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拾った恩、捨てられた十年

拾った恩、捨てられた十年

By:  そらKumpleto
Language: Japanese
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「夏子、月末に田舎へ帰ろうと思うの。たぶん、ずっとそっちで暮らすわ。あなたのネイルサロン、私の働く場所を空けといてね」 そう告げると、電話の向こうから親友の高寺夏子(たかでら なつこ)の驚いた声が返ってきた。 「ちょっと、帰ってくるの!?あんたが引き取って面倒を見たあの子、今じゃ西京大で一番若い教授じゃない。あんたが何年も働いて支えて、やっと苦労が報われたところなのに。西京市での何不自由ない暮らしをなげうって、なんでまたこんな田舎町へ帰るのよ?まさか……彼、あんたに冷たいんじゃないでしょうね」 「そんなことない。雅也は、いつも私によくしてくれてる」 一山藍里(いちやま あいり)は無意識にスマホの縁をなぞりながら、言葉を濁した。 「ただ、もう西京にはいたくないの。それだけ」 「じゃあ、栗栖は?一緒に帰るの?」 一瞬、藍里は息を呑んだ。窓から差し込む夕陽に長く引き伸ばされた影が、壁にただひとつ、寄る辺なく落ちている。 「ううん。私だけ」 そう答える自分の声を、藍里はまるで他人事のように聞いていた。 「雅也はこっちに残るから。結婚して、家庭を築いて、ここで新しい人生を歩んでいくの」

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Kabanata 1

第1話

電話を切った直後、スマホがまた震えた。

竹谷沙雪(たけや さゆき)からのメッセージだった。

【藍里さん、もう心は決まりましたか?】

藍里の指先は、画面の上をさまよっていた。やがて打ち込んだのは、短い言葉。

【決めました。雅也とは、別れます】

栗栖雅也(くりす まさや)。

その名前を心の中でそっとなぞるだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びて痛む。

初めて雅也を見たのは、高校の入学式だった。新入生代表として壇上に立ち、真新しい制服姿で、春の日差しを浴びながら、透き通るような涼やかな声で挨拶をしていた。

あの頃の彼は学年中の女子が憧れる存在で、成績優秀、容姿端麗、何もかもに恵まれた人だった。

一方の藍里は児童養護施設育ちの、成績もぱっとしない平凡な生徒の一人。彼に話しかける勇気すらなかった。

すべてが変わったのは、高校二年の時。

雅也が愛人の子だという出自が暴かれ、母親のあられもない写真が学校中に貼り出された。一夜にして、彼は誰もが憧れる存在から、蔑む対象へと転落した。

周囲から孤立し、嘲笑され、ついには川へ身を投げるまでに追い詰められていた。

彼を川から引き上げたのは、藍里だった。

あの夜、ずぶ濡れのまま、虚ろな目で彼は尋ねた。

「……どうして、助けたんだ?」

どうしてかなんて、自分でもわからなかった。ただ彼の手を強く握りしめた。その手を離してしまえば、彼がまたどこかへ消えてしまう気がして。

それから二人は、十平米ほどの安アパートで身を寄せ合って生きてきた。

大学受験の結果が出たとき、二人とも私立だったため、どちらか一人分の学費しか払えないことは、最初からわかっていた。藍里は迷わず進学を諦めた。

「どうして?」と彼は聞いた。

「私の成績じゃ、大した大学には行けないもの」と、藍里は笑ってみせた。

「あなたを行かせなきゃ。生活費なら心配しないで。今だってバイトを三つ掛け持ちしてるから、なんとかなる」

彼は長いこと黙り込み、やがてぽつりと言った。

「藍里……必ず、幸せにする」

そしてその言葉どおり、彼は本当にそれを叶えた。

飛び級を重ね、修士から博士へと一気に進み、二十四歳で西京大学史上最年少の教授となった。「天才学者」と呼ばれるようになった彼は、藍里を伴って川の見えるタワマンへと引っ越した。

