Masuk「あなたのこと、好きじゃないです」 ――そう言われたのに、なぜか王命で結婚させられた。 相手は恋を知らない魔術師ミラ。 無表情・無自覚・研究最優先。好意も執着もまったく通じない。 挨拶は通り過ぎられ、 誘えば別の女をあてがわれ、 贈り物は研究対象として処理される。 なのに。 彼女は時折、何でもない顔で笑う。 ――その一瞬のために、すべてがどうでもよくなった。 恋を知らない妻と、執着をやめられない夫。 これは「好きじゃない」から始まる、すれ違いだらけの溺愛(未成立)ラブストーリー。
Lihat lebih banyak騎士団の中庭に、静寂が落ちた。
昼下がりの訓練時間だった。 本来なら剣の打ち合う音や、騎士たちの怒号が響いているはずなのに、ヴィクトルには何も聞こえなかった。 人が、大勢いた。 よりによって、こんな場所で言ってしまったと、告げた後になってようやく気付く。 けれど、もう遅かった。 「俺は、ミラが好きだ」 王弟であり、騎士団副団長でもあるヴィクトル・ルーカス・エルンストが、たった一人の女へ向けて告げた言葉は、あまりにも真っ直ぐで、飾り気がなかった。 本当は、告白をする予定ではなかった。 彼は彼なりに、告白をするタイミングを見計らっていたがそれは今ではなかった。「ではいつだ?」と訊かれてしまえば、返答には詰まるが、人が大勢いる今ではなかったはずだ。 ただ、普段は表情が控えめなミラから笑顔を向けられたことで、気付けば彼女への想いを吐露していた。 目の前のミラは、黒い瞳でヴィクトルを見上げた。 首を傾げ、眼鏡がずれる。 彼女はそれを気にすることなく、ゆっくりと瞬きを繰り返した。 そして彼女もまた、真っ直ぐに答えた。 丸眼鏡の奥の瞳には、迷いがなかった。 悪意もない。 嘲笑もない。 ただ―― 「あなたのこと、好きじゃないです」 正直だった。 ――ああ。 ヴィクトルは理解した。 これは、断られたのだと。 騎士団副団長ヴィクトル・ルーカス・エルンスト、三十二歳。 生まれて初めて女に告白し、そして、人生で初めて振られた瞬間だった。「結婚します」 ミラの黒い瞳が、まっすぐにヴィクトルを捉えて離さなかった。 あまりにもあっさりと、けれどはっきりと発せられたその五文字に、ヴィクトルの思考回路は完全にフリーズした。(……結婚します? いま、なんて言った……? 聞き間違い、か……?) つい数秒前まで「嫌です」「好きではない相手と結婚する意味が分かりません」と、ヴィクトルの胸を容赦なく抉り抜いていたミラだ。あまりの展開の早さに理解が追いつかない。「ミ、ミラ……。今言ったこと、もう一回言ってもらえるか……?」 ヴィクトルは、情けないほど掠れた声で問いかける。 ミラは「はい」と頷き、もう一度その小さな唇を開こうとした――その瞬間。「考え直せ、ミラぁぁぁーーっ!!」 絶叫しながら二人の間に割り込んできたのは、グレンだった。 目の前で頭を抱え、必死の様相で叫ぶグレンの姿を見て、ヴィクトルはようやく悟った。 ――幻聴ではない。ミラは、本当に「結婚する」と言ったのだ。「いいかミラ、結婚は研究とは違うんだぞ!? お前、実験感覚で人生最大の決定を下すな!」「何事もやってみないと分かりません。陛下もおっしゃっていました」 淡々と答えるミラに、グレンはさらに頭を抱え込んだ。「だから! そういう問題じゃねぇだろ!」「はぁ……。ですがグレン、貴方は独身ですから、結婚生活というものがお分かりにならないのでは?」「ミラ、お前、容赦なく人の心をずたずたに切り裂いていくんじゃない……っ!」 悪気ゼロの会心の一撃を食らい、膝から崩れ落ちそうになっているグレンを余所に、ミラは至極真面目な顔で丸眼鏡を指で押し上げた。「我々は成功例を見てきましたので、見本にしてみてはいかがでしょう?」「見本……
