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第16話

Author: 灯火かすむ
裕子と誠司の母の顔に、一瞬、焦りの色が走った。

言い訳を口にしかけたその瞬間――

誠司は、彼女たちに話す余地すら与えなかった。

彼の隣にあるはずのベッドが――空だったのだ。

律の遺体が、もう運び出されていた。

全身の力を振り絞って立ち上がった。

そのとき、視界の端に、見覚えのあるビーズが落ちているのが見えた。

拾い上げたそれは、彼の手首に巻かれていた偽物のビーズブレスレットとまったく同じだった。

――あの夜のうちに、もう気づいていたんだ。

これは偽物だって。

誠司は、そのビーズを手のひらで握りしめた。

骨にまで食い込むような力で、爪が食い込む。

彼は裕子を突き飛ばし、足早に病室を飛び出した。

胸の奥に、わずかな希望が生まれていた。

このビーズを、あの日からずっと身につけていたということは――

もしかして、彼女は完全に自分を見限ったわけじゃなかったのかもしれない。

――これはきっと、天国の律が与えてくれた「最後のチャンス」。

絶対にそうだ。

彼女が、俺に償う機会を与えてくれたんだ。

今度こそ、ちゃんと見せなきゃいけない。

火葬場に到着したとき、彼はすでにふたりの助手に肩を支えられていた。

全身に広がる痛み。

病が進行しているのは明らかだった。

だが、律を思えば、痛みも霞んでいく。

彼女のためなら、まだ歩ける――

火葬場の扉をくぐった瞬間。

そこにいたのは、冷たいステンレスの台に横たわる律だった。

棺が、まさに炉へと送られようとしている――

「待てッ!!」

喉を裂くような叫び。

一歩踏み出しただけで、血が口から溢れ出した。

だが、止められない。

職員たちは裕子に金を掴まされ、急ぎ作業を進めようとしていた。

だが焦った手が棺を傾け、遺体が落ちかけた――

誠司は、咄嗟に飛び込んだ。

「っ……!」

鋭い器具の先端が、彼の腰に突き刺さった。

だが彼はそれすら気づかぬふうに、律の身体を抱き締め、その下に身を差し出した。

「律……大丈夫か?どこか、痛くないか?」

周囲の職員たちは、凍りついたように立ち尽くしていた。

確認して、彼女の身体に傷がないと分かったとき、ようやく彼は安堵の息を吐いた。

彼女をそっと抱き起こし、よろめきながらも立ち上がった。

口元から垂れた血が、律の白い衣に滲んでいく。

だが
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