地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる

地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる

last updateLast Updated : 2026-02-02
By:  水守恵蓮Updated just now
Language: Japanese
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日本エア航空 オペレーションコントロールオフィス 運航管理部 入社以来の念願だった異動が叶った私 八巻藍里の指導担当に任命されたのは 同期のディスパッチャー・氷室穣 ところがデキる同期はいきなりの塩対応 まともに指導してもらえないまま三ヵ月 痺れを切らし 憧れの存在だった彼を 酔った勢いでホテルに連れ込んじゃいました!? 「私の身体を対価にするから、 氷室さんへの立ち入りを許可してください!」 「どこまで立ち入りを認めるかは、 満足度次第。 ……どうぞ?」 ディスパッチャー――運航管理者 地上のパイロットと呼ばれる彼と 身体先行のちょっと危険なオフィスラブ 仕事も恋も波瀾万丈です…!?

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Chapter 1

第 1 話

氷室ひむろじょう、三十一歳。

日本最大手の航空会社、日本エア航空のオペレーションコントロールオフィス……通称OCOに所属する、入社九年目のディスパッチャー――運航管理者。

彼は一応、この春入社以来の念願が叶って、営業部からOCOの運航管理部に異動してきた私、八巻やまき藍里あいりの『指導担当者』だ。

年次で言ったら同期だけど、私の手が届かないほど、遠く遠く高い高い、雲の上の人。

同じ職場になる前から、陰ながら目標にしていた人だった。

モデル並みの小顔に、百八十センチ越えのスマートな長身で、美しくバランスの取れた理想的な八頭身。

スッと通った鼻筋、信じられないくらい整った端整な顔立ちのイケメン。

知的でクールな印象を強める、スクエア型のシルバーメタルフレームの眼鏡が、トレードマークだ。

レンズの向こうの涼やかな切れ長の目、リムで隠れる位置にある小さな泣き黒子が、ちょっぴり意外でチャーミング。

普段、あまり表情を動かさないことにも、常に冷静で鋭い観察力と洞察力が求められるディスパッチャーに相応しい資質が表れている。

運航管理者の国家資格を得て、それより厳しい社内試験を経てディスパッチャーになって五年。

様々なデータから、気象条件や状況に沿った飛行ルートを分析して、彼が作り上げるフライトプランは、どれも緻密で完璧。

ディスパッチャーとしての経歴はまだまだ浅い方だけど、自分の仕事に自信を持っているから、どんなベテラン機長相手でも、臆さず意見を闘わせる。

フライトプランへの修正もほぼないため、彼の仕事は常にスムーズで、現在我が日本エア航空OCOでもっとも多忙なエースディスパッチャー……。

完璧すぎて、OCO内では孤高の狼。

そんな彼から直々に指導を受けられるのは、身に余るほど光栄なこと。

業務上は偉大な先輩だけど、私は一応同期だし。

打ち解けて、仲良く仕事したい。

目指すは絶対的バディ!! ……なんて。

私は異動が決まってからずっと、ワクワクとドキドキで期待に胸を弾ませていた。

ところが……彼の方からは、全然歓迎されていなかった。

喋るのが面倒臭いのか、一言一言、ノンブレスでとにかく短い。

余計なことはもちろん、大事なことすら話したがらない。

むしろ、私に対して『話しかけるな』オーラを発する、根っからの塩対応――。

私は彼の隣のデスクで、運航支援者として補佐しつつ、運航管理者資格取得を目指して指導を仰ぐ身だけど、業務中はもちろん、業務時間外も、雑談の一つも交わしたことがない。

