「そこに置いておけ」憲一は今、頭を抱えていた。——子どもがいると、やはり大変だ。昨夜は一睡もできなかった。だが──あの女がいるなら、少しは安心できる。「社長、毎日お忙しいでしょうから、やはりご自宅には誰か世話をする人が必要ですね。ところで、先日紹介した家政婦は、ちゃんと仕事をしていましたか?」コーヒーを置いたあとも、ビビアンはなかなかその場を離れようとしなかった。あの家政婦は彼女自身が手配した人間だった。「うん」憲一は淡々と応じた。——手配したのは確か中年の女性だったはずだ。では、今朝モニターに映っていた若い女性は誰なのか?どうして社長の子供を預かることになったのか?社長が子どもを大切にしているのは一目瞭然。その子のそばにいるのは、彼に近づくための一番の近道……そうやって考えを巡らせていると、不意に憲一の低い声が響いた。「ビビアン」憲一の声には、明らかに怒気が含まれていた。その瞬間、ビビアンの背筋にはぞわっと寒気が走った。——この声のトーンを、知っている。彼が本気で怒っている時の声だ。「し……社長……」おそるおそる顔を上げると、鋭い目線が彼女に突き刺さった。「前に紹介した家政婦、君が手配した人間だったよな?確か『子どもの世話に慣れている』って言ってたが?」本来、憲一は社内の業務で手一杯で、急遽海外から戻ってきたため、信頼できる家政婦を探す時間がなかった。そこへビビアンが「任せてください」と言って出てきたのだ。「も、もちろんです!経験はあります!あの人は……」彼女は慌てて一歩前に出て、取り繕うようにそう言った。「近所の子供たちはみんなその家政婦にお世話になっていましたが……何か不手際でも?」そう言いながら、ビビアンの表情は焦りと申し訳なさでいっぱいだった。この女、つくづく芝居が上手い。普段は誰に対しても高飛車なくせに、憲一の前に出るとたちまち「従順な部下」を装う。だが、憲一の目は冷たく、声もさらに冷ややかだった。「あの家政婦は、子どもの世話なんてしたこともないだろう。お前の近所の人間にも伝えておけ。——あんな奴には、子どもの世話をする資格はない!」その言葉に、ビビアンは完全に固まった。——そんな馬鹿な……確かあの時、産後ケアセンターで
「分かりました」アシスタントのビビアンはそう返事をすると、ふとモニター画面に目をやり、続けて憲一の表情を窺った。――なんだか、表情がいつもと違う?しかし、具体的にどこがとは言い難い。きっと気のせいだろう。きっと社長は、ただあの女性がちゃんと子どもを世話しているかを、確認しているだけ。彼女は10分後の会議開始を伝えるため、オフィスを出ていった。10分後、会議は予定通り始まった。会議室では、憲一の低くはっきりとした声が室内に響き渡り、ときおり部下たちの報告の声が続いた。会議が終わったあと、数人の社員がこっそりと給湯室に集まり、噂話を始めた。「なあ……今日の社長、なんか機嫌よかった気がしないか?」「うんうん、私もそう思った!でもさ、昨日たぶん全然眠れてないでしょ?目の下のクマひどかったし」一人の女性社員が含み笑いした。「そうそう。聞いたことあるんだけど、社長って子どもがいるらしいじゃん?でも奥さんはいないんでしょ?それで誰も子ども見てなくてさ、そりゃ夜も眠れないって話よ」そんなおしゃべりの最中、背後から冷たい声が飛んできた。「何を話してるの?」「ビビアンさん……」憲一のそばに配属されてからというもの、彼に関するすべての動きに、ビビアンは特に敏感になっていた。それもそのはず。――この時代、顔も地位も金もある男に女たちが惹かれるのは、もはや当たり前のことだった。憲一には子どもがいるが、妻の姿は見当たらない。そうなれば、あらぬ想像が生まれるのも時間の問題だ。特に、新しく来たアシスタントのビビアンは、憲一への関心が人一倍強かった。とはいえ、それを表には出さないようにしている。憲一の性格は、まだ完全には読み切れていないからだ。だが、家に「若い保育士」が現れたことで、彼女の警戒心はより強まっていた。「あなたたち、そんなに暇なの?」ビビアンは、まるで上司のように腕を組みながら声を張った。「無駄口叩いてる暇があるなら、仕事に戻りなさい」今や憲一のそばにいる人間として、自分にある種の権威があると自覚しているビビアンは、自然と高飛車な態度になっていた。憲一の元に配属されたのは、彼女にとって運だった。このチャンスを絶対に逃したくなかった。「今後、私の耳にまた仕事と関係ない噂話
