氷室穣、三十一歳。
日本最大手の航空会社、日本エア航空のオペレーションコントロールオフィス……通称OCOに所属する、入社九年目のディスパッチャー――運航管理者。
彼は一応、この春入社以来の念願が叶って、営業部からOCOの運航管理部に異動してきた私、
八巻藍里の『指導担当者』だ。
年次で言ったら同期だけど、私の手が届かないほど、遠く遠く高い高い、雲の上の人。
同じ職場になる前から、陰ながら目標にしていた人だった。
モデル並みの小顔に、百八十センチ越えのスマートな長身で、美しくバランスの取れた理想的な八頭身。
スッと通った鼻筋、信じられないくらい整った端整な顔立ちのイケメン。
知的でクールな印象を強める、スクエア型のシルバーメタルフレームの眼鏡が、トレードマークだ。
レンズの向こうの涼やかな切れ長の目、リムで隠れる位置にある小さな泣き黒子が、ちょっぴり意外でチャーミング。
普段、あまり表情を動かさないことにも、常に冷静で鋭い観察力と洞察力が求められるディスパッチャーに相応しい資質が表れている。
運航管理者の国家資格を得て、それより厳しい社内試験を経てディスパッチャーになって五年。
様々なデータから、気象条件や状況に沿った飛行ルートを分析して、彼が作り上げるフライトプランは、どれも緻密で完璧。
ディスパッチャーとしての経歴はまだまだ浅い方だけど、自分の仕事に自信を持っているから、どんなベテラン機長相手でも、臆さず意見を闘わせる。
フライトプランへの修正もほぼないため、彼の仕事は常にスムーズで、現在我が日本エア航空OCOでもっとも多忙なエースディスパッチャー……。
完璧すぎて、OCO内では孤高の狼。
そんな彼から直々に指導を受けられるのは、身に余るほど光栄なこと。
業務上は偉大な先輩だけど、私は一応同期だし。
打ち解けて、仲良く仕事したい。
目指すは絶対的バディ!! ……なんて。
私は異動が決まってからずっと、ワクワクとドキドキで期待に胸を弾ませていた。
ところが……彼の方からは、全然歓迎されていなかった。
喋るのが面倒臭いのか、一言一言、ノンブレスでとにかく短い。
余計なことはもちろん、大事なことすら話したがらない。
むしろ、私に対して『話しかけるな』オーラを発する、根っからの塩対応――。
私は彼の隣のデスクで、運航支援者として補佐しつつ、運航管理者資格取得を目指して指導を仰ぐ身だけど、業務中はもちろん、業務時間外も、雑談の一つも交わしたことがない。
いつも彼の視界は、デスクに置かれた五つのモニターに占領されていて、私はその端っこを掠めることもできない。
常に冷静沈着、ブリーフィングの時以外は寡黙で、私には清々しいほど無関心。こんなギスギスの『師弟』関係も、早三ヵ月。
彼との距離が縮まらないことにも、諦めモードだった。
なのに、今。
オフィスのある羽田空港から、一番近い繁華街の駅ビルにある居酒屋で――。
私は、彼に、壁際に追い詰められている。
背にした壁の向こうの広いお座敷では、管制塔の航空管制官との定例懇親会真っただ中。
同僚や上司、仕事仲間たちが、仕事から離れて賑やかに歓談する声が、襖戸の隙間から漏れ聞こえる。
壁一枚隔てたところに、たくさんの仲間が集っているのに、彼は私の頭の上に腕を突き、頭一つ分高い位置から、睨めつけるように見下ろしてくる。
さらりと額に下りた、少し長めの焦げ茶色の前髪の向こうから、深く澄んだ黒い瞳で、メタルフレームの眼鏡のレンズ越しに私を射貫き……。
「それ以上は、立入禁止」
いつもは端を掠めさせてもくれない視界のど真ん中に私を据えて、不機嫌そうに眉根をくっと寄せた。