いつも彼の視界は、デスクに置かれた五つのモニターに占領されていて、私はその端っこを掠めることもできない。

常に冷静沈着、ブリーフィングの時以外は寡黙で、私には清々しいほど無関心。こんなギスギスの『師弟』関係も、早三ヵ月。

彼との距離が縮まらないことにも、諦めモードだった。

なのに、今。

オフィスのある羽田空港から、一番近い繁華街の駅ビルにある居酒屋で――。

私は、彼に、壁際に追い詰められている。

背にした壁の向こうの広いお座敷では、管制塔の航空管制官との定例懇親会真っただ中。

同僚や上司、仕事仲間たちが、仕事から離れて賑やかに歓談する声が、襖戸の隙間から漏れ聞こえる。

壁一枚隔てたところに、たくさんの仲間が集っているのに、彼は私の頭の上に腕を突き、頭一つ分高い位置から、睨めつけるように見下ろしてくる。

さらりと額に下りた、少し長めの焦げ茶色の前髪の向こうから、深く澄んだ黒い瞳で、メタルフレームの眼鏡のレンズ越しに私を射貫き……。

「それ以上は、立入禁止」

いつもは端を掠めさせてもくれない視界のど真ん中に私を据えて、不機嫌そうに眉根をくっと寄せた。

息継ぎの必要もない、ぶつ切りの言葉。

指導担当と『教え子』のわりに、親しく会話したこともない。

聞き慣れたなんて到底言えないのに、抑揚のない低い声は、私の耳に怖いほど馴染む。

「ここから先に踏み込もうって言うなら、身体、差し出してもらうよ」

顎を反らして彼を見上げる私の目の前で、男らしい薄い唇がそういう形に動いた。

「……っ、なっ……!」

なにを言われたのか瞬時に理解できなくて、私の反応はたっぷり一拍分の間が空いた。

頭より先に心臓が反応して、ドッドッと拍動を強める。

わざわざ腰を折って背を屈めた彼の前髪が、私のちょっと茶色い前髪を掠めて揺らすまで、彼との距離の目測を誤っていて。

「っ……」

唇に温もりが落ちてきて初めて、二人の間に間隔がなくなっていたことに気付いた。

ギョッとして息を止め、眦が避けそうなほど目を見開いた。

近すぎて焦点が合わない、彼の顔を凝視する。

レンズの向こうで伏せられた睫毛は、男の人にしては長い。

目元の小さな泣き黒子を、久しぶりに見た。

ちょっと乾いた唇は、意外に柔らかくて温かい。

下唇を食み、舌先で舐めながら、時折小さく啄む。

普段の塩対応からは想像もできないくらい、優しいキスをする人だというのを、初めて知った――。

……って。

違う!!

『初めて知った』じゃない。

そもそも、ただの同僚の私が、そんなこと知る必要もないんだから、『初めて』もなにもない。

「ちょっ……なにをして……!!」

私は限界ギリギリまで首を捩じって彼の唇から逃げ、無我夢中でその胸を両手で突き放した。

渾身の力を出したつもりだったのに、彼は私から離れただけで、よろけもしない。

ただ、無言で、自分の唇を腕で拭い……。

「なにって。脅し?」

素っ気なく尻上がりに言って、私をジロッと睨んだ。

半端じゃない目力に思わず竦んだ私に構わず、堂々と胸を張って背筋を伸ばす。

「これ以上踏み込みたいなら、あんたの身体を対価としていただく。本気で言ってるってことを、行動で示した。これに懲りたら、俺のプライベートに踏み込もうなんて、バカな真似やめるんだね」