子育てに関しては、彼女から学ぶべきことがたくさんあると、憲一は心から思った。赤ちゃんはすでに眠りについていた。静かにベビーベッドに寝かせると、由美は深い愛情を込めてその小さな姿を見つめた。もし監視カメラの心配がなければ、きっと額にそっとキスをしていただろう。毛布を丁寧に掛け直すと、彼女は音を立てないように静かに部屋を出た。リビングは相変わらず散らかっていた。さっきミルクを作った際のもの以外は、すべて憲一が昨夜残していったものだ。「ビールか……」ゴミ箱を手に取り、由美は片付けを始めた。——昨日のあの家政婦には来てほしくない。あの人は自分の子供に優しくなかったからだ。母親として、自分の子に冷たい人を見るのは耐えられない。でも、自分はちょっと意地悪だったかもしれない。あの家政婦が、何か特別悪いことをしたわけじゃない。ただ、娘が病気だったから、無意識に敵意を向けてしまっただけ。そう思い直しながらも、彼女は手際よく部屋を片付け続けた。使った哺乳グッズは全て洗って消毒器に入れ、ベビー服は手洗いし、軽く脱水した後、日差しが差し込む窓辺に干した。赤ちゃんの部屋もきれいに整えた。レースのカーテンが微かに揺れ、朝の光がやわらかく差し込んできた——片付けがほぼ終わると、手を洗い、一息つく間もなく再び赤ちゃんの額に触れた。——熱はない。よかった……たぶん昨夜はよく眠れなかったのだろう。今はとても安らかに眠っている。由美はベッドのそばに腰を下ろし、赤ちゃんの寝顔を見つめながら、そっと息をついた。——こうしているだけで幸せ。全ての幸福感は、この小さな命からもたらされるものだ。彼女はまだ小さいから、眠る時間も長い。……午前7時。憲一の会社では、社員たちが次々と出社し、自分のデスクにつき始めていた。社長室の明かりがついているのを見て、社員たちは小声で愚痴をこぼした。「最近、社長が来るのどんどん早くなってないか?これじゃこっちがもたないって……」「まあまあ、文句はあとにしよう。今うちの会社、競合とでかい契約を取り合ってるんだから。もし取れたら、今年のボーナスまた数十万はアップするかもよ」「でもさ、今朝って朝会の予定あったよね?もう七時過ぎたのに、まだ始まらないんだけ
どうやら、昨夜の憲一は酒を飲んでいたようだった。リビングにはいくつかの空き瓶が、無造作に転がっていた。「お酒まであるなんて……」——大人が飲む分にはいいとして……でも、もしこの匂いが子どもに影響したらどうするの?その考えが頭をよぎった瞬間、彼女の顔が引き締まった。「子どもは……」彼女は慌てて寝室に向かって走っていった。部屋の中はおもちゃでいっぱいだった。ぬいぐるみのクマ、風鈴のような吊り飾りなどがあちこちに飾られている。見たところ、憲一がこの部屋の装飾にかなりの気を遣ったことがうかがえる。だけど——ふいに音を立てて鳴った風鈴を見て、由美は眉をひそめ、それをそっと取り外した。——こんなもの、赤ちゃんの眠りを妨げるに決まっている。揺りかごの中で、子どもが気配を感じたのか、ぐずるように目を開けた。「よしよし、いい子だね」その泣き声を聞いた瞬間、由美の心は張り裂けそうになった。「ママ……じゃない、おばさんが来たわよ」一瞬だけ「ママ」と言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。——憲一は用心深い。この部屋に監視カメラがある可能性は十分ある。もし彼に正体がバレてしまえば、もう娘のそばにいられなくなるかもしれない。そっと赤ん坊を抱き上げると、ふわふわの小さな体が腕の中にすっぽりと収まった。その温もりが、胸の奥まで染み込んできた。「お腹空いた?」片手で赤ちゃんを支えながら、由美は近くにあった哺乳瓶を取った。育児研修で数多くの乳児用品に触れていたので、この哺乳瓶の品質の良さも手に取っただけでわかる。せめてもの憲一の気遣いだろう。「粉ミルクは……」リビングに戻ると、テーブルの真ん中に粉ミルクの缶が一つ置かれていた。その周囲には、すでに空になった缶もいくつかあった。赤ちゃんをしっかりと腕に抱きながら、由美は慣れた手つきでミルクを作り始めた。この一連の流れは、何度も繰り返し練習してきた。そのおかげで今は、まるでプロのような手際だった。「いい子ね」ミルクを作り終え、由美はゆっくりと赤ちゃんに哺乳瓶を差し出した。お腹が空いていたのか、赤ちゃんは哺乳瓶を口に近づけるなり、すぐにパクっと咥えて勢いよく飲み始めた。ピンクがかった頬を見つめながら、由美の心は温か
