控室の時計が、ゆっくりと秒針を刻んでいる。
スーツの袖口を整えながら、葛城美沙子は薄いグラスに残った氷を転がした。ガラス越しの外には小雨が降り続けていて、都心のビル群が濡れたアスファルトに歪んで映っている。春とは思えない冷たい空気が、窓越しに肌を撫でた。講演会は、予定通りに終わった。経営者たちの談笑が続く中、美沙子は一歩だけソファから身を起こした。相手の表情を読むのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだ。誰が退屈しているか、誰がまだ話したがっているか、誰が誰に媚びを売っているか。すべてが手に取るようにわかる。
けれど、その瞬間だった。控室のドアが小さくノックされた。
「失礼します」
静かな声が響いた。女性でもなく、年配でもなく、若い男の声だった。
扉が開き、トレーを持った青年が入ってくる。その姿を見たとき、美沙子の喉が微かに鳴った。細い…と、心の中で呟いた。
細い首筋、丁寧に結ばれたネクタイ、スーツの肩のラインは合っているのに、どこか頼りなげに見える身体。まるで、柔らかい絹を無理やり形にしたような、不安定な美しさだった。彼が顔を上げた。
目が合った。 けれど、その目は…何も映していなかった。「お茶をお持ちしました」
微笑んでいる。
口元は完璧に笑顔を作っている。けれど、目だけが空っぽだ。 どうして、この子はこんな顔をしているのかしら…美沙子はグラスを持つ手を止めた。まるで、割れ物を手渡すような仕草で、彼はお茶を置いていく。
動きは滑らかだった。無駄がなく、よく訓練されている。だけど、そこに「生きている感触」がない。ああ…これは、いいわ。美沙子は思った。
この子は、まだ誰にも汚されていない。身体も、心も、きっとまだ誰のものにもなっていない。
だけど、もうすでに壊れかけている。 そんな目をしている。壊したい。
その目を、もっと奥まで割ってみたい。 そうすれば、どんな声を出すのだろう。「あなた、学生さん?」
声をかけると、青年は一瞬だけ目を伏せた。
「はい。就職活動中で、今日はボランティアスタッフとしてお手伝いしています」
美沙子は唇の端をゆるく上げた。
年齢は二十、二十一か。顔立ちは整っているが、ただ綺麗なだけではない。細いのに艶がある。危ういのに色気がある。まるで、壊れやすいガラス細工を握りつぶしたくなる衝動に駆られる。「お名前は?」
「藤並 蓮と申します」
名札に目を落とす。黒い文字が静かに並んでいた。
藤並…聞き覚えがある名前だ。老舗料亭の家かしら、と記憶を探る。「藤並さんって、あの料亭の?」
「はい。実家が…」
声が少しだけ揺れた。その瞬間、美沙子は確信した。
これは、間違いなく…壊せる。表情は微笑んだまま、内心でぞくりと背筋が震える。
この子は、誰にも触れられたことがない。けれど、すでに心が裂けかけている。 その隙間に指を入れて、広げてみたらどうなるだろう。 優しく壊して、自分だけの形に組み直したい。 誰にも渡さず、手元に置きたい。 息をするたびに、自分の名前だけを呼ばせたい。「ご実家、大変ね。最近、景気が厳しいでしょう?」
「……ええ」
一瞬、唇が震えた。それをすぐに抑えて、また営業スマイルを作る。
この子は、微笑む訓練をしている。 けれど、それは自分を守るためじゃない。 もう、諦めている顔だ。美沙子は、グラスを置いた。氷がカランと鳴る。
胸の奥が、ひりつくように熱くなる。欲しい。
この子が欲しい。 まだ誰にも穢されていないうちに、自分のものにしたい。「またお会いできるかしら」
「……はい」
返事は静かだった。けれど、その声には諦めの色が混じっていた。
