Mag-log in「夏子、月末に田舎へ帰ろうと思うの。たぶん、ずっとそっちで暮らすわ。あなたのネイルサロン、私の働く場所を空けといてね」 そう告げると、電話の向こうから親友の高寺夏子(たかでら なつこ)の驚いた声が返ってきた。 「ちょっと、帰ってくるの!?あんたが引き取って面倒を見たあの子、今じゃ西京大で一番若い教授じゃない。あんたが何年も働いて支えて、やっと苦労が報われたところなのに。西京市での何不自由ない暮らしをなげうって、なんでまたこんな田舎町へ帰るのよ?まさか……彼、あんたに冷たいんじゃないでしょうね」 「そんなことない。雅也は、いつも私によくしてくれてる」 一山藍里(いちやま あいり)は無意識にスマホの縁をなぞりながら、言葉を濁した。 「ただ、もう西京にはいたくないの。それだけ」 「じゃあ、栗栖は?一緒に帰るの?」 一瞬、藍里は息を呑んだ。窓から差し込む夕陽に長く引き伸ばされた影が、壁にただひとつ、寄る辺なく落ちている。 「ううん。私だけ」 そう答える自分の声を、藍里はまるで他人事のように聞いていた。 「雅也はこっちに残るから。結婚して、家庭を築いて、ここで新しい人生を歩んでいくの」
view more翌年の冬、藍里の体はすっかり回復し、検査結果も良好で、二人は心から喜んだ。成樹は、藍里がずっと見たいと言っていたオーロラを見せに連れて行ってくれた。冷たい風が藍里の頬をかすめ、彼女はマフラーを顔の半分近くまで引き上げた。ノルウェーの冬の夜は凍るような寒さだったが、オーロラを見られるならそんな寒さなど何でもなかった。「もう少し待ってて。ガイドさんの話だと、今夜は出現確率がかなり高いらしい」そばに立つ成樹が保温ポットを差し出す。冷たい空気の中、湯気が白く立ち上っていた。「温かいの、飲んで体を温めて」「オーロラが出ました!」ガイドの声に、二人は同時に空を見上げた。遠くの夜空に、淡い緑色の光の帯がゆっくりと揺らめきながら広がっていく。最初は弱々しかったその光は時間とともにどんどん鮮やかさを増し、やがて緑色の流れる川のように、形を変えながら夜空いっぱいに広がっていった。「綺麗……」藍里は思わず呟き、寒さのことなどすっかり忘れていた。成樹も彼女のそばで、この自然の奇跡に言葉を失っていた。彼はそっと藍里の横顔を見つめる。オーロラの光に照らされた彼女の瞳は、星よりも眩しく輝いていた。「藍里」成樹が不意に彼女の名を呼んだ。声がわずかに震えている。「うん?」藍里が振り返ると、成樹の表情はこれまでにないほど真剣だった。そのとき、成樹は片膝をつき、ポケットから小さな箱を取り出した。藍里の心臓が一瞬止まりそうになった。目を見開いて見守る中、成樹が箱を開けると、そこにはルビーをあしらった指輪が、オーロラの光を受けて輝いていた。成樹は深く息を吸い込むと言った。「俺と結婚してくれる?」その瞬間、頭上のオーロラはひときわ鮮やかに輝いていた。緑と紫のオーロラが天頂で踊り、まるで夜空全体が二人の誓いを祝福しているかのようだった。藍里の目に涙がにじんだ。彼女は頷いた。「うん。喜んで」翌年の春、二人は結婚式を挙げた。その後、かつて諦めた夢を取り戻すように藍里は海外に留学した。かつては成績が振るわなかった彼女だったが、その後博士号まで取得したのだ。名門大学の壇上に立ち、客席にいる成樹を見つめながら彼女は言った。「私がここまで来られたのは、ずっと支えてくれた最愛の人がいたからです。彼の支えがあったからこそ
成樹は藍里にすぐの返事を求めなかった。「無理に答えなくていいから。まずはゆっくり休んで。話はまた数日後でいい」数日の療養を経て、藍里は少しずつ流動食を口にできるようになり、顔色もずいぶん良くなってきた。成樹がお粥をスプーンですくい、息を吹きかけて冷ましながら言う。「熱いから気をつけて。ゆっくり食べて」藍里は彼の手首をそっと掴んだ。「成樹、話したいことがあるの」彼女は成樹の顔を見つめながら、これまで彼がしてくれたことの数々を思い返していた。毎日欠かさず届けてくれた花々。丁寧に作ってくれた消化に良い食事。手術の前後、行き届いた看病。どれもささやかなことばかりだった。けれど藍里の心を動かしたのは、そのささやかなことの積み重ねだった。これまでの日々が胸に押し寄せ、心の奥底に眠っていた種が芽吹こうとしていた。藍里は思った。自分はもう、燃え上がるような恋を求めているわけではない。それよりも、こういう穏やかな想いのほうが、ずっと心に残るのだと。「……本当に、私のことがそんなに好きなの?」「うん!」彼は迷いなく頷いた。「でも私、あなたより四つも年上よ」「そんなの関係ない」「私、長い間、ある人のことを好きだったんだよ?」「気にしない」成樹の熱を帯びた眼差しが藍里に注がれる。近づけば近づくほど、彼は臆病になっていくようだった。胸の高鳴りが響く中、彼は何度も頭の中で反芻した言葉を紡いだ。「藍里、好きだ。ただ藍里だから好きなんだ。他のことは関係ない。そんなことは何も気にしない」夏の風は少し熱を帯びていたが、なぜかそれが藍里の心に残っていた迷いをそっと拭い去っていった。彼女は言った。「付き合いましょう」成樹はそれから何日も興奮して眠れなかった。退院を間近に控えたある日、雅也が強引に病室へ踏み込んできた。この間ずっと、成樹が手配した警備の男たちに阻まれ、面会の機会すら得られなかった彼だった。警戒するように前に立ちはだかる成樹を見て、藍里は手を伸ばし、なだめるように彼の腕を叩いた。「大丈夫。そろそろ、ちゃんと話しておいたほうがいいと思うから」固く握られた二人の手を見て、雅也の胸に鋭い痛みが走った。「藍里、こいつとどういう関係なんだ?」「見舞いに来たって言いながら開口