これでやっと今までの苦労も報われると思っていたのに、あの日、偶然彼のスマホの画面を見てしまった。

沙雪は西京大学学長の娘。美しくて、優秀で、誰もが振り返るような女性。

そんな彼女から、雅也のもとには数えきれないメッセージが届いていた。

【今日も実験、失敗しちゃいました。落ち込みます】

【コーヒー買ってきたので、研究室に置いておきますね】

【どうして返信くれないんですか?私のこと、嫌いですか?】

雅也の返信はいつもそっけなかった。けれど沙雪がしびれを切らして問い詰めると、彼はようやくこう返した。

【嫌いなわけじゃない。ただ、女性とどう接すればいいのか、わからないだけだ】

その翌日、雅也は珍しく藍里に尋ねた。

「女性が喜ぶプレゼントって、何がいいと思う?」

その瞬間、藍里の胸を冷たい針で刺されたような痛みが走った。

これまで、雅也に想いを伝えようとしたことは何度もあった。ただ彼はいつも勉強や実験に追われていて、その気持ちは胸の奥にしまい込んでしまっていた。

そして今、ようやく藍里は理解した。雅也が自分に抱いているのは感謝であって、恋愛感情ではないのだと。

それからほどなくして、沙雪のほうから藍里に連絡してきた。

その日、彼女が持ってきたファイルの中には、かつて雅也の母親を死に追いやった、あの写真のコピーが詰まっていた。

「雅也の異母兄が、また同じ手を使って彼を潰そうとしているんです。今回はなんとか食い止めましたけど。

私と雅也は想い合っています。でも彼は恩返しのために、あなたのそばを離れられずにいるんです。

でも、藍里さんには彼を守れません。もしこのまま彼のそばに留まるなら、この写真は世に出回ります。彼がこれまで積み上げてきたものが、また全部、水の泡になる。

でも、もしあなたが手を離してくれるなら」

沙雪は静かに言った。

「私が彼を守ります。彼がまっすぐに、光あふれる道を歩けるように」

その夜、藍里はベランダで一晩中、月を眺めていた。

夜が明ける頃、ようやく答えが出た。

沙雪の言うことは事実だ。自分には雅也を守れない。

それに、雅也は自分を愛してなどいない。

だから、彼のもとを去ることが一番いい選択なのだ。

手放すのも、悪くない。

これからはもう、夜更けに小さな明かりの下で、彼の帰りを待ちわびなくていい。

天才学者となった彼が、他の女性との接し方を自分に相談してくるたびに、苦い思いを胸に飲み込まなくていい。

そして、決して自分を振り向いてくれない人を、来る日も来る日も待ち続けなくていい。

不意に胃の奥に鋭い痛みが走り、現実に引き戻された。

藍里は床にうずくまった。冷や汗が背中を濡らす。薬箱はテーブルの上にあるのに、手を伸ばす力すら残っていない。

鍵の回る音がして、雅也が部屋に入ってくるなり、床に倒れている藍里を見て顔色を変えた。

彼は駆け寄り、そっと抱き上げてベッドに横たえる。

「薬は……」

彼の声にはわずかな焦りが滲んでいた。引き出しの中を探し回りながら尋ねる。

「この前買った胃薬、どこに置いた?」

藍里が引き出しを指差すと、彼はすぐに水を用意し、薬を取ってきた。まるで何度も繰り返してきたかのように、迷いのない手つきで。

温かい水が唇を濡らし、藍里は少しずつ飲みながら小声で言った。

「ありがとう……迷惑かけてごめんね」

「迷惑じゃない」

雅也は眉をひそめた。

「胃が弱いって自分でわかってるのに、どうしてすぐに薬を飲まないんだ」

あの頃、彼を学校に通わせるためにバイトを三つ掛け持ちして、一日一食で済ませることも多かった。そのせいで、胃を壊してしまったのだ。

胃が痛むたびに、彼はいつも心配そうに藍里を抱き寄せ、そっとお腹をさすってくれた。眠りにつくまで。

けれど今回、彼が腕を伸ばそうとしたとき、藍里はそっとその手を押しのけた。

雅也は一瞬固まり、眉をわずかに寄せた。

「雅也、私……」

言いかけたそのとき、彼のスマホが鳴った。

沙雪からだった。

「もしもし?」

彼は電話に出た。視線はまだ藍里に向けたまま。

「流れ星?……今から?……わかった」