美沙子はその諦めを、手のひらで包み込みたくなった。この子は、自分のものになる。
いえ、正しく言えば…自分の手で、そう仕向ける。「ありがとう。美味しいお茶だったわ」
「恐縮です」
藤並は一礼して、静かに控室を後にした。
背中が細い。肩甲骨が浮かんで見える。美沙子は唇の裏で、舌先をゆっくりと転がした。
こんな美しいものが、なぜ、まだ誰のものでもないのかしら。
いいわ。私が壊してあげる。 私だけのものにする。そして、その目を…私の色に染めるの。
ホテルのバスルームには、湿気がこもっていた。夜九時。梅雨入り前の都内は、じっとりとした蒸し暑さがまとわりついている。シャワーヘッドから流れる熱めの湯が、藤並の肩を打っていた。肌の表面を流れる湯は滑らかで、滴る水滴がタイルに落ちるたび、規則的な音を立てる。その音だけが、耳の中で反響していた。鏡の前に立つと、曇り止め加工された一部だけが、はっきりと自分の姿を映していた。そこに映るのは、五年前よりもさらに整った顔だった。学生時代にはまだ残っていた幼さは、もうどこにもない。輪郭は少しだけシャープになり、頬骨のあたりに影が落ちる。髪はきちんとセットされ、濡れたままでも艶がある。唇はリップクリームを塗ったばかりで、微かに光っていた。けれど、その目だけは、どこか遠くを見ていた。鏡の中の藤並は、完璧に整っている。なのに、目が乾いている。まばたきをしても、潤いは戻らなかった。「これは日常だ」心の中で呟いた。五年前、初めて美沙子に抱かれた夜。あのときから、こうして身体を整えることが習慣になった。バスルームで自分を磨き上げるのも、艶やかな肌を保つのも、唇をしっとりと保つのも、全部「役割」の一つだった。「呼ばれれば、機械のように抱かれる」シャワーの湯を止めると、バスルームの湿度がいっそう重たくなった。タオルで水気を拭き取りながら、藤並は鏡の中の自分を見た。微笑む練習をする。唇の端を少しだけ上げる。営業スマイルと同じ。でも、目は笑わなかった。バスローブを羽織り、前を合わせる。タオルで髪を押さえながら、もう一度鏡に向かう。濡れた前髪が額に張りついている。それを、指先で整えた。指先はしなやかに動く。美沙子が好む「艶」のある仕草を、自然にできるようになっていた。肌は、手入れを欠かさないから滑らかだ。爪もきちんと整えてある。唇には、もう一度リップクリ
夜になった。実家の二階、自室の明かりは消していた。カーテンの隙間から、街灯の薄い光が差し込んでいる。白い天井に、それがぼんやりと広がり、輪郭を失った影を作っていた。藤並はベッドの上で、仰向けになっていた。掛け布団は胸元までかかっているが、温度は感じなかった。手のひらが、掛け布団の下でゆっくりと動いた。自分の身体に触れる。下腹部に手を滑らせる。性器に指先がかかった。指が触れると、反応はあった。ゆっくりと、熱が集まり、形を主張し始める。けれど、その感覚は、自分のものではないようだった。身体だけが、勝手に動いている。心はどこか遠い場所に取り残されていた。「何やってんだろ、俺」小さく呟いた声が、部屋の中で吸い込まれた。快感はある。けれど、それはただの生理現象に過ぎなかった。心の奥に、何も届かない。興奮も、欲望も、そこにはなかった。目を閉じた。瞼の裏側が、じんわりと痛かった。眠れていない目の奥が、鈍く疼いている。それでも、手は動きを止めなかった。自分が、まだ「生きている」ことを確かめるためだった。「もし、あの時、好きだと言えたら」野村のことが浮かんだ。中学三年、放課後の校舎裏。肩が触れたあの日。野村は、何も知らなかった。ただ笑って、部活の話をしていた。あのとき、自分は一歩踏み出せなかった。胸の奥に湧き上がる気持ちを、飲み込んだ。「普通じゃない」と思われるのが怖かった。「おかしい」と言われるのが怖かった。だから、黙った。笑ってごまかした。もし、あの時、好きだと言えていたら。この手で、自分の身体を慰める夜はなかったかもしれない。こんなふうに、心と身体がずれたまま、生きることもなかったかもしれない。だけど、もう遅い。美沙子に抱かれた夜が、自分の中
