ログインドラマの撮影が始まった。 螢子の書いた「真希」のセリフやシーンを取り入れた台本は、瑞希の書いた自叙伝とは全く異なっていた。これまでは瑞希一人の「私」だった光景が、「群像劇」のように視点が入れ替わる。真希の内なる独白、陸斗の葛藤、両親の無自覚な偏愛——すべてが、赤裸々に、残酷に描き出されていた。連続ドラマに書き下ろしたとはいえ、瑞希にとっては屈辱的な出来事だった。 撮影現場に立ち会った瑞希は、肌が粟立つ感覚を抑えきれなかった。そこにいるのは、まさに双子の妹の「真希」だった。顔貌は全く異なるのに、彼女が生き返ったかのような錯覚を覚えた。車椅子に座り、右足を引きずりながらセリフを吐く螢子。鬼気迫る表情、勝ち誇ったような視線、指先で髪を巻く癖——すべてが、真希そのものだった。 そして螢子は、演技に熱が入ると更にセリフや解釈を変え、監督と激しく口論した。「……真希、真希だわ」 螢子に真希が重なる。瑞希は足元から這い上がる怖気に思わず体を抱きしめた。死んだはずの妹が、別の体を借りて、瑞希の物語を奪い取ろうとしている。 それから程なくして事件が起きた。スタッフと思われる人物がSNSでこの事実を呟いたのだ。「素人の女優が台本を書き換えた」 瞬く間に拡散され、瑞希の脚本家としての評価は失落した。次に入っていたショートムービーの依頼が立ち消えになり、出版社からも連絡が途絶えた。ネットのコメント欄は、冷たい言葉で埋め尽くされた。 そして、陽翔の言葉は瑞希のプライドをズタズタに引き裂いた。「まーま、おはなしかくのヘタなの?」 それは、保育園に迎えに来ていた保護者たちが瑞希の台本がゴーストライターのもので、面白くないと噂しているのを息子が耳にしたのだという。陽翔は無邪気に首を傾げ、瑞希の顔を見つめていた。 瑞希は膝から崩れ落ち、息子を抱きしめながら嗚咽を漏らした。爽子が隣で小さな手を伸ばすが、その手さえ今は恐ろしい。 相馬螢子——いや、真希は、瑞希の人生を静かに、しかし確実に壊し続けていた。夜、瑞希は鏡の前に立ち、青白い自分の顔を見つめた。死んだ妹の影が、笑っている気がした。
相馬螢子は煌めく夜景を見下ろしながら、ソファーに深く身を沈めていた。高層マンションの最上階、リビングの大きな窓ガラスに、東京の灯りが宝石のように散らばっている。手には赤ワインのグラスが光を弾き、深紅の液体がゆっくりと揺れていた。 螢子はグラスを傾け、口元を妖しげに弧を描かせた。「螢子、飲み過ぎだぞ」 マネージャーの佐々木公彦がミネラルウォーターのコップを手に、彼女の肩を軽く叩いた。眼鏡の奥に心配の色が浮かんでいる。「お祝いなの」「お祝い? なんのだ? 映画は深夜枠のドラマになって大損だぞ。予算もスケジュールも大幅カットされた」 螢子は赤ワインを一気に飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いた。唇に残った赤い雫を舌で拭う仕草が、どこか艶めかしい。「私のセリフが採用されたんだもの。お祝いよ。真っ白な台本の原稿を前にした瑞希さんの顔が目に浮かぶわ……きっと、震える手でページをめくっていたでしょうね」 螢子の瞳には、暗く沈んだ色が横たわっていた。勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が混じり合った、複雑な光。佐々木は戸惑った表情で彼女を見つめた。「どうしたんだ。これまでこんなことは一度もなかったじゃないか。なんでそんなにこの作品に固執するんだ?」螢子はゆっくりとグラスにワインを注ぎ直し、低く笑った。「固執? これは復讐よ」「……復讐?」「私を蔑ろにした全てのものへの復讐よ。守られるだけの壊れやすい妹として、車椅子に縛られ、愛を奪われ、死ぬ間際まで『勝った』と呟きながら消えたあの私への——そして、今、再びこの美しい体を手に入れた私による、瑞希への復讐」 螢子の声は静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの重みがあった。夜景の灯りが、彼女の横顔を妖しく照らす。右足がわずかに引き摺る癖が、ワインを飲む動作の合間に見え隠れする。 佐々木は言葉を失い、ただ黙って彼女を見つめた。事故以前の相馬螢子とは、明らかに違う女がそこにいた。 螢子はグラスを掲げ、夜景に向かって静かに微笑んだ。「瑞希……お姉ちゃん。これから、ゆっくりと楽しませてあげるわ」 深紅の液体が、グラスの中で揺れ、まるで血のように輝いていた。