息継ぎの必要もない、ぶつ切りの言葉。
指導担当と『教え子』のわりに、親しく会話したこともない。
聞き慣れたなんて到底言えないのに、抑揚のない低い声は、私の耳に怖いほど馴染む。
「ここから先に踏み込もうって言うなら、身体、差し出してもらうよ」
顎を反らして彼を見上げる私の目の前で、男らしい薄い唇がそういう形に動いた。
「……っ、なっ……!」
なにを言われたのか瞬時に理解できなくて、私の反応はたっぷり一拍分の間が空いた。
頭より先に心臓が反応して、ドッドッと拍動を強める。
わざわざ腰を折って背を屈めた彼の前髪が、私のちょっと茶色い前髪を掠めて揺らすまで、彼との距離の目測を誤っていて。
「っ……」
唇に温もりが落ちてきて初めて、二人の間に間隔がなくなっていたことに気付いた。
ギョッとして息を止め、眦が避けそうなほど目を見開いた。
近すぎて焦点が合わない、彼の顔を凝視する。
レンズの向こうで伏せられた睫毛は、男の人にしては長い。
目元の小さな泣き黒子を、久しぶりに見た。
ちょっと乾いた唇は、意外に柔らかくて温かい。
下唇を食み、舌先で舐めながら、時折小さく啄む。
普段の塩対応からは想像もできないくらい、優しいキスをする人だというのを、初めて知った――。
……って。
違う!!
『初めて知った』じゃない。
そもそも、ただの同僚の私が、そんなこと知る必要もないんだから、『初めて』もなにもない。
「ちょっ……なにをして……!!」
私は限界ギリギリまで首を捩じって彼の唇から逃げ、無我夢中でその胸を両手で突き放した。
渾身の力を出したつもりだったのに、彼は私から離れただけで、よろけもしない。
ただ、無言で、自分の唇を腕で拭い……。
「なにって。脅し?」
素っ気なく尻上がりに言って、私をジロッと睨んだ。
半端じゃない目力に思わず竦んだ私に構わず、堂々と胸を張って背筋を伸ばす。
「これ以上踏み込みたいなら、あんたの身体を対価としていただく。本気で言ってるってことを、行動で示した。これに懲りたら、俺のプライベートに踏み込もうなんて、バカな真似やめるんだね」
ピクリとも表情を動かさず、唇から離した腕を払うようにして、私にくるっと背を向けた。
そのまま、何事もなかったようにスタスタと歩き、すぐ横の襖を引いて室内に入っていった。
一瞬、同僚たちの賑やかな声が大きくなったけど、ピシャンと音を立てて閉じた襖に阻まれ、すぐに小さくなる。
一人その場に残された私は呆然として、壁に背を預けたまま、低い天井を仰いだ。
「……はっ……」
短く浅い息が漏れて、キスの途中からずっと、呼吸もままならなかったことに気付く。
肺に酸素が行き届くのと同時に、ひと際大きく心臓が沸いた。
途端に、膝からガクッと力が抜けて、私の背中はズルズルと壁からずり落ち……。
「~~っ……!!」
その場に、ペタンとしゃがみ込む。
口を両手で覆って、叫び出しそうな声が漏れるのを必死に殺した。
とにかく、一度冷静になろう――。
懇親会の席に戻る前に、猛烈にヒートアップした頭を冷やし、統制を失ってまるで無法状態の、速い拍動を続ける心臓を落ち着かせなければ。
居酒屋から出て、駅ビル内店舗共有の広い化粧室に移動した私は、洗面台に両手を突いて、がっくりとこうべを垂れた。
大きく肩を動かして息をして、動悸を鎮めようと努める。
気分が悪いと思われたのか、後ろを通り過ぎた女性何人かから、『大丈夫ですか?』と声をかけられてしまった。
『大丈夫です』と、無理矢理笑顔を作ることを何度か繰り返すうちに、なんとか心拍数も落ち着いてくれて……。