実家の玄関前に立つと、朝の光がゆるやかに石畳を照らしていた。雨は上がっていた。昨夜降った雨が、まだ地面に残る水滴をまとわせ、庭の植え込みにも、木の葉の先にも、透明な粒をいくつも揺らしていた。藤並は、玄関扉の前で深く息を吸った。その呼吸は、胸の奥で詰まった。空気が湿っている。雨上がりの匂いと、ほんの少し土の匂い。それを感じながら、ポケットの中で手を握りしめた。「ただいま」小さな声で呟いて、扉を開けた。軋む音が耳に届く。それは毎朝の、変わらない音だった。「おかえり、蓮」母親が玄関に出てきた。朝の光が、母親の白髪混じりの髪に反射している。眠たげな目をこすりながら、けれど微笑んでいる。「朝まで仕事だったの?」「うん。急な仕事が入って」藤並は、靴を脱ぎながら答えた。スーツの裾に、まだ昨夜の湿気が残っている気がした。ネクタイを緩める指先が、かすかに震えた。けれど、その震えを隠すのは、もう慣れていた。「大変ね。ご飯、用意してあるけど、食べる?」「…あとで。少しだけ横になるよ」母親は何も聞かずに頷いた。それが救いだった。問い詰められることも、心配されることも、今は必要なかった。玄関の匂いは、昔から変わらない。木の香りと、少し湿った畳の匂い。それを感じながら、藤並はふっと目を閉じた。母親の手が、藤並の肩に触れた。その手は、いつも通り温かかった。けれど、藤並には、その温度を感じることができなかった。感覚が、どこか遠い場所にあった。触れられているのに、まるでガラス越しのようだった。「身体、壊さないようにね」「うん。大丈夫だよ」言葉だけが口から出た。それは、自分のものではないようだった。階段を上がるとき、足が重かった。でも、ゆっくり
ホテルのロビーは、まだ朝の支度が始まる前の静寂に包まれていた。フロントのスタッフが低い声で朝刊を受け取り、ベルボーイが無言でカウンターを拭いている。天井のシャンデリアは、昨夜と同じ柔らかな光を落としているが、その輝きも、どこか乾いたものに見えた。藤並は、ロビーの一角に立っていた。スーツの襟を整え、ネクタイを締め直す。それはもう、習慣のような動作だった。鏡の中に映る自分の顔は、いつもの藤並だった。営業スマイルも、完璧に作れる。だが、頬の奥で、筋肉が微かに引きつるのが自分にはわかっていた。「蓮くん」美沙子が後ろから声をかけた。足音は軽い。ヒールのかかとが、絨毯に沈み込む音が、柔らかく耳に届いた。振り返ると、美沙子は黒いワンピースを着ていた。完璧な化粧。夜とは違う、朝の顔。けれど、その瞳の奥は、やはり冷たかった。「車、呼んでおいたわ」美沙子が笑った。唇だけがほころぶ。その微笑みに、藤並はまた、営業用の笑顔で応えた。「ありがとうございます」「また来てね、蓮くん」その言葉は、何気ない一言のように聞こえた。けれど、藤並にはその裏にあるものがはっきりと見えていた。「また来てね」それは「繰り返す未来」の宣言だった。これが一度きりではないことを、美沙子は最初から知っている。そして、藤並も知っていた。黒塗りの車が、ロビー前に滑り込んできた。運転手が無言で降りて、後部座席のドアを開ける。その動作もまた、流れるように滑らかだった。藤並は、心の奥で何かが止まる音を聞いた。それは「諦め」と呼ばれるものかもしれなかった。あるいは「壊れる」という感覚だったかもしれない。「壊れてもいい。もう、それでいい」胸の奥で、静かに呟いた。これは自分の選んだ道だ。誰かのせいにするつもりはなかった。家を守るた