「嫌です」 ミラは、丸眼鏡を押し上げながら、あっさりとそう言った。 謁見の間の空気が、びしりと固まる。「そもそも、なぜ友人と結婚するのか、意味が分かりません」 ミラの黒い瞳が、まっすぐにヴィクトルを捉えた。悪意はない。ただ、本気で分からないだけだ。「好きではない相手と結婚する意味が分かりません。……メリットはあるんですか?」 ぐさり、ぐさり、と。 悪気のない正論が、復活したばかりのヴィクトルの胸へ的確に突き刺さっていく。せっかく取り戻した金色の輝きが、また少しずつ陰りを帯びていくのが、傍目にも分かった。(うわ……) その様子を横から見ていたグレンが、思わず眉を下げた。 さっきまで「勝ちやがったな」と悔しがっていたはずなのに、ここまで一方的に抉られる部下を見ていると、さすがに少しだけ可哀想になってきた。 当のミラは、王とアルバがなぜ結婚などを勧めてくるのか、心底理解できずにいた。「私の計算で言いますと、結婚すれば家庭というものに時間を割かれます。これは、実際に研究にも出ていまして……確か、書物名はですね――」「ふぉっふぉっふぉっ。黒い子、話がずれとる」 資料の海へ潜っていこうとするミラの首根っこを、アルバが髭を撫でながら引き戻す。「ふむ。何が言いたいかと申しますと、研究時間が減ります。不都合が予測されますので、結果、結婚はしません」「わしは結婚しても、研究時間が減ることはなかったぞ」「……確かに、そうですね」 ミラは丸眼鏡の奥で、こつん、と思考が引っかかったように瞬いた。「近くに、結婚成功者がいました」 ミラは、仲睦まじい夫婦を誰より近くで見てきた。アルバは家では常に妻の傍を片時も離れず、二人で寄り添って内緒話をしていたことをミラは思い出した。――と言っても、その内容はミラの脳内に駄々洩れだったが。 「結婚も悪くないぞ」
「グレン、お前が交際を認めようが認めまいが、私は結婚を命じているのだ」 アルノルトは事も無げに言ってのけ、片眉を上げて不敵に笑った。「段階が! 段階が狂ってるでしょうが! 恋人飛ばして夫婦ってどんな飛び級ですか! まして、この二人は友人という段階止まり! それに、ミラは俺の、妹みたいなもんで――」「グレンは、今回の王命の立会人として呼んだのだ。それに、反対の意見は聞いていない」「そもそも王命だから、覆せない」とアルノルトは楽しげに玉座で踏ん反り返った。 あまりの横暴さにグレンは唖然とした。そして、隣で未だに石化したままピクリとも動かないヴィクトルへ、恨めしげに視線を移す。(……待てよ。こいつ……) 段階を踏めと散々私室の前で喚いていた自分を置き去りにして、まさか王命で、一撃でゴールへ叩き込まれようとしている。「お前……勝ちやがったな」 という、なんとも言えない複雑な敗北感と悔しさをヴィクトルに吐き捨てた。 一方、ヴィクトルはゆっくりと意識を取り戻しつつあった。 顔はまだ羞恥で微かに赤みを帯びているものの、その青い瞳にはいつもの、いや、それ以上の鋭い光が宿っている。 確かに段階は狂っている。友人としての足場を固めようとしているところに、こんな王命が降ってくるなんて思ってもいなかった。不本意だ。手順がめちゃくちゃすぎる。(つまり、ミラと結婚しなければならない。……王命によって。強制的に。合法的に、俺の妻に……) そこまで思考が至った瞬間、ヴィクトルの脳裏にある規則が思い出された。 騎士は結婚すると、あの騎士寮から出て生活していいことになっている。 ということは、ミラと一緒に過ごすための家が必要になる。朝起きたら、隣にミラ。寝るときも、隣にミラ。おはようではじまり、おやすみで終わる。毎日彼女の顔を見て、彼女の気配を感じて暮らすのだ。(最高では……?) 最初は困惑と羞恥しかなかったヴィクトルの脳内で、急速に都合の良い計算式が組み立てられていく。頬の赤みは引くどころか、別の熱を帯びてさらに増していくようだった。不本意だと思っていたはずの王命が、今や天啓のように思えてくる。(しかし――ミラは、ミラは何て言うんだ?) 我に返り、ヴィクトルはハッとした。 自分をまだ『友達』としか認定していない男と、急に結婚しろなどと言われたのだ。
ミラの頭を、アルバが軽く小突いた。 「黒い子に予算の話をするはずなかろう」「緊急に招集されましたので、五倍の話を受けてくれるのだとばかり……」「予算の話に黒い子を呼ぶはずなかろ。しかももう予算三倍は使い切ったぞい」「ええっ、いつですか、いつですか!?」「魔術塔の雨漏りを直して一番古い研究室を最新のものに改装したろう」「私の研究室は!?」「黒い子の研究室が一番新しかろうて」「壁に穴が開いているのに!?」「あれは黒い子があけたんじゃろ。それより黙らんか」 アルバが長い髭を引っ張りながら「ふぉっふぉ」と窘めると、ミラは「解せません……」と言いたげに丸眼鏡の奥の瞳を不満げに細め、ようやく口を閉ざした。 