Masuk私、葉室日和(はむろ ひより)の恋人、御影伊吹(みかげ いぶき)は、人のぬくもりを求めずにはいられない「スキンハンガー」だと言いながら、私には簡単に触れさせてくれなかった。 同棲して4年。伊吹は毎晩、大きな白いガチョウのぬいぐるみを抱かなければ眠れない。 「ぬいぐるみを抱くと、人に抱きしめられているような感覚になって安心できるんだ。気持ちも落ち着く」 私は甘えるように、伊吹の胸へ潜り込んだ。 「私を抱くのじゃ駄目なの?」 伊吹は私をそっと押しのけ、背を向けると、白いガチョウを抱きしめた。 「ふざけないで。こっちのほうが抱き心地がいいんだ」 ある日、私がそのぬいぐるみを洗濯機で洗うと、伊吹は激怒した。 「型崩れしたらどうするんだ!」 「同じものを買い直せばいいでしょ?」 「日和には分からないよ!」 それから伊吹は、何日も口をきいてくれなかった。 仲直りするために同じぬいぐるみを買おうと思い、伊吹が入浴している隙に、販売ページを探そうとこっそりスマホを開いた。 画面には、花房莉世(はなぶさ りせ)とのトーク画面が開いたままだった。 伊吹が送り続けたメッセージは、どれも未読のまま残っている。 【この白いガチョウを抱いていると、莉世を抱いているみたいだ】 【莉世がいないと、まともに眠れない】 【莉世、いつになったら戻ってくる?】 ところが、昨日送られた最後のメッセージだけには既読がつき、その下に女からの返信があった。 【今回は抱きしめただけ。次はどうする?】 頭の中が真っ白になった。 ベッドの上に転がる白いガチョウを見つめていると、急に何もかも馬鹿らしくなった。 伊吹。 どうしても私には触れられないというのなら、これからはもう、私から触れたりしない。
Lihat lebih banyakたった半年で、伊吹はひどく痩せていた。頬はこけ、青黒い無精ひげのせいで、以前より何歳も老けて見えた。いつもきれいに着こなしていた白いシャツも、今は痩せた体にぶかぶかで、昔の面影はすっかり消えていた。伊吹は足元にいる猫へ目を落とした。「そうだ、日和。ずっと猫を飼いたいって言ってただろ?生後2か月の茶白の子猫を譲ってもらえるように頼んであるんだ。子猫がいちばんかわいいって言ってたよね。この子の遊び相手にもなる」たしかに猫は好きだった。けれど、伊吹は人だけでなく、動物に触れることさえ嫌がっていたから、これまで飼うのを諦めていた。「花守島にも行きたがってただろ?航空券はもう取った。二人だけで行こう。手をつないで、日和が行きたい店を一緒に回ろう」6年間付き合って、一度も二人で買い物に出かけたことはなかった。人の多い場所は苦手だと、いつも断られていたからだ。「莉世とは、本当にもう何の関係もない。スマホのパスコードも、今までどおり日和の誕生日だ。好きに見ていい。今ここで確かめてもいいから」伊吹はスマホのロックを解除し、私へ差し出した。これまでスマホを見なかったのは、信じていたからだ。たった一度だけ見て、莉世の存在を知った。「日和、帰ろう。頼むから、もうーー」「伊吹!」ため息がこぼれた。今さら何を言われても、もう遅い。「今の伊吹、本当に犬みたい」濡れた目でこちらを見つめ、ただ撫でてもらうのを待っている。けれど、犬に噛まれれば痛い。ふっと笑いそうになった。もう何も感じない。莉世のおかげで、とっくに目は覚めていた。「もう言ったでしょ。伊吹が用意したものは、何もいらない。この子にも、新しい遊び相手は必要ない」「誰かがいなきゃ生きていけないなんてことはない。伊吹も、私も同じ」「もう、これ以上お互いに関わるのはやめよう。ここで終わりにしよう」私はそのまま猫との散歩を続けた。やっぱり、犬と猫は合わないらしい。その日を最後に、伊吹と会うことはなかった。ときどき、ネットニュースで伊吹のその後を目にした。私の小説が話題になるにつれ、病院には、伊吹の院内での振る舞いや患者との関わり方を問う声が相次いだらしい。院方は事実関係の確認に乗り出した。外来フロアの医師用休憩室で私的な関係にある
朝のウォーキングを終えて戻ると、マンションの前から伊吹の姿は消えていた。ほっと息をつき、買ってきた朝食を手に部屋へ向かった。玄関の前まで来ると、部屋の中から、母と親しい近所の人たちのにぎやかな声が聞こえてきた。母の大きな声さえ、すっかりかき消されている。思わず足を止めた。「伊吹くん、急にどうしたの?」「日和ちゃんが別れたなんて言うから驚いたわ。そんなわけないものねえ」「そうよ。日和ちゃんだって、もう結婚を考える年でしょう?それに、この手土産。ずいぶん高そうじゃない。伊吹くんみたいに、仕事もしっかりしていて感じのいい人、そうそう見つからないわよ」眉がぴくりと動いた。まだいるの?ドアを開けると、伊吹は近所の人たちに囲まれ、穏やかな笑みを浮かべていた。その顔をじっと見る。わざとなのか、右頬にはまだうっすらと手の跡が残っていて、格好の話題になっていた。この男、絶対わざとだ。私に気づくと、伊吹の目が明るくなった。すぐに歩み寄り、荷物を受け取ろうと手を伸ばしてくる。指先が触れそうになり、とっさに身を引いた。一瞬動きを止めたものの、伊吹は何事もなかったように振る舞った。「今から朝ごはん?」答えずにいると、母が近所の人たちへ声をかけた。「はいはい。あとは二人で話させてあげて」近所の人たちは顔を見合わせ、意味ありげに笑いながら帰っていった。