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第4話

Author: 灯火かすむ
誠司は、彼女の涙をやさしくぬぐい、乱れた髪をそっと整えてやった。

「もう……バカだな。こんなことで泣くなよ。これからは、もっともっとお前を幸せにするから――」

そのとき、不意に後ろから誰かにぶつかられ、律の身体がよろけた。

誠司はすぐに腕で彼女をかばった。

「大丈夫か?どこか打った?」

律は首を振りながら、彼の手首を掴んで眉を寄せた。

「……腕時計と、あのビーズは?」

誠司の顔が一気に険しくなった。

「さっきぶつかったときに、スリにやられたのかもしれない!」

そう言うなり、彼は走り出そうとした。

「もういいよ」

律が腕を掴んで止めようとした。

「だめだ。腕時計はどうでもいい。でも、あのビーズはお前がくれたんだ。

絶対に取り戻さないと!

ここで待ってて。すぐ戻るから!」

言い終わるが早いか、彼は人混みに消えていった。

五割引セールの影響で、人々はどんどん押し寄せ、前方の金製品の店に殺到していた。

律も人波に押され、端に逃れようとしたそのとき、足がもつれて転倒してしまった。

次々と人に踏まれ、腕や脛に激痛が走っていた。あまりの痛みに、意識が遠のきそうになった。

だが、そのとき視界の隅に――見覚えのあるビーズが転がっているのが見えた。

きっとスリが時計だけを持ち去り、ビーズは安物と思って捨てたのだろう。

迷いなく、律は手を伸ばした。

あと少し、ほんの少しだけ――

何人もの足が彼女の手の上を踏みつけていくなかで、ようやく、彼女はそのビーズを掴んだ。

誰かが彼女を地面から引き上げ、呆れたような声を上げた。

「君、こんなときに物拾いなんて正気かい!?踏みつぶされて命を落とす人だっているんだよ!

そのビーズ、命より大事なのか?」

律は小さく笑い、お礼を言ってそのビーズをじっと見つめた。

十年分の思い出が詰まったそれが、傷一つなく無事だったのを見て、ようやく息をついた。

袖で一粒ずつ丁寧に拭きながら、律はスマホを取り出し、誠司に電話をかけようとした。

だが――顔を上げた瞬間、彼女の微笑みは凍りついた。

人混みの向こうで、誠司が裕子をしっかりと胸に抱き、まるで広い背中で彼女をすべての危険から守っていた。

その肩の上、継真が誇らしげに彼の首に乗っていた。まるでその場所が、自分の居場所だとでも言うように。

「誠司――!」

その瞬間、夜空に誠司が用意した花火が打ち上がり、彼女の声をすべてかき消してしまった。

『いちばん大切な妻へ――この先の人生、幸せにするためにすべてを尽くすよ』

という文字が、空いっぱいに光となって広がった。

律は、血が滲むほどの力で人混みをかき分けた。

「えっ、あなたが杉山さんの彼氏なんですか?すっごく素敵……!」

「イケメンで金持ちで、しかもサプライズまで……今どき、こんな男なかなかいないよね!羨ましいなあ」

野次馬のひとりが友人の腕を引き、羨望の視線をまっすぐ向けてきた。

誠司は笑みを浮かべたが、何も否定しなかった。

涙が、堰を切ったように溢れた。

手にしていたビーズを強く握りしめた拍子に――

ばらばらばらっ――

ビーズが地面に散らばった。

律はよろめきながら後ずさり、転びそうになりながら、最後のひと粒だけを手のひらに強く握り込んだ。
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