「……コホン。話を戻してもよろしいでしょうか、陛下。我らを招集した理由とは?」 ヴィクトルがこれ以上ないほど真剣な、張り詰めた声を響かせる。 すると、玉座に腰掛けるアルノルトは、ミラの的外れな乱入によってすっかり和んでしまった空気を楽しむように、ふっと不敵な笑みを深めた。「まあ待て、ヴィクトル。実はな、我が弟が……あまりにも盛大に、木っ端微塵にフラれる姿を目撃してしまってな」「……は?」 ヴィクトルの思考が、一瞬で停止した。 隣のグレンが「ぶふっ!?」と吹き出し、必死に口元を押さえて小刻みに震え始める。「我が弟ながら、あそこまで一筋の慈悲もなく一刀両断される姿は実に見事だった」(何故、あの場に兄上が?) ヴィクトルが疑問に思っていると、アルバが教えてくれた。「陛下と王妃にの、魔術研究室の最新器具のお忍び視察に来ていただいた帰りじゃよ。ちょうど魔術塔の窓から、お前さんたちの声が実によく響いてのぅ。ふぉっふぉっふぉ」 長い髭をさすりながら、アルバが楽しそうにその時の状況を暴露した。 よりによって、ミラに惨敗したあの決定的な瞬間を、実の兄である国王と王妃、そして魔術師長という国の中枢に特等席で見物されていたとは。ヴィクトルは顔がカッと熱くなるのをどうすることもできなかった。「見てたぞ」 にー、と笑う兄を見ていられず、ヴィクトルは顔を伏せ、手で覆い隠した。 「しかしまあ、上手くやれているようで安心した」 兄は楽しげに喉を鳴らし、弟のそんな様子を心底面白そうに眺めている。「放っておいてくれ……!」 覆った手の隙間
「人の言葉を遮るのはいけないと、あれほど注意をしたというのに」レオンが言い終えないうちに、ミラはササっと消えるように――この場を去った。研究室に一直線に早歩きで向かっていた――早い。 ヴィクトルは何も言わなかった。 レオンも何も言わなかった。 石畳の小径の上に取り残された男二人。 レオンが俯いたまま身動ぎしないヴィクトルを、横目で見ながら小さく咳払いをした。「ミラさんの発言は気にしないで下さい」(気にするな、と言われても……俺はあの女が好きなんだ)今まで黙っていても向こうから女が寄って来た。それは意図せず、自分の意志とは関係なく、だ。 だが、ミラは違う。初めて親しくなりた
※ ※ ※ 朝日が照らす石畳の小径の上を、今日もミラは迷いなく進む。彼女の視線は、研究室に注がれていた。 彼女の前に、太陽の光のような男――ヴィクトルが姿を現した。 ミラは珍しく、足を止めた。 ヴィクトルは今日もまた、女性達が見惚れる笑みをミラに送り、挨拶を告げようとする前に……先に口を開いたのはミラだった。 「おはようございます、ヴィクトル副団長殿」 ヴィクトルは口を押さえた。 (名前を、呼ばれた……?) 初めてでは? 「昨日、レオンからヴィクトル副団長殿のお名前を教えてもらいました」 「今まで知らずにいたことをお詫びします」とミラは頭を下げた。 その勢いで、頭を上
※ 食事を終えた二人は、連れたって食堂を後にした。 「ミラさん、食事をしたばっかりなんですから速足で歩くのではなく、ゆっくり歩きましょう。消化に悪いです」 「研究の続きが」 「研究は逃げません」 ミラは渋々、歩く速度を緩めた――その時だった。 「ミラ!」 ミラは振り返らなかった。 足を止めず、研究室への道を、そのまま歩き続けようとした。 レオンがミラの肩を掴んだ。「……副団長殿が呼んでいます」 「あ」 ミラはようやく振り返った。 「こんにちは、副団長殿」 「やぁ、ミラ。昼間に会うのは初めてだね」 息を切らしながら前髪を掻き上げる姿は、やけに眩しいなとミラは目を
※ ※ ※ 魔術塔と騎士舎がある広い敷地内の丁度中央に食堂が存在する。そこは、騎士と魔術師が自由に食事をする場所であり、談笑もできる憩いの場であった。もっとも、騎士率の方が高いのは、魔術師達は研究室の近くでしか食事を摂らない。食堂に行く距離でさえ惜しいのだ。 長い机が並ぶ食堂は、今日も騎士達の声で満ちていた。 その中に、黒が二つ混じっていた。 ミラと彼女の同僚魔術師レオンが、長テーブルに並んで座っている。黒いローブに細身の長身、茶髪の青年だ。レオンはトレーに料理を並べているのに対し、ミラは右手に一口も齧られていないサンドイッチ、左手に書類。ミラの目線は書類に注がれていた。 「あれ