「……はああっ」
最後に一度、お腹の底から深い息を吐き出し、ムクッと顔を上げた。
鏡に映る自分と、まっすぐ目を合わせる。
丸襟の白いシャツに、グレージュの膝丈タイトスカート。
仕事柄、抜け感を出さないように、服装はいつも、やや堅め地味めのオフィスカジュアルに徹している。
栗色にカラーリングした髪は、すっきりと菱形スタイルのミディアムボブで、針のような毛先が、首筋に添って喉元まで届いている。
人より少し大きい丸い目が、若干潤んで見える。
ぽってりした下目蓋の下、頬骨のあたりが、ほんのり赤く染まっている。
あまり自覚してなかったけど、私はそれなりに酔ってるんだろうか。
だから、あんな……絶対鬱陶しがられるとわかってて、彼……氷室さんに立ち入ろうと、突っかかったりして――。
「塩対応に、輪がかかる……」
自己嫌悪から、無意識に溜め息が漏れる。
どうしよう、明日から。
いや、それより、今日この後。
まずは謝るのが第一だけど、冷静に顔を見られる気がしない。
かと言って、いつまでもここに隠れて戻らずにいたら、同僚たちに心配されてしまう。
私はほとんど惰性でバッグを漁り、中から化粧ポーチを取り出した。
普段から、すっぴんに毛が生えた程度のナチュラルメイクしかしないから、仕事上がりの飲み会途中でも、それほど崩れてはいない。
それなのにメイク直しをしようと思ったのは、少しでも身だしなみを調えることで、お座敷に戻るのに及び腰の自分の背中を押そうとしたため。
鏡の中の、どんよりと浮かない顔をした自分を眺めながら、パウダーファンデーションを軽く頬に叩く。
――美人には程遠く、顔立ちはせいぜい十人並み。
整っていないわけじゃないけど、華やかな造りではないのは自覚している。
今年で三十一歳になるのに、未だに学生に間違われることもある幼顔で、年齢相応の大人っぽさとは縁遠い。
形は悪くないけど低さが悩みの鼻を目にして、さっき間近で見た、氷室さんの作り物みたいに整った鼻を思い出してしまった。
ほんと……至近距離で見ると、嘘みたいに綺麗な顔だった。
私がずっと目標にしてきた、ディスパッチャーに相応しい天性の資質だけじゃなく、ルックスまでも恵まれた彼は、神様から贔屓されて生まれてきたみたい。
妬ましいぐらい羨ましいけど、入社と同時にOCOに配属された彼は、経験も能力もなにもかも、私より遥か先を行く人。
羨望というレベルを通り越して、もう崇拝の域に達する――。
航空業界に詳しい人じゃないと、ディスパッチャーという職業は耳慣れないかもしれない。
日本語では、運航管理者という。
ディスパッチャーのメイン業務は、飛行機のフライトプランの作成だ。
気象条件や発着地の情報を収集し、機体の整備状態や、乗客、搭載貨物の重量などのデータを元に、飛行高度、経路を決定して、必要な燃料を算出したフライトプランを、一便ごとに作り上げる。
飛行機が離陸した後も、常に最新の空の状況を把握しておく必要がある。
気流の変化や突然の揺れを予測して、カンパニーラジオという無線で機長に伝えるなど、飛行機が目的地に到着するまで、地上から飛行を監視、サポートを続けている。
コックピットで操縦桿を握るパイロットが、安全にフライトできるよう援護するディスパッチャーは、『地上のパイロット』とも呼ばれる。
どんなに憧れても、どんなになりたくても、誰でもなれる、こなせる仕事ではない。長年希望を出し続け、九年目にしてようやく運航管理部への異動が叶った私と違って、新人で大抜擢された氷室さん。
