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仕組まれた偶然

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-19 19:04:49

窓の外には、晴れ間が広がっていた。

東京の春は気まぐれで、前日の雨が嘘のように、陽光がビル群の隙間を照らしていた。だが、その陽射しは、葛城美沙子にとってはただの背景にすぎなかった。

美沙子は自室のデスクに腰を下ろし、タブレット端末の画面に映し出された資料を指先でめくっていた。手元には、藤並蓮の実家に関する調査報告が積み重ねられている。調査会社に依頼してから三日。彼女が得た情報は、彼女の思惑を裏付けるには十分すぎるほどだった。

老舗料亭「藤並」。創業は昭和初期。戦後、三代目にあたる父親が継ぎ、今も高級料亭として知られているが、実情は異なる。立地の維持費、食材費、職人への人件費…。伝統を守るという美名の裏で、経営はすでに限界に近い。表向きには常連客が支えているように見えるが、その実態は、ほぼ一人の有力資産家による大口支援に依存していた。

その資産家も、昨年病で倒れた。現在は家族によって財産管理が引き継がれ、支援は打ち切られたという。美沙子は静かに息を吐いた。狙いどおりだった。

料亭の帳簿を見れば一目瞭然だった。借入金の返済が滞り始めたのは、ちょうど藤並蓮が就職活動を始めた頃と一致する。つまり、息子が家業に戻ることを避けるため、両親は必死に別の道を模索していたのだろう。あの子の瞳に宿っていた疲れと諦めは、決して個人的な問題ではなかった。家を背負う人間の目だった。

「いい目をしていたわ」

美沙子はそう呟いて、端末を閉じた。唇の端が、わずかに上がる。

彼を手に入れるのに、そう時間はかからない。

けれど、ただ手に入れるだけでは足りない。自分から選ばせなければ意味がない。

罠だとわかった上で、飛び込ませること。それが、快楽だった。

デスクの脇に置かれた電話に手を伸ばす。

番号を押すのに迷いはなかった。

相手は、地方銀行の東京支店長だった。かつてビジネススクールで同じクラスだった男だ。

「葛城です。…お久しぶりね」

「いやあ、これは珍しい。どうされました?」

「ちょっと、気になる企業があって。料亭なんだけど、昔ながらのね。藤並っていうの、ご存じ?」

電話の向こうで、キーボードを叩く音がする。すぐに、確認の声が返ってきた。

「ええ、取引ありますよ。支店ではそこそこ有名ですね」

「融資、続いてるの?」

「まだ続いてますが、正直…返済遅れが出てるって話も。そろそろ見直しかなあって」

「そう。じゃあ、そうなるように動いてくれる?」

「え…」

「正規の手続きはいらない。ただ、“慎重に対応したほうがいいかも”って一言、部下に伝えるだけでいいの。あとでお礼はするわ」

数秒の沈黙の後、男は軽く笑った。

「…あいかわらず、怖いなあ、葛城さんは」

「褒め言葉と受け取るわ」

電話を切った後、美沙子は椅子の背にもたれた。

完璧だった。

融資が打ち切られれば、料亭の経営は一気に崩れる。

そこで、自分が出資者として名乗りを上げる。

「あなたを助ける代わりに、私の会社で働いて。

それだけのことよ、蓮くん」

小さな囁きが部屋に落ちた。誰に聞かせるでもなく、美沙子は言葉を漏らす。

耳元に残る藤並の声。名前を名乗ったときの、微かに震えるトーン。

その声を思い出すだけで、身体の奥が熱くなる。

誰にも汚されていない美しさ。

壊れかけている心。

そのすべてが、自分の欲望を呼び起こす。

すでに、準備は整った。

あと一押し。

あの子が、自分の前に跪くまで。

グラスにワインを注ぎながら、美沙子は薄く笑った。

部屋に差し込む午後の日差しが、彼女の頬の骨を鈍く照らしていた。

口元には、感情を押し殺したままの微かな笑みだけが浮かんでいた。

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