。
「その願い、確かに届いたわ。」
「なんで……私なんですか。私は……ただ、全部奪われて……」
喉が詰まった。
時雨と名乗った女性は、悲しげに目を細める。「あなたの死は、あまりにも理不尽だった。
だから終わらせてはいけなかったの。」そして、懐から革製の封筒を取り出し、洗面台に置いた。
「ここに、必要なお金、そして――あなたの“新しい身分”が入っている。」「新しい……身分?」
「そう。今日からあなたは、月島光咲《つきしまみさき》という、新しい人物になった。
ただし、一つだけ破ってはいけないルールがある。」女性の声が鋭くなった。
「もし、あなたが前世のあなたを知る人に“正体”を明かせば―― あなたは再び死ぬ。
そして、もう戻ることもない。」 背筋に冷たいものが走る。 「でも、それじゃ……どうやって自分の無実を証明すれば……?」「証明したいのなら、証拠も仲間も、あなた自身で探すしかないわ。」
女性は踵を返す。もう用は済んだとばかりに。
しかし、私は慌ててその袖をつかんだ。「待って!私は……復讐するために生き返ったんですか?
それとも潔白を証明するため……?」 彼女は微笑を浮かべて振り返る。「それは、あなたが決めること。
正義のためか。 奪われた全てを取り戻すためか。 あるいは――本当の人生を歩むためか。」さらに彼女は驚くべきことを告げた。
「あなたがこの世に戻れたのは、誰かがあなたの死を望まなかったから。
そして、あなたを傷つけた者は――あなたのそばにいる。」「私を傷つけた人と……私の死を望まなかった人が、そばに……?」
ぎゅっと胸が締めつけられた。 「知りたい真実は、死よりも辛いかもしれない。 でも、すべてを取り戻したいなら―― あの男のそばに戻るしかない。」 言い終えると、彼女の輪郭が淡く揺らぎ、まるで風に溶けるように消えていった。 残されていたのは、鏡に映る“別人の私”。封筒に入ったカードと暗証番号、そして名前の書かれた身分証。
全身から一気に力が抜け、床に崩れ落ちる。
「一体、今のは何だったの?これは……夢?
……いいえ。夢だろうが、何だろうが構わない。 私は戻ってきた――。」どれだけ考えても、頭に浮かぶ答えはひとつだけだった。
私の新しい名前は――月島光咲。 そして、私のこれからの目的は――復讐なのだと。広い豪邸。噂では、時価百億とも言われているが、見るからにそれ以上に見える。ただ、蒼史の家族は見当たらず、普段は家政婦しか出入りしてないらしい。彼女はご馳走を用意するだけして、自分専用の離れに引っ込んでいった。広すぎるリビングの真ん中の棚上に、一色グループの創業一家が並んで映った写真がある。その横に、一色蒼史とその家族の写真も飾ってあった。「今現在、ここには俺しか住んでいない。」終始ご機嫌な蒼史と、ずっと緊張しっぱなしの私。一秒たりとも気が抜けない。油断なんて、できない。もし“凛音”のくせでも出ようものなら、即ゲームオーバー。とはいえ、この男が凛音に興味があったとは思えないけれど。警戒するに越したことはない。長いテーブルを挟み、私たちは共に食事をした。私は消化にいいメニューばかり。対する蒼史は、ステーキなどを上品に食べている。さすが、創業一家の孫。でもまさか毎晩ステーキとかじゃないわよね……「一……蒼史さんは、ご結婚はされてないんですね。」箸を動かしながら、私はなんとなく蒼史に尋ねた。彼の眉がぴくりと動く。「ああ、まあな。」「優秀な一色キャピタル・マネジメントのCEOで、一色グループ創業者の孫。おまけに優秀な経営手腕をお持ちだと聞きましたが。結婚の話は引く手数多でしょうに。失礼ですが、なぜ結婚されないのですか?」確か蒼史は、去年三十歳になったはず。婚約者がいたと聞いたこともあるが、それも、かなり前の話だ。「へえ。詳しいんだな。さすが、贋作を調べていただけのことはある。」褒めるように蒼史は唇を動かした。なぜ、さっきから目が輝いているのかはわからないが。「……調査は基本です。」気をつけて、光咲。
