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妹の笑顔

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-09-23 10:48:40

畳の上で息をつく間もなく、廊下の方からぱたぱたと足音が聞こえた。

藤並は顔を上げた。

足音は軽いが、リズムはきちんとしている。

その足音には、昔のような甘えや頼りなさはなかった。

「お兄ちゃん」

結衣が帳簿を抱えて、小走りでやってきた。

手にしているのは分厚いバインダー。

表紙には「売上」「仕入」と手書きの付箋が貼られている。

その姿を見て、藤並は少しだけ目を細めた。

「久しぶり。忙しかったんでしょ」

結衣は、肩で息をしながら笑った。

その笑顔は、昔と同じようでいて、どこか違った。

唇の端がしっかりと上がっている。

けれど、目の奥にある光は柔らかさと同時に、強さも持っていた。

「私たちのことは大丈夫だから」

帳簿を抱えたまま、結衣はそう言った。

その言葉が、胸の奥に落ちた。

過去の自分なら、「そんなはずはない」と反射的に思っていたかもしれない。

けれど、今は違った。

結衣の手つきは、確かに頼もしかった。

「帳簿、見せてくれるか」

藤並は静かに言った。

「うん」

結衣はバインダーを開き、ページをめくる。

数字が並んでいた。

仕入れ先、単価、売上、予約の一覧。

きちんと整えられている。

ペンの走りも乱れていない。

「黒瀬さんに教えてもらってた時期は、正直怖かったけど」

結衣はふっと笑った。

「でも、今は大丈夫」

その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。

黒瀬の影が一瞬、脳裏をよぎる。

けれど、その影を払いのけるように結衣は続けた。

「仕入れも、もう業者さんと直接交渉してるし。経営の立て直しは、私たちでやるから」

帳簿を閉じる音が、部屋の空気を切った。

「だから、お兄ちゃんはもう無理しないで」

結衣は、バインダーを脇に抱えたまま、真っ直ぐ藤並を見た。

その目は、揺れていなかった。

昔の結衣なら、どこかで甘えていただろう。
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  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   夕暮れの部屋とコーヒーの湯気

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