そんなすごい人――憧れないわけがない。
異動して三ヵ月、目標としている人の仕事ぶりをいつもそばで見ていれば、自然と士気が高まる。
早く成長して、彼のようなパーフェクトなディスパッチャーになりたい――。
純粋に、仕事で目標とする彼に近付きたい気持ちが強まりすぎた。
最近の私は、同期だからもっと話したい、彼のことを知りたい……と、仕事からやや逸脱した願望を抱いている自覚はあった。
だから……。
さっき、化粧室に行こうと席を立ち、お座敷から出たところで、まるで物陰に隠れるように、氷室さんが航空管制官の女性と話をしているのを見て、ドキッとすると同時に、変な胸騒ぎがした。
女の第六感ってやつかもしれない。
二人から漂う空気はどこか親密で意味深、ちょっと険悪なようでもあって、普段はほとんど表情を動かさない彼が、わずかながら感情を乱し、時々声を荒らげるのまで聞こえた。
話の内容までは聞き取れなかったけど、明らかに、業務上のみの関わりという雰囲気ではない。
どういう関係か気になったのは、私にとっては当然の興味だった。
女性がお座敷に戻っていくのを見送った後、その場に一人佇んでいた彼に声をかけたのは、好奇心が煽られたせい。
女性と話していた時は、遠目にも感情の起伏が読み取れたのに、私の前では、波一つ立たない凪いだ水面のように鎮めてしまう。
そんな彼が寂しくて、何故か切なくて、そして、仕事から離れた宴席の場でも、彼を無表情にさせてしまう自分が、力不足で情けなくて……。
『もしかして、付き合ってる……とか?』
頷かれたら、どうしよう。
躊躇いながら口にした質問に、ズキズキと胸が痛んだ。
徹底して無視の構えに出ていた彼の眉が、わずかにピクッと動いた。
だけど。
『あんたに関係ないだろ』
ふいと顔を背けるだけで、答えてはくれない。
彼の素っ気ない態度に傷ついて、私は……。
――まったく関心を向けてくれないなら、彼の神経を逆撫でしてでも、私の方を向かせたい。
私を、よくわからない、どこか狂暴な衝動に駆り立てたのは、やっぱりお酒の力だったのかもしれない。
『関係ないって。一応、同期なのになあ……』
自虐的な笑顔を作って、ほんのちょっとボヤいてみせた。
『職場恋愛だし、私、秘密守りますよ? あ、もしかして、喧嘩したとか。だったら、仲直りにも協力……』
『うるさい。黙ってろ』
自分でも、言いすぎ、踏み込みすぎだとわかっていて、歯止めが効かずにいた。
そこを、彼の抑揚のない低い声で制止され、ビクンと身が竦んだ。
氷室さんは、くるっと身体の向きを変えて、私に向き合った。
そして、びっくりして瞬きも忘れる私の頭上の壁に、ビュッと音がするほど勢いよく、腕を打ちつけ……。
『それ以上は、立入禁止』
凍えるような拒絶の言葉は、鼓膜に直接刻み込まれ、頭の中に激しく反響する。
ショックと自己嫌悪で胸がズキズキと痛むのを感じながら、私は無意識に自分の下唇を指でなぞっていた。
――私との間の溝を、さらに深く抉るために仕掛けられたのは、その目的と意図を違えているとしか思えない、優しいキス。
心では突き放されたのに、別の意味で急接近したせいで、自ら溝を飛び越えて、近付きたいというジレンマに揺れる。
『これ以上踏み込みたいなら、あんたの身体を対価としていただく』
彼が私に突きつけた脅しは、本気だろうが冗談だろうが、普通に考えたらとんでもないものだけど。
それはつまり、交換条件。
氷室さんも、私がこれ以上近付かないと思ってるだろうし、そこを狙ったのだろう。
でも、私が対価を払えば――。
やっぱり、これもお酒の勢い?