家政婦がそのアザに気づいたのは、まったく予想外のことで――。あの後、私が適当に服を選ぶと、彼女はどうしても着替えを手伝うと言って聞かなかった。仕方なく、大人しく彼女の前で服を脱ぐ。確かに、昼間に雨に打たれたシャツがまだ少し湿っぽくて、気持ち悪い。雑念を思い浮かべているうちに、うっかり背中を露見してしまい――。「あれ……?このアザ……」「え?」「お嬢様、ちょっと失礼しますね。蒼史さんを呼びます。」「ちょっと……なにを!」私の背中を見た家政婦が、急に部屋から飛び出して行った。慌てて服を着ようとしていたら、今度は一色が勢いよく部屋に入ってくる。 彼の背中を追いかけ、彼女はなにかを懸命に説明していた。「確かに、あったんです……!」一色の様子がおかしい。 さっきとはまったく違い、今にも人を殺しそうなほど険しい表情をしている。なに?一体なんなの?なにがなんだか、訳がわからない――!「おい、あんた――」とっさに上着を背中に羽織ると、一色は私の腕を強くつかんだ。 上から見下ろすその瞳は、捕食者の獣のように鋭い。「背中にアザがあるんだって? しかも――青いケシの花。」どくんと、心臓が不気味な音を立てる。「そ、それが……なんですか?」一色は無言で私を睨み、人の体を勝手に半回転させた。 そして、私の上着を強引にはぎ取り――「ちょと……!」「やっぱり――そうだ。 この花のアザ。間違いない。 ――ブルーポピー。“幻の青いケシ”。」なぜ、この男がそれを?ごくりと喉を上下させる。だが今は、この男に素肌を見られたことの方がショックだ。 無理やり上着をはぎ取られ、下着姿で前を隠している状態。彼の目線は、背中に一直線に注がれてはいたが――さすがに、冷静でいられるはずがない。
雨が降っている。車の中で、一色蒼史と取引をして、それから……あれ?今、私はどこにいるの?なんだか体がふわふわして――「!?」ここは――!?見慣れない天井を目にして、慌てて起き上がる。なぜか私は見知らぬ広い部屋にいた。しかもベッドの上に。「気がついたか。」ドアが開き、一人の男が部屋へと入ってきた。パッと明かりがつき、私は思わず顔をしかめる。彼は手にペットボトルを持ち、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。「一色蒼史……?」「そうだ。呼び捨てにするだなんて、度胸がある女だ。」「!!……ご、ごめんなさい!!頭がぼうっとしていて……!!」「いや、別に気にしてない。」本当に気にしてないように,彼はくすりと声を出して笑う。そして私に、持っていたペットボトルを手渡した。「……?」「水だ。あんたがいつ目覚めるかわからなかったから、適当に持ってきた。飲めるなら、飲め。」手渡されたのは、私が凛音の時によく飲んでいたミネラルウォーター。何でこの男がこれを……「言っとくが、毒なんて入ってないからな。」「……そんなこと思ってません。」どういう状況なのかわからず、戸惑った。だが、確かに喉が無性に乾いている。恐る恐る封を開け、口に含んだ。やはり、馴染みのある味……。彼はそれを見て満足したように、窓の近くにある椅子に腰かける。私は訳がわからず、きょろきょろと周りを見回した。「ここは……?あの後、私は――」「覚えてないのか?あんた、車の中で倒れたんだぞ
なぜ、一色蒼史が私の名前を知っているの?ついさっき、朔夜に正体を疑われたばかりだというのに。緊張から思わず肩に力が入る。「失礼ですが、あなたは?」ここは知らないふりをした方がいい。少なくともこの人は前世の“凛音”を知っている。さっきと同じような失敗をするわけにはいかないから……「俺の名前は一色蒼史だ。あんたとは……覚えてないか?この前、鷹司ホールディングスの正面玄関ですれ違っただろう?」朔夜とはまた違った、色気のある目元が微笑を浮かべる。オールバックに決めた髪。紺色の高そうなスーツ。高級腕時計。そしてこの、余裕のある表情。それが余計に不気味に見える。「話がある。車に乗ってもらえないか?」今、このタイミングで?なぜ、この男が光咲に――?怪しい。怪しすぎる。確かにこの男を味方にできたらと考えていたけれど、まさかこんな風に自ら近づいてくるなんて。私の勘が訴えかけている。これはきっと、ただのビジネスの話ではない。警戒した方がいい。「あの……すみませんが、よく知らない人の車に乗るのはちょっと」誘いを断り、私は足早にその場を去ろうとした。「一ヶ月前の国際的オークション――」背中側から、押さえつけるかのような強い口調。一色の車は私の歩きに合わせて進んでいる。彼は獲物をとらえたように私を見つめ、口元を緩めた。「鷹司グループを狙った絵画――。あんた、調べてるんだろう?真相を。」その言葉に、いやでも私の体は反応してしまう。「なぜ……あなたが、それを?」聞き返す声が震えた。