電話を切ると、彼は立ち上がってコートを手に取った。

「ちょっと出かけてくる。ゆっくり休んで」

背を向けて去っていくその背の高い、すらりとした後ろ姿は、かつて自分が拾い上げたあの少年の姿と重なった。

藍里は口を開きかけた。「田舎に帰ろうと思ってるの」――その一言を、結局伝えることはできなかった。

ドアの閉まる音はとても静かだったのに、まるでハンマーで心臓を殴られたようだった。

藍里は一人、暗闇の中に座り続け、やがて時計が午前零時を告げた。

冷蔵庫には、買ったばかりの誕生日ケーキが入っている。

雅也は一度も、藍里の誕生日を覚えていたことがない。それでも毎年この日、藍里はこっそり願いごとをする。

今年、彼女が願ったのはただ一つ。

私がいなくなった後、雅也が幸せになれますように。

揺れるろうそくの灯りの中、藍里の目に、あの雨の日の少年の姿がふたたび浮かぶ。濡れた睫毛の下で、驚くほど澄んだ瞳をしていた、あの少年の姿が。

あれは、これまでの人生で見た、一番美しい流れ星だった。

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第1話
電話を切った直後、スマホがまた震えた。竹谷沙雪(たけや さゆき)からのメッセージだった。【藍里さん、もう心は決まりましたか?】藍里の指先は、画面の上をさまよっていた。やがて打ち込んだのは、短い言葉。【決めました。雅也とは、別れます】栗栖雅也(くりす まさや)。その名前を心の中でそっとなぞるだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びて痛む。初めて雅也を見たのは、高校の入学式だった。新入生代表として壇上に立ち、真新しい制服姿で、春の日差しを浴びながら、透き通るような涼やかな声で挨拶をしていた。あの頃の彼は学年中の女子が憧れる存在で、成績優秀、容姿端麗、何もかもに恵まれた人だった。一方の藍里は児童養護施設育ちの、成績もぱっとしない平凡な生徒の一人。彼に話しかける勇気すらなかった。すべてが変わったのは、高校二年の時。雅也が愛人の子だという出自が暴かれ、母親のあられもない写真が学校中に貼り出された。一夜にして、彼は誰もが憧れる存在から、蔑む対象へと転落した。周囲から孤立し、嘲笑され、ついには川へ身を投げるまでに追い詰められていた。彼を川から引き上げたのは、藍里だった。あの夜、ずぶ濡れのまま、虚ろな目で彼は尋ねた。「……どうして、助けたんだ?」どうしてかなんて、自分でもわからなかった。ただ彼の手を強く握りしめた。その手を離してしまえば、彼がまたどこかへ消えてしまう気がして。それから二人は、十平米ほどの安アパートで身を寄せ合って生きてきた。大学受験の結果が出たとき、二人とも私立だったため、どちらか一人分の学費しか払えないことは、最初からわかっていた。藍里は迷わず進学を諦めた。「どうして?」と彼は聞いた。「私の成績じゃ、大した大学には行けないもの」と、藍里は笑ってみせた。「あなたを行かせなきゃ。生活費なら心配しないで。今だってバイトを三つ掛け持ちしてるから、なんとかなる」彼は長いこと黙り込み、やがてぽつりと言った。「藍里……必ず、幸せにする」そしてその言葉どおり、彼は本当にそれを叶えた。飛び級を重ね、修士から博士へと一気に進み、二十四歳で西京大学史上最年少の教授となった。「天才学者」と呼ばれるようになった彼は、藍里を伴って川の見えるタワマンへと引っ越した。これでやっと今までの苦労も報われ
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第2話