伊吹はすぐに母のそばへ寄った。「まだ朝ごはん、召し上がっていませんよね。よかったら、僕が作ります。簡単なものですが、胃に優しいものを用意しますから。前から母たちにも、そろそろ結婚を考えたらどうかと言われていました。今回は日和との結婚について、きちんとお話ししたくて来たんです。婚約指輪と結婚指輪も用意してあります。車の中に置いてありますので、あとで持ってきます。まずは朝食を作りますね。台所をお借りしてもいいですか」「伊吹くん」伊吹は、贈り物を開けようとしていた手を止めた。母は小さく息をつき、私をかばうように前へ出た。「さっきはみんなの前だったから言わなかったけどね。二人の間に何があったのかは知らない。でも日和は、中学生になってから一度も、私の前であんなふうに泣いたことがないの。あなたが何をしたのか、聞くつもりもない。ただ、娘には笑って暮らし
旅先では元のスマホの電源を切り、現地用のプリペイド端末だけを使って15日間過ごした。この15日間は、これまでの人生でいちばん自由だった。伊吹の症状を気にかける必要もない。触れるだの触れないだの、そんなことに気を遣わなくてもいい。帰国して元のスマホの電源を入れると、通信が戻った途端、端末が10秒以上も固まった。そのあと、何百件、何千件ものメッセージが一気に表示され、画面が通知で埋め尽くされた。【ごめん。ちゃんと説明するから】【日和、どこにいる?どうして家にいないんだ?】【本当にごめん。今日は旅行に行く約束だっただろ?今から空港に向かう。早く来ないと間に合わなくなるよ】【日和!日和と行くために、わざわざ休みを取ったのに。どうして来なかったんだ?】……【まさか、変なこと考えてないよね?お願いだから、心配させないで】【日和のお母さんにも聞いた。そっちにもいないって。いったいどこにいるんだ?】【どうして電話がつながらないの?これを見たら返事して。頼むから】【毎日、家で待ってる。帰ってきて】付き合っていた6年間で、伊吹がこれほど多くのメッセージを送ってきたことは一度もなかった。伊吹のLINEと電話番号をブロックし、いったんスマホの電源を切った。ブロックされたあとも、私にメッセージを送り続けるのだろうか。考えただけで気分が悪くなった。伊吹は知らない。私は初めから、伊吹と暮らし、働いていた青凪市へ戻るつもりなどなかった。医師の伊吹は簡単には休みを取れない。私の職場も、まとまった休みは取りにくかった。だから旅に出る前に、退職届を出していた。事情を知った同僚は、何とも言えない顔で私を見た。「日和さん、それって恋愛にのめり込みすぎじゃない?」恋愛にのめり込みすぎ。そうだったのかもしれない。あの旅行で、私は伊吹にプロポーズするつもりだった。両家の母親からは、そろそろ結婚を考えたらどうかと何度も言われていた。それでも、私も伊吹も特に焦ってはいなかった。付き合って、もう6年になる。伊吹は淡泊な人で、こういう話を自分から切り出すタイプではない。それなら、私から言えばいい。そう思っていた。今になってようやく、自分の気持ちをどれほど安売りしていたのか分かった。しばらくして、スマホの
伊吹は、いつものように病棟を回り終えた。スマホはずっとマナーモードにしていた。時間を確かめようと画面をつけた瞬間、数十件もの通知が一気に表示された。また日和かと思い、通知を消そうとした手が止まった。送り主は母だった。嫌な予感がした。数秒ためらったあと、トーク画面を開く。そこには、母からの問い詰めるようなメッセージが並んでいた。【伊吹、ずいぶんなことをしてくれたわね!】【この女の人は誰?】【この写真、いったいどういうことなの!?】【お父さんも頭を抱えてるわ。日和ちゃんに、どう顔向けするつもり?】【伊吹!電話に出なさい!】指先が画面の上で止まったまま、動かなかった。結局、添付された写真を開く勇気は出なかった。【母さん、帰ったら説明する】そう返して画面を閉じると、背後からコツコツとヒールの音が近づいてきた。静かな病院の廊下に、その音だけが妙に響いた。「御影先生、お迎えに来たよ」満面の笑みを浮かべた莉世が立っていた。伊吹は眉をひそめた。ため息をつくはずが、乾いた笑いが漏れた。「莉世。日和にあれを送ったのは、お前か?」莉世は目の前で足を止め、得意げに笑った。「そう、私。気に入った?再会した記念のプレゼント」伸ばされた手が、伊吹の頬をそっと撫でた。手のひらは温かく、髪からは記憶に残っているシャンプーの香りがした。この手に触れられるのを、どれほど待っただろう。10年近くになるのかもしれない。ほんの一瞬、ぼんやりした。伊吹は無意識に手を上げ、指の腹で莉世の額のツボをそっと押した。違う。日和じゃない。莉世の顔から笑みが消えた。「伊吹、どういうつもり?日和と同じベッドで寝ながら、私があげたぬいぐるみを抱いてたんでしょ。眠ってる間も、考えてたのは私。なのに今、私がそばにいるのに……まさか、日和のことを考えてる?」伊吹は黙ったままだった。否定できなかった。昨夜、莉世を抱けば安心して眠れると思っていた。けれど、眠れなかった。思い描いていたものとは、まるで違った。莉世に触れるたび、体が拒むようにこわばった。近づくほど、帰りたいという思いばかりが募っていく。日和のそばにいたかった。そう思った自分に、伊吹自身が驚いていた。遠慮なく距離を詰めてくる莉世と