これまでとは、また違った恐怖。足元から地面が崩れるような感覚に襲われる。「人に聞かれたくなければ、乗れ。」有無を言わさない圧倒的な命令。従うしかない、そう思わざるを得ない。本能でわかる。この男は危険だ。彼のいる後部座席の左側が開き、私は無言で車に乗り込んだ。運転手に彼が出せと目で合図し、車は雨の中をゆっくりと走り始める。ただでさえ体が雨に濡れて気持ち悪いのに。私は濡れた髪をさっと整えた。「……これを使え。」「え……?」車に乗り込んですぐ、一色が私に差し出したのは白いハンカチだった。そういえば、凛音の時もこういった場面があったような――……「いえ……結構です。」驚いたが、私はとっさに断る。「そうか?まあ俺は構いはしないが、
朔夜のこの反応は、一体どういうことだろう。本当にこの作品について、なにも知らないというの? それならこの絵は、燈とグルになってあの横領事件の資金隠しに利用したものではないということ?「……燈はいい妹だ。それを疑うなんて。」ひどく動揺しているのは私ではなく、なぜか朔夜の方だった。 その表情は固く、重苦しい。 吐いた言葉さえどこか哀愁を帯びている。「朔夜さん……?」これまで一貫して冷酷な態度を見せてきた朔夜が。 “光咲”に対して傲慢に振る舞ってきた彼が。なぜ私に、今さらそんな弱々しい姿を見せるの?燈とあなたの間は、揺るぎない信頼関係で結ばれていたのではなかったの――?朔夜はいつもの冷淡な彼ではなかった。 いつだって常に冷静で、簡単に他人に弱みを見せるような人ではなかったのに。婚約者時代、幾度となく“凛音”に見せてきた姿。鷹司グループを牽引していくプレッシャーに押しつぶされそうな時、彼は時々こうして凛音に弱音を吐くことがあった。 そんな彼の姿を知っているのは私だけだと思っていた。彼の支えになりたいと――あの頃の私は純粋に思っていた。記憶がフラッシュバックし、思いのほか動揺してしまう。いいえ。だめ、しっかりするのよ。どうせこれも、私を試すための演技かもしれないのだから。「いや、すまない。変なことを言って……」先に謝罪したのは朔夜の方だった。彼はこめかみを抑え、小さくため息を吐く。 まるで本当に精神が参っているみたいに、いつもの威厳のある姿ではなかった。「いえ、お疲れなんでしょう。鷹司グループを背負っている立場なのですから。」当たり障りなく答える。 ……今は同情的に振る舞っていたほうが得策かもしれない。確かに驚きはした。 でも、もう騙されたりしない。 この人は冷酷に、婚約者を地獄に突き落とすことができる人なのだから――。「それでしたら、調査は
それでも、朔夜が私に頼ってくるのはわかっていた。なぜなら彼は正体不明の見えない“敵”と戦わなければいけないからだ。――マネーロンダリング疑惑の絵画。――仕掛けられた罠。今の地位を守るために、彼は自分を脅かすものを排除する必要がある。たとえそれが、自分の幼馴染に近づく怪しい女に頼ることになったとしても。「仕事の話をしよう。この前の続きだ。あなたの知っている情報を渡してもらおう。」電話越しに聞こえた朔夜の声は、この前の出来事などなかったかのように淡々としていた。私もそれに合わせるかのように、ごく冷静に対応した。「わかりました。でもそれにはまず、家族の前美術品の再調査をする必要があります。話はそれからです。」これは、私にとってまたとないチャンスだ。横領事件の真相解明にまた一歩近づける。朔夜――逃さないわ。あなたが私を罠に嵌めたという証拠を、必ず見つけてみせる。朔夜の家族オフィスに通されたのはそれから二週間後のことだった。久しぶりに顔を合わせた朔夜は相変わらず無表情で――。この前の出来事を一切封印したかのように振る舞う。とはいえ私も感情を抑えておくことにする。次の段階に進むため、とにかく波風立てず、穏やかに微笑を浮かべる。「この前は大変失礼しました。今日はお招きいただき、ありがとうございます。」そうは言った手前、失礼なことをされたのは“私”の方だが……。しかし、昔から朔夜が新を大切に思っているのは知っていた。だから、今思えばあの反応もわからなくはない。確かに朔夜は感情がわかりにくいが、幼馴染の新のことだけは大切にしていたから。***鷹司家の家族オフィスは豪邸との併設で、美術品管理室、書庫、会議室などがある。ここに通されるまでに、複数回の審査や機密保持契約を結ばされ、厳しいセキュリティチェックも受けた。