その夜、由美は一睡もできなかった。時計の針が4時を指し、外が薄明るくなってきた頃、彼女はベッドから起き上がった。浴室でシャワーを浴びた後、医療用フェイスマスクを顔に貼りつけた。これは化粧品ではなく、顔の回復を促すための医療用のものだった。整形手術を受けた彼女の肌には、このマスクが皮膚の再生を助けてくれる。鏡に映る姿は、かつての彼女とはまったくの別人だった。香織たちを除けば、昔の由美の知り合いでも、今の彼女を見分けることはできないだろう。そっと鏡に手を添え、由美はふっと笑った。「……これでいい」――この顔は、昔とはまるで違う。自分でもまだ完全には慣れていない。「安藤由美……」その名前を思い出した瞬間、彼女は苦々しく口元を引きつらせた。――忘れなさい。自分は水原文絵だ。安藤由美ではない。安藤由美はもうこの世にいない。水原文絵でなければ、子供の側にいられない……茹で卵を二つ作って食べ終わる頃、外はすっかり明るくなっていた。彼女はクローゼットから控えめなデザインの服を選び、身支度を整えた。まだ5時過ぎだというのに、彼女は早々に家を出た。子供の発熱が気にかかっていたのだ。香織が手配したアパートは、幸い憲一の家から近かった。昨日約束もしたし、彼女は一刻の遅れも許さない気持ちで急いでいた。早朝の街はまだ静かで、歩道には年金受給者と思しき高齢の男性たちが、運動のため歩いている姿がちらほら見えた。公園を通りかかると、数人の老人たちが孫と思しき幼い子どもを連れて、澄んだ朝の空気を吸っていた。この時間帯に体を動かすのは、きっと身体にも良いのだろう。まだ六時にもなっていない頃、彼女はもう憲一の家の前に立っていた。ふんわりとした娘の頬を思い浮かべると、彼女は自然と笑みがこぼれた。ピンポーン——チャイムの音が静まり返った部屋の隅々に響き渡った。その音を聞いた憲一は、横の椅子に置いていたジャケットを手に取った。普段この時間には、すでに出社の準備をしている頃だ。最近は特に仕事が立て込んでいて、ろくに休む時間もなかった。疲れの色を隠しきれない顔で、彼は顔を軽く揉んで無理やり気合いを入れ、玄関へと向かった。目の前に立つ人物を見て、彼の目がかすかに揺れた。「随分
双は目を丸くして、「雨、降ってる」と窓の外を指さした。外では雨音がしとしとと降り続いていた。圭介が横から、歌の大意をやさしく解説した。双は目を輝かせた。「パパ、僕こういうの好きかも!」その言葉に、香織は穏やかに微笑んだ。「興味があるのなら、それで十分よ」双は柔らかい布団に包まれて、ベッドに寝そべった。足を軽く揺らしながら、満ち足りた顔をしていた。そのとき、机の上に置かれた圭介の電話が鳴り始めた。画面を見れば、発信者は越人だった。おそらく仕事の用事だろう。「ちょっと電話に出る」圭介はそう言い、携帯を手に取った。香織は頷いて言った。「うん、行ってらっしゃい」そして息子と一緒に布団に横になり、本を読み続けた。「ママ、これ好き!」「これはね、ふるさとを懐かしく思う気持ちを詠んだものよ」香織は言った。「前に住んでた場所を思い出してるってこと?」双は尋ねた。「うん、だいたいそんな感じね」香織が答えた。双はポツリとつぶやいた。「僕も、前の家のこと思い出すことあるよ」香織がやさしく問いかけた。「ここじゃ嫌?」「ううん、好きだよ」彼は少し考え込んでから続けた。「でも……たまに、思い出すの」「それは普通のことよ」それが「思い出」というものだから。記憶に残っているものこそが、大切な思い出になる。「あっ、もう寝なくちゃ」双は本を抱えて立ち上がった。香織は彼を優しく抱き寄せた。「ここで寝てもいいのよ」双は長らく両親と寝ておらず、一緒だと逆に眠れないかもしれない。「ここじゃ眠れないかも」双は言った。「ママ、おやすみ!」本をしっかり抱えた双は、器用にベッドから滑り降りた。電話から戻ってきた圭介は、双が出て行くのを見て不思議そうに香織を見た。香織は両手を軽く上げて肩をすくめた。もう大きくなった息子は、両親と一緒に寝るのを嫌がる。「パパ、おやすみ」そう言うと、双は短い足を精一杯動かして部屋を出て行った。ベッドに横になった香織がふと口にした。「ねえ、愛美が女の子を産んだら、双のお嫁さんにしてもらえないかしら?」「頭がおかしいのか?」圭介の低い声が響き、香織は慌てて起き上がった。――愛美と圭介には血の繋がりはない。しかし、名目上、双とは叔母と