Se connecter岡部が帰った後の夜、瑞希は一人、リビングのソファに深く腰を下ろしていた。テーブルの上には、まだ開いたままの小さな黒いケースが置かれている。プラチナのリングが、室内灯の柔らかな光を受けて静かに輝いていた。一粒の小さなダイヤモンドが、まるで未来を照らすように淡く光を散らしている。瑞希は両手でお腹を抱き、ゆっくりと息を吐いた。妊娠九ヶ月後半。胎動はもう毎日、力強く感じられる。この子が産まれるまで、あとわずか。(結婚……?私が、岡部さんと……?)頭の中がぐるぐると回る。陸斗の冷たい視線。結婚式で叩かれた頰の痛み。新婚初夜に一人で迎えた朝。真希の勝ち誇った微笑みと、半狂乱の罵倒。両親の「再婚しろ」という非現実的な執着。誰にも祝われなかった妊娠。孤独な夜に何度も襲ってきた「破水したらどうしよう」という恐怖。すべてが、瑞希の心に深い傷を刻んでいた。(私はもう、誰かを信じていいのだろうか……この子を守るだけで精一杯なのに……また傷つくんじゃないか……?)瑞希はケースをそっと手に取り、リングを見つめた。シンプルで、派手さのないデザイン。岡部らしい、控えめで誠実なリングだった。あの夜のことを思い出す。エコバッグを掲げて笑う岡部。つわりで苦しいときに作ってくれたおかゆ。原稿で辛くなった夜に、黙って隣に座ってくれていた温もり。「瑞希さんとこの子の物語を、ちゃんと見届けたい」そう言った真っ直ぐな目。彼は一度も、瑞希を「被害者」として扱わなかった。「強いから大丈夫」と無理を強いることもなく、ただ「瑞希さん」として見てくれていた。胎動が、優しく、力強く、お腹の中で動いた。瑞希はリングケースを胸に当て、目を閉じた。「……ごめんね。お母さんは、ずっと怖がっていたよ。また裏切られるんじゃないかって……誰かを信じるのが、怖かった……」涙が、一筋、頰を伝った。でも、今、この子がいる。そして、岡部という人がいる。瑞希はゆっくりと目を開け、リングを見つめた。「私は……もう、影の中で生きない。この子と一緒に、新しい人生を歩きたい。岡部さんとなら……きっと、できる」彼女はケースを閉じ、そっとテーブルの上に置いた。決意が、静かに胸に満ちていく。翌朝、瑞希はスマホを手に取った。瑞希岡部さん、昨夜はありがとうございました。少し時間をい
その日、インターホンが鳴ったのは夕方6時を少し過ぎた頃だった。瑞希がドアを開けると、岡部智久の表情がいつもと違っていた。全身から緊張感が伝わってくる。いつものエコバッグはなく、濃紺のスーツにグレーのネクタイをきちんと締め、革靴もいつもより磨かれていた。「岡部さん、いらっしゃい。どうしたの? 入って」彼はぎこちなく靴を脱ぎ、いつものようにソファに腰を下ろした。しかし、言葉は少なく、いつもの柔らかい明るさは影を潜めていた。(私……何か失敗しちゃったかしら?)瑞希まで緊張し、リビングの空気が張り詰めた。お茶の準備をしている間も、岡部はほとんど口を開かず、ただ指を軽く組んでいる。「岡部さんがネクタイなんて珍しいですね。会議でもあったんですか?」瑞希は大きなお腹を庇いながら、ゆっくりとソファに腰を下ろした。すると、岡部がポケットに手を入れ、小さな黒いケースを取り出した。そして、リビングの床に片膝をついた。「……え?」ケースの蓋が開く。プラチナのリングが、室内灯の柔らかな光に静かに輝いた。一粒の小さなダイヤモンドが、控えめながらも美しく光を弾いている。岡部は真っ直ぐに瑞希を見つめ、わずかに震える声で言った。「瑞希さん……僕と、結婚してください」部屋に、時間が止まったような静寂が落ちた。瑞希は息を飲んだ。胸の奥で、心臓が激しく鳴っている。妊娠九ヶ月の大きなお腹に両手を当てたまま、言葉が出てこない。(結婚……?今……?このタイミングで……?)頭の中に、様々な感情が渦巻いた。陸斗に裏切られた記憶。真希の歪んだ微笑み。誰も祝ってくれなかった妊娠。孤独な夜に何度も襲ってきた不安。そして、ここ数ヶ月、岡部が静かに灯してくれた小さな光——。瑞希の目が、ゆっくりと潤んだ。「岡部さん……私は……もうすぐ子供を産むんです。陸斗さんの子供を……そんな私を、受け入れてくれるの?」岡部は膝をついたまま、穏やかだが確かな声で答えた。「はい。瑞希さんが産む子も、全部、僕が一緒に守りたい。この子が『瑞希さんの子』として生まれてくることを、僕は誇りに思います。……僕はずっと、瑞希さんの強さと優しさを見てきました。影の中で戦い続けて、それでも前を向いている瑞希さんが、どうしようもなく、愛おしいんです」瑞希の頰を、一筋の涙が
