窓の外には、晴れ間が広がっていた。
東京の春は気まぐれで、前日の雨が嘘のように、陽光がビル群の隙間を照らしていた。だが、その陽射しは、葛城美沙子にとってはただの背景にすぎなかった。美沙子は自室のデスクに腰を下ろし、タブレット端末の画面に映し出された資料を指先でめくっていた。手元には、藤並蓮の実家に関する調査報告が積み重ねられている。調査会社に依頼してから三日。彼女が得た情報は、彼女の思惑を裏付けるには十分すぎるほどだった。
老舗料亭「藤並」。創業は昭和初期。戦後、三代目にあたる父親が継ぎ、今も高級料亭として知られているが、実情は異なる。立地の維持費、食材費、職人への人件費…。伝統を守るという美名の裏で、経営はすでに限界に近い。表向きには常連客が支えているように見えるが、その実態は、ほぼ一人の有力資産家による大口支援に依存していた。
その資産家も、昨年病で倒れた。現在は家族によって財産管理が引き継がれ、支援は打ち切られたという。美沙子は静かに息を吐いた。狙いどおりだった。
料亭の帳簿を見れば一目瞭然だった。借入金の返済が滞り始めたのは、ちょうど藤並蓮が就職活動を始めた頃と一致する。つまり、息子が家業に戻ることを避けるため、両親は必死に別の道を模索していたのだろう。あの子の瞳に宿っていた疲れと諦めは、決して個人的な問題ではなかった。家を背負う人間の目だった。
「いい目をしていたわ」
美沙子はそう呟いて、端末を閉じた。唇の端が、わずかに上がる。
彼を手に入れるのに、そう時間はかからない。
けれど、ただ手に入れるだけでは足りない。自分から選ばせなければ意味がない。 罠だとわかった上で、飛び込ませること。それが、快楽だった。デスクの脇に置かれた電話に手を伸ばす。
番号を押すのに迷いはなかった。 相手は、地方銀行の東京支店長だった。かつてビジネススクールで同じクラスだった男だ。「葛城です。…お久しぶりね」
「いやあ、これは珍しい。どうされました?」
「ちょっと、気になる企業があって。料亭なんだけど、昔ながらのね。藤並っていうの、ご存じ?」
電話の向こうで、キーボードを叩く音がする。すぐに、確認の声が返ってきた。
「ええ、取引ありますよ。支店ではそこそこ有名ですね」
「融資、続いてるの?」
「まだ続いてますが、正直…返済遅れが出てるって話も。そろそろ見直しかなあって」
「そう。じゃあ、そうなるように動いてくれる?」
「え…」
「正規の手続きはいらない。ただ、“慎重に対応したほうがいいかも”って一言、部下に伝えるだけでいいの。あとでお礼はするわ」
数秒の沈黙の後、男は軽く笑った。
「…あいかわらず、怖いなあ、葛城さんは」
「褒め言葉と受け取るわ」
電話を切った後、美沙子は椅子の背にもたれた。
完璧だった。 融資が打ち切られれば、料亭の経営は一気に崩れる。 そこで、自分が出資者として名乗りを上げる。「あなたを助ける代わりに、私の会社で働いて。
それだけのことよ、蓮くん」小さな囁きが部屋に落ちた。誰に聞かせるでもなく、美沙子は言葉を漏らす。
耳元に残る藤並の声。名前を名乗ったときの、微かに震えるトーン。 その声を思い出すだけで、身体の奥が熱くなる。誰にも汚されていない美しさ。
壊れかけている心。 そのすべてが、自分の欲望を呼び起こす。すでに、準備は整った。
あと一押し。 あの子が、自分の前に跪くまで。グラスにワインを注ぎながら、美沙子は薄く笑った。
部屋に差し込む午後の日差しが、彼女の頬の骨を鈍く照らしていた。口元には、感情を押し殺したままの微かな笑みだけが浮かんでいた。
ビルの窓ガラスには、灰色の雲が低く垂れ込めていた。朝の光は弱く、薄いカーテン越しに落ちてくる光は、まるで影のように冷たかった。葛城美沙子は、鏡の前に立ち、唇に口紅を引いていた。ネイビーのスーツに身を包み、白いブラウスの襟元を整え、細い指で口角をなぞる。唇の輪郭は完璧に描かれているはずだった。けれど、鏡に映る自分の顔を見たとき、微かに唇の端が震えているのに気づいた。アイシャドウは薄めに仕上げている。目元がきつく見えることは知っている。だからこそ、意図的に色は抑えていた。けれど、それでも鏡の中の自分の目は、どこか尖って見えた。「大丈夫よ」低い声で自分に言い聞かせた。その声は、滑らかで淀みがなかった。ただ、最後の語尾がかすかに掠れていた。気にしないふりをして、鏡から視線を外す。社長室を出ると、廊下にはいつもの朝の光景が広がっていた。秘書たちが並び、整然とした姿勢で出迎える。けれど、その目は…どこか曇っていた。普段なら、軽く会釈を交わしながら「おはよう」と声をかける秘書たちが、今日は誰一人として目を合わせてこない。「おはようございます」秘書の一人が、かろうじて声をかけた。だが、その声には覇気がなかった。目線は床の一点に落とされたままだった。美沙子は、歩くスピードを変えずに応えた。「おはよう」その一言は、普段と同じ響きのはずだった。けれど、自分の耳には妙に冷たく聞こえた。デスクに着くと、コーヒーが差し出された。細い指でカップを受け取る。そのとき、指先が一瞬滑った。コーヒーはこぼれなかった。だが、カップの底がほんの少しだけ机の表面を擦った音がした。その微かな音が、やけに大きく感じられた。コーヒーの香りは、いつもと変わらない。けれど、口元に持っていくと、わずかに唇がこわばった。冷えた空気のせいではない。