翌日、藍里はいつもどおりネイルサロンに出勤した。この店を選んだのは、雅也の勤める大学の近くにあったからだ。ただ彼の姿を少しでも多く見かけたい、それだけの理由からだった。やがて雅也に経済的な余裕ができてからは、何度も「もう働かなくていい、家でゆっくりしてくれ」と勧められたが、藍里はそのたびに断ってきた。彼はいつも大学で忙しくしている。もしこの仕事まで手放してしまえば、彼に会える機会はますます減ってしまう。今日は本来、辞めるつもりで店に行った。けれど店長が藍里の手を握って言った。「藍ちゃん、もう少しだけ手伝ってくれない?新しい子が見つかるまででいいから」店長の切実な眼差しを見て、これまで世話になってきた年月を思い、藍里は結局、頷いてしまった。しばらくして、学生マンションへの出張ネイルの依頼が一件入った。依頼主は、西京大学に通う女子学生だった。部屋に入った瞬間、真っ先に目に飛び込んできたのは、机の上に飾られた写真立てだった。そこには、雅也と沙雪が並んで写っていた。白いシャツ姿の彼は相変わらず涼しげな表情をしていたが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。藍里がほとんど見たことのない、穏やかな表情だった。沙雪は彼の肩に寄り添い、ひまわりのような明るい笑みを浮かべていた。「二人、お似合いですよね」藍里の視線に気づいた女子学生が、楽しそうに声を弾ませた。「大学でも結構有名な二人なんですよ。いつもクールな先生と、明るくて人気者の沙雪さん。お似合いだって、みんな盛り上がってて」藍里は目を伏せ、ネイル道具を並べながら小さな声で尋ねた。「……二人って、そんなに仲がいいんですか?」「もちろんです!」何人かの学生がすぐに集まってきて、口々に雅也が沙雪をどれだけ特別扱いしているかを語りだした。「栗栖先生、普段は誰も寄せつけないのに、沙雪先輩にだけはすごく優しいんです!」「この前、沙雪先輩が実験室で寝ちゃったとき、先生、自分の上着かけてあげてたんですよ!」「沙雪先輩がプレゼントした万年筆、毎日使ってるって聞きました!」その言葉を聞きながら、藍里の指先はわずかに震え、危うくやすりを取り落としそうになった。そんなこと、雅也は一度も自分にしてくれたことがない。「本当に、どこを取ってもお似合いですよね」一人の学生
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第3話
それから数日、雅也は家に帰らなかった。藍里がSNSを開くたび、沙雪の投稿が目に入る。雅也が図書館まで付き添った。雅也が朝食を買ってきてくれた。雅也がかがんで靴紐を結んでくれた。どの写真の中でも、彼の眼差しは藍里と一緒にいるときよりずっと柔らかかった。藍里は黙ってそれらを見つめながら、少しずつ自分の荷物をまとめていった。彼と暮らした長い年月の中で、自分の持ち物はあまりにも少なかった。数着の着替えと、何年も履き続けたスニーカーが一足、それから一冊のアルバム。中身は全部、こっそり撮りためた雅也の写真だった。本を読む横顔。料理をする後ろ姿。眠っているときのわずかに寄った眉。雅也が帰ってきたとき、藍里はちょうど最後の小さな箱を片づけているところだった。「何を片づけてるんだ?」彼は戸口に立ち、そっけない声で聞いた。「もう使わないから、処分するだけ」藍里は顔を上げなかった。赤くなった目元を見られたくなかったから。彼は「ああ」とだけ言うと、中に入ってきて水を注いだ。「片づけるのもいいだろう。この家、手狭だって前に言ってたし。新しくタウンハウスを一戸買ったんだ。数日中には引っ越せる」一拍おいて、彼は不意に言った。「今日、見に行かないか」藍里の指先が震えた。それでも、結局、頷いた。出ていく前に、最後に彼の新しい家を一目見ておこう。そう思って。閑静な高級住宅街で、まるで別世界のように落ち着いた場所だった。雅也の新居をひと通り見たあと、隣の家の前で沙雪と鉢合わせた。淡い黄色のワンピースを着た彼女は、明るい笑顔で言った。「来てくれたんですね!藍里さん、私の家、お二人のお隣なんです。これからは毎日会えますね!」彼女は二人を促し、嬉しそうに自分の家の中を案内し始めた。けれどドアを開けた瞬間、藍里は思わず立ち尽くした。生成り色のソファ、無垢材のダイニングテーブル、ベランダの観葉植物まで、ついさっき見た雅也の新居と何から何までそっくりだった。「ふふ。雅也と一緒に選んだ家具なんです」沙雪が笑いながら言う。「まさかここまで趣味が似てるなんて、思いませんでした。まるで同じ家みたいですよね」彼女は目を瞬かせた。「友達にも言われたんです。間の壁をぶち抜いたら、二戸を一つにしても全然違和感ない