それから、岡部智久と美咲は、臨月間近の瑞希を気遣い、たびたびマンションを訪れるようになった。ある日は岡部が手作りのおかゆと、妊娠中に安心して食べられるフルーツをエコバッグいっぱいに持ってきてくれた。別の日は美咲が「息抜きに」と最新の映画のBlu-rayと、柔らかいクッションを抱えて現れた。二人が来ると、静かで冷えていたリビングに人の気配が満ち、部屋全体が穏やかな色に彩られていくようだった。「瑞希、今日はどう? むくみは大丈夫?」美咲がソファに座りながら、瑞希のお腹を優しく見つめる。岡部はエプロンを巻き、キッチンで温かいスープを温めながら、「無理はしないでくださいね。原稿は産後にゆっくり進めましょう」と言ってくれる。そんな彼らの存在は、瑞希にとって予想外の癒しだった。夜になると襲ってくる孤独や、破水への不安、出産への恐怖が、少しずつ和らいでいく。胎動を感じながら、三人で他愛もない話をしている時間は、まるで普通の日常のようだった。けれど、ふと——瑞希はパソコンのキーボードを叩く手を止めた。(真希が健康だったら……私たちはどんな人生を送っていたんだろう)その思いが、頭をよぎるたびに胸の奥がざわついた。もし真希が健康で生まれていたら。双子として、対等に笑い合い、喧嘩をし、恋をして、夢を語り合っていたかもしれない。陸斗はただの幼馴染のまま、三人で桜の木の下を走り回っていたかもしれない。家族は「健康で強いから我慢しろ」と瑞希を縛ることもなく、特別枠などという歪んだ仕組みに縛られることもなかったかもしれない。「…………」打鍵音が止まった部屋に、静寂が落ちる。瑞希は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。あの「もしも」の世界では、真希は今も笑顔で生きていて、自分はただの「双子の姉」として、自由に生きられていたのだろうか。それとも、別の形で傷つけ合っていたのだろうか。瑞希は両手でお腹を抱き、静かに目を閉じた。「真希……あなたが健康だったら、私は今頃、どんな顔をしていたかしら」胎動が、優しく、しかし力強く返ってきた。まるで「今、ここにいるよ」と語りかけてくるように。瑞希は小さく微笑んだ。冷たい微笑みではなく、切なく、しかし確かに温かみのある微笑みだった。(もう、過去の「もしも」に囚われない。私はこの子と、今を生きる)キ
インターホンが鳴ったのは、夜の8時を少し過ぎた頃だった。瑞希がドアを開けると、岡部智久が照れくさそうに立っていた。彼は右手にエコバッグを掲げ上げ、にこやかに笑みを浮かべた。「こんばんは! 突然申し訳ありません!」エコバッグの口から、ちょこんとセロリの葉っぱが覗いていて、それが妙に可愛らしかった。岡部は少し耳を赤らめながら続けた。「お腹、空いていませんか?」瑞希は一瞬、言葉に詰まった。そういえば今日は朝にクラッカーを何枚か摘んだだけで、原稿に集中するあまり何も食べていなかった。「……そういえば、空いたかも」その言葉が終わらないうちに、瑞希のお腹が「ぐう……」と小さく鳴った。彼女は慌てて両手でお腹を押さえ、頰を赤らめた。岡部は優しく笑った。「チャーハン、好きですか? にんにくは大丈夫ですか?」「え……はい、大丈夫ですけど……」「では、キッチンをお借りしてもいいですか?」岡部はエコバッグを下げ、手慣れた様子で持参したエプロンを腰に巻きつけた。フライパンを取り出し、冷蔵庫から材料を出す手つきは、意外と慣れているようだった。瑞希は戸惑いながらも、キッチンのカウンターに寄りかかった。「……そんな、ありがとうございます」「いいえ! 先生のお世話も、編集の役目だと思っていますから!」「そんな、先生だなんて……」瑞希が照れくさそうに言うと、ちょうどタイミングよく玄関のドアが開き、美咲が顔を出した。「お邪魔しまーす! 瑞希はもう先生よ! 担当編集者にお任せしなさいな」美咲は笑いながら靴を脱ぎ、キッチンに近づいてきた。岡部はエプロン姿のまま、器用に玉ねぎを刻み始めていた。「瑞希さん、にんにく控えめにしますね。妊娠中は匂いが気になる人もいるので」瑞希はカウンターに座り、岡部が差し入れてくれた温かいほうじ茶を淹れながら、ふと胸が熱くなった。(こんな夜に……誰かがキッチンに立ってくれるなんて)最近は夜になると孤独が重くのしかかり、破水の不安や出産への恐怖で眠れない日が続いていた。そんな中、セロリの葉っぱが覗くエコバッグと、エプロンを巻いた岡部の後ろ姿は、まるで夢のように温かかった。フライパンから、美味しそうな香りが漂い始める。美咲がパソコンや原稿を広げながら、明るく言った。「智久のチャーハン、意外と美味しいんだよ。瑞希、産む前