湯浅は天井を見つめたまま、呼吸を整えていた。隣には藤並がいる。毛布に包まれ、浅い呼吸を繰り返しているが、眠っているわけではないと湯浅には分かっていた。藤並の肩が、時折ほんのわずかに震える。それは恐怖か、それとも解放への戸惑いか。湯浅には、どちらも分かっているつもりだった。ソファの背もたれに頭を預けると、背筋にわずかな冷たさが伝わる。夜の空気は湿っていて、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。部屋の隅ではスマホが光っている。黒瀬からの通話は終わった。けれど、あの声はまだ耳の奥に残っていた。「決めたよ。協力する」黒瀬のあの言葉を、湯浅は繰り返し思い出していた。社長と沈む気はないーーそれが黒瀬の選択だった。その決断は、全てを動かす。けれど同時に、何かが確実に壊れることも湯浅は知っていた。視線を横に向けると、藤並の額が毛布の中でわずかに動いた。湯浅はその髪にそっと手を伸ばし、撫でた。指先が微かに震える。だが、それを止める理由はなかった。「蓮」名前を呼んでも、返事はなかった。けれど、藤並は湯浅の手の甲に指先を重ねた。そのぬくもりが、湯浅の胸の奥に静かに沁みていった。「夜が明けたら、全部終わる」心の中で呟いた。その言葉は、誰にも聞かれない。けれど、確実に自分の中に落ちた。目を閉じると、胸の奥で何かが静かに軋んだ。けれど、それでもいいと思った。その頃ーー。黒瀬は封筒の口を閉じていた。証言内容を書き出したメモと、裏帳簿のコピー、名義変更の書類。全てを一つの封筒に収めた。机の上に封筒を置くと、その輪郭がやけに鮮明に見えた。夜の部屋はまだ暗い。けれど、窓の外にはわずかな夜明けの気配があった。黒瀬は椅子にもたれ、天井を見た。何も見えないはずの天井に、数字が浮かぶ気がした。これまで
黒瀬は書斎の椅子に座り、深く息を吐いた。机の上には、裏帳簿と名義変更の書類が並んでいる。全て、社長ーーいや、美沙子が命じてやらせたことだった。手のひらを机につき、目を閉じる。心臓が、ゆっくりと鼓動している。だが、そのリズムはどこか不自然だった。胸の奥に、冷たい石が落ちているような感覚がある。書類の山に手を伸ばした。だが、指先が震えて、一瞬止まる。「……これで、本当に終わるんだな」呟いた声は自分のものとは思えなかった。美沙子のために動いた十年間が、紙一枚で崩れる。その事実を、まだ体が受け入れきれていなかった。だが、もう引き返せない。黒瀬は手を伸ばし、裏帳簿のページをめくった。帳簿に記された数字は、何度も見たものだ。料亭藤並の名義変更。不自然な融資記録。帳簿の余白には、美沙子の走り書きが残っている。「欲しいものは全部手に入れなさい」美沙子の声が耳の奥で蘇った。あの女の冷たい笑み。自分はその言葉に従い、何もかもを動かしてきた。だが、欲しいものを手に入れたはずの自分は、今こうして机の前で震えている。ペンを握る手に力を入れた。ボールペンの先を、メモ帳の上に置く。「証言内容」黒瀬は小さくつぶやきながら書き始めた。裏帳簿の操作時期、料亭藤並の名義変更の手続き、社長の指示の有無。全てを正確に思い出しながら、箇条書きにしていく。証言で間違えれば、自分が潰れる。完璧にやらなければならない。手のひらが冷たかった。ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に響く。額から汗が一筋、こめかみを伝った。黒瀬は袖でそれを拭ったが、またすぐに汗が滲む。「……」グラスに残った水滴が、机の上に静かに落ちた。その音がやけに大きく聞こえた。