ピクリとも表情を動かさず、唇から離した腕を払うようにして、私にくるっと背を向けた。

そのまま、何事もなかったようにスタスタと歩き、すぐ横の襖を引いて室内に入っていった。

一瞬、同僚たちの賑やかな声が大きくなったけど、ピシャンと音を立てて閉じた襖に阻まれ、すぐに小さくなる。

一人その場に残された私は呆然として、壁に背を預けたまま、低い天井を仰いだ。

「……はっ……」

短く浅い息が漏れて、キスの途中からずっと、呼吸もままならなかったことに気付く。

肺に酸素が行き届くのと同時に、ひと際大きく心臓が沸いた。

途端に、膝からガクッと力が抜けて、私の背中はズルズルと壁からずり落ち……。

「~~っ……!!」

その場に、ペタンとしゃがみ込む。

口を両手で覆って、叫び出しそうな声が漏れるのを必死に殺した。

とにかく、一度冷静になろう――。

懇親会の席に戻る前に、猛烈にヒートアップした頭を冷やし、統制を失ってまるで無法状態の、速い拍動を続ける心臓を落ち着かせなければ。

居酒屋から出て、駅ビル内店舗共有の広い化粧室に移動した私は、洗面台に両手を突いて、がっくりとこうべを垂れた。

大きく肩を動かして息をして、動悸を鎮めようと努める。

気分が悪いと思われたのか、後ろを通り過ぎた女性何人かから、『大丈夫ですか?』と声をかけられてしまった。

『大丈夫です』と、無理矢理笑顔を作ることを何度か繰り返すうちに、なんとか心拍数も落ち着いてくれて……。

「……はああっ」

最後に一度、お腹の底から深い息を吐き出し、ムクッと顔を上げた。

鏡に映る自分と、まっすぐ目を合わせる。

丸襟の白いシャツに、グレージュの膝丈タイトスカート。

仕事柄、抜け感を出さないように、服装はいつも、やや堅め地味めのオフィスカジュアルに徹している。

栗色にカラーリングした髪は、すっきりと菱形スタイルのミディアムボブで、針のような毛先が、首筋に添って喉元まで届いている。

人より少し大きい丸い目が、若干潤んで見える。

ぽってりした下目蓋の下、頬骨のあたりが、ほんのり赤く染まっている。

あまり自覚してなかったけど、私はそれなりに酔ってるんだろうか。

だから、あんな……絶対鬱陶しがられるとわかってて、彼……氷室さんに立ち入ろうと、突っかかったりして――。

「塩対応に、輪がかかる……」

自己嫌悪から、無意識に溜め息が漏れる。

どうしよう、明日から。

いや、それより、今日この後。

まずは謝るのが第一だけど、冷静に顔を見られる気がしない。

かと言って、いつまでもここに隠れて戻らずにいたら、同僚たちに心配されてしまう。

私はほとんど惰性でバッグを漁り、中から化粧ポーチを取り出した。

普段から、すっぴんに毛が生えた程度のナチュラルメイクしかしないから、仕事上がりの飲み会途中でも、それほど崩れてはいない。

それなのにメイク直しをしようと思ったのは、少しでも身だしなみを調えることで、お座敷に戻るのに及び腰の自分の背中を押そうとしたため。

鏡の中の、どんよりと浮かない顔をした自分を眺めながら、パウダーファンデーションを軽く頬に叩く。

――美人には程遠く、顔立ちはせいぜい十人並み。

整っていないわけじゃないけど、華やかな造りではないのは自覚している。

今年で三十一歳になるのに、未だに学生に間違われることもある幼顔で、年齢相応の大人っぽさとは縁遠い。

形は悪くないけど低さが悩みの鼻を目にして、さっき間近で見た、氷室さんの作り物みたいに整った鼻を思い出してしまった。

ほんと……至近距離で見ると、嘘みたいに綺麗な顔だった。

私がずっと目標にしてきた、ディスパッチャーに相応しい天性の資質だけじゃなく、ルックスまでも恵まれた彼は、神様から贔屓されて生まれてきたみたい。

妬ましいぐらい羨ましいけど、入社と同時にOCOに配属された彼は、経験も能力もなにもかも、私より遥か先を行く人。

羨望というレベルを通り越して、もう崇拝の域に達する――。

航空業界に詳しい人じゃないと、ディスパッチャーという職業は耳慣れないかもしれない。

日本語では、運航管理者という。

ディスパッチャーのメイン業務は、飛行機のフライトプランの作成だ。

気象条件や発着地の情報を収集し、機体の整備状態や、乗客、搭載貨物の重量などのデータを元に、飛行高度、経路を決定して、必要な燃料を算出したフライトプランを、一便ごとに作り上げる。

飛行機が離陸した後も、常に最新の空の状況を把握しておく必要がある。

気流の変化や突然の揺れを予測して、カンパニーラジオという無線で機長に伝えるなど、飛行機が目的地に到着するまで、地上から飛行を監視、サポートを続けている。

コックピットで操縦桿を握るパイロットが、安全にフライトできるよう援護するディスパッチャーは、『地上のパイロット』とも呼ばれる。

どんなに憧れても、どんなになりたくても、誰でもなれる、こなせる仕事ではない。長年希望を出し続け、九年目にしてようやく運航管理部への異動が叶った私と違って、新人で大抜擢された氷室さん。