私の思考は、彼の意地悪を逆手に取るという、狂暴な方向へと堕ちていき――。
「……なにやってんの。あんた、正気?」
ものすごく不機嫌に顔を歪めた氷室さんが、顎を引いて私を見下ろしてくる。
私は、先ほど氷室さんにされたように、彼を追い詰めて壁ドンの体勢にある。
……と言っても、百八十センチ越えの彼相手じゃ、女性としては決して低くない、身長百六十センチの私でも、実際には全然追い詰めることができていない。
私は、彼の両側の壁に、腕を突っ張るのが精いっぱい。
ともすれば、抱きついているような格好なのは重々承知で、ごくんと喉を鳴らした。
「お酒の力で、思考のメーターが、あらぬ方向に振り切ってる自覚はあります……」
「分析済みなら、やめとけば?」
氷室さんは、落ち着き払っている。
彼を正視できず、無駄に目を泳がせる私に、シレッと冷静に挟む。
――懇親会の一次会が終わり、みんなが連れ立って二次会に移動していく中。
私は、一人さっさと帰ろうとしていた彼を『拉致』した。
私の暴挙に呆気に取られながらも、目立った抵抗を見せない彼の腕を抱えて歩き、駅前のビジネスホテルに入った。
ここに来て、さすがの彼も意表をつかれたようだ。
『おい、待て』
やや焦りが滲む、氷室さんの鋭い制止も聞かず、私はダブルベッドルームにチェックインをして……。
部屋に入ってすぐの壁に彼を追い詰め、今この状況に至る。
「…………」
心臓が、バクバクだ。
酔った勢いにしても、大胆すぎる自分の行動に、突っ張った腕がプルプル震える。
私の腕に囲われた格好の氷室さんは、やや窮屈そうに片手を動かし、スラックスのポケットに突っ込んだ。
「このまま朝まで、突っ立って睨み合いして過ごす気? そんな暇なこと、付き合うつもりないんだけど?」
フロントでは、ほんのちょっと動揺した様子だったけど、部屋に入って達観したのか……通常運転に戻り、淡々とした口調で異議を唱える。
氷室さんがどこまでもいつもの氷室さんだから、私のぶっ飛んだ思考メーターも、正常に戻りつつある。
氷室さんをホテルに連れ込んじゃうなんて……あまりに無鉄砲な自分に、頬がカアッと熱くなる。
でも、ここまでしでかすだけの理由はあるから、前にも後ろにも進めない。
「……はあ」
私の頭上で、これ見よがしな溜め息が聞こえた。
「ほら。いいから退け」
氷室さんは私の腕を掴み上げ、狭い囲いからなんなく摺り抜けた。
「っ、あ」
「俺、帰るから」
そう言って、私が壁ドンした勢いで床に落としたスーツの上着を拾い上げると、肩から背中に提げるように持って、ドアに手をかける。
「っ、ま、って!!」
私は、ほとんど条件反射で、彼の手を掴んだ。
眉根を寄せて肩越しに見下ろしてくる、レンズの向こうの冷ややかな瞳に、一瞬竦みながらも……。
「私の身体を対価にするから、氷室さんへの立ち入りを許可してください!」
勇気を振り絞って、恥も外分もかなぐり捨てた。
「……は?」
呆気に取られた様子の彼を、力任せにグルッと回転させて、その背をドアに押さえつける。
「私、入社した頃からディスパッチャーになりたくて。同じ新人で抜擢された氷室さんが羨ましくて、憧れてて」
私に注がれる視線が、完全に呆れ返っているのを承知で、半分以上ヤケっぱちで捲し立てる。
「念願の異動が叶って、氷室さんから直々に指導してもらえるの、楽しみにしてました。同期だし……いいバディになれたらって」
「そんなことのために、俺に身体差し出すの? 安いね」
「そんなこと、じゃない!」
揶揄する言い方には、意地になって反論した。
ほんのわずかに、彼が虚を衝かれた気配が伝わってくる。
「この三ヵ月、自分なりに氷室さんのやり方盗んで来ました。でも、私は氷室さんの補佐だから、ちゃんと教えてほしい。仕事のためです。私の成長は、飛行機の安全運航にも繋がるはず」
「あんたの成長が、飛行機のため? 今度は随分とスケールでかく出たな」
「っ……私が戦力に育ったら、氷室さんも楽でしょう?」
氷室さんはハッと浅い息を吐いて、額にかかった前髪を掻き上げた。
長めの前髪とは逆に、すっきりと短い襟足に手を回し、
「……さっきの、管制官」
視線を横に流して、ポツリと呟く。
「付き合ってるのか?って聞いてきたな。あれが俺の彼女だったら、寝取ることになるって罪悪感はないわけ?」
わざわざ腰を折って背を屈め、私の顔を意地悪に覗き込んでくる。
私は顎を引いて、彼とまっすぐ目を合わせ……。
「だって、違うでしょ?」
「え?」
「あの人が恋人だったら、氷室さん、いくら脅しでも、私にキスなんかできないと思います」