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第4話
一瞬、言葉に詰まる。それから消え入りそうな声で答えた。「もうすぐ、祖父の命日なの。田舎に帰って、お墓参りをしてくる」雅也は頷いただけで、一緒に行こうとは言わなかった。わかっている。あの小さな町は、彼にとって拭い去ることのできない悪夢だ。母親が自ら命を絶った場所。彼自身が川へ身を投げた場所。必死で逃げ出そうとした場所。おそらく、彼はもう二度と戻らないだろう。だとしたら、別れたあとはもう二度と会うこともないのだろう。雅也の視線が、藍里の腕に残る擦り傷で止まった。眉をひそめる。「これ、どうしたんだ?」藍里は数秒黙り込んでから、正直に答えた。「レストランで火事になったとき、二階の席に戻ろうとして……人に押されて転んだの」彼の目に、スッと影が差した。「なんで二階に戻ったんだ」「雅也に何かあったらって思って」雅也は視線を腕に落としたまま、しばらく黙っていた。やがて低く呟く。「……昔と、変わらないな」あの夜、川に飛び込んで彼を助け出した日のことを言っているのだと、藍里にはわかった。彼女は自嘲気味に笑った。「今はもう、違うよ」あの頃、彼のそばには誰もいなかった。でも今は沙雪がいる。もう、藍里を必要としていない。それから数日、雅也は新居へ荷物を運び始めた。藍里は自分の荷物だけを残し、「片付けてから運ぶ」と言った。雅也は深く追及することもなく、少しずつ自分のものを運び出していった。家はあっという間にもぬけの殻になった。藍里は一人リビングに座り、静まり返った部屋に響く自分の呼吸音に、じっと耳を澄ませていた。彼と二人、身を寄せ合って生きていたあのぼろアパートの空気に似ていた。藍里は古いものをいくつか捨てに外へ出た。戻ってきて廊下を歩いていたとき、突然背後から口を塞がれた。目の前が真っ暗になり、意識が遠のいていく。再び目を開けたとき、藍里は椅子に縛りつけられ、口には布を詰め込まれていた。周囲はひんやりとした廃倉庫のようだった。目の前に一人の男が立っている。目元や眉のあたりは雅也によく似ていたが、目つきは酷薄で、見下すように藍里を睨みつけていた。「お前が、あのとき雅也を助けた女か」男は嘲笑った。「あいつを呼び戻して、実家の遺産争いに加わらせるつもりなんだろう」雅也の異母兄
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第5話
けれど聞こえてきたのは、沙雪の声だった。「もしもし?雅也、ずっと徹夜で実験していて、今寝たばかりなんです。何かご用ですか?」男は哀れむような目で藍里を見下ろした。「聞いたか?お前が命懸けで庇ってる男は、他の女と一緒にいて、お前のことなんて気にもかけてないんだよ。……惨めなもんだな」沙雪も何かおかしいと気づいたのか、声が鋭くなった。「あなた、誰ですか?何があったんですか?」「俺が誰かなんてどうでもいい」男は嘲笑った。「雅也をすぐここに寄越せ。さもないと、この女の死体を回収しに来ることになるぞ」彼は電話を切ると、なおも雅也とその母親、そして藍里まで、汚い言葉で罵り続けた。藍里は痛みに意識が遠のきかけていたが、それよりも本当に雅也が来てしまうことのほうが恐ろしかった。来たら、どうなる?殴り殺されるの?それとも、脅されるの?全身が震え、押し寄せる恐怖に呑み込まれそうだった。どれくらい時間が経っただろうか。倉庫のドアが開き、足音が近づいてきた。心臓が止まりそうになりながら、藍里は顔を上げた。現れたのは、沙雪一人だった。彼女は男と小声で何やら話し込んでいた。男は表情を険しくしたかと思うと、やがて藍里を一瞥し、鼻で笑った。「今回は運が良かったな」男たちが去ったあと、沙雪は足早に近づき、縄をほどいて藍里に肩を貸しながら外へと連れ出した。「病院に連れて行きます」その声はどこか震えていた。藍里は口の中が血だらけで、言葉を発することもできず、されるがままに後部座席へ押し込まれた。病院では医師が藍里の傷の手当てをし、仮歯を入れる処置をした。沙雪はそばに立ち、藍里の痛々しい姿から目を逸らした。「雅也の身代わりになってくれて、ありがとうございます」沙雪は静かに言った。「彼のお兄さんとは話をつけました。もう二度と、雅也に手出しはさせません」藍里は掠れた声で尋ねた。「……どんな条件で?」沙雪はしばらく藍里を見つめ、首を振った。「言っても、あなたには理解できないと思います。ただ、これだけわかってくれればいいんです」彼女は一拍置いた。「私がいる限り、雅也を、二度とあんな危険な目に遭わせません」藍里は沙雪の自信に満ちた、落ち着き払った姿を見つめながら、ふと気づいた。