そんなすごい人――憧れないわけがない。

異動して三ヵ月、目標としている人の仕事ぶりをいつもそばで見ていれば、自然と士気が高まる。

早く成長して、彼のようなパーフェクトなディスパッチャーになりたい――。

純粋に、仕事で目標とする彼に近付きたい気持ちが強まりすぎた。

最近の私は、同期だからもっと話したい、彼のことを知りたい……と、仕事からやや逸脱した願望を抱いている自覚はあった。

だから……。

さっき、化粧室に行こうと席を立ち、お座敷から出たところで、まるで物陰に隠れるように、氷室さんが航空管制官の女性と話をしているのを見て、ドキッとすると同時に、変な胸騒ぎがした。

女の第六感ってやつかもしれない。

二人から漂う空気はどこか親密で意味深、ちょっと険悪なようでもあって、普段はほとんど表情を動かさない彼が、わずかながら感情を乱し、時々声を荒らげるのまで聞こえた。

話の内容までは聞き取れなかったけど、明らかに、業務上のみの関わりという雰囲気ではない。

どういう関係か気になったのは、私にとっては当然の興味だった。

女性がお座敷に戻っていくのを見送った後、その場に一人佇んでいた彼に声をかけたのは、好奇心が煽られたせい。

女性と話していた時は、遠目にも感情の起伏が読み取れたのに、私の前では、波一つ立たない凪いだ水面のように鎮めてしまう。

そんな彼が寂しくて、何故か切なくて、そして、仕事から離れた宴席の場でも、彼を無表情にさせてしまう自分が、力不足で情けなくて……。

『もしかして、付き合ってる……とか?』

頷かれたら、どうしよう。

躊躇いながら口にした質問に、ズキズキと胸が痛んだ。

徹底して無視の構えに出ていた彼の眉が、わずかにピクッと動いた。

だけど。

『あんたに関係ないだろ』

ふいと顔を背けるだけで、答えてはくれない。

彼の素っ気ない態度に傷ついて、私は……。

――まったく関心を向けてくれないなら、彼の神経を逆撫でしてでも、私の方を向かせたい。

私を、よくわからない、どこか狂暴な衝動に駆り立てたのは、やっぱりお酒の力だったのかもしれない。

『関係ないって。一応、同期なのになあ……』

自虐的な笑顔を作って、ほんのちょっとボヤいてみせた。

『職場恋愛だし、私、秘密守りますよ? あ、もしかして、喧嘩したとか。だったら、仲直りにも協力……』

『うるさい。黙ってろ』

自分でも、言いすぎ、踏み込みすぎだとわかっていて、歯止めが効かずにいた。

そこを、彼の抑揚のない低い声で制止され、ビクンと身が竦んだ。

氷室さんは、くるっと身体の向きを変えて、私に向き合った。

そして、びっくりして瞬きも忘れる私の頭上の壁に、ビュッと音がするほど勢いよく、腕を打ちつけ……。

『それ以上は、立入禁止』

凍えるような拒絶の言葉は、鼓膜に直接刻み込まれ、頭の中に激しく反響する。

ショックと自己嫌悪で胸がズキズキと痛むのを感じながら、私は無意識に自分の下唇を指でなぞっていた。

――私との間の溝を、さらに深く抉るために仕掛けられたのは、その目的と意図を違えているとしか思えない、優しいキス。

心では突き放されたのに、別の意味で急接近したせいで、自ら溝を飛び越えて、近付きたいというジレンマに揺れる。

『これ以上踏み込みたいなら、あんたの身体を対価としていただく』

彼が私に突きつけた脅しは、本気だろうが冗談だろうが、普通に考えたらとんでもないものだけど。

それはつまり、交換条件。

氷室さんも、私がこれ以上近付かないと思ってるだろうし、そこを狙ったのだろう。

でも、私が対価を払えば――。

やっぱり、これもお酒の勢い?