湯浅はスマホを置き、深く息を吐いた。そのまましばらく動けなかった。指先にはまだ、通話を終えたばかりの黒瀬の声が残っている。低く、かすれるような声だった。決意と、恐怖が入り混じった声。それを聞いた湯浅の胸の奥も、何かが静かに揺れていた。立ち上がると、リビングのソファに目をやった。藤並が毛布にくるまり、目を閉じている。だが、眠れていないことは分かっていた。まつげの影が、ほんのわずかに震えている。肩は布越しに小さく上下している。湯浅は静かにソファのそばに腰を下ろした。毛布の上から、藤並の頭を撫でる。その髪は、夜の湿度を含んで少しだけしっとりとしていた。「黒瀬が動く」低い声で呟いた。藤並の肩が、わずかに跳ねる。だが、目は閉じたままだった。「これで社長は終わる」言い切ったとき、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。だが、もう後には引けなかった。藤並の唇が、ほとんど動かないくらいの小さな声で返す。「……本当に?」湯浅は手のひらを、もう一度藤並の髪に滑らせた。その指先が微かに震えているのを、自分でも感じた。だが、撫でる動きは止めなかった。「……ああ。明日には動く。鷲尾にも伝えた」淡々とした声だった。けれど、その言葉の奥には、今まで積み重ねてきたすべてが詰まっていた。共謀。証拠。脅し。そして、決断。藤並は毛布の中で、小さく息を吸った。「……怖いな」その声は、吐息と区別がつかないほどにかすれていた。けれど、その言葉は確かに湯浅の胸に落ちた。「怖くていい」湯浅はもう一度、藤並の髪を撫でた。指先が耳の後ろを通り、首筋まで滑る。その肌は少しだけ冷たかった。「俺が全部引き受ける」
湯浅はリビングのソファに腰を沈めたまま、暗い天井を見つめていた。夜明けにはまだ時間がある。部屋の中は静かで、時計の秒針だけが規則正しく音を刻んでいた。スマホは手元に置いてある。画面は黒いままだが、着信を待つために電源だけは入れていた。藤並は隣の部屋で眠っている。いや、眠れているかどうかは分からない。きっと浅い呼吸のまま、目を閉じているだけだろう。それを思い浮かべながら、湯浅は右手の指先でソファの肘掛けを無意識になぞった。指先が、柔らかな布の繊維を何度も往復する。その感触だけが、現実につながる確かなものだった。スマホが震えた。音は鳴らない設定にしてあったが、バイブレーションの重い震えが手のひらに伝わる。湯浅は一度だけ息を飲み、画面を見た。「黒瀬」表示された名前を見て、短く目を閉じる。想定通りだ。だが、それでも心臓がわずかに跳ねた。通話ボタンを押すと、すぐに相手の声が聞こえた。黒瀬の声は低かった。けれど、その奥にわずかな震えがある。それが、受話器越しにも伝わってきた。「…湯浅」黒瀬の呼ぶ声に、湯浅は短く応じた。「はい」間があった。数秒の沈黙。その沈黙の中で、湯浅は肘掛けをなぞる指先を止めなかった。「決めたよ」黒瀬の声が続いた。途切れそうな呼吸を押し殺しているようだった。「協力する」湯浅は視線を窓の外に向けた。街の灯りがぼんやりと滲んでいる。深夜のガラス窓には、自分の顔がぼやけて映っていた。「……本当に、よろしいんですね」湯浅の声は低かった。抑えた音量で、言葉を返す。黒瀬が、ここで気持ちを変えることもあり得る。最後まで油断はしなかった。「社長と一緒に沈む気はない」黒瀬はそう言
黒瀬は部屋の鍵を閉めると、そのまま靴を脱がずに壁にもたれかかった。高層階のマンション。夜の街はガラス越しに滲んでいる。静かすぎる空間に、自分の呼吸の音だけが響いている気がした。ジャケットのポケットで、スマホが震えた。画面を見るまでもなく、相手は分かっている。「社長」ーーいや、美沙子からだ。LINEの通知が二度、続けて鳴った。そのまま着信が入り、スマホの通知ランプが暗い部屋で淡く点滅を繰り返す。黒瀬は何も触らなかった。スマホをソファに放り投げ、そのままリビングのグラスに手を伸ばす。だが、氷はすでに溶けきっていた。カランと、ガラスの底で氷の残骸が音を立てた。「……」黒瀬はその音を聞きながら、ソファに沈み込んだ。ネクタイを緩め、首元のボタンを外す。だが、体温は下がらなかった。内側から、何かがじわりと焦げるように熱い。あの女に拾われたのは、もう何年前だろうか。経営の手腕を買われて、会社を立て直すために呼ばれた。最初はただの仕事だった。だが、気がつけば、あの女の欲望に巻き込まれた。「黒瀬、欲しいものは全部手に入れなさい。自分で動けば、手に入るから」あのときの美沙子の声が、耳の奥に蘇る。優しい声だった。けれど、同時に冷たい刃を突きつけられたような感覚が、今でも残っている。忠誠心。それが、自分の盾だと思っていた。社長に従い、裏帳簿を管理し、会社の金を動かす。料亭の名義変更も、自分が手を貸した。それが「正義」だと、自分に言い聞かせてきた。だが、それは本当に正義だったのか。今になって、それが分からなくなっている。「……俺は、どっちに沈むんだ」黒瀬は呟いた。社長と一緒に沈むのが、筋かもしれない。だが、自分の人生を投げ捨てるほどの忠誠心が、今の自分に残っているかと問われれ