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第6話
帰ろうとしていると、沙雪と鉢合わせた。淡い色のワンピースを着た彼女が、笑いながら駆け寄ってくる。「雅也!すごい偶然ね!今、この近くで友達と集まってるの!」彼女は目を輝かせて雅也を見た。「前に会ったとき、みんなとすごく話が合ってたじゃない。一緒に来ない?」藍里は傍らで、普段人付き合いを嫌うはずの雅也があっさりと頷くのを見た。「ああ、行こう」胸の奥が、ちくりと痛む。沙雪が誘ったから、雅也は頷いたのだ。個室に入ると、沙雪の友人たちは雅也の姿を見るなりはやし立てた。「おいおい、沙雪、今日はすごい大物を連れてきたんだな?」「これって、西京大で一番若い栗栖教授じゃない?普通はなかなか呼べないでしょ、さすが沙雪、顔広いなあ!」沙雪は顔を赤らめながら、友人たちを軽く小突いた。「冗談はやめてよ!」誰かが藍里に気づき、ジロジロと値踏みするように眺め回した。「こちらは?」沙雪は藍里をちらりと見て、軽い口調で答えた。「学校の近くのネイルサロンの人。雅也の知り合いでもあるの」「ネイルサロン?」何人かが意味ありげな視線を交わした。「栗栖先生って、こんな地味な人とも知り合いなんだ。ちょっと釣り合わなくない?」雅也が眉をひそめると、沙雪は慌てて話題を変えた。「はいはい、それよりゲームしましょ!」藍里は黙って隅の席を見つけ、一言も発さずに座った。すぐに皆でボードゲームをやろうという話になり、人数が足りないからと、沙雪は雅也を引っ張り込んだ。彼は断らなかった。雅也はこの手のゲームが苦手で、一回戦目であっさり負けた。「罰ゲーム、罰ゲーム!」皆がはやし立てる。「スマホの中身を公開してもらいましょうよ!」雅也がスマホを渡すと、皆はすぐにトーク画面を開き、途端に意味ありげな声を上げた。沙雪だけが、ピン留めされていた。二人のトーク画面には、ほぼ毎日のようにメッセージのやり取りがあり、雅也はそのすべてに返信している。しかもその多くが送られた瞬間に既読になり、即座に返信されている。「あらまー」何人かがにやにやしながら、今度はアルバムを開いた。数千枚に及ぶ実験データの写真の中、人物写真はほんのわずか。しかもそのすべてが沙雪のものだった。本を読む横顔。コーヒーを掲げて笑う姿。実
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第7話
沙雪は小さく吹き出し、首を振った。「ううん、なんでもないよ。旅行の話をしてただけ」雅也はそれ以上追及せず、覚束ない足取りで近づくと、藍里の手首を掴んだ。「帰る」その掌はひどく熱く、掴まれた手首から、その熱が藍里の胸の奥まで伝わってくるようだった。帰り道、雅也はずっと藍里の肩にもたれかかり、意味を成さない専門用語をうわ言のように呟き続けていた。けれど時折、ぽつりとある名前を口にした。「沙雪……」藍里の全身が強張る。視界がじわりと滲んだ。そうか。あんなに酔っていても、心に浮かぶのは彼女なんだ。翌日の午後、藍里は家の中を隅から隅まで磨き上げた。雅也が目を覚ましたとき、すでに藍里は二日酔いに効く薬と白湯を用意していた。「ありがとう」彼はまだ掠れた声でコップを受け取った。「今日、帰るのか?」藍里は頷いた。「うん」「送るよ」藍里は断らなかった。これが最後の時間なのだから、少しでも長くその姿をこの目に焼き付けておきたかった。彼はエントランスまで送り、タクシーを呼びながら尋ねた。「今回はどれくらい滞在するんだ?いつこっちに戻る?」一拍おいて、さらに付け加えた。