私の思考は、彼の意地悪を逆手に取るという、狂暴な方向へと堕ちていき――。

「……なにやってんの。あんた、正気?」

ものすごく不機嫌に顔を歪めた氷室さんが、顎を引いて私を見下ろしてくる。

私は、先ほど氷室さんにされたように、彼を追い詰めて壁ドンの体勢にある。

……と言っても、百八十センチ越えの彼相手じゃ、女性としては決して低くない、身長百六十センチの私でも、実際には全然追い詰めることができていない。

私は、彼の両側の壁に、腕を突っ張るのが精いっぱい。

ともすれば、抱きついているような格好なのは重々承知で、ごくんと喉を鳴らした。

「お酒の力で、思考のメーターが、あらぬ方向に振り切ってる自覚はあります……」

「分析済みなら、やめとけば?」

氷室さんは、落ち着き払っている。

彼を正視できず、無駄に目を泳がせる私に、シレッと冷静に挟む。

――懇親会の一次会が終わり、みんなが連れ立って二次会に移動していく中。

私は、一人さっさと帰ろうとしていた彼を『拉致』した。

私の暴挙に呆気に取られながらも、目立った抵抗を見せない彼の腕を抱えて歩き、駅前のビジネスホテルに入った。

ここに来て、さすがの彼も意表をつかれたようだ。

『おい、待て』

やや焦りが滲む、氷室さんの鋭い制止も聞かず、私はダブルベッドルームにチェックインをして……。

部屋に入ってすぐの壁に彼を追い詰め、今この状況に至る。

「…………」

心臓が、バクバクだ。

酔った勢いにしても、大胆すぎる自分の行動に、突っ張った腕がプルプル震える。

私の腕に囲われた格好の氷室さんは、やや窮屈そうに片手を動かし、スラックスのポケットに突っ込んだ。

「このまま朝まで、突っ立って睨み合いして過ごす気? そんな暇なこと、付き合うつもりないんだけど?」

フロントでは、ほんのちょっと動揺した様子だったけど、部屋に入って達観したのか……通常運転に戻り、淡々とした口調で異議を唱える。

氷室さんがどこまでもいつもの氷室さんだから、私のぶっ飛んだ思考メーターも、正常に戻りつつある。

氷室さんをホテルに連れ込んじゃうなんて……あまりに無鉄砲な自分に、頬がカアッと熱くなる。

でも、ここまでしでかすだけの理由はあるから、前にも後ろにも進めない。

「……はあ」

私の頭上で、これ見よがしな溜め息が聞こえた。

「ほら。いいから退け」

氷室さんは私の腕を掴み上げ、狭い囲いからなんなく摺り抜けた。

「っ、あ」

「俺、帰るから」

そう言って、私が壁ドンした勢いで床に落としたスーツの上着を拾い上げると、肩から背中に提げるように持って、ドアに手をかける。

「っ、ま、って!!」

私は、ほとんど条件反射で、彼の手を掴んだ。

眉根を寄せて肩越しに見下ろしてくる、レンズの向こうの冷ややかな瞳に、一瞬竦みながらも……。

「私の身体を対価にするから、氷室さんへの立ち入りを許可してください!」

勇気を振り絞って、恥も外分もかなぐり捨てた。

「……は?」

呆気に取られた様子の彼を、力任せにグルッと回転させて、その背をドアに押さえつける。

「私、入社した頃からディスパッチャーになりたくて。同じ新人で抜擢された氷室さんが羨ましくて、憧れてて」

私に注がれる視線が、完全に呆れ返っているのを承知で、半分以上ヤケっぱちで捲し立てる。

「念願の異動が叶って、氷室さんから直々に指導してもらえるの、楽しみにしてました。同期だし……いいバディになれたらって」

「そんなことのために、俺に身体差し出すの? 安いね」

「そんなこと、じゃない!」

揶揄する言い方には、意地になって反論した。

ほんのわずかに、彼が虚を衝かれた気配が伝わってくる。

「この三ヵ月、自分なりに氷室さんのやり方盗んで来ました。でも、私は氷室さんの補佐だから、ちゃんと教えてほしい。仕事のためです。私の成長は、飛行機の安全運航にも繋がるはず」