「…………」
気持ちで負けないように、目力込めて返すと、氷室さんは口を噤んだ。
口元に手を遣り、私から目線を外して逡巡するような間を置いて、
「……退け」
私の肩をグイと押して退かした。
「あっ……」
引き止めようとして、反射的に声をあげたけれど、氷室さんはドアには手をかけず、私の横を通り過ぎて、スタスタと部屋の奥に向かっていく。
「氷室さん」
慌てて後を追った私の視界の真ん中で、大きなダブルベッドの端にドスッと腰を下ろした。
鼻根でクッと眼鏡のブリッジを押し上げて、上目遣いに私を見据える。
「どこまで立ち入りを認めるかは、満足度次第」どこまでも上から目線で挑発して、軽く両腕を広げた。
「……どうぞ?」
今夜ここで起こること全部、私の意思に委ねておきながら、どこか誘う仕草に胸がドキッと跳ねる。
騒ぎ出した鼓動を気にして、胸元で白いシャツを握りしめながら、たどたどしい足取りで彼の前まで進んでいった。
氷室さんは、一挙手一投足も見逃さないというように、近付く私に視線を据えている。
私は、彼の足の間でピタリと立ち止まった。
彼は喉を仰け反らせて私を見上げ、腰に両手を回してくる。
「っ……」
この土壇場で、私は確かに怖気づいた。
だけど、今を逃したら、この先彼への立ち入りを許される機会は二度とないと、自分に刻みつけ……。
私は、彼の肩に両手をのせた。
ドキドキを通り越して、バクバクと壊れそうな拍動を続ける心臓の音が、彼に聞こえてしまわないか心配で、怯む気持ちから意識を遠ざける。
ゆっくり背を屈めて、彼の薄い唇にキスをした。
「ふ、んっ……」
さっき、氷室さんが私にしたように、ちゅっちゅっと小さく唇を啄む。
たったそれだけのキスで、心臓が口から飛び出そうなほど猛烈に跳ね上がり、最後は息苦しくて唇を離した。
「っ、は」
短い息を吐いて目を開けると、氷室さんが鋭い瞳で私を見ていた。
キスの間、ずっと目を開けていたんだろうか。彼の眼鏡のレンズ越しに、バチッと視線がぶつかった途端、「ふん」と鼻を鳴らして口角を上げる。
皮肉げながら、『笑った』と言える表情がレアで、私の鼓動はリズムを狂わせる。
「下手くそ。中学生か」
「っ」
「普通、先に眼鏡外すだろ」
そう言って、氷室さんはテンプルを指で摘まみ、自ら眼鏡をスッと引き抜いた。
いつもフレームに隠れている小さな泣き黒子が現れ、私の目はついついそこに行ってしまう。
「ディープキスするのに、邪魔になる。そんなことにも、気が回らない? だったら、俺のバディになんか到底……ん?」
眼鏡を折りたたみ、軽く腕を伸ばしてサイドテーブルに置いた彼が、私に視線を戻して訝し気に首を捻った。
「……なに」
「あ、いえ」
短く問われて、慌てて首を横に振る。
「氷室さんの泣き黒子、久しぶり……。眼鏡外すと、隠れないから」
しどろもどろに両手の指を絡ませると、「は?」と聞き返された。
虚を衝かれたように目を瞬かせる、そういう表情もまたレアだった。
「初めて、こんなに長く会話しましたね。あの、明日からは、もっといろんなこと……」
「満足度次第。そう言ったろ」
「え? あっ……」
ついつい浮かれたのを、調子づいたとでも思われたのかもしれない。氷室さんは、高揚する私を、取りつく島もないほどバッサリと斬って、
「ひゃあっ……!?」
私の膝の裏に片腕を回し、ぐるんと回転させてベッドに横たえた。
「っ……」
一瞬にして、彼を下から見上げる体勢になり、無意識にごくんと唾を飲んだ。
氷室さんが、やけにゆっくりとネクタイを解く指の動きが妖艶で、私の目はそこに釘付けになる。
私の不躾な視線に気付いたのか、彼は不快気に眉根を寄せた。
「視線が、熱い」
「っ、え?」
喉につっかえながら聞き返す私の上で、首からネクタイを引っこ抜く。
「俺は恋人を抱くんじゃない。あんたの方こそ、仕事のためだって言った」
「!」
「これはギブアンドテイク。まず俺のテイクが先」
真正面から冷ややかな瞳で射貫かれて、無意識に喉がひくっと鳴った。
「それと、仕事に私情挟むのは、お断り。……いや、痴情か?」
氷室さんは表情も変えずに淡々と言いながら、片手で器用にワイシャツのボタンを外していく。
「やる気があるなら、あんたもさっさと脱いで。利害の一致のセックスで、優しく脱がしてやったりしないから」
ここで、私が向けた『憧れ』に、彼が言う『痴情』が混ざっていると思われたら、私の仕事に対する熱意を疑われる気がした。
認めてもらえるか、そばに置いてもらえるか。私が目指すバディへの道が、この一晩にかかっている。
絶対に、しくじるわけにはいかない……!
