小雨が降っていた。四月の終わりとは思えないほど肌寒い日で、ホテルのロビーには湿った空気が籠もっていた。藤並は、冷えた指先で資料を抱えながら、経営者向け講演会の控室へと足を運んでいた。黒いスーツの上着は肩のラインがきちんと整えられ、ネクタイも完璧に締められている。だが、胸元につけた名札の裏で、藤並の心は静かに擦り切れていた。「藤並 蓮」と書かれた名札は、白地に黒文字のシンプルなものだった。名札の文字を何度も指先でなぞりながら、彼は思っていた。自分は、名前で呼ばれることなんてほとんどない。ただ「顔がいい」と言われるだけだ。面接でも、企業説明会でも、いつも決まって同じことを言われる。「君は華があるね」「営業に向いているよ、顔で得するだろう」何度その言葉を聞いただろうか。最初は受け流していたが、だんだんと胸の奥に澱のように溜まっていった。「顔だけで選ばれるなら、いっそ商品になればいいのに」と、ふと心のどこかで思うことがある。資料を抱えた腕に、かすかな汗が滲んだ。冷たいのか、熱いのか、自分でもよくわからない。会場のドアの前で立ち止まり、深呼吸を一つ。口角を上げる。それが、藤並の「就活用の顔」だった。ガラス越しに見える外の景色は、ぼんやりと滲んでいた。小雨が窓を伝い、しずくがゆっくりと滑り落ちていく。その動きを眺めながら、藤並は思考を止めた。考えれば考えるほど、足が動かなくなるからだ。「…失礼します」低い声で控室のドアを開ける。中には、講演会を終えた経営者たちが談笑していた。スーツの色は濃いネイビーやブラック。時計は高級ブランドのものばかりだ。湿った空気の中で、あの人たちだけが別の時間を生きているように見えた。「こちら、次の資料になります」藤並は丁寧に資料を配る。目線は胸の高さ。相手の目は見ない。見れば、何を考えているかすぐにわかってしまうからだ。「君、学生さん?綺麗な顔してるね」やっぱり、そう言われた。にこりと笑って「ありがとうございます」と返す。これも就職活動の一環だ。ボランティアスタッフとして働くことも、業界の空気を知るためだと自分に言い聞かせていた。けれど、心のどこかが冷えていくのを感じた。何をしても、俺は商品にしか見られない。顔を褒められるたびに、内側が削られていく。資料を配り終え、最後の一冊を抱えて立ち止まる。鏡に映った自分
Terakhir Diperbarui : 2025-07-19 Baca selengkapnya