「あんたの成長が、飛行機のため? 今度は随分とスケールでかく出たな」

「っ……私が戦力に育ったら、氷室さんも楽でしょう?」

氷室さんはハッと浅い息を吐いて、額にかかった前髪を掻き上げた。

長めの前髪とは逆に、すっきりと短い襟足に手を回し、

「……さっきの、管制官」

視線を横に流して、ポツリと呟く。

「付き合ってるのか?って聞いてきたな。あれが俺の彼女だったら、寝取ることになるって罪悪感はないわけ?」

わざわざ腰を折って背を屈め、私の顔を意地悪に覗き込んでくる。

私は顎を引いて、彼とまっすぐ目を合わせ……。

「だって、違うでしょ?」

「え?」

「あの人が恋人だったら、氷室さん、いくら脅しでも、私にキスなんかできないと思います」

「…………」

気持ちで負けないように、目力込めて返すと、氷室さんは口を噤んだ。

口元に手を遣り、私から目線を外して逡巡するような間を置いて、

「……退け」

私の肩をグイと押して退かした。

「あっ……」

引き止めようとして、反射的に声をあげたけれど、氷室さんはドアには手をかけず、私の横を通り過ぎて、スタスタと部屋の奥に向かっていく。

「氷室さん」

慌てて後を追った私の視界の真ん中で、大きなダブルベッドの端にドスッと腰を下ろした。

鼻根でクッと眼鏡のブリッジを押し上げて、上目遣いに私を見据える。

「どこまで立ち入りを認めるかは、満足度次第」どこまでも上から目線で挑発して、軽く両腕を広げた。

「……どうぞ?」

今夜ここで起こること全部、私の意思に委ねておきながら、どこか誘う仕草に胸がドキッと跳ねる。

騒ぎ出した鼓動を気にして、胸元で白いシャツを握りしめながら、たどたどしい足取りで彼の前まで進んでいった。

氷室さんは、一挙手一投足も見逃さないというように、近付く私に視線を据えている。

私は、彼の足の間でピタリと立ち止まった。

彼は喉を仰け反らせて私を見上げ、腰に両手を回してくる。

「っ……」

この土壇場で、私は確かに怖気づいた。

だけど、今を逃したら、この先彼への立ち入りを許される機会は二度とないと、自分に刻みつけ……。

私は、彼の肩に両手をのせた。

ドキドキを通り越して、バクバクと壊れそうな拍動を続ける心臓の音が、彼に聞こえてしまわないか心配で、怯む気持ちから意識を遠ざける。

ゆっくり背を屈めて、彼の薄い唇にキスをした。

「ふ、んっ……」

さっき、氷室さんが私にしたように、ちゅっちゅっと小さく唇を啄む。

たったそれだけのキスで、心臓が口から飛び出そうなほど猛烈に跳ね上がり、最後は息苦しくて唇を離した。

「っ、は」

短い息を吐いて目を開けると、氷室さんが鋭い瞳で私を見ていた。

キスの間、ずっと目を開けていたんだろうか。彼の眼鏡のレンズ越しに、バチッと視線がぶつかった途端、「ふん」と鼻を鳴らして口角を上げる。

皮肉げながら、『笑った』と言える表情がレアで、私の鼓動はリズムを狂わせる。

「下手くそ。中学生か」

「っ」

「普通、先に眼鏡外すだろ」

そう言って、氷室さんはテンプルを指で摘まみ、自ら眼鏡をスッと引き抜いた。

いつもフレームに隠れている小さな泣き黒子が現れ、私の目はついついそこに行ってしまう。

「ディープキスするのに、邪魔になる。そんなことにも、気が回らない? だったら、俺のバディになんか到底……ん?」

眼鏡を折りたたみ、軽く腕を伸ばしてサイドテーブルに置いた彼が、私に視線を戻して訝し気に首を捻った。

「……なに」

「あ、いえ」

短く問われて、慌てて首を横に振る。

「氷室さんの泣き黒子、久しぶり……。眼鏡外すと、隠れないから」

しどろもどろに両手の指を絡ませると、「は?」と聞き返された。

虚を衝かれたように目を瞬かせる、そういう表情もまたレアだった。

「初めて、こんなに長く会話しましたね。あの、明日からは、もっといろんなこと……」

「満足度次第。そう言ったろ」

「え? あっ……」

ついつい浮かれたのを、調子づいたとでも思われたのかもしれない。氷室さんは、高揚する私を、取りつく島もないほどバッサリと斬って、