妊娠九ヶ月も後半に差し掛かったある夜。瑞希はソファに体を預け、静かにスマホを手に取っていた。執筆は産後に本格的に再開すると決め、今日は軽くメモを取る程度に留めていた。部屋は静かで、ただ自分の息遣いだけが響く。LINEの通知音が、柔らかく鳴った。画面には「岡部智久」の名前が表示されていた。打ち合わせの予定はない。瑞希はゆっくりと指を滑らせ、トークを開いた。目に飛び込んできたのは、クマのイラストが『おつかれさまです』と書かれたコーヒーカップを手に、ゆらゆらと揺れている可愛らしいスタンプだった。思わず、瑞希の口元が緩んだ。小さく吹き出してしまった。(……笑ったのは、いつ以来だろう)心の中が、じんわりと温かいもので満たされていく。最近はつわりも落ち着き、胎動が毎日感じられるようになったけれど、夜になるとまだ孤独が胸を締め付ける。そんな中、このスタンプはまるで、暗い部屋に小さな灯りをともしてくれたようだった。続けてメッセージが届いた。岡部智久今夜、マンションに伺ってもよろしいでしょうか?原稿の進め方について、少しお話したいことがありまして。瑞希の心臓が、ドキッと跳ねた。指が画面の上で止まる。(……今夜? ここに?)次の瞬間、すぐに追加のメッセージが来た。岡部智久あ、佐倉も一緒です!夜遅くに申し訳ありません。瑞希さんの体調優先で、30分程度で終わりますので。瑞希は思わず小さく息を吐いた。安堵したような、残念なような——微妙な気持ちが胸に広がる。(美咲も来るなら……大丈夫よね)彼女は少し迷った後、ゆっくりと返信を打った。瑞希大丈夫です。今夜、来てください。軽いお茶くらいなら準備できます。送信した後、瑞希はスマホを胸に当てて目を閉じた。心臓の音が、まだ少し速い。(岡部さん……)最近の打ち合わせで、彼はいつも丁寧で、瑞希のペースを崩さないように配慮してくれていた。美咲の後輩というだけでなく、誠実で、静かな信頼感がある。そんな彼が、夜にマンションに来る——妊娠九ヶ月の今、誰かに「来てもいい」と言える相手がいるという事実は、意外と心を軽くした。瑞希は立ち上がり、キッチンで簡単なお茶の準備を始めた。アールグレイの茶葉をティーポットに入れながら、ふと自分の大きなお腹に手を当てた。胎動が、優しく返ってきた。
妊娠九ヶ月を迎えたある午後。瑞希はマンションのリビングのソファに深く腰を下ろし、暖かな秋の陽光を全身に浴びていた。お腹は今や大きく張り出し、歩くだけで息が上がる。出産まであと数週間——医師からは「いつ破水してもおかしくない」と言われていた。彼女はノートパソコンを膝の上に置き、ゆっくりとキーボードを打っていた。静かな部屋に、乾いた打鍵音が規則正しく響く。そのリズムに合わせるように、胎動が優しく、力強く、命の息吹を刻む。瑞希は左手で自分の大きなお腹を撫でながら、小さく微笑んだ。「もう少し待っていてね……お母さんは、この物語をちゃんと書き終えてから、あなたを迎えるわ」出産が近づいた今、執筆は産後に本格的に続けることに決めた。今は体調を最優先に、章立ての整理と記憶の確認だけに留めている。しかし、指がキーボードを叩くたび、過去の情景が鮮やかに蘇ってきた。◇◇◇自叙伝『新婚初夜、あなたは妹のベッドにいた』 執筆中の断片第一章 影の双子私は双子の姉として生まれた。生まれた瞬間から、私は「健康で強い」存在として定義された。三歳の頃、真希の車椅子を押して公園に行った。私が転んで膝を擦りむいて泣くと、母は冷たく言った。「真希ちゃんより痛くないでしょ? お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」その言葉は、私の人生の呪文になった。第二章 結婚という名の鍵結婚が決まった夜、陸斗くんは桜の木の下で曖昧に微笑んだ。「家族が喜ぶから」その一言で、私はすべてを理解した。私は「配偶者枠」として選ばれた。真希の治療を無料で続けるための、便利な鍵だった。第三章 新婚初夜ウェディングドレスを脱ぎ捨てたベッドで、私は一人だった。陸斗くんは「急患」と言い残して家を出た。後で知った。彼は真希の特別個室で、彼女を抱きしめ、唇を重ねていた。私はドアの隙間からその光景を録画した。真希はカメラに向かって、勝ち誇った微笑みを浮かべていた。あの微笑みは、私への宣戦布告だった。第四章 半狂乱の罵倒普通病棟に移された真希は、半狂乱になって私を罵倒した。「お姉ちゃんなんか死ねばいいのに!」「全部お姉ちゃんのせい!」その叫びは、今も私の耳に残っている。私は冷たく微笑みながら、彼女の言葉をすべて受け止めた。もう、私は「健康で強いから我慢しろ」と言われる立場