バスルームの中には、熱い湯気が立ちこめていた。ガラス扉が曇り、その向こうには自分の輪郭がぼんやりと映っている。藤並は、シャワーを浴びながら、黙って立ち尽くしていた。頭の上から降り注ぐ熱いお湯が、肩を打ち、背中を這う。けれど、肌の表面を流れる感覚は、どこか遠くのことのようだった。「流せるなら、全部流してしまいたい」心の中で、そう呟いた。けれど、流れ落ちるのは汗と湯だけだった。自分の中に入り込んだものは、流れない。美沙子の爪の痕も、身体の奥に残る違和感も、熱い湯では消えなかった。股間には、まだ微かな感覚が残っていた。昨夜の余韻。それは確かに快感だったはずだ。でも、嫌悪感とともにそこにあった。「嫌だった」唇の裏を噛む。それでも、身体は反応した。拒否したかったのに、心とは裏腹に、身体は素直に快感を受け入れてしまった。あの柔らかい感触も、熱も、まだ身体の奥にこびりついている。お湯が、首筋から胸元を流れ落ちる。指先が無意識に自分の腹を撫でた。皮膚の上を滑る手のひらが、他人のもののようだった。身体と心が、完全に乖離している。「もう、どこにも戻れない」言葉が胸の奥で重く響く。自分はもう、以前の自分じゃない。これが生きるための選択だった。だけど、その代償はあまりにも大きかった。熱いお湯が、股間を流れる。それでも、感覚は消えない。ぬるりとした記憶が、肌の奥に染みついている。「野村…」水音に紛れて、心の中でその名前を呼んだ。誰にも聞こえないように、唇だけが動く。あのとき、好きだと言えたら。肩が触れたあの日、勇気を出していたら。今、こんなふうに壊れることはなかったのかもしれない。けれど、もう遅かった。もう何もかも、遅すぎた。シャワーのお湯は、ますます熱くしてい
シーツの間から、微かな動きが伝わってきた。美沙子が目を覚ましたのだと、藤並はすぐに気づいた。呼吸のリズムが変わった。眠っていたときの深い吐息が、少し浅くなり、そして次の瞬間、ゆっくりと藤並の胸に手が置かれた。「おはよう、蓮くん」美沙子の声は、柔らかかった。まるで恋人に話しかけるような甘い声音だった。けれど、その指先は違っていた。胸元に置かれた手の爪が、わずかに立った。爪先が、藤並の皮膚を微かに押し、細い痕を残す。それは、ただの挨拶ではなかった。「もう逃げられない」その意味を、藤並は理解していた。「…おはようございます」藤並は微笑みを作った。営業スマイルと同じだ。唇の端を上げるだけの、表情の仮面。けれど、目は笑っていなかった。目だけが、どこか遠い場所を見ていた。美沙子は、シーツを片手で引き寄せ、身体を起こした。バスローブの裾が滑り落ち、白い肩が露わになる。髪は少し乱れているのに、艶やかだった。唇には、まだ微かな湿り気が残っている。「気持ちよかった?」美沙子が、指先で藤並の鎖骨をなぞった。その爪は、相手の反応を楽しむように、軽く肌を引っ掻く。傷はつかない。けれど、藤並の心には確かに痕が刻まれた。「…はい」声がかすれていた。けれど、それ以上に冷めた声にならないよう、慎重に調整した。あくまで柔らかく、素直な後輩としての声色を保った。美沙子は笑った。唇が柔らかくほころぶ。けれど、その笑みの奥には、光がなかった。瞳の奥は、冷たい湖のように静かで、何も映していなかった。「良かったわ」美沙子は、さらに指先を下ろし、藤並の腹の上を撫でた。ゆっくりと、支配を確認するような手つき。もう一度爪を立て、軽く弧を描く。「これからも、蓮くん