「ひゃあっ……!?」

私の膝の裏に片腕を回し、ぐるんと回転させてベッドに横たえた。

「っ……」

一瞬にして、彼を下から見上げる体勢になり、無意識にごくんと唾を飲んだ。

氷室さんが、やけにゆっくりとネクタイを解く指の動きが妖艶で、私の目はそこに釘付けになる。

私の不躾な視線に気付いたのか、彼は不快気に眉根を寄せた。

「視線が、熱い」

「っ、え?」

喉につっかえながら聞き返す私の上で、首からネクタイを引っこ抜く。

「俺は恋人を抱くんじゃない。あんたの方こそ、仕事のためだって言った」

「!」

「これはギブアンドテイク。まず俺のテイクが先」

真正面から冷ややかな瞳で射貫かれて、無意識に喉がひくっと鳴った。

「それと、仕事に私情挟むのは、お断り。……いや、痴情か?」

氷室さんは表情も変えずに淡々と言いながら、片手で器用にワイシャツのボタンを外していく。

「やる気があるなら、あんたもさっさと脱いで。利害の一致のセックスで、優しく脱がしてやったりしないから」

ここで、私が向けた『憧れ』に、彼が言う『痴情』が混ざっていると思われたら、私の仕事に対する熱意を疑われる気がした。

認めてもらえるか、そばに置いてもらえるか。私が目指すバディへの道が、この一晩にかかっている。

絶対に、しくじるわけにはいかない……!

いったい、なんの衝動に突き動かされたのか。

私は身体を起こすと、身を捩って彼に背を向けた。

緊張でカタカタと震える指を必死に動かし、シャツのボタンを外す。

背中で、バサッと乾いた音がした。

先に脱いだ氷室さんが、ワイシャツを床に落とした音だろうか。

ドッドッと、限界を越えて高鳴る胸に、固く握った拳を押し当てて自分を奮い立たせる。

私は意を決して、肩からシャツを抜いた。

一度ゴクッと唾を飲んでから、思い切って両手を背中に回した、その時。

私の指がホックにかかる前に、胸元の締めつけが緩んだ。

ブラジャーのストラップが肩から落ち、肌からカップが浮き上がる。

「っ、え?」

「遅い」

苛立ちが滲む短い言葉と同時に、背中から伸びてきた大きな手が、私の両方の胸を下から掬い上げる。

「ひゃんっ……!」

私は喉を仰け反らせ、甲高い声で叫んでしまった。

彼の手に力がこもり、グッと後ろに引き寄せられる。

背中に、彼の厚い胸板がぶつかった。

互いの肌を通じて、私より少し高い体温が流れ込んでくる。

ドキッとする間も与えてくれず、氷室さんが肩口から顔を覗かせ、私の喉に噛みつくようなキスをした。

「っ、あっ、あ……」

ピリッとした痛みに近い刺激に、全身がゾクゾクと痺れた。

両方の胸を揉みしだかれ、戦慄き、脱力しながら、私は彼に体重を預けていく。

「俺に立ち入りたいなら、せいぜい楽しませて」

低い囁き声が鼓膜を、少しザラッとした熱い舌が耳朶を直接くすぐる。

寒気と紙一重の、ゾワッとした戦慄が背筋を駆け抜け、私はビクンと大きく痙攣した。

「っ!!」

だけど、意思とは関係ない悲鳴は彼の唇に阻まれ、声にならずにくぐもる。

「ふあっ……氷室、さ」

いきなり唇を割って入ってきた熱い舌に口内を蹂躙されて、抗う隙も見出せないまま翻弄される。

舌の根元から搦め捕られ、言葉を紡ぐこともままならない。

「んんっ……んっ」

逃げずに応えるのに必死でいたせいで、他のことには完全に無防備になっていた。

彼の方から唇を離し、遠ざかる温もりを追ってうっすらと目を開けた時、私はベッドに仰向けにされ、真上から彼に見下ろされていた。

激しいキスで、胸を喘がせる。

大きく息を吸い込む間もなく、氷室さんは私に肌を重ねてきた。

人肌の感触と温もりは、久しぶりだった。

遠い、快感の記憶が呼び起こされ、ゾクゾクが止まらない。

「あ……あ……」

目の前に、チカチカと星が飛ぶ。

それを最後に、私の理性は弾け飛んだ。
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