「迎えに行こうか?」藍里が口を開きかけたとき、彼のスマホが鳴った。沙雪だった。「雅也!今、実験室に来られる?」スマホ越しに聞こえるその声には、甘えるような響きがあった。「急用があるの!」雅也は眉をひそめた。「今、ちょっと立て込んでて」「お願い!」沙雪の声が柔らかく懇願する。「本当に大事なことなの!」雅也は少し迷った様子で、藍里のほうを振り返った。藍里は微笑んだ。「用事があるなら行ってあげて。駅までは一人で行けるから」彼はしばらく黙り込み、やがて頷いた。「わかった」彼はタクシーのトランクにスーツケースを積み込むのを手伝い、後部座席のドアを開けてくれた。「気をつけて」彼は言った。車のリアウィンドウ越しに、彼の姿がだんだん小さくなり、やがて黒い点になって消えていくのを、藍里はじっと見つめていた。心の中で、そっと呟く。「さようなら、雅也」新幹線に揺られているうちに、車窓の空が次第に暗くなっていく。スマホが震えた。沙雪からのメッセージだった。動画が一本。
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第8話
「雅也、好きよ」頬を赤らめた沙雪を前に、雅也はその場に釘付けになったように、しばらく言葉が出なかった。「付き合ってください」「栗栖先生、早く答えてあげてくださいよー!」実験室のあちこちから、冷やかしの声が飛んでくる。それでも雅也は口を開かなかった。沙雪の目元は次第に赤くなり、その瞳にはうっすらと涙が光っていた。「沙雪、外で話そう」沙雪は雅也を見つめたまま、引き下がるまいともう一度口を開いた。「私、あなたのことが好き。付き合ってくれない?」ここ最近の彼女との出来事が、雅也の脳裏を駆け巡る。それに、急に増えた研究費や学部長選挙の話も。それらすべてが、沙雪の父親の力によるものだと、雅也はわかっていた。「……いいよ」長い沈黙の末、雅也はようやく掠れた声で承諾の言葉を絞り出した。「先生と先輩、おめでとうございます!」「キス、キス!」周囲のはやし立てる声の中、沙雪は自分からつま先立ちになり、雅也の唇に口づけた。ひんやりと柔らかな唇が触れた瞬間、雅也の脳裏にふと藍里の姿がよぎった。合格通知を受け取ったあの日、雅也は藍里とキスをした。狭くて蒸し暑い安アパートでの、初々しくも不器用な、初めてのキスだった。あの日、藍里がどんな表情を浮かべていたか、雅也は今でも一つ残らず覚えている。胸の奥に、じわりとした違和感が広がる。意識が少しずつ、遠くへ流れていく。沙雪が雅也を見上げた。「雅也、今夜、お父さんと一緒にご飯を食べない?私たちが付き合うことになったって、ちゃんと伝えたいの」雅也が顔を向けると、ちょうど沙雪と目が合った。その頬は真っ赤に染まっている。照れているからなのか、それとも実験室の暖房のせいなのかはわからなかった。けれどなぜか、雅也の胸にはぽっかりと穴が空いたような感覚が残っていた。「違う、沙雪じゃない」と、耳の奥で何者かが囁いた気がした。それでもその一瞬の迷いは長くは続かず、雅也はその声を振り払うように、沙雪に笑みを返した。「……ああ、行こう」食事へ向かう道すがら、雅也はスマホを取り出し、藍里にメッセージを送った。【今夜は実験室で用事がある。ご飯、ちゃんと食べて。あとで電話するから】彼はじっと画面を見つめていた。けれど時間が過ぎていくばかりで、藍里からの返信は一向
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第9話
雅也は朝早くに目を覚ました。酔いの残る頭が鈍く痛む。「藍里、水を……」けれど言いかけたところで、ふと気づいた。ここは自分の家じゃない。いつもなら一言頼めばすぐに薬を用意してくれて、優しくこめかみを揉みほぐしてくれる藍里ではないのだ。そう気づいた瞬間、胸の奥にまたあの小さな不安が湧き上がってきた。雅也は急いでその場を後にした。沙雪には、メッセージ一つ残さないまま。駅前の有名店で買ってきたケーキを手に、彼は急いで家へと戻った。「藍里、ごめん。昨日は遅くまで忙しくて、君を起こしたくなくて帰らなかったんだ。ほら、君が好きなあのケーキ、買ってきたよ」そう言いながら、雅也はケーキをテーブルに置いた。けれど、いつもなら彼が帰ってくる物音を聞きつけてすぐに玄関まで迎えに来るはずの藍里が、いつまで経っても現れない。「藍里?」雅也はドアを開けたが、姿はなかった。部屋を一つ一つ確かめて回っても、藍里の姿はどこにもなかった。その時になって、雅也はようやく思い出した。藍里は昨日、田舎に帰ったのだった。今は家にいるはずがない。雅也はほっと息を吐き、心の中で自分の考えを少し笑った。なんて馬鹿げた想像をしたんだろう。十年だ。藍里と十年も一緒にいて、突然いなくなるなんてあるはずがない。けれど、テーブルの上に置かれた一枚の紙がふと彼の目に留まった。手に取り、書かれている文字にざっと目を通した瞬間、心臓が激しく脈打ち始めた。「そんな……まさか」雅也は信じられないというように首を振った。慌ててスマホを手に取る。指が震えていることにさえ、彼自身気づいていなかった。日頃、ミクロン単位で正確に実験器具を操るその手が、今はロックを解除するだけの動作すらおぼつかない。二度も操作を間違え、ようやく藍里とのトーク画面を開いた。【どうして急にこんなことを言うんだ?誤解してる。僕と沙雪のことは……】雅也は必死に説明を打ち込み、送信したが、いつまで経っても既読はつかない。続けて何通送っても同じだった。そこでようやく、雅也は自分がブロックされたのだと気づいた。胸の中の不安が、どんどん膨らんでいく。焦りと緊張に駆られながら、雅也は藍里の番号に電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか――」無機質なアナウ
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第10話
雅也は藍里の部屋に戻った。もとより、藍里の荷物はそう多くなかった。その大半は、雅也が半ば強引に買い与えたものだった。それでも、部屋は殺風景で、がらんとしていた。この家に残っていたはずの、二人の痕跡が見事に消え去っていた。彼が贈ったプレゼント。二人で旅行したときの土産物。藍里が大切にしまっていたはずの写真の数々、すべてなくなっていた。彼は出窓に腰を下ろし、窓の外へ視線を向けた。枯れた葉がひらひらと回りながら舞い落ちていく。雅也はふと身を起こした。ベッドの下で、何かがかすかに光っている。手を伸ばして拾い上げ、表面に積もった埃をそっと拭った。その瞬間、閉ざされていた記憶が一気に蘇った。これは、彼が初めてもらった奨学金で藍里に買った、安物の銀のブレスレットだった。周りの女の子たちが年頃になって綺麗なアクセサリーを身につけ始める中、藍里だけは何も持っていなかった。おしゃれというより、普通の女の子としてのささやかな憧れだったのだろう。あの頃二人は貧しく、時には満足に食事すらとれないほどだった。食べるだけで精いっぱいだった二人に、アクセサリーを買う余裕などあるはずもなかった。藍里は一度も口に出さなかったけれど、誰かの手首で光る綺麗なブレスレットを見かけるたび、思わず二度見してしまうことがあった。その憧れは隠しきれるものではなかった。だから彼は初めて奨学金を受け取ったとき、迷わずそれを買った。一番シンプルなデザインで、値段もほんの数千円の代物だった。けれど藍里はそれを見た瞬間、もったいないから返品してきてと言った。それでも雅也は、彼女の目に浮かんだ驚きと喜びをはっきりと見て取っていた。あれが二人の初めての喧嘩だった。結局、藍里はそれを受け取った。それからというもの、彼女はほとんど毎日それを肌身離さず身につけていた。雅也はブレスレットを手のひらの中に握りしめた。とめどない思いが胸の奥から込み上げてくる。雅也が再び実験室に姿を見せたのは、それから二日後のことだった。たった二日の間に彼はすっかりやつれたように見え、全身に暗く沈んだ雰囲気を漂わせていた。沙雪はまるで何事もなかったかのように、雅也のそばに近づいてきた。「これ、うちの両親が選んだ婚約パーティーの会場候補なの。どれがいい?」沙雪は雅也が受
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