いったい、なんの衝動に突き動かされたのか。
私は身体を起こすと、身を捩って彼に背を向けた。
緊張でカタカタと震える指を必死に動かし、シャツのボタンを外す。
背中で、バサッと乾いた音がした。
先に脱いだ氷室さんが、ワイシャツを床に落とした音だろうか。
ドッドッと、限界を越えて高鳴る胸に、固く握った拳を押し当てて自分を奮い立たせる。
私は意を決して、肩からシャツを抜いた。
一度ゴクッと唾を飲んでから、思い切って両手を背中に回した、その時。
私の指がホックにかかる前に、胸元の締めつけが緩んだ。
ブラジャーのストラップが肩から落ち、肌からカップが浮き上がる。
「っ、え?」
「遅い」
苛立ちが滲む短い言葉と同時に、背中から伸びてきた大きな手が、私の両方の胸を下から掬い上げる。
「ひゃんっ……!」
私は喉を仰け反らせ、甲高い声で叫んでしまった。
彼の手に力がこもり、グッと後ろに引き寄せられる。
背中に、彼の厚い胸板がぶつかった。
互いの肌を通じて、私より少し高い体温が流れ込んでくる。
ドキッとする間も与えてくれず、氷室さんが肩口から顔を覗かせ、私の喉に噛みつくようなキスをした。
「っ、あっ、あ……」
ピリッとした痛みに近い刺激に、全身がゾクゾクと痺れた。
両方の胸を揉みしだかれ、戦慄き、脱力しながら、私は彼に体重を預けていく。
「俺に立ち入りたいなら、せいぜい楽しませて」
低い囁き声が鼓膜を、少しザラッとした熱い舌が耳朶を直接くすぐる。
寒気と紙一重の、ゾワッとした戦慄が背筋を駆け抜け、私はビクンと大きく痙攣した。
「っ!!」
だけど、意思とは関係ない悲鳴は彼の唇に阻まれ、声にならずにくぐもる。
「ふあっ……氷室、さ」
いきなり唇を割って入ってきた熱い舌に口内を蹂躙されて、抗う隙も見出せないまま翻弄される。
舌の根元から搦め捕られ、言葉を紡ぐこともままならない。
「んんっ……んっ」
逃げずに応えるのに必死でいたせいで、他のことには完全に無防備になっていた。
彼の方から唇を離し、遠ざかる温もりを追ってうっすらと目を開けた時、私はベッドに仰向けにされ、真上から彼に見下ろされていた。
激しいキスで、胸を喘がせる。
大きく息を吸い込む間もなく、氷室さんは私に肌を重ねてきた。
人肌の感触と温もりは、久しぶりだった。
遠い、快感の記憶が呼び起こされ、ゾクゾクが止まらない。
「あ……あ……」
目の前に、チカチカと星が飛ぶ。
それを最後に、私の理性は弾け飛んだ。