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視線の一瞬

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-19 19:04:17

控室の時計が、ゆっくりと秒針を刻んでいる。

スーツの袖口を整えながら、葛城美沙子は薄いグラスに残った氷を転がした。ガラス越しの外には小雨が降り続けていて、都心のビル群が濡れたアスファルトに歪んで映っている。春とは思えない冷たい空気が、窓越しに肌を撫でた。

講演会は、予定通りに終わった。経営者たちの談笑が続く中、美沙子は一歩だけソファから身を起こした。相手の表情を読むのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだ。誰が退屈しているか、誰がまだ話したがっているか、誰が誰に媚びを売っているか。すべてが手に取るようにわかる。

けれど、その瞬間だった。控室のドアが小さくノックされた。

「失礼します」

静かな声が響いた。女性でもなく、年配でもなく、若い男の声だった。

扉が開き、トレーを持った青年が入ってくる。その姿を見たとき、美沙子の喉が微かに鳴った。

細い…と、心の中で呟いた。

細い首筋、丁寧に結ばれたネクタイ、スーツの肩のラインは合っているのに、どこか頼りなげに見える身体。まるで、柔らかい絹を無理やり形にしたような、不安定な美しさだった。

彼が顔を上げた。

目が合った。

けれど、その目は…何も映していなかった。

「お茶をお持ちしました」

微笑んでいる。

口元は完璧に笑顔を作っている。けれど、目だけが空っぽだ。

どうして、この子はこんな顔をしているのかしら…美沙子はグラスを持つ手を止めた。

まるで、割れ物を手渡すような仕草で、彼はお茶を置いていく。

動きは滑らかだった。無駄がなく、よく訓練されている。だけど、そこに「生きている感触」がない。

ああ…これは、いいわ。美沙子は思った。

この子は、まだ誰にも汚されていない。

身体も、心も、きっとまだ誰のものにもなっていない。

だけど、もうすでに壊れかけている。

そんな目をしている。

壊したい。

その目を、もっと奥まで割ってみたい。

そうすれば、どんな声を出すのだろう。

「あなた、学生さん?」

声をかけると、青年は一瞬だけ目を伏せた。

「はい。就職活動中で、今日はボランティアスタッフとしてお手伝いしています」

美沙子は唇の端をゆるく上げた。

年齢は二十、二十一か。顔立ちは整っているが、ただ綺麗なだけではない。細いのに艶がある。危ういのに色気がある。まるで、壊れやすいガラス細工を握りつぶしたくなる衝動に駆られる。

「お名前は?」

「藤並 蓮と申します」

名札に目を落とす。黒い文字が静かに並んでいた。

藤並…聞き覚えがある名前だ。老舗料亭の家かしら、と記憶を探る。

「藤並さんって、あの料亭の?」

「はい。実家が…」

声が少しだけ揺れた。その瞬間、美沙子は確信した。

これは、間違いなく…壊せる。

表情は微笑んだまま、内心でぞくりと背筋が震える。

この子は、誰にも触れられたことがない。けれど、すでに心が裂けかけている。

その隙間に指を入れて、広げてみたらどうなるだろう。

優しく壊して、自分だけの形に組み直したい。

誰にも渡さず、手元に置きたい。

息をするたびに、自分の名前だけを呼ばせたい。

「ご実家、大変ね。最近、景気が厳しいでしょう?」

「……ええ」

一瞬、唇が震えた。それをすぐに抑えて、また営業スマイルを作る。

この子は、微笑む訓練をしている。

けれど、それは自分を守るためじゃない。

もう、諦めている顔だ。

美沙子は、グラスを置いた。氷がカランと鳴る。

胸の奥が、ひりつくように熱くなる。

欲しい。

この子が欲しい。

まだ誰にも穢されていないうちに、自分のものにしたい。

「またお会いできるかしら」

「……はい」

返事は静かだった。けれど、その声には諦めの色が混じっていた。

美沙子はその諦めを、手のひらで包み込みたくなった。

この子は、自分のものになる。

いえ、正しく言えば…自分の手で、そう仕向ける。

「ありがとう。美味しいお茶だったわ」

「恐縮です」

藤並は一礼して、静かに控室を後にした。

背中が細い。肩甲骨が浮かんで見える。

美沙子は唇の裏で、舌先をゆっくりと転がした。

こんな美しいものが、なぜ、まだ誰のものでもないのかしら。

いいわ。私が壊してあげる。

私だけのものにする。

そして、その目を…私の色に染めるの。

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