瑞希は「真希」の存在に押しつぶされそうになりながらも、台本の案を一から練り直した。自分からの視点と、「真希」からの視点。原作本にはなかった場面が大幅に追加され、姉妹の確執、陸斗を巡る歪んだ三角関係、真希の内なる憎悪と孤独が、赤裸々に描き出されていった。映画のスケジュールにも無理が生じ、撮影日程が次々とずれ始めた。 プロデューサーから連絡があったのは、そんな矢先だった。「出資していた銀行から、ドラマへの変更が打診されました」 これまでは映画化で進んでいたプロジェクト自体が縮小され、深夜帯のドラマ枠への変更を余儀なくされた。予算も規模も大幅に削られ、瑞希の書いた新たなシーンもいくつかカットされることになった。 相馬螢子との出会いは、瑞希の人生の歯車を大きく変えていった。それは小説家としての瑞希のプライドも、「私のすべて」の受賞作としての評価も、地に叩き落とされたも同然だった。自分が守ろうとしてきた美しい物語は、螢子という女優によって暴かれ、塗り替えられ、別の形へと変貌を遂げていた。 そして——。「まーま、だっこ」 爽子の存在。日に日に彼女は「真希」に似てくる。漆黒の髪の艶、薄茶の瞳の深み、顎の下のホクロ、そして時折見せる大人びた微笑み。幼い頃のアルバムをめくりながら、母親は涙を拭いながら言った。「真希とそっくり。真希が帰ってきてくれたみたいで嬉しいわ」 瑞希は心の均衡を失いつつあった。爽子を抱きしめようとすると、手が震え、思わず押し返してしまう。夜中、娘の寝息を聞きながら、瑞希は天井を見つめ続けた。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に深く、深く入り込んできていた。 カウンセリングで吐き出したはずの感情は、再び渦を巻き、瑞希の精神をゆっくりと蝕んでいく。智久の優しい言葉も、陽翔の笑顔も、今はただ遠い。 瑞希は母子手帳を閉じ、静かに震えた。この物語は、まだ終わっていない。真希の影は、瑞希の人生から決して離れない。 ガラス細工のように脆く、美しかった「真希」は、今や瑞希の心の中で、黒く、濃密に、生き続けていた。
瑞希にとって、真希は壊れやすいガラス細工のように守るべき存在だった。幼馴染の陸斗も、真希を庇護することで「愛情」を感じていた。幼い頃、両親は瑞希に何度も言いつけた。「真希を守りなさい」健康で活発な瑞希は、車椅子に縛られた妹の影に耐えながら、時折、心の奥で疎ましさを感じることもあった。 そして、陸斗との結婚式の夜。彼は新婚のベッドではなく、真希のベッドにいた。あの夜の記憶は、今も瑞希の胸を鋭く抉る。瑞希の中で「真希」は、憐れみの存在から、静かな憎しみの存在へと姿を変えていった。 しかし「私のすべて」には、その負の感情はほとんど描かれていなかった。薄いオブラートに包み、美しい言葉で双子の姉妹の確執を表現しただけだった。それが、相馬螢子によって残酷に暴かれた。憎しみ合う双子の姉妹の物語——それは原作本とも台本とも大きく異なり、瑞希は頭を抱えた。自分の書いた物語が、別の誰かによって、より真実味を帯びて塗り替えられていく。「まーま、だっこ」 そして、「真希」に瓜二つの娘、爽子の存在。その小さな手が触れるたびに、かつての真希を連想し、瑞希は思わず「触らないで!」と振り払ってしまう。爽子が泣き出す声が、胸に突き刺さる。罪悪感と恐怖が交錯し、瑞希の精神のバランスは綱渡りのように、弥次郎兵衛のようにゆらゆらと危うく揺れていた。 夜になると、爽子の寝顔を見つめながら、瑞希は震える指で母子手帳をめくる。娘の成長記録の横に、螢子の演技を思い浮かべるたび、冷たい汗が背中を伝う。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に再び深く入り込もうとしている。 智久が優しく肩を抱いてくれても、瑞希の心は静まらない。カウンセリングで吐き出したはずの感情が、再び渦を巻き始めていた。 この物語は、まだ終わっていない。瑞希は、爽子の温もりを抱きながら、静かに震え続けた。
瑞希は脚本家であり原作者として、相馬螢子に完膚なきまでに負けたような屈辱感を味わっていた。 螢子が知り得るはずのない「真希」の本音——瑞希自身でさえ、妹の心の奥底までは知り得なかった感情。それを、螢子は完璧に演じきっていた。「私のすべて」は、瑞希視点で描かれた物語だ。そこに「真希」の本音はほとんどなかった。瑞希は長年、真希を「守られるべき存在」としてしか見ていなかった。車椅子に縛られた儚い妹。守ってあげなければいけない妹。けれど本当の真希は、瑞希が想像もしなかったほどの嫉妬と憎悪と、歪んだ愛情を抱えていた。 螢子はそれを、まるであの病床で吐かれた呪いの言葉そのもので、演じていた。 プロデューサーが瑞希に歩み寄り、低い声で言った。「もし、この螢子さんの台本で演技を進めることになれば、原作本と乖離が生じます。その点はどうなさいますか?」 瑞希は息を詰めた。視界の端で、螢子が優雅に髪を巻いているのが見えた。その仕草が、死んだ真希のものと完全に重なる。「……書かせてください」「え?」「もう一度、相馬さんのセリフを取り入れながら、台本を描き直させてください」 プロデューサーは眉をひそめた。「それでは時間がありませんが……」「頑張ります! 書かせてください!」 瑞希の声は、必死で震えていた。原作者としてのプライドが、粉々に砕かれる感覚。自分の書いた物語が、別の誰かによって書き換えられようとしている。それでも、螢子が演じた「真希」を無視することは、もうできなかった。あの鬼気迫るセリフを、瑞希は自分の手で、もう一度、物語の中に刻み込まなければならない。 その必死な姿を横目に、螢子は静かに、勝ち誇ったような不敵な笑みを漏らした。琥珀色の瞳が細められ、唇の端がわずかに上がる。 瑞希は気づかなかったが、螢子の笑みは、病床で最後に見せた真希の微笑みと、完全に同じだった。 ガラスの壁の向こうに、夜の東京の灯りが瞬いている。瑞希の指が、螢子の書き直した台本のページを強く握りしめていた。赤い文字が、血のように目に染みる。 真希の声が、瑞希の耳元で囁いている気がした。 ——ようやく、気づいたのね、お姉ちゃん。 瑞希は台本を抱え、震える肩で深く息を吐いた。これからが、本当の戦いになる。
スクリーンの映像が消え、部屋の明かりが点いた。一瞬の眩しさに瑞希は目を閉じた。まぶたの裏に、真希の冷たい微笑みがまだ焼き付いている。ゆっくりと視界が戻ると、そこには「真希」が微笑んでいた。 美しく、冷ややかな笑みを浮かべる相馬螢子。指先でくるくると髪を巻く仕草が、あまりにも自然だった。雰囲気だけでなく、指の動き、首の傾け方、瞳の奥の翳り——すべてが「真希」そのものだった。瑞希は思わず息を呑み、背中が冷たくなるのを感じたが、これは役作りなのだと思い込むことにした。女優が役に没入するのは当然のことだ。「岡部さん、いかがでしょうか? この二人の女優が『真希』の最終候補です」 プロデューサーの声が響く。瑞希は乾いた唇を湿らせた。「……最終候補」「はい。現在、監督とプロデューサーの間では、こちらの螢子さんを強く推しているのですが……」「ですが?」 瑞希が訝しげに監督の顔を見つめると、監督はテーブルの上に一冊の台本を置いた。表紙は擦り切れ、色とりどりの付箋が何枚も貼られている。「これは、螢子さんの台本です。ご確認ください」 瑞希は震える指で台本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。そこにあったのは、赤ペンで激しく書き直されたセリフの群れだった。原作の穏やかな「真希」の言葉は、ほとんどが塗りつぶされ、代わりに怨嗟と憎悪に満ちた新たな台詞がびっしりと並んでいる。「……これは」 瑞希の声が掠れた。螢子はソファに座ったまま、静かに微笑んだ。その微笑みは、病床で最後に見せた真希のものと、完全に同じだった。 部屋の空気が、重く淀む。監督とプロデューサーが気まずそうに視線を交わすが、瑞希と螢子の間には、誰も入り込めない濃密な沈黙が落ちていた。 爽子が瑞希の胸で小さく身じろぎした。娘の温もりが、今はただ重く感じられる。螢子は優しく微笑んだまま、指先で髪をくるくると巻き続けていた。その仕草が、死んだ妹の癖そのものだった。 瑞希は台本を握る手に力を込めた。赤い文字が、血のように目に染みる。この女優は、真希を演じているのではない。真希そのものが、ここに蘇ろうとしている。瑞希は息を呑んだ。「真希」を演じるのならばこの相馬螢子は完璧な存在だった。映画の質を取るのか、この悪い予感を払拭するために目の前の逸材を切り捨てるのか......。
螢子が最後のセリフを吐き終え、車椅子に呆然と座り込んだ瞬間、観客席からパラパラと、しかし確かに拍手が上がった。阪崎絢音が演じ終わったときの、礼儀正しい控えめな拍手とは明らかに違っていた。審査員たちの頰は興奮に紅潮し、目がぎらぎらと輝いている。プロデューサーは苦虫を潰したような顔で腕を組んでいたが、監督は立ち上がり、惜しみない大きな拍手を送っていた。「……「真希」……あなたが見えるわ」 螢子は眩しいスポットライトに照らされながら、全身で確信した。髪の毛の一本一本、指先、つま先、引き摺る右足の感覚まで——すべてが「真希」そのものだった。彼女はゆっくりと息を吐き、唇を湿らせた。 私
瑞希は爽子をベッドにそっと寝かしつけ、薄暗いリビングに戻った。モニターの青白い光だけが部屋を照らし、立ち上がった画面に映る自分の顔は、ひどく切羽詰まっていた。目の下に濃い隈が刻まれ、頰はこけ、唇は乾いている。 プロデューサーからの連絡以来、瑞希は毎晩のように台本の改稿作業に取り憑かれていた。真希の感情を、自分の記憶の中から掬い取る作業は、思いの外に難しかった。瑞希にとって真希は、いつだって「守られるべき存在」だった。ガラス細工のように儚く、触れただけで壊れてしまいそうな、特別な妹。両親の愛も、陸斗の優しさも、すべて真希のものだった。瑞希はただ、強い姉としてその影に耐え、支える
寝室のベッドの上で、瑞希は浅い眠りからふと目を覚ました。枕元に、ぼんやりとした影が立っている。艶やかな黒髪が腰までまっすぐに伸び、暗闇の中でかすかに光を吸い込んでいる。目を凝らすと、その輪郭がはっきりと浮かび上がった。「……真希」 掠れた声が、夜の空気を震わせた。その影はゆっくりと振り返り、ニヤリと真っ赤な唇で弧を描いた。嘲るような、勝ち誇った笑み。次の瞬間、モヤのように溶けて消えた。「智久さん! 起きて! 真希が! 真希がいたの!」 瑞希は半狂乱になって、隣で寝ていた夫の背中を必死に揺り動かした。智久は重い瞼をこすりながら体を起こし、ベッドサイドのライトを点けた。柔
彼女は豪華な病室のベッドに体を起こし、iPadを膝の上に置いて操作していた。指先が滑らかに画面を滑っていたが、ある瞬間、ぴたりと止まった。ウィキペディアの白い背景に、黒い文字が並んでいる。「相馬螢子」本名同じ、28歳、GNプロダクション所属。高校生の時に街でスカウトされ、映画の娘役でデビュー。以降、八本の映画、連続ドラマ、CM七本、バラエティ番組のMCまで務めた国民的女優——。 螢子の脳裏には靄がかかり続けていた。それらの輝かしい経歴は、遠い星の光のように記憶の彼方に霞んでいる。指が画面をスクロールするたび、写真の自分が笑っている。完璧な笑顔、洗練されたポーズ。でも、それが