「嫌ってなんかない!そんなわけないだろう……!」藍里は嘲るように小さく笑った。「そうね。あなたに私を嫌う資格なんて、なかったでしょうね」彼女は自分の両手を掲げてみせた。「あなたの学費を稼ぐために、真冬でも暖房のない厨房で、朝から晩まで皿洗いをしてきたの。一日中冷たい水に手をさらし続けて、おかげで今でも、冬になるとしもやけが痒くて痛むの。膝だって重い荷物を運び続けたせいですり減って、雨の日は特に痛む」腰の古傷も、手のひらのたこも、すべて雅也のためにどんな辛い仕事でもやってきた証だった。時々、鏡に映るみすぼらしい自分を見ては、彼の隣に立つ資格すらないんじゃないかと思うこともあった。自分が自分を卑下するのは構わない。でも、雅也からそんな目で見られることだけは、どうしても耐えられなかった。「十代や二十代の女の子が綺麗な服を着たくないわけないでしょう。でもお金を貯めるために、一着の服を七、八年も着続けた。冬だって、まともなコート一枚買うことすら躊躇った。体調を崩してもいつも我慢して、安い薬を飲んで済ませてきた。雅也、あなたはそれをずっと見てきたはずなのに、その苦労を少しでも心に留めてた?」「ごめん、藍里。僕が本当に間違ってた。後悔してる」その言葉に、藍里は小さく笑った。「ふん。『後悔してる』で済むなら、私だって言わせてもらう。あなたを好きになって、あのとき川から助けたことも後悔してる。何年も自分のことを後回しにして、あなたを学校に通わせるために必死で働いたことも、全部よ。私は、してあげたことをいちいち持ち出して、見返りを求めたいわけじゃない。でも、だからって私がしてきたことを当たり前みたいに受け取って、私の気持ちまで踏みにじっていいわけじゃないでしょう」藍里の顔に深い疲労の色が滲んだ。もうこれ以上、彼と関わり合うつもりはなかった。「他に用がないなら、私はもう行くね」雅也は引き止めようとしたが、喉元まで出かかった言葉は、最後まで形にならなかった。ただ、彼女が去っていく後ろ姿を静かに見送ることしかできなかった。手術を控えた夜、藍里はベッドに横たわったまま眠れずにいた。ドアが開き、忍び足で入ってくる成樹の姿があった。「しーっ。看護師さんに気づかれないように来たんだ。どうせ眠れてないだろうと思って
雅也は力なく手を下ろし、かつて藍里と暮らしていた場所へと戻った。今、その家はすっかり改装され、当時よりもずっと立派になっていた。記憶をたどるように、雅也は裏庭の木の下へ足を運んだ。木にかかったブランコは傷んでいて、少し触れただけで剥がれかけた木片が落ちてきた。雅也は放心したようにブランコを見つめながら、自分と藍里の過去に思いを馳せた。このみすぼらしいとさえ言える家で、彼は人生で最も暗い時期を過ごした。庭の塀越しに、外からの噂話や罵倒、嘲りの声が絶えず聞こえてきた。何度も心が折れそうになったが、そのたびに藍里はそっと両手で彼の耳を塞ぎ、言ってくれた。「雅也、大丈夫。私がずっとそばにいるから」二人で過ごした十年間、振り返ればそこには必ず藍里がいた。最初の頃、藍里が自分を学校に通わせるためにバイトを三つ掛け持ちし、冬にはしもやけで真っ赤に腫れたその指先に、彼はそっと口づけを落とした。「藍里、必ず幸せにするから」時が流れ、その誓いは色褪せていった。暮らし向きが良くなった頃、彼は代わりに自分と藍里に向けられる周囲の陰口を気にするようになっていった。学歴もない、フリーターの女。彼には釣り合わない。そういった言葉の数々を、雅也はいつしか気にするようになっていた。彼は無意識に藍里が働く場所を避けるようになり、誰かが彼女を貶めても以前のように庇わなくなった。挙げ句には、藍里が差し入れてくれる物にさえ嫌そうな顔をするようになった。そこまで思い出すと、雅也はその場に崩れ落ち、苦しげに地面に両手をついた。「藍里、ごめん……本当に、ごめん」西京。「本当に毎日来なくていいのに。自分のことは自分でできるし、こっちには看護師さんもいるし」成樹はその言葉を聞きながら、テーブルに食事を並べる手を止めなかった。「わかってる。でも、そばにいたいんだ」彼の眼差しが熱っぽく、藍里は少し気まずくなって視線を逸らした。藍里は成樹の特別な感情に気づいていた。けれど彼がはっきり口にしないうちは、こちらから触れるのもためらわれた。そんな彼女の心境を見透かしたように、成樹はいつも以前の「命の恩」を言い訳にして接してきた。「明日は仕事で来られないかもしれない。ちゃんとご飯、食べるんだよ。もうすぐ